遥はふと不思議に思っていた。どうして自分は、あんなにも年上の男に惹かれてしまったのだろう――と。彼女の立場なら、選択肢はいくらでもある。ほんの指先を動かすだけで、どんな男だって群がってくる。それなのに。わかっていながら、抗えずに堕ちてしまった。遥にとって、欲しいものはいつだって簡単に手に入った。拒絶されるなどという経験は一度もなかった。だが今は違う。初めて味わう「拒絶」という感覚が、胸に鋭く突き刺さる。それは決して心地よいものではない。遼一に会えない時間、頭の中は彼のことで埋め尽くされる。自分を麻痺させなければ、その想いは脳裏にじわじわと広がり、神経も細胞もすべてが彼で染められてしまう。自分は諦められると思っていたのに。遼一が想っているのは、一体誰なのだろう。珠子なのか、それとも明日香か。だが、明日香はもうすぐ樹と結婚するはずだ。ならばやはり珠子……?けれど、彼が明日香を見る眼差しは、珠子に向けたことなど一度もない。もしかすると、遼一の珠子への想いは、家族愛に近いものなのかもしれない。明日香さえ樹と結婚してしまえば……そうすれば、まだ自分にだってチャンスはある。遼一ひとりの力では、藤崎家全体に抗うことなど到底できない。けれど母が賛成しようが反対しようが、遥には揺るぎない自信があった。欲しいものは必ず手に入れてきたし、これからもそうだ。藤崎グループ。一方その頃、千尋は樹に報告すべきかどうか迷っていた。もしこの件を伝えれば、社長の心が揺らぐかもしれない。それが何よりも怖かった。いまや明日香と樹の婚約式は間近に迫っている。前回のように南緒に付け入る隙を与え、無理やり二人を引き裂くようなことは、もう二度と許されない。千尋は結局、胸に秘めることを選んだ。たとえ後で責めを負うことになろうとも、グループの未来のためなら、すべて自分一人で背負うつもりだった。千字にわたる資料を携え、ドアをノックして中に入ると、青いシャツに黒のスラックス姿の樹が、窓際に立っている。片手をポケットに入れたまま、深刻な表情で電話に応じていた。「……今度はどんな手を使うつもりだ」「社長?」樹は眉をひそめ、受話器の向こうに問いかける。「どちらですか」「帝都警察署です。帝都第七精神病院からの通報を受け
あいつ、もう遥に手を出したのか?桜庭家の人脈が目当てか。それとも、金か地位か。今世の遥は、前世の彼女と一体何が違うというのだ。あの男の手に落ちれば、生きていようと、死んでいようと同じ。待つのは地獄のような運命にすぎない。遼一が不意に一歩を踏み出し、手を伸ばして明日香の前髪をそっと払った。その仕草に、彼女はわずかに息を呑んだ。「久しぶりだな、明日香。もう兄さんとは呼ばないのか」避ける間もなく、遼一の口元にうっすらと笑みが浮かぶ。だが、その瞳の奥に潜むのは、侵略的な独占欲、そして狂気。彼は巧妙にそれらを押し殺していた。けれども明日香には分かる。その笑みの裏に潜むものが、どんなに醜いかを。あの男は、もはや畜生と何ら変わらない。明日香は一歩後ろに下がり、彼から視線を逸らした。「私、まだ用事があるから……これで失礼するわ」日和は明日香の兄を見てしまった。視線が合った瞬間、遼一の笑みはすっと消え、冷たく険しいものに変わる。鳥肌が立ち、息が詰まる。なんて恐ろしい人だろう。「明日香」追いついた日和が、そっと耳元で囁いた。「ねえ……遥って、あなたのお兄さんと付き合ってるの?」それが自分と何の関係があるというのか。日和は指先をもじもじと動かしながら続ける。「だって、遥は明日香のお兄さんと付き合ってて……明日香は遥のお兄さんと付き合ってるんでしょ?遥はあなたのこと『お義姉さん』って呼ぶけど、じゃああなたは彼女をどう呼ぶの?同じく『お義姉さん』?もう私、わけが分からなくなっちゃった」無邪気で何も知らない瞳は、ただ好奇心に輝いている。明日香は慌てて彼女の口を塞いだ。「もう言わないで」遥たちはまだ近くにいる。先ほどの大きな声は、後ろの人々にも聞こえてしまったかもしれない。明日香は背が高く脚も長いため、日和は小走りでなければ追いつけなかった。一方その頃。遥は赤い唇を吊り上げ、隣を歩く年上の男に興味深そうな視線を投げていた。「遼一、考えてくれた?私と一緒にアメリカへ行く気はある?半年だけ付き合ってくれればいいのよ。もちろん、短すぎるっていうなら、私が経営学を修了するまで待って、一緒に帰ってきてもいいわ。こんな好機、他の人なら決して逃さない。だって私は金も権力もある。あなたが欲しいものなら何だ
