町は多くの人で賑わっていた。
雑踏の中、雛は人混みを避けながら一人歩く。夕飯の買い出しへ出かけた雛は、賑やかな町の喧騒を尻目に落ち込んでいた。
少し俯いて歩いていたせいで、人にぶつかりそうになる。
「すみません」
雛が顔を上げると、目の前では青年が雛を見下ろしていた。
鋭い視線に少し冷たい印象を感じる。青年は雛を一瞥《いちべつ》しただけで、何も言わずさっさと歩いていってしまう。
不愛想な人だな、とその後ろ姿を見つめていると、突然雛は誰かに目隠しされた。
「だーれだっ」
こんなことをするのは一人しか思い浮かばなかった。
「|若菜《わかな》でしょ?」
雛が振り向くと、ニカっと歯を出して笑う|小野《おの》若菜がいた。
「もう、その反応つまんない。もっと、ビックリしてよ」
唇を尖らせ、頬を膨らませるその姿は年齢よりも幼く見える。
雛があきれ顔で若菜に告げた。
「だって、こんなことするのは若菜くらいだもの」
「いいじゃん、私たち親友でしょ」そう言って、いたずらっ子のような表情で嬉しそうに微笑む若菜。
若菜の笑顔が雛は大好きだった。何でも許したくなってしまう。若菜は雛の幼馴染で親友。
他の女の子たちより元気に外で遊ぶことが好きな雛は、他の子たちから浮いていた。
しかし若菜はそんな雛にピッタリな|男勝《おとこまさ》りな少女だった。剣術の相手もしてくれたし、外で魚釣り、泥遊び、かけっこ、鬼ごっこ、男子が好きそうなことを若菜は楽しそうに雛と遊んでくれた。
彼女の性格はとてもサバサバしていて、雛と波長が合う。
若菜といると心地がよかった。彼女といる間だけは男とか女とか、考えなくていい。
「雛、なんだか暗い? どうしたの?」
雛が何かに悩んでいることに気づいた若菜が心配する。
昔から、彼女には隠し事ができなかった。「また、父さんと喧嘩したんだ……」
雛が父との喧嘩の内容を説明すると、若菜は怒りを露わにする。
「ほんと、信じられない。なんで皆男だからとか女だからってこだわるのかね!
雛、負けるんじゃないよ。 大丈夫! 雛が常識を塗り替えてやれっ」若菜が力強い眼差しを向け、雛を励ます。
「ありがとう、若菜……」
若菜の言葉には力がある。
雛はいつも彼女の存在に救われていた。「私、雛はたくさんの人を救える力があるって思う。
きっと、世の中を変えていく一人なんだって。 雛は本当に人のことを思える優しい人間だ。そんなあんたのような子が、今の世の中必要なんだよ」若菜は真剣な表情で語る。
雛は嬉しくて涙ぐんだ。「若菜が友達で……本当に良かった」
「何言ってんの! あったり前でしょ」二人で笑い合っていると、突然怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい! 貴様、よくも私の着物を汚したな!」
声の方へ視線を向けると、武士かお侍だろうと思われる人物が、身なりの汚い男性を見下ろしていた。
見下ろされている男性は、その恰好から|乞食《こじき》だと推測できた。「貴様がぶつかったせいで、私の着物が汚れてしまったではないか。どうしてくれるっ」
そんな些細なことで、と雛は怒りを覚えた。
しかし、武士や侍はお高くとまっている|輩《やから》が多いのも事実。
こういうことは、よくある光景だった。「も、申し訳ございません。どうかお許しを」
怯え震えながら土下座する男に向かって、武士らしき男が告げる。
「そうだな、おまえに罰金を申しても無理な話だろう。
ならば親族から徴収するまでだ」そう言われた乞食の男は慌てる。
「それだけはお許しを! 家族には迷惑をかけたくないんです」
「ええい、うるさい! 私に歯向かうつもりか! ならば貴様の命で償え」男が刀に手を伸ばす。
「やめなさい」
雛は一瞬の隙に男の背後に行ったと思うと、その腕を掴んでいた。
いつの間にか背後にいた雛に驚いた男が、大きく見開いた目で雛を見つめる。
「なんだ、おまえは?」
「私はただの通りすがりの者です」男は眉を寄せ、不快そうな表情をする。
