Mag-log in在宅勤務の地味なシステムエンジニア・高田。 社内でも目立たない存在ながら、実は“整った顔立ち”を隠し持つ彼に、ある日突然、営業部の大和が声をかけてきた。 明るく人懐っこい関西弁の彼は、無表情で感情に疎い高田にも臆さず距離を縮めてくる。 「好き」の定義が分からない。 恋愛を“コード化”しようとする高田の前で、大和は笑う。 「それはな、未定義でもええねん」 やがて始まる静かな同居生活。 言葉よりも、呼吸と肌と沈黙がふたりを近づけていく──。 職場で出会ったふたりが、壊れた関係の過去を超えて、 “日常という愛のプログラム”を更新していく長編BL。
view more午前九時半。どんよりとした雲が本町のオフィス街を覆っていた。梅雨の残り香のような湿気が、肌にまとわりつく。ビルの十階、営業部フロアでは、いつものように書類の音と電話のベルが錯綜していた。
大和奏多(やまとかなた)は、デスクに腰を落とす間もなく、PCのモニタに表示された赤い通知に眉をひそめた。業務支援システムの稼働がまた一部停止していた。クライアントへのアクセス制限、進捗管理の読み込みエラー、軽微ではあるが、営業部としては即時対応を求められるトラブルだ。
「…またかよ」椅子に座りながら、声にならないため息をこぼす。昨日も一昨日も似たような障害が起きていた。ログを確認するより早く、担当SEの名前が頭に浮かぶ。
高田 彗(たかだけい)。
名前だけが共有される人物。社内メールには最小限の返信。チャットも一言二言。Zoomは常に音声オフ、カメラは黒画面。存在はしているのに、まるで社内の誰とも接点を持とうとしない。営業側からすれば、もはや都市伝説のような男だった。
「大和くん、ちょっと」
奥から低くかかった声に顔を向けると、部長の黒川が額にしわを寄せて手招きしていた。大和は飲みかけのコーヒーを片手に立ち上がり、応接用のソファへ向かう。
「今朝のログ見たか」黒川が言う。
「見ました。高田さんのとこですね、また」 「やっぱりなあ。あいつ、技術は間違いないんやけど、対応が毎回これやからな。営業側からもクレーム来とるわ」 「チャットも返事、来るには来るんですけど、必要最低限で…。あとでまたバージョン書き換えて終わりですわ」 「ほんなら、今日一回、直接会ってみてくれへんか」大和は一瞬、聞き間違いかと目を見開いた。黒川は真顔だった。
「…え、家っすか」
「せや。場所はこれや」そう言って差し出されたメモには、大阪市内の某所にあるマンション名と部屋番号。 「いやいや、そんな在宅の人間、わざわざ訪問せんでも…」 「ずっとこのままじゃあかんやろ。大和、お前、そういうの得意やん」つまり、対人コミュ力のことだった。大和は苦笑しながら、メモを受け取った。
「マジすか。…まあ、行きますけど」
「頼んだぞ」 「はいはい」立ち上がるとき、コーヒーの紙カップをひと口すすった。室温より冷たくなっていたが、そのぬるさがどこか今日の空気に似ていた。
デスクに戻り、バッグに必要最低限の資料を詰めながら、PC画面をもう一度見た。そこには高田のシステム障害処理記録が表示されている。短く、冷たく、無駄のない報告文。まるで人間が書いたとは思えない、完璧な機械文のようだった。
「…一回くらい、顔見てみたいなあ。てか、ほんまに人間なんか、あれ」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いたあと、大和はスーツの上着を羽織ってオフィスを出た。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、瞳の奥はどこか探るような色を含んでいた。初めて会う相手に対する、興味と警戒の入り混じった、営業マンとしての直感だった。その日、朝の空気は透きとおっていた。夏の入り口にある晴天の日曜、光は窓からやわらかく差し込み、居間のフローリングに薄い金色の影を落としている。エアコンの送風が低い音を立て、テーブルの上の紙片がふわりと揺れた。高田は、小さな書斎机に向かっていた。椅子の背もたれに浅く腰を掛け、白いページのひとつに、ゆっくりと文字を記していた。