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理由のない拒絶

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-08-17 12:52:37

風が鳴っていた。昼休みの屋上は、空の青さに反して冷たく、吹き抜ける風が無遠慮に袖口から入り込んでくる。鶴橋は指先をすぼめてライターに火をつけようとするが、風にあおられてはすぐに消されてしまった。何度か試してみたが、火は最後まで煙草の先に届かない。ふと手を止めて、煙草ごとポケットに押し戻す。

鉄のフェンスの向こうには、無数のビル群が並んでいる。どれも均質なガラスの壁に陽を受けて、まぶしいほどに光っていた。下では車の流れが絶えず、けれどこの屋上だけが、世界から切り離されたように静かだった。

背後で扉の開く音がした。鶴橋が振り返るより早く、誰かの足音がコンクリートを踏んで近づいてくる。振り向くと、そこにいたのは今里だった。細い体を覆うスーツの襟が、風に少しだけ揺れている。手にはいつものように薄い缶コーヒー。けれど、いつものようにそれを飲む様子はなかった。

視線が合ったわけではない。けれど、互いに相手の存在を意識していた。屋上にふたりきり。言葉をかわさずにいられるほどの間柄では、もはやなかった。

「…なんで、辞めるんで

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  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   これからの話

    日が傾きかけた帰り道、ガラス張りのビル群がオレンジ色に染まっていた。夕陽の残光は高層階の窓に跳ね返り、道行く人の顔を淡く照らしていたが、通りにはすでに人の流れが少なくなり、空気には一日の終わりの静けさが漂っていた。コンクリートの地面に落ちる影は長く、風が吹くたびにふたりのスーツの裾がふわりと揺れた。そのなかで、今里と鶴橋は並んで歩いていた。ちょうど一件のクライアント先から出てきたところで、打ち合わせは円滑に終わった。やりとりも手応えもあって、少し肩の力が抜けたような感覚がふたりの間にあった。「今日の説明、助かったわ」今里がぽつりと言ったのは、ビルの角を曲がったあとだった。特に前を見てでもなく、目の前の空気に話しかけるような声音だった。「任せてください、パートナーですから」鶴橋は、少しだけ笑みをにじませて応えた。言葉に力はこめていない。けれど、嘘は一片もなかった。今の自分は、そのひとことを堂々と言えるだけの場所にいる。そう胸を張れるようになったことが、なにより嬉しかった。ふたりの間には、そのあと沈黙が訪れた。しかしそれは、以前のように怖いものではなかった。言葉がない時間が、ただそのまま空気のように流れていく。どちらかが何かを言わなければならないという焦りもなく、ただ並んで歩いていること自体が、会話になっていた。歩道の縁石を踏むようにして、鶴橋が一歩ずつ歩を進める。ふとした瞬間、手の甲が今里のそれに触れた。小さな接触だった。意図せず、けれど自然な距離のなかで起きた偶然。どちらもそれに反応しないようにしていたが、手はそのまま離れずに、隣を歩き続けた。「言葉なくても、伝わることもあるんやな」今里が不意に口にした。声は低く、けれど確信を持ったような響きがあった。鶴橋は、その意味を即座に理解した。今里のほうを向くと、彼は前を見たまま、口元をかすかに上げていた。「それ、今日だけで三回目ですよ」少し照れを含んだ声音で言い返すと、今里はほんの少し肩をすくめた。その動きが、少しだけ楽しそうだった。空の端から、鈍い音が響いた。雷鳴のような、まだ遠い気配。鶴橋が足を止めて空を見上げた。雲がひとつ