「おまえに用はない、女が口を挟むな」
その言葉が、雛の怒りを買ってしまった。
遠くから見守っていた若菜が、あっちゃーという顔をする。
「女だからって……舐めない方がいいですよ」
雛の生意気な態度に、男の顔が歪む。
こんな年端もいかない少女に口ごたえされ、彼のプライドは傷ついていた。「貴様も、大人を舐めない方がいいぞ」
男が刀を抜き、雛めがけて振りおろす。
雛の目つきが変わった。
「そこまで」
先ほどの雛同様、いつの間にか雛の背後にいた青年が、男の刃を|脇差《わきざし》一本で受け止めていた。
刀と脇差、この組み合わせに周りで見物していた人々は驚きの声を上げる。誰が見ても、謎の青年の実力は計り知れない。
刃がこすれ合う音が響く。
「貴様、何者だ! こいつの仲間か」
男が怒りにまかせて謎の青年に向かって叫んだ。
「私も、ただの通りすがりの者ですよ」
そう微笑む彼の目は、他の者とは違う何かを感じる。
目は笑っているのに物凄い殺気を放っているのだ。男は身震いした。
こんなに恐怖を感じたことは初めてだった。こいつは本物だ、本能がそう叫んでいた。
男は静かに刀を引いていく。
「関係のない者が、口を出さないでいただきたい」
負け惜しみに吐いた男のその言葉に、雛が反応する。
「しかし! 先ほどのあなたの言動は容認できません。服を汚されたくらいで、あの仕打ちは酷いでしょう」
「そ、それは」男は雛に言い返そうとしたが、側にいる青年が恐く、強く言い返すことができずに口をつぐんだ。
「今日は勘弁してやる!」
そう吐き捨てると、男は急いでその場から去っていく。
周りで高みの見物をしていた人たちも徐々に散っていった。雛はまだ震えている乞食の男に優しく手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
乞食の男は泣きながら雛に|頭《こうべ》を垂れる。
「本当にありがとうございました、あなたは命の恩人です。何かお礼を」
「そんな、何もいりません。当たり前のことをしたまでです。 何事もなくてよかった。 これからは気を付けてくださいね、ああいう連中もいますから」いつまでも頭を下げ続ける男に手を振り、雛はその場をあとにする。
ふと先ほどの青年のことを思い出し、辺りを見渡してみるが、もう彼の姿はどこにも見当たらなかった。事の成り行きを遠くの方から見物していた若菜が、雛に近づいてくる。
「雛、よかったね、あの男すぐに逃げてくれて。
まあ、雛が負けることはないと思うけど。あんまり騒ぎが大きくなると、あとで面倒だもんね。 ……ね、それよりさっきの人誰? 知り合い?」 「ううん、知らない人」背後に立たれたので、青年の顔はよく見えなかった。
しかし、あの気配……相当の実力の持ち主だと感じた。あの殺気……今まで会ったどの剣士よりもすごかった。
「でも、あの人強そうだったよね。あいつビビってたもん。
雛といい勝負だったりして」若菜は冗談で言ったつもりだったが、雛は真面目な顔をして神妙に頷く。
「うん、かなりの実力者だと思う……」
「え? マジ?」若菜が驚いて雛を凝視する。
雛は青年のことを思い返しながら一人歩き出す。
その後ろを追いかけるように、若菜が雛のあとに付いていった。 少し離れた物陰から、先ほどの青年が雛たちを目で追っていた。しばらくして雛たちが見えなくなると、青年は暗闇の中へと静かに消えた。
町は多くの人で賑わっていた。 雑踏の中、雛は人混みを避けながら一人歩く。 夕飯の買い出しへ出かけた雛は、賑やかな町の喧騒を尻目に落ち込んでいた。 少し俯いて歩いていたせいで、人にぶつかりそうになる。「すみません」 雛が顔を上げると、目の前では青年が雛を見下ろしていた。 鋭い視線に少し冷たい印象を感じる。 青年は雛を一瞥《いちべつ》しただけで、何も言わずさっさと歩いていってしまう。 不愛想な人だな、とその後ろ姿を見つめていると、突然雛は誰かに目隠しされた。「だーれだっ」 こんなことをするのは一人しか思い浮かばなかった。