「共有者:大和 奏多」それだけだった。数式も、アルゴリズムも、補足的な定義も添えなかった。ただ、その名前だけを、文字の真ん中に書いた。文字はやや右上がりで、わずかに力が入りすぎている。だが、それは修正されることなく、そのままページの中心にとどまった。何かを証明しようとしたわけではない。意味を分析しようとしたのでもなかった。ただ、この一行が“今”の自分にとっての全てだと、そう思えた。彼は手にしていたペンを静かに置いた。指先に残るわずかなインクの感触を、しばらくじっと見つめる。その手元には、昔のログ帳も開かれていた。ページの角が折れ、文字が重なり合うそこには、かつての自分がいた。でも、今はもう“現在地”が違っている。隣では、大和がカーテンを少しだけ引き、外の光を確かめていた。夏の風が窓越しに葉を揺らし、その影が部屋の中に揺れていた。振り向いた彼の視線は、すぐには高田には届かなかった。ただ、部屋の空気に視線を落とすようにして、何かを確かめるように言葉を吐いた。「お前が、不具合だらけでも、俺は好きや。ずっと、そう思ってる」その声は、誰かに届くことを期待したものではなかった。けれど、確かに“届いた”。高田は振り向かない。振り向かないまま、呼吸を整えるように、鼻から息を吸い、口からゆっくり吐いた。音を立てずに静かに。けれど、ほんの少しだけ深くなったその呼吸に、大和が気づいたかどうかは分からない。ページの上に置かれたペンの隣に、手がそっと重ねられる。高田の手の甲に、大和の手のひらが重なったわけではない。ただ、ほんの少し近くに置かれただけだった。それだけで充分だった。言葉にされなかった思いが、静かに部屋の中を満たしていた。どちらからともなく会話を止め、テレビもつけないま
朝の光は、まだやわらかかった。カーテンの隙間から差し込む淡い陽射しが、キッチンの床に斜めの線を描いていた。冷蔵庫の下から伸びたその光の帯が、静かに揺れているのは、窓の外で葉が風に揺れているからだろう。食器の触れ合う微かな音が、ぬるま湯の水音と混ざって、部屋の中に薄く満ちていた。高田は、その音を聞きながら、椅子に腰かけていた。手には何も持たず、朝食の後に出されたマグカップの取っ手にも触れていない。ただ、テーブルの上をぼんやりとなぞるように視線を落とし、その奥にあるひとつの背中を見つめていた。大和は流しに向かい、淡々と食器を洗っていた。慣れた動きでスポンジをすべらせ、泡を流しては布巾でひとつずつ丁寧に拭いている。その背には、特別な何かがあるわけではない。ただ日常の一部として、そこにある。それなのに、高田は目が離せなかった。たぶん、特別である必要なんてないのだと思った。ただ、そこに“誰かがいる”ということ。それだけが、今の自分には充分すぎるほどで。ふと、洗っていた皿を伏せ置きながら、大和が肩越しにこちらを振り返った。「なに?」問いかけは軽く、問い詰めるでも、探るでもない。けれど、その声には、気配を読む柔らかさがあった。高田は少しだけ身を引いて、首を振った。「…見てただけ。別に意味はない」それは嘘ではなかった。意味を持たせようとすれば、きっとどこかが歪んでしまう。ただ、その姿を見ていたかった。言葉にするには少しだけ足りない感情が、胸の奥で揺れているのを、自分でも分かっていた。「そっか。ほな、そんまま見といてええよ。俺、なかなかええ男やし」そう言って笑う大和の声は、冗談めかしていたが、どこか照れくさそうでもあった。振り返るその顔には、朝の光がかすかに射していて、輪郭がほんの少し滲んで見えた。高田はそのまま、大和の瞳を見つめ返すことなく、視線をテーブルへと戻した。手元のマグカップに触れることはせず、ただ指先でテーブルの縁をなぞる。口元が、かすかに緩んだ。笑った、というほどのものではなかった。それでも、何かが、ほんの少し溶けたような気がした。それだけで、よかった。