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   並んだ肩書き

    午後の光は柔らかく、窓辺の影がゆっくりと室内を横切っていく。古びた木製の机の上に、段ボールがいくつも積まれていた。まだ整いきらないその空間には、生活感というよりも、始まりの匂いが漂っていた。壁には新しく貼られたカレンダーが一枚。赤い丸のなかに、小さな文字で「start」とだけ書かれている。「…なんか、ほんまに始まったんやな」今里がぼそりとつぶやいた。手にはハサミとガムテープ。けれど、その声の中には、テープを切る音よりももっと静かな振動があった。「ま、オフィスっていうには狭すぎるけど、ええ感じですやん」鶴橋が応じる声には、どこか高揚した響きが混じっていた。新しい何かを形にしていくことへの期待。けれどそれは、仕事の成功に対するものというよりも、今里とこうして並んでいる事実そのものに対してだった。段ボールをひとつ空け、今里はその中から名刺箱を取り出した。薄い白箱の縁をそっと撫でるようにして開ける。少しだけ緊張が、彼の指先に表れていた。「とりあえず、これが俺の」鶴橋がもう一つの名刺箱を開け、自分の名刺を取り出す。ふたりの名刺が、木の机の上に並べられる。「|Consultant《コンサルタント》 今里 澪」「|Sales Partner《セールスパートナー》 鶴橋 蓮」印字された文字は、どちらも小さく整っていた。肩書きは違っても、その間に流れる距離感は、今や曖昧で、けれど確かなものだった。「これ、並び順どうします?肩書きより先に出る方とか決めます?」鶴橋が、少し茶化すように問いかけた。けれど、その声の裏には、遠回しな確認があった。この名刺が並ぶこと、その意味を、今里自身がどう思っているのか。今里は一瞬、視線を名刺に落としたまま黙った。そして、ゆっくりと顔を上げて言った。「…並んでれば、それでええよ。上下やないやろ」その言葉に、鶴橋の目元がふっと緩んだ。「はい。それがいちばん嬉しいです」そう答える鶴橋の声は、ささやくように静かで、それでいてしっかりと芯を持っていた。

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   心で応える

    小さな公園の一角、ビルの裏手にある古びたベンチにふたりは腰を下ろしていた。日が落ち、空は藍に沈み、街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。遠くで車のクラクションが鳴り、それに続くように風が木の葉をかすかに揺らした。空気は昼間の熱を残しながらも、どこか乾いていて、呼吸の音がやけに耳に残る。沈黙が長く続いていた。言葉が見つからないわけではない。ただ、その一言が持つ重みを互いに知っているからこそ、無闇には切り出せない時間が流れていた。ベンチの背にわずかにもたれながら、今里が小さく息をついた。その音が夜の空気に溶けた直後、ぽつりと低い声が漏れる。「ほんまに、ええの?」視線は前を向いたまま。鶴橋を見ようとはしなかった。だが、その問いがどこから発せられたものか、鶴橋にははっきりとわかった。「俺とおったら、また振り回されるかもしれへん。あんたの時間、ぐちゃぐちゃにしてしまうかもしれん」冗談めいた口調だったが、その声には揺れがあった。唇の端だけがわずかに持ち上がっていたが、目元は笑っていなかった。夜の光がその頬に薄く影を落とし、わずかに震える睫毛が、何かを耐えるように瞬いた。「俺な…今でも、たまに壊れたままやって思うときあるねん。急に呼吸がうまくいかへんようになったり、理由もないのに心がぐらぐらして…せやのに、笑ってる自分が一番気持ち悪くて、余計に疲れるねん」告白とも懺悔ともつかない声だった。けれど、それは明らかに“本音”だった。鶴橋は、その言葉の奥に、誰にも見せてこなかった今里の心の風景を感じ取っていた。しばらくの間、風の音だけが流れる。葉擦れが静かに耳を撫で、足元に落ちる街灯の光がふたりの影をぼんやりと伸ばしていた。鶴橋は、ふっと細く息を吐いてから、まっすぐに前を見据えたまま、言った。「それでも、ええんです。俺は、今里さんが、壊れたままでも、笑えへん日があっても、それごと…受け止めたいんです」今里が、ゆっくりと鶴橋のほうを見た。その目は何かを試すように静かで、けれどほんの少しだけ、濡れたような光を含んでいた。

