オフィスの空気は朝の慌ただしさを帯びていた。キーボードを打つ音、コピー機の低い駆動音、電話のベルの合間に、人々の短い挨拶や確認の声が飛び交っている。外は薄曇りで、差し込む光は鈍く、窓際の観葉植物の影さえ淡かった。
鶴橋は、あらかじめ決めていた。朝いちばん、なるべく人の目の少ない時間に声をかけようと。けれど、いざ席に着いた今里を見たとき、その背中の静けさに、言葉が喉の奥で足踏みした。
それでも、逃げたくなかった。
「…今里さん」
低く呼びかけると、今里はゆっくりと顔を向けた。
あいかわらず、感情の読めないまなざし。だが、そこには微かな戸惑いの色が滲んでいた。「昨日の方、柊さんて人。…どういう関係やったんですか」
静かに問いかけた鶴橋の声には、怒りも責めも含まれていなかった。ただ、知りたいという、真っすぐな熱があった。
今里は一瞬だけ目を伏せ、呼吸を整えるようにわずかに口元を引き締めた。
椅子の背にもたれるでもなく、前かがみにもならず、ただ真っ直ぐ前を見据えたまま、小さく頷いた。「…昔、担当してた取引先の営業さんです。最初は、仕事として付き合い始めたんですけど」
そこまで語って、また少し、言葉が止まる。
鶴橋は頷きもしなかった。ただ、その場にいるという姿勢だけを保ち続けた。
今里はふたたび息を吸い、続けた。
「気づいたら、あの人のペースに巻き込まれてました。言葉にされなくても、いつのまにか、関係が仕事の枠を超えてて。…最初は、それでもいいと思ってたんです。頼られることに、価値がある気がしてたから」
声のトーンは淡々としていたが、話している最中、一度も鶴橋とは目を合わせようとしなかった。
まつげの影が深く落ち、光の差さない場所で言葉だけがぽつぽつと浮かび上がる。「けど、気づいたら、自分が何を考えてるのかもわからんようになってて。どこまでが仕事で、どこまでが感情かも、もう曖昧で。…ただ、離れられなかったんです」
机の上に置かれた手の甲が、かすかに震えた。すぐ
風が鳴っていた。昼休みの屋上は、空の青さに反して冷たく、吹き抜ける風が無遠慮に袖口から入り込んでくる。鶴橋は指先をすぼめてライターに火をつけようとするが、風にあおられてはすぐに消されてしまった。何度か試してみたが、火は最後まで煙草の先に届かない。ふと手を止めて、煙草ごとポケットに押し戻す。鉄のフェンスの向こうには、無数のビル群が並んでいる。どれも均質なガラスの壁に陽を受けて、まぶしいほどに光っていた。下では車の流れが絶えず、けれどこの屋上だけが、世界から切り離されたように静かだった。背後で扉の開く音がした。鶴橋が振り返るより早く、誰かの足音がコンクリートを踏んで近づいてくる。振り向くと、そこにいたのは今里だった。細い体を覆うスーツの襟が、風に少しだけ揺れている。手にはいつものように薄い缶コーヒー。けれど、いつものようにそれを飲む様子はなかった。視線が合ったわけではない。けれど、互いに相手の存在を意識していた。屋上にふたりきり。言葉をかわさずにいられるほどの間柄では、もはやなかった。「…なんで、辞めるんですか」鶴橋の口から出た言葉は、問いというよりも、掠れた息に近かった。風に押し返されそうなほど小さな声だったのに、なぜかはっきりと空間に落ちた。今里は立ち止まり、鶴橋のほうを見ようとはせずに、ただ風の吹く方向を眺めるようにしていた。その横顔は、どこか遠いものを見ているようで、今ここにいない人のようだった。「…俺がここにおったら、鶴橋くんまで壊してまうから」答えは簡潔で、静かだった。怒りも、哀しみも、どこにも混じっていない。けれどその響きは、深い水底から届くような重さを持っていた。鶴橋は息を止めた。その言葉が何を意味するのか、瞬時には理解できなかった。けれど、じわじわと胸の奥に沈み込んでいくにつれて、それがただの“自己都合の退職理由”ではないと気づいていった。「壊してまう、って…なんのことですか」問いかけながら、自分の声に自信がなかった。問いというより、縋るような響きになっていた。今里は缶コーヒーの表面を指先でな