寝る前の静かな時間、部屋の明かりはすでに落とされていて、スタンドライトの柔らかな灯りだけが、高田の手元を照らしていた。布団の端に浅く腰を掛けたまま、彼は手帳を開いていた。ページはすでに何枚も埋まり、記録というより、軌跡のような文字列が重なっている。手帳の端には折り目がつき、指の腹で触れるたびに、過去の時間が微かに浮かび上がるようだった。インクのにじみがかすかに視界に広がる。その下に、まだ何も書かれていない余白が広がっている。高田はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。思考が整理されるのを待っているのではない。ただ、言葉を選ぶ時間が必要だった。その夜、彼が手帳に記したのは、たったひとつの文だった。「愛してる、という言葉に数式はつけない。これだけは、未定義のままでいい」文字は慎重に、しかし迷いなく綴られていった。筆圧は控えめだったが、その分だけ輪郭ははっきりしていた。明確な定義を持たせることが彼の生き方だった。曖昧さを許さず、すべてを論理の枠に収めようとした過去の自分なら、この一文を笑っただろう。あまりにも感情的で、根拠のない、エラーを孕んだ表現。けれど今は、それこそが唯一無二の「真理」だと、思えた。高田はペンを置いたあと、手帳のページに視線を落としたまま、ふっと息をついた。視界の端には、布団の中で眠る大和の姿がある。背中を向けたままだが、その寝息が部屋の空気を一定のリズムで満たしていた。耳を澄ませば、まるで“存在そのもの”が音になって空間に溶け込んでいるようだった。彼の隣にいるということが、ただの偶然ではなく、積み重ねた選択の結果であることを、高田は知っている。それは統計的な因果ではなく、感情による意思だった。論理で解釈できないからこそ、重い。数字で説明できないからこそ、真実に近い。手帳の文字をもう一度だけ見つめてから、高田は静かにそれを閉じた。ページを閉じる音が、小さく室内に響いた。指先に、紙の感触がまだ残っている。それは、過去を記録した記憶の皮膚のようであり、未来への準備でもあった。消しゴムを手に取って、少しだけ悩んだあと、今夜は使わずに戻す。その一文は、訂正の対象ではなかった。書いたままでいいと思えたのは、おそらく初めてのことだ
カップの縁に唇を寄せたとき、少し冷めかけたコーヒーの温度が、逆に安心感を与えてくる。朝の光はまだ部屋に満ちきっておらず、カーテン越しに漏れる柔らかい光が、ダイニングテーブルの上に斜めの影を描いていた。そこには、並べられたふたつのマグと、開かれたノートパソコン。立ち上がっているのは、高田が最近ようやく実装し終えた、自作のToDoアプリだった。画面の背景は無機質なグレー、けれど中央に浮かぶタスク群のフォントは、大和の提案で少しだけ角の丸い、読みやすい書体に変えてある。高田はそれが最初こそ気に入らなかったが、今ではその“妥協点”すら愛着の一部に感じられていた。「奏多くん」 呼びかける声は、コーヒーの湯気の向こうから小さく届いた。高田の視線は画面に留まったままだったが、その口元は静かに動いた。「僕、この間、自分の人生のエラーログ探してたらね…あんまり、なかった」 言い終えたあと、自分でも少し驚いたように目を細めた。まるで初めて知る事実を口にしたかのように。その言葉は、まるで誰かに向けたというより、自分の中の確認だった。「ほんなら、ログ書き換えんでええな。上書き保存でいこ」そう返した大和の声は、静かで穏やかだった。冗談めかした調子ではなく、真っ直ぐで、無理のない言葉の重みがあった。向き合うことよりも、並んでいることに意味がある。そう教えてくれるような響きだった。高田はふと、手元のマグを持ち上げる大和の手を見た。節の太い指が、持ち慣れたような自然な動きで取っ手を支えていた。自分の手とは違う、でも今は隣にある手。気づけば、そのままそっと、自分の指先を大和の手の甲に重ねていた。ぬるいコーヒーの湯気が、ふたりの手のあいだにたゆたっている。画面のタスク一覧に、いくつかの文字が並んでいた。「洗濯洗剤の補充」 「週末の食材買い出し」 そして「月末、花火大会」どれも、“恋人”という言葉が直接関わる内容ではない。ただの日常の用事、タスク、やるべきことのリスト。だが、そのすべてが、“ふたりで過ごす”前提で入力されているというだけで、意味はまったく違ってくる。高田は無意識のうちに、カーソルを動か