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   ビルの下、ふたり

    人波が引きかけたオフィス街の通りに、細長い影が伸びていた。夕方の空は茜色をうっすらとまとい、ビルのガラス面には、その色が淡く映り込んでいた。冷たさを含んだ風がときおり吹き抜け、鶴橋のネクタイを小さく揺らす。ポケットのなかのスマホの振動は止まり、画面には17時56分の数字が浮かんでいた。ビルのエントランス前。視線は、ドアの向こうから現れる誰かひとりを待ち続けている。行き交う人々の中に、目当ての姿を見つけるたび、違うとわかるまでの一瞬に心臓が強く跳ねた。期待と不安、後悔と願いがないまぜになったような胸の内で、ただそこに立ち尽くしていた。ふと、ゆっくりと歩いてくるひとりの男が視界に入る。スーツの裾が風を含んで揺れ、鞄を片手に持ったまま、前を見据えて歩いてくるその姿に、鶴橋の呼吸が浅くなる。顔を見るよりも先に、身体がそれを察していた。あの歩き方。あの肩の傾き。ずっと見てきた背中だった。今里だった。ガラス扉が開く音に重なるように、二人の視線が交わる。歩みを止めた今里の顔に、わずかに動揺が走る。眉が一瞬、ぴくりと震えた。けれど次の瞬間には、それが何事もなかったように静かに整えられる。鶴橋は一歩、前に出ようとして、足元に力が入らないことに気づく。言葉が出てこなかった。会いたいと思っていたのに、その姿を前にして、何から話していいのかわからなくなる。沈黙が流れた。風が木の葉をさらい、車のタイヤがアスファルトを擦る音が遠くで鳴った。けれど、どれもふたりの間に置かれた空白を埋めるものにはならなかった。「…鶴橋くん?」小さく呼ばれた名に、鶴橋はようやく目をまっすぐ向ける。そうして、言葉を探すでもなく、声を張るでもなく、ただ、まっすぐに口を開いた。「俺は、今里さんを救いたいわけやないです」今里の表情が、わずかに変わった。驚いたような、けれど警戒も混じったような目をしている。「助けたいんやなくて…ただ、今里さんと、生きていきたいねん」その言葉が、夕暮れの空に沈みながら、ゆっくりと空気を震わせて届いていく。飾りのないその声に、今里の目が微かに

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   交差点の記憶

    午後の陽差しは傾きながらもまだ強く、透明なガラス越しに射し込んだ光が、床の木目に淡い縞を描いていた。鶴橋は取引先との打ち合わせを終え、近くのコワーキングスペースに足を運んでいた。この場所に来るのは久しぶりで、以前より少し静まり返って見えたのは、時間帯のせいか、それとも自分の心持ちのせいか。手にしていたアイスコーヒーの結露が、指先をしっとりと濡らしていた。席に着き、パソコンを開くでもなくただぼんやりと空間を眺めていたとき、視界の端に見覚えのある後ろ姿が映った。銀縁のメガネにタイトなジャケット。椅子に浅く腰掛け、画面に集中しているその姿に、どこか覚えがある。思わず身を乗り出すと、やはり仁科だった。以前、今里と営業同行をしたことのある起業家で、鶴橋自身も何度か顔を合わせていた人物だ。「仁科さん?」声をかけると、仁科は顔を上げて「ああ」と笑った。すぐに笑みがほころび、向こうもすぐに思い出してくれたようだった。「鶴橋くんやん。久しぶりやな。相変わらず、忙しそうやなあ」「いえ、まあぼちぼちです。偶然ですね、こんなとこで」「いやあ、俺もたまに来るねん。作業しやすいし、空いてるやろ」軽く雑談を交わすなかで、ふいに出た言葉が、鶴橋の耳に重く響いた。「今もあの人に、ちょいちょい手伝ってもろてんねん。営業支援のアドバイザーみたいな立場で」「…あの人?」「今里さんやん。知らんかった?今、フリーでやってはるで」その名を聞いた瞬間、胸の奥に何かがぶわっと広がった。音もなく波打つような感情が、喉元に迫ってくるのを感じた。「えっ…今里さんが、ですか」思わず繰り返した言葉に、仁科は不思議そうな顔をしたあと、にこりと笑ってうなずいた。「うん。ほんまに丁寧な人やで。抜け目ないし、説明もうまい。うちも正直、今里さんおらんかったら詰んでたわ」「…そうなんですね」胸の奥がじわりと熱くなる。喜びとも違う、悔しさでもない、けれど確かに感情の火がついた。「それに…ちょっと寂しそうな目してるな、あの人」