「|若菜《わかな》でしょ?」 雛が振り向くと、ニカっと歯を出して笑う|小野《おの》若菜がいた。「もう、その反応つまんない。もっと、ビックリしてよ」 唇を尖らせ、頬を膨らませるその姿は年齢よりも幼く見える。 雛があきれ顔で若菜に告げた。「だって、こんなことするのは若菜くらいだもの」 「いいじゃん、私たち親友でしょ」 そう言って、いたずらっ子のような表情で嬉しそうに微笑む若菜。 若菜の笑顔が雛は大好きだった。何でも許したくなってしまう。 若菜は雛の幼馴染で親友。 他の女の子たちより元気に外で遊ぶことが好きな雛は、他の子たちから浮いていた。 しかし若菜はそんな雛にピッタリな|男勝《おとこまさ》りな少女だった。 剣術の相手もしてくれたし、外で魚釣り、泥遊び、かけっこ、鬼ごっこ、男子が好きそうなことを若菜は楽しそうに雛と遊んでくれた。 彼女の性格はとてもサバサバしていて、雛と波長が合う。 若菜といると心地がよかった。 彼女といる間だけは男とか女とか、考えなくていい。「雛、なんだか暗い? どうしたの?」 雛が何かに悩んでいることに気づいた若菜が心配する。 昔から、彼女には隠し事ができなかった。「また、父さんと喧嘩したんだ……」 雛が父との喧嘩の内容を説明すると、若菜は怒りを露わにする。「ほんと、信じられない。なんで皆男だからとか女だからってこだわるのかね! 雛、負けるんじゃないよ。 大丈夫! 雛が常識を塗り替えてやれっ」 若菜が力強い眼差しを向け、雛を励ます。「ありがとう、若菜……」 若菜の言葉には力がある。 雛はいつも彼女の存在に救われていた。「私、雛はたくさんの人
これは正義感溢れる少女が自分の生き方にもがき、信念を貫きながら仲間たちと共に時代をつくりあげていく物語…… °˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖° 立派な長屋門の中から、元気な掛け声が聞こえてくる。「やあっ!」 竹刀を持つ少女、|斎藤《さいとう》|雛《ひな》は父、|雄二《ゆうじ》の脇腹を打った。「また、やられた! 雛は強いなあ」 娘にやられ、笑顔を向ける父。 その微笑みから、彼の優しさが滲み出ている。 雛の父、雄二は武士だった。 長い間、戦いの中に身を投じ戦果を収めてきた。かなりの実力の持ち主だったが、戦いの中で負傷し、現役から退くことになってからは後世の指導に励んでいた。 戦うことよりも教えることの方が性に合っていたようで、雄二は弟子たちを育てることを生きがいに、日々稽古に明け暮れていた。 そんな父を真似るように、いつしか幼い雛は竹刀を握った。 それが全ての始まりだった。 これを機に、彼女の才能が目覚め開花していくことになる。 雛は、小さい頃から雄二の弟子の中に混じり、剣術に明け暮れた。 雄二も、娘が剣術に興味を持ったことを嬉しく思い、雛に稽古をつけた。それがどんなに厳しい稽古でも、雛は弱音一つ吐かなかった。 日に日に剣の腕を上げていく雛に、雄二は驚きを隠せなかった。 始めは皆、小さな少女が竹刀を必死に振り回す姿を微笑ましく見守っていたが、徐々に雛の実力が発揮されていくと、皆の顔つきが変わっていった。 雛が十歳の頃には、弟子の中で雛に敵うものはいなくなり、十二歳で雄二を倒すまで実力を伸ばしていた。 その頃には他の道場へ試合を申し込み、次々に屈強な男たちと勝負し勝利を収めていた。 雛は武家の間で噂の的となり、神童と呼ばれるようになっていた。 しかし、雛は女、そのことを皆が嘆き憂いた。 男だったらよかったのに、と皆が口にするのを雛もよく耳にするようになり、彼女自身そのことで思い悩むことが多くなった。 雄二も雛の実力は認めていたが、決して心から喜んではいなかった。 大人になれば自然にあきらめ、普通の|女子《おなご》として生きるだろうと思い、雛の好きなようにさせていた。 雛は十五歳になった。 もうこの辺りでは、雛の敵になる者は誰もいなくなった。 それでも、彼女の情熱は失われる