だが、すぐに彼の全身から放たれる、尋常ならざる危険なオーラに気づいた。それは、かつて彼が、自分が彼と一夜を共にしたと誤解した時さえも比較にならないほど、強烈な殺意だった。あの時、言吾に本気で首を絞められ、殺されかけた記憶が蘇る。彼女は本能的な恐怖に突き動かされ、絶叫した。「誰か!誰か来てちょうだい!」妊娠していない時でさえ、狂気に駆られた言吾の力には抗えなかった。ましてや今は、身重の体なのだ。お腹の子に、万が一のことがあってはならない。しかし、いつもなら彼女が小声で呼ぶだけで、すぐに何人ものボディガードが駆けつけるはずなのに、今回は、どれだけ大声で叫んでも、誰一人として現れる気配はなかった。その異常事態が、彼女の不安をさらに掻き立てる。紫苑は慌てて立ち上がると、本能的に後ずさった。彼女の声は、自分でも気づかぬうちに震え、言葉が途切れる。「げ、言吾さん……あなた……な、何か、話があるなら……ちゃんと言って……」そんな風に怯えさせないでほしい。言葉を発しながらも、彼女の頭は猛烈な速さで回転していた。一体何が、言吾をこれほどまでの修羅に変えてしまったのか。だが、いくら考えても、自分が彼をここまで追い詰めるようなことをした覚えは、まるでない。妊娠が分かってからは、ただひたすら、無事にこの子を産むことだけを考え、余計なことには一切手を出さなかったはずだ。本当に、なぜ彼が突然こんな風になってしまったのか、見当もつかない。紫苑にできるのは、ただ、後ずさりを続けることだけだった。やがて背中が冷たい壁にぶつかり、もう逃げ場がないことを知る。その瞬間、言吾は一言も発することなく、彼女の首に、凶暴な力で手をかけた。息が、できない。死にたくない。お腹の子を死なせたくない。その一心で、彼女は必死にもがき、激しく抵抗した。しかし、男と女の力の差は、あまりにも絶望的だった。彼女の抵抗など、言吾にとっては赤子の手をひねるようなものだ。もう駄目だ。次の瞬間には死ぬ。そう感じ、絶望のあまり気が狂いそうになった、その時。首を締め上げていた指が、不意に緩んだ。途端に、新鮮な酸素が肺になだれ込んでくる。まるで瀕死の魚のように、紫苑は貪欲に口を開け、必死に空気を吸い込んだ。しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いて
痩身の男が何かを言いかける前に、烈は言葉を続けた。「忘れるな。青山一葉が消えれば、桐生慎也が死に物狂いで探しに来るだけじゃねえ。獅子堂家も、桐生旭の母方の実家も動く。「奴らと長期戦になれば、得るものよりも失うものの方が遥かにデカくなる。あの女の研究は、すでに大きな進展を見せている。全力で取り組ませれば、一年もかからずに成果は出るはずだ。奴らを相手に一年程度なら、利益が損失を上回る。だが、それ以上長引けば、間違いなく割に合わん」烈がまず一葉の子を始末しようとするのには、二つの冷徹な理由があった。一つは、先にも述べた通り、自身の血を引く者以外に、獅子堂家の跡継ぎとなりうる存在をこの世に許さないという、彼の歪んだ執着心。そしてもう一つは、他の研究者たちのように、一葉を一生涯ここに縛り付け、利益を生み出し続けさせることが不可能だと、彼自身が理解しているからだ。桐生家だけでも、本気で潰しにかかってくれば、組織にとっては大きな痛手となる。ましてや、旭の母方の祖父は国際的な裏社会にも強い影響力を持ち、加えて、言吾の一葉に対する執着を考えれば、彼が桐生家と手を組むことは火を見るより明らかだった。烈こそが、本来の獅子堂家の当主であるにもかかわらず、今の彼にはその正体を明かすことができない。つまり、表向きの「獅子堂家」は敵に回るということだ。それは即ち、間もなく、桐生家、獅子堂家、そして旭の母方の一族という三つの強大な勢力が、総力を挙げて一葉の捜索に乗り出し、自分たちに牙を剥くことを意味していた。非合法な道を歩み、いずれの国家主権も及ばぬこの地に拠点を構えているとはいえ、彼らが本気になれば、あらゆる手段で組織のビジネスを妨害してくるだろう。たった一人の研究者のために、他の巨大な利権を危険に晒すのは、あまりにも割に合わないのだ。痩身の男はその言葉を聞き、一葉を取り巻く人間関係が確かに厄介であることを認め、もはや自説に固執することはなかった。「さすがはボス、抜かりがねえな」「すぐに手配させる。そうだな……この数日のうちにだ。どうせ今の彼女は研究どころじゃねえだろうし、さっさとガキを堕ろさせりゃ、その分回復も早まって、早く研究に集中できる」一時的にしか留めておけない上に、これほど巨大な厄介事を抱えているのだ。痩身の男としても、一葉に