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   彼がいない日常

    翌朝、ビルの自動ドアが開く音に、何人かの社員が足早に入っていく。曇ったガラス越しに差し込む陽光はどこか淡く、昨日より少し肌寒く感じた。鶴橋は、自分の足音が床に吸い込まれていくような感覚のまま、いつも通りの時間に出社した。エレベーターの中、特に話す相手もいないまま、数人の背中をぼんやりと見つめていた。頭のなかは、昨日の引き出しと、名刺の手触りで満たされている。エレベーターが営業フロアのある階で開いたとき、空気の匂いが昨日までと何も変わらないことに、かえって胸がざわついた。コピー機の始動音、PCの起動音、どこかから聞こえてくる軽口と笑い声。そのすべてが、日常の風景を正しく演出しているはずだった。けれど、そのどこにも、今里の気配がなかった。席に着いた瞬間、視界の端に、今里が座っていたあのデスクが映った。誰かが一時的に資料を広げて使っているようだった。鶴橋は、思わず視線を逸らし、唇を結ぶ。その椅子が引かれる音ひとつで、心臓が跳ねたのが、自分でもおかしかった。あの席に、誰が座っても構わない。そう思いたいのに、名前すら知らない同僚がその机の上で紙をめくっている姿を見るだけで、胸の奥がきしんだ。仕事の手につかないまま、午前中の会議が始まった。会議室のドアを開けた瞬間、ふいに記憶が戻ってきた。以前、今里とふたりでこの会議室に入った日のこと。資料の順番を確認するため、向かい合って座りながらも、どこか距離のあったあの静けさが蘇る。部屋に入った瞬間、目が自然と右側の席に流れた。そこに、かつて今里が座っていた。あのとき、指先でキーボードを打つ音、少し低くて落ち着いた声、机の上で揺れるネクタイの端――それらが今は、完全に“音のない残像”としてそこにあるだけだった。鶴橋は、空いている椅子の背に触れた。一瞬だけ、呼吸が止まった。椅子は何も語らない。ただ、そこにいたという事実だけを、確かに残しているように思えた。会議の内容は半分も頭に入ってこなかった。周囲が笑いながら冗談を交わしている間、鶴橋はひとり沈黙していた。ペンを回していた手が止まり、いつの間にか、机の端を指でなぞっていた。(何してんねん、俺)

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   紙の音

    昼前のオフィスには、午前中の仕事を終えた安堵と、昼休みへの準備を促す緩やかな空気が流れていた。複合機の音、電話の切れる電子音、キーボードを打つリズム。そのどれもが、どこか控えめで、妙に耳に残った。蛍光灯の明かりは相変わらず白く、窓際に置かれた観葉植物の影が、机の角に淡く揺れている。鶴橋は書類の束を前に、ハイライトを引く手を止めた。ふと、フロアの隅で何か動きがあった気がして、視線を向けた。総務の若い職員だった。二十代前半だろうか、細身の眼鏡をかけた男性が、書類を抱えてそっと今里に近づいていく。まるで何かの罪を隠すように、足音を消し、背中を小さくして。

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   最後の朝

    午前八時四十五分。オフィスの空気は、どこか湿り気を帯びていた。前夜の雨が舗道にまだ残り、窓の向こうでは曇天が街を鈍い光で包んでいる。普段通りの始業時間、社員たちは次々と出社していたが、今日は誰もが無意識に声のボリュームを落としていた。笑い声も、椅子を引く音も、ひそやかに聞こえる程度だった。今里は、いつも通りの時間に席につき、静かにPCの電源を入れていた。シャツの襟元はわずかに湿気を含んでいるように見えたが、それすらも彼の静謐さのなかに溶け込んでいた。指先はためらいなくキーボードを叩き、視線はモニターの一点に集中している。机の上は整然とし、ファイルもペン立ても歪みなく並べら

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   心が追いつかない

    帰宅ラッシュの電車は、吐き出された人々でぎゅうぎゅうに膨れ上がっていた。扉が開くたびに少しずつ入れ替わる乗客の波の中で、鶴橋は奥のほう、窓際の吊り革につかまったまま、揺れに任せて立ち尽くしていた。シャツの襟元にはじっとりと汗がにじみ、スーツの背中もいつの間にか湿っていた。窓の外には、闇に沈んだ街の灯りが流れていく。けれどそれらの風景は、目に入っていながらまるで心に届いてこなかった。ポケットに入れていたスマホが、わずかに手のひらに当たる。握りしめた拳を緩めて取り出し、ロック画面を解除する。その動作だけで、なぜか心拍が早まるのを感じた。LINE

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   遠ざかる背中

    定時を目前にして、フロアには少しずつ片付けの気配が漂いはじめていた。パソコンを落とす音、椅子を引くわずかな音、コートの袖を通すざらりとした布の擦れる音。それらが静かな夕方の空気を、機械的に満たしていく。窓の外はすでに暮色が降り始め、ガラス越しの街は冷たい色に沈んでいた。ネオンにはまだ早い時間。けれど街は確実に、昼の明るさを手放しつつある。鶴橋は手元の書類を読みながら、まったく内容が頭に入っていないことに気づいていた。行を追っては戻り、また追っては止まる。集中できていないのはわかっていたが、視線をどこに向けても気持ちは落ち着かなかった。そのと

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