ボールペンが机を転がる音が、異様に大きく響いた。耳の奥で、その音がずっと反響しているようだった。鶴橋は指先の力を失った自分に気づく間もなく、ただ机の下に目を落とす。床に落ちたペンを拾おうと腰を浮かしかけたが、動きはぎこちなく、どこかうわの空だった。「…今里さん、辞めるんやって」佳奈の声は、驚きと戸惑いを交えた小さな囁きだった。だが、鶴橋にはその言葉だけが異様な鮮明さで耳に突き刺さった。まるで周囲の音がすべて消えて、彼女の一言だけが無音の中で響いたかのようだった。「辞めるって、誰が…?」そう訊こうとしたが、喉が詰まり、言葉が舌の先で崩れていく。うまく出せないまま、視線だけが勝手に動いた。反射的に、デスクの向こうを見渡す。今里はいつもの席にいた。背筋をまっすぐに伸ばし、モニターに向かって資料を確認している。デスクの上は整っていて、ペン立ての中も乱れはない。隣に置かれたクリアファイルには、きっちりと仕分けされた書類が差し込まれている。どこも、いつもと変わらない。だが、それが逆に不気味だった。こんな日常の中で、本当に“辞める”なんてことがあり得るのか。鶴橋の中に、まず浮かんだのは“否定”だった。いや、違うやろ、という感情が、先にあった。「佳奈さん、それ、誰から聞いたんですか」やっとのことで声に出すと、自分の声がわずかにかすれていた。佳奈は目を伏せたまま、声を落とす。「人事部の子がぽろっと言ってた。今朝、退職届出されたって…封筒に自分で名前書いて、ちゃんとした手続きで」「…そんなん、嘘やろ」鶴橋は思わず口走った。そんなわけがない、と即座に返した自分に、次の瞬間強烈な違和感が押し寄せた。なぜ、こんなに即座に否定したのか。それは、現実を受け入れたくなかっただけだった。今里が辞める。そう聞かされた瞬間、胸の奥で何かが崩れた感触があった。形を持たないはずの何かが、自分の中でしっかりと存在していたことに、ようやく気づかされた。手元のペンを拾いながら、鶴橋はもう一度視線を上げ
朝の空気は、少しひんやりとしていた。外は曇りがちで、窓の向こうに広がる街並みも、どこか色を失ったように見える。始業のチャイムにはまだ少し間があり、オフィスフロアはまだ眠っているような静けさに包まれていた。数人の社員がちらほらと自席につき始め、プリンターの立ち上がる音だけが規則的に響く中、今里の足音はひどく軽かった。管理部の小さな受付窓口。木製のカウンターの上に、今里はそっと一枚の封筒を置いた。手元を見つめたまま、事務担当の若い女性に静かに頭を下げる。彼女がそれを受け取ろうとする指先よりも、今里の指は一瞬早く、まるで何かを断ち切るようにすっと引いた。「お手数ですが、こちらの処理をお願いします」声はいつもの調子と変わらない。けれどその抑揚のなさに、受付の女性はわずかにまばたきをしてから、言葉少なにうなずいた。「かしこまりました」と告げるその声の奥に、どこか戸惑いの色が混じっていたのは、たぶん、目の前の男の静けさが異様だったからだ。封筒の上には、黒いボールペンで書かれた文字がきちんと整列していた。退職願。提出日。所属部署名。いずれも乱れはなく、まるで何度も書き慣れたような筆跡にすら見えた。それを見届けた今里は、一礼をして踵を返す。その後ろ姿に、受付の女性が「おつかれさまでした」と声をかけようとするが、その言葉は声帯を通らずに宙で消えた。なにかを察していた。いや、言ってはいけないような空気が、その背中にあった。フロアに戻るまでの廊下。今里は誰とも目を合わせない。掲示板の前で話し込む若手社員たちの横を通っても、何も耳に入ってこなかった。脳のどこかが、すでに遮断されていた。自席につき、PCの電源を入れる。画面が光を放ち、メールボックスが開く。定型の業務連絡。クライアントからの返信。未処理のチェック項目。そのすべてが、もう自分には関係ないもののように感じられた。だが手は止めない。作業を進めるふりではなく、実際に処理をし、業務をこなしていく。その姿に違和感はない。いや、逆にあまりにも変わらないせいで、周囲はその異質さに気づくことができない。視線はモニターに向けられていたが、どこも見ていなかった。指だけが動き、画面の中の数字や文字を移動させる。頬のライ
オフィスの空気は朝の慌ただしさを帯びていた。キーボードを打つ音、コピー機の低い駆動音、電話のベルの合間に、人々の短い挨拶や確認の声が飛び交っている。外は薄曇りで、差し込む光は鈍く、窓際の観葉植物の影さえ淡かった。鶴橋は、あらかじめ決めていた。朝いちばん、なるべく人の目の少ない時間に声をかけようと。けれど、いざ席に着いた今里を見たとき、その背中の静けさに、言葉が喉の奥で足踏みした。それでも、逃げたくなかった。「…今里さん」低く呼びかけると、今里はゆっくりと顔を向けた。あいかわらず、感情の読めないまなざし。だが、そこには微かな戸惑いの色が滲んでいた。「昨日の方、柊さんて人。…どういう関係やったんですか」静かに問いかけた鶴橋の声には、怒りも責めも含まれていなかった。ただ、知りたいという、真っすぐな熱があった。今里は一瞬だけ目を伏せ、呼吸を整えるようにわずかに口元を引き締めた。椅子の背にもたれるでもなく、前かがみにもならず、ただ真っ直ぐ前を見据えたまま、小さく頷いた。「…昔、担当してた取引先の営業さんです。最初は、仕事として付き合い始めたんですけど」そこまで語って、また少し、言葉が止まる。