その胸の奥に潜む不安の正体は、一体何なのだろう。考えてみれば答えは分かっていた。けれども、明日香はあえて言葉にしなかった。車内には沈黙が満ち、二人はただ静かに時間を過ごした。やがて学校に到着する。明日香は小さく声を落とした。「降りますね……お昼ご飯、ちゃんと食べるのを忘れないでね」「うん」そう応じた樹を残し、車を降りた瞬間には、いつものように車はすでに走り去っていた。今日は少し早く着いた方だ。「明日香!明日香!」弾む声に振り向くと、日和が鞄の紐を握りしめながら駆け寄ってきた。息を切らしながら、彼女は明日香の隣に立つ。「どうしたの?何度も呼んだのに返事してくれなかったじゃない。大丈夫?」「うん、何でもないよ」「てっきり、中央美術学院に合格したからもう学校に来ないのかと思ってた。明日香みたいに優秀な人が、私よりもずっと真面目なんだもん、びっくりするよ」明日香は口元に柔らかな笑みを浮かべた。「少しでも多く学ぶことは、いつだって無駄にならないから」二日前に中央美術学院の試験結果が発表され、明日香は首席で合格していた。理屈で言えば、もはや学校に通う必要などない。けれども、来なければ、彼女は何をすればいいのだろう。ここには、どうしても会いたい人がいる。そして、大切な友人たちも。「ところで、あなたは?今日どうしてこんなに早いの?」問いかけに日和は頷きながら答える。「両親が実家に帰るから、飛行機に乗らなくちゃいけなくて。だから早く来たの。でもこんな偶然に明日香に会えるなんて、本当に嬉しい」そう言って、ひとりでケラケラと楽しそうに笑った。明日香は、そんな日和を見つめる。悩みを抱えず、試験の失敗を恐れる必要もなく、家庭に恵まれ、これからも安心して暮らし、自分の好きなことを自由にできる。そう思うと、実に羨ましく、そして素晴らしいことだと感じられた。「朝ご飯は食べた?お菓子を持ってきたの。この前スコーンが食べたいって言ってたでしょ。ついでに多めに作って、あなたの分を取っておいたんだ」「食べる!食べる!」日和は満面の笑みを浮かべた。あの日、彼女が事件に巻き込まれかけて以来、明日香はどうしても埋め合わせをしたいと思っていた。日和が食べることが好きだと知っていたから、毎日少しず
南緒にとって、その一日は刑務所で過ごした年月よりも長く感じられた。彼女は一刻も早く、この閉ざされた場所を離れたくてたまらなかった。深夜。時刻はちょうど十一時を刻んだ。精神病院の廊下にはすでに人影はなく、ただ蛍光灯の青緑色の光が冷ややかに床を照らしていた。その先は深淵のように真っ暗で、どこからともなく水滴が落ちる音が響く。静寂の中に漂うその音は、冷え切った空気とともに、空間を不気味に満たしていた。病室のドアが静かに開き、南緒は幽霊のような人影が音もなく通り過ぎていくのを見た。床には車のキーと鋭利なナイフが投げ置かれていた。どうしてその人物が、この病院を自由に出入りできるのか、そんな理屈を考える余地は、もはや彼女の中にはなかった。南緒の心は、すでに憎悪に呑み込まれていたからだ。彼女は床に落ちたそれらを拾い上げたものの、すぐに逃げ出そうとはしなかった。ベッドに腰を下ろし、まるで獲物を待つ獣のように、じっと次の瞬間を待ち続けた。そして、時刻は零時を迎える。再びドアが開き、秋山が何の気配も隠さず姿を現した。彼は真っ直ぐに南緒へと近づき、待ちきれぬように彼女を抱きしめた。「シャワー浴びたのか?いい匂いだ……」その瞬間、秋山の胸に、鋭い刃が容赦なく突き立った。彼は息を呑む間もなく、目を見開いたまま硬直する。南緒の唇に、ゆがんだ笑みが浮かんだ。その眼差しは氷のように冷たく、凶悪な光を宿していた。「どうしたの?続ければいいじゃない。どうして黙っているの?」低く囁くと同時に、彼女はさらに力を込めて刃を深く突き立てた。抜き放った刃先からは鮮血が滴り落ち、地獄から舞い戻った亡霊のように、南緒は不気味な笑みを浮かべた。ナイフが引き抜かれた途端、血潮が噴き出し、飛沫は彼女の顔を赤く染め上げる。それはまるで、彼女にとって初めてではない儀式であるかのように自然な動作だった。南緒は秋山を突き飛ばした。男は見開いた瞳のまま床に崩れ落ち、二度と動かなかった。妨げる者はもういない。南緒は鍵を握りしめ、牢獄のような病院を後にした。外には一台の車が待っていた。彼女は迷うことなく乗り込み、闇夜の彼方へと走り去る。やがて、その笑い声が人けのない夜道に響き渡り、ぞっとするほどの寒気を残した。夜はさらに更け、黒雲が低く垂れ込め
