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第792話

Author: 豆々銀錠
紗枝は少し離れた場所に立ち、美希の言葉に静かに耳を傾けていた。だがその心には一片の同情もなく、まさにその場を後にしようとしていた。

そのとき、介護士が彼女を呼び止めた。

「紗枝さん、今日は本当にありがとうございました」

介護士は思った。もし紗枝が来ていなければ、自分が無理やり巻き込まれていたに違いない、と。

礼を述べた後、介護士は美希の袖をそっと引き、この冷たい女性に紗枝へ何か一言でも優しい言葉をかけさせようとした。

しかし、美希はただ紗枝を見上げ、冷ややかに問いかけた。

「私のこと、笑いに来たんでしょう?もう満足した?」

「ええ、でもまだ足りないわ」

紗枝の目は驚くほど静かで、まるで水面一つ乱さぬ湖のようだった。

美希は立ち上がろうとし、紗枝を殴りつけようともがいたが、二歩も進まぬうちに力尽きて倒れ込んだ。幸い、そばにいた介護士が支えて事なきを得た。

そのまま美希は再び病院へと運ばれ、医師たちは懸命の処置で彼女を死の淵から引き戻した。治療の後、医師は深いため息をつきながら言った。

「がん細胞の拡散があまりにも早すぎます。ご家族の方は、覚悟をしておいてください」

廊下に立っていた紗枝はその言葉を耳にし、思わず一歩後ずさった。彼女の目には、複雑な感情が渦巻いていた。

「......あと、どれくらい生きられるの?」

医師は、紗枝が母親を心配して尋ねたのだと思った。まさか彼女が、美希があとどれほど苦しめるのかを計算しているとは、露ほども気づかなかった。

「せいぜい三ヶ月でしょう」

三ヶ月......短すぎる。美希がしてきたことに比べれば、あまりにも。

医師が立ち去った後、美希は病室へと運ばれ、意識が戻らぬまま深い昏睡に沈んだ。

その長い眠りの中で、美希は夢を見た。そこには紗枝の父親が現れ、彼女の犯した過ちを責め、もう二度と会いたくないと告げ、紗枝に謝るように言う夢だった。

目を覚ましたのは、翌日の未明だった。

美希が目を開けたとき、周囲には誰の姿もなかった。

「誰か......」

声を上げても、介護士はすでに眠りについており、返事はなかった。

全身の力を振り絞り、ようやくベッドサイドのランプに手を伸ばした。ボタンを押すと、暖かな明かりが灯り、美希は自分が個室に移されていることに気づいた。

その明かりに反応して、横になっていた
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