鶴橋は頷きもしなかった。ただ、その場にいるという姿勢だけを保ち続けた。今里はふたたび息を吸い、続けた。「気づいたら、あの人のペースに巻き込まれてました。言葉にされなくても、いつのまにか、関係が仕事の枠を超えてて。…最初は、それでもいいと思ってたんです。頼られることに、価値がある気がしてたから」声のトーンは淡々としていたが、話している最中、一度も鶴橋とは目を合わせようとしなかった。まつげの影が深く落ち、光の差さない場所で言葉だけがぽつぽつと浮かび上がる。「けど、気づいたら、自分が何を考えてるのかもわからんようになってて。どこまでが仕事で、どこまでが感情かも、もう曖昧で。…ただ、離れられなかったんです」机の上に置かれた手の甲が、かすかに震えた。すぐ
街の灯が遠くに滲んでいた。日中の熱がすっかり抜けた舗道は、夜気にさらされてひんやりと静まり返り、風が葉をかすめる音だけが、まるで誰かの囁きのように耳をくすぐる。駅から少し離れた公園の端、木立の隙間に埋もれるように置かれたベンチに、今里はひとり腰をかけていた。スーツの上着は丁寧にたたまれ、膝の上に置かれている。シャツの袖を軽くまくった腕が、缶コーヒーを持ったまま膝の上に落ち着いていた。缶は半分ほど飲まれていたが、その手はそれ以上動く気配を見せなかった。指先はわずかに力を失い、缶の表面に浮かぶ水滴が、静かに掌に伝っていた。目の前には小さな芝生の広場。誰もいない。遊具も、電灯も、ひっそりと存在を潜めるように佇んでいる。周囲には歩行者の足音もない。ただ、たまに通り過ぎる車のエンジン音が遠くからかすかに届くのみだった。今里は、空を見ていた。見ているようで、見ていない目だった。街の灯に洗われた夜空は、星も曖昧で、空のどこを見つめても輪郭がにじんでいた。それでも、視線を上げていた。泣かないために、だった。呼吸がゆっくりと上下する。風が襟元を抜けるたびに、背筋がわずかにこわばった。ほんの少し、肩が震えていた。けれど、それは寒さのせいではなかった。ふと、今里は目を伏せた。缶コーヒーを持つ手が、そのままベンチの上に落とされる。そして、空いた両手がゆっくりと顔の前に上がった。指先が、目元に触れる。その瞬間、まつげが微かに濡れていることに、本人さえ気づいたかどうかわからない。次の瞬間、両手で静かに目を覆った。口元は何も言わない。喉も震えない。それでも、目元からこぼれた水滴が、頬の線に沿って静かに滑り落ちていった。頬を伝った涙は、顎の先で止まりもせず、まるで空気に吸い込まれるように、服の襟元に溶けていった。音はなかった。嗚咽もなかった。ただ、涙がこぼれたという事実だけが、そこにあった。今里の肩が、ほんのかすかに揺れていた。その震えは、押し殺され
夜の風は、湿気を帯びながら肌にじっとりとまとわりついていた。会社への帰路、駅からビルへと向かう人々の流れのなかで、鶴橋と今里は並んで歩いていた。だが、会話はなかった。沈黙は重たくも、どこか静かだった。今里の横顔に声をかけようと思えば、できたはずだ。けれど、鶴橋は言葉を選べなかった。選べば選ぶほど、余計なものまで口にしてしまいそうで、ただ歩くことしかできなかった。電車に乗り込むと、今里は座席の端に体を沈め、目を閉じた。まつげの影が長く落ち、口元の力が抜けているのが分かる。眠っているのか、それとも目を閉じているだけなのか、判別がつかないほどにその姿は静かだった。その横に座る鶴橋は、落ち着かない気分のまま、視線を泳がせていた。目の前に立つ乗客たちの会話も、吊り広告の派手な文言も、何もかもが上滑りする。今里のこと以外、何ひとつ頭に入ってこなかった。あの部屋で、柊が投げたひとつひとつの言葉。どれもビジネスの場にふさわしくはなく、けれど“完全に見慣れている”関係性がにじみ出ていた。今里は、そのすべてを黙って受け止めていた。声色も、態度も、反論も、なかった。それが、いっそう胸を締めつけた。ふたりはいつものビルに戻り、鶴橋は軽く頭を下げると、そのまま自席の荷物をまとめ、早めに退社した。今里の姿は背後にあったが、あえて振り返らなかった。マンションの扉を閉めると、部屋の中には微かな静けさが満ちていた。スーツを脱ぎ、シャツを脱ぎ、ベッドに倒れ込む。そのまま天井を見上げるも、瞼の裏には柊の笑みと、今里の表情が交互に焼きついて離れなかった。「……なんやねん、あれ」声が漏れる。誰に向けたわけでもない、ただの吐き捨てだった。枕元に置いたスマホを掴んだ。LINEのトーク画面を開いては閉じ、また開いては閉じる。メッセージ欄には何も打たれていない。ただ、画面の“今里”という名前だけが、まるで異物のように目に刺さった。(俺&hellip