「それに……あなたがご懐妊されていることも、伺っております。たとえ深水さんのためでなくとも、お腹のお子さんのために、全力を尽くすべきでしょう。もしあなたが研究チームを率い、我々の目標を達成してくださるのであれば……我々は直ちに深水さんを解放し、あなたも、そしてあなたのお子さんも、自由の身にすることをお約束します。そればかりか、開発した特許の利益を、あなたと無制限に分配したって構わない。ですが……もしあなたが、いつまでも真剣に取り組んでくださらないというのであれば……我々も残念ながら、あなたから一つ、また一つと、大切なものを奪っていくしかありません。例えば、まずはお腹のお子さんから、失っていただくとかね」男は、あれほど知的で、書斎の香りがするような柔和な人物に見えたのに、その口から紡がれる言葉は、一つ、また一つと、氷のように冷たく、人の心を凍らせる。その声は骨の髄まで染み渡り、一葉を戦慄させた。毒蛇のように陰湿な本性を剥き出しにした男を、一葉はただ黙って見つめ返すことしかできなかった。きつく、きつく、着ている衣服の裾を握りしめる。脅しの言葉を全て吐き出し終えると、男は再び、あの温和な笑みを浮かべた。「青山さん、長旅でお疲れでしょう。部屋までお送りします」「ゆっくりお休みになれば、きっと、最も正しいご決断をされるものと信じておりますよ」一葉が部屋に送り返された、その直後のことだった。先ほどまでガラス張りの無菌室で無数の管に繋がれ、瀕死の状態を装っていた男――獅子堂烈は、億劫そうに身を起こすと、体に貼り付けられていた偽物の管を、無造作に引き剥がした。彼が自室のオフィスへ戻って、間もなく。先ほど一葉を案内していた、あの痩身の男が入室してきた。「さすがはボスだ」痩身の男は、椅子に気怠く背を預け、葉巻を燻らせる烈に向かって、親指を立ててみせた。椅子の背にもたれかかったまま、烈は悪戯っぽく笑い、男へ向けて葉巻を一本放り投げる。「あの女をしっかり見張っておけ。研究が成功しさえすれば、俺たちの計画は、少なくとも数年は前倒しできる」痩身の男は投げられた葉巻を受け取ると、にやりと笑った。「当然だ」葉巻に火をつけ、一口吸い込んだ後、痩身の男は何かを思い出したように烈に視線を向けた。「ボス、万が一、あの女が口先だけで、本気で研究
一葉が怯える様子を見て、男はさらに人好きのする笑みを深めた。「青山さん、どうか怖がらないでください。我々はあなたを傷つけるためにここへお招きしたわけではないのです」「ご存じでしょうが、我々はただ、あなたの研究成果に深く感銘を受けましてね。ぜひともあなたのお力をお借りして、新たな成果を生み出し、ひいては全人類に貢献したいと、そう願っているだけなのです」一葉が何か言葉を発するより早く、男は畳みかけた。「……もっとも、今はそれどころではありませんよね。青山さんがご心配なのは、あなたと共に連れてこられた深水言吾さんのことでしょう」言吾の名を聞いた途端、薬の影響でまだ朦朧としていた一葉の意識が、一瞬にして覚醒する。自分を庇い、血の海に倒れた彼の姿が脳裏に焼き付いていた。彼女は焦燥に駆られ、思わず一歩踏み出した。「彼はどうなったの!」男は心底残念だと言わんばかりの、同情的な眼差しを一葉に向けた。「大変申し訳ないのですが、我々の者が少々手荒な真似をしましてね……あなたと深水さんをこちらへお連れする際、彼に重傷を負わせてしまったのです。今も意識が戻っておりません」その言葉に、一葉は固く握りしめていた拳に、さらに強く力を込めた。この犯罪組織に協力するなど、心の底から御免だったが、そんな葛藤は言吾の命の前では些細なことだった。自分のせいで彼の身に何かあってはならない。「言吾を獅子堂家に返しなさい……そうすれば、あなたたちの言うことは何でも聞くわ」一葉の言葉を聞いた男は、穏やかで、それでいて困ったように微笑んだ。「申し訳ありません、青山さん。それはできかねます。深水さんを生かしたいのであれば……我々が望む『脳活性化チップ』を、可及的速やかに開発していただく必要があります」「『それは難しい』とか、『時間がかかる』などとは仰らないでくださいね。あなたがこの分野で大きなブレークスルーを果たしていることは、我々も承知しています。ここには最新鋭の設備も、各分野の優秀な研究者も揃っている。あなたほどの才能があれば、すぐにでも完成できると信じていますよ。深水さんがいつ目覚めるか、そして生き永らえることができるかどうかは……全て、あなた次第なのですよ、青山さん」一葉の頭に、彼らの真の狙いが電流のように突き刺さった。科学研究というものは、そもそも困難な道のり