南緒は続けて言った。「実は、私は罠にはめられて精神病院に送られたの。もしスマホを貸してくれるなら、あなたが望むこと、全部付き合うわ。私の顔を見られるのが怖いなら、目隠しをしてもいい。何も言いふらしたりしない。もしここを出られたら、あなたにも十分な利益をあげるから」秋山は声を出すことすら怯えていた。それでも、恐怖に打ち勝つように勇気を振り絞り、ベッドのそばへ戻ると、震える手で彼女の胸元に触れた。南緒は誘うような声を漏らし、軽く呻いた。「続けて……もっと強く」男の瞳に潜む劣情は次第に膨らみ、手の動きはますます大胆になっていく。一度燃え上がった欲望の炎は、容易に消せるものではなかった。南緒はまるで弄ばれる人形のように身を横たえ、全身から絶望と嫌悪の臭気を放ちながら、彼女の上で動く男に耐えていた。その虚ろな眼差しは、歪み、残酷さを帯びていた。樹。これから一生、あなたに付きまとう。逃げられると思うな……!やがて一時間ほどが過ぎ、動作が止む。秋山は満足げに南緒の身体から降りた。服を整え、彼女の身体を拭うことさえ親切に済ませて。南緒は荒い息を吐いた。「忘れないで……あなたが約束したことを」男は一言も発せず、そのまま部屋を後にした。翌朝。南緒が目を覚ますと、手首を縛っていた手錠が外されていた。看護師が告げる。「最近は調子が良さそうなので、手錠は外します。ただし、また発作を起こして叫ぶようなら、同じ処置をせざるを得ません」南緒は何も言わず、起き上がって手首を揉み、看護師が差し出した薬を受け取ると、一口で飲み下した。看護師が立ち去ると、彼女は枕の下からスマホを取り出し、一連の番号を素早くダイヤルした。だが、応答はなかった。五分後、新しい仮想番号から着信が入る。「出所したか?」南緒は憎悪に満ちた眼差しで壁を凝視し、シーツを握り締め、布越しに爪を掌へ食い込ませた。「今回の婚約を台無しにしてほしい。復讐を果たせたら、藤崎家の資産の半分を約束する」「お前の命すら、俺が繋いでやったんだ。忘れるな。今のお前は、何一つ持っていない」「違う!私こそが藤崎家の正真正銘の奥様なの!あの女さえ現れなければ、彼の心の中の私の場所を奪えるはずがない。私をここから助け出して、私の全てを取り戻させてくれさえすれば
女子刑務所の所長は、独房にいる南緒の様子を見回り、その惨状に憤激した。藤崎家からは、刑務所で少しばかり苦労をさせるように、と内々に申し伝えられていたものの、直接手を下せとまでは、言われていなかった。所長の巡回がなければ、南緒は間違いなく死んでいただろう。病院へ運ばれて治療を受け、南緒が目覚めてから五日。彼女の精神は、すでに完全に崩壊していた。必死に藤崎家の「あの方」――樹に会おうとしたが、彼ほどの大物が、会いたいと願ったところで会えるはずもなかった。誰も彼もが、彼女をただの精神病患者として扱った。南緒がかつてテレビで報道されたことは多くの者の知るところであったが、彼女のような人間の言葉を信じる者など、誰一人としていなかった。ただの狂人、そう見なされるだけだった。上からの指示は、「よしなに取り計らえ」という、ただそれだけだった。南緒は精神病院に放り込まれた。そこに放り込まれて、すでに五日が経っていた。ベッドのヘッドボードに手錠で繋がれ、鎮静剤を強制的に打たれ、薬を無理やり飲まされる日々。ここでの境遇が、楽であるはずもなかった。男性医師たちにいいように嬲られるのも、甘んじて受けるしかなかった。それらすべての屈辱を、彼女はたった一人で耐え忍んでいた。最初のうちはもがいていたが、やがてその胸を満たしたのは、燃え盛るような憎しみだけだった。この屈辱のすべては、あの男がもたらしたものなのだ。大勢の男たちに殴られ足蹴にされ、鋭い刃物で何度も身体を切りつけられた。今ではその傷も癒えて瘡蓋になっている。けれど、流された血の一滴たりとも、この生涯忘れるものか。いつか必ず、あいつらに報いを受けさせてやる!樹!私にこんな仕打ちをしたこと、必ず後悔させてやる!南緒の抵抗は、すべて徒労に終わった。精神病院の看護師が薬を飲ませに来ても、もはや彼女はもがいたり叫んだりせず、すべてを素直に受け入れた。たとえそれが、あの医師による猥褻な行為であったとしても。携帯電話は取り上げられている。博打に溺れて金の無心ばかりしてくる父親以外、身寄りも友人もいない。ここから出るにしても、誰に助けを求めればいいのか、皆目見当もつかなかった。ただ一人、あの人を除いては。あの人なら、きっと自分を助け出す術を知っているはずだ。だから