「奴は、あの犯罪組織とグルだ!それどころか、かつて一葉と桐山先生が組織に誘拐された事件も、すべて奴が裏で糸を引いていたに違いない!」烈が生きている、という疑念を抱いた瞬間から、言吾の頭の中では、過去の出来事のすべてが恐ろしい符合を見せ始めていた。一葉たちが誘拐されたあの日から、自分が公海の豪華客船に辿り着くまで、すべては烈によって周到に仕組まれた筋書きだったのだ、と。そうでなければ、初対面の相手のために、あそこまで手の込んだ偽装死の芝居を打てるはずがない。慎也は、ここ二年ほどの、あの犯罪組織の活動スタイルの変化を思い返す。そして、本国へ勢力を浸透させてきたその驚異的な速さを。考えれば考えるほど、言吾の言う通り、烈は死んでいないという可能性が現実味を帯びてくる。ただ、腑に落ちない。獅子堂家の跡継ぎとして、烈は既に富も名声もすべて手にしていたはずだ。当時、彼の妻は身重でさえあった。なぜ、仮死などという手段を選ぶ必要があったのか。そこに、一体どんな利点があるというのだ。言吾に跡継ぎの座を奪われ、すべてを失うことを恐れなかったのだろうか。そう考えた時、慎也はふと気づく。言吾が今、烈として生きているという、その事実に。言吾の名義になっている株も、資産も、そのすべてが、法的には烈のものなのだ。烈が戻りたいと望めば、話は単純だ。言吾が消えさえすればいい。いや、たとえ言吾が消えなくとも、彼が「奇跡的に生還した」と宣言するだけで、獅子堂家の両親の彼への偏愛を考えれば、獅子堂家のすべては、再び彼の手に戻る。要するに、仮死は彼に、外での自由気ままな時間を与えてくれる。そして、気が向けば戻ってくるだけで、彼のものは彼のもののまま。その間、言吾は、ただ彼のために身を粉にして働く、哀れな駒でしかないのだ。そこまで考え、慎也は言吾に同情を禁じ得なかった。慎也も言吾も、常人離れした頭脳の持ち主だ。慎也に思い至れることならば、言吾がとうに気づいていないはずはなかった。だからこそ、彼は自分の人生そのものが、一つの茶番劇に過ぎないと自嘲するのだ。ただ、生まれた時に母親に陣痛を与えたというだけで、「生まれながらの悪魔」という烙印を押され、躊躇いもなく捨てられた。育ての母の体調が悪いのは自分のせいだと信じ、半生を罪悪感に苛まれてきた。だが、
慎也のただならぬ様子に、言吾は眉をひそめ、何かよからぬことが起きたのだと本能的に察した。「どうした?一葉に何かあったのか」言吾は元々、一葉の身を案じて人知れず護衛をつけていた。だが、彼女が慎也と婚約してからは、二人の関係を慮り、その者たちを引き揚げさせていたのだ。そのため、彼女が姿を消したことを、彼はまだ知らなかった。ただ、慎也の切迫した様子から、一葉の身に何かがあったのだと推測したに過ぎない。男のことは、男が一番よくわかる。言吾には、慎也が一葉に本気で惚れ込んでいるからこそ、結婚を望んだのだということが見て取れた。その慎也がこれほど取り乱し、自分の元を訪ねてくるからには、一葉に関わることに違いない!慎也は強い男だが、面子に固執するようなつまらない男ではなかった。言吾が恋敵であるからといって、無駄なプライドを優先し、一葉を危険に晒してまで協力を拒むような男ではない。「一葉が……消えたんだ」心のどこかで覚悟はしていたものの、慎也の言葉に、言吾の心臓は鷲掴みにされたかのように軋んだ。「どういうことだ」焦燥に駆られた声で、言吾は問うた。「昨日の夕方、携帯だけを持って屋敷を出たきり、戻っていないと使用人が」言吾が何かを言う前に、慎也は続けた。「彼女は組織に狙われている。だからここ最近は、どこへ行くにも大勢のボディガードを連れていた。そんな彼女が、たった一人で会いに行く相手だ。よほど親しく、絶対に自分を傷つけないと信頼している人間に違いない。あんた以外に、一葉がそこまで安心して一人で会いに行くような相手がいるか。……心当たりは?」慎也は知っていた。十代の頃から一葉を知る言吾こそが、彼女の交友関係を最も詳しく把握しているはずだと。言吾はすぐさま思考を巡らせた。一葉の交友関係は、決して広くはない。自分を除けば、彼女が心を許しているのは、親友の千陽、祖母の紗江子、そして恩師である桐山教授。兄の哲也も、その一人と言えるかもしれない。千陽たちが一葉を傷つけることなど、万に一つもない。だとすれば、最も可能性が高いのは……哲也か。言吾がその名を口にする前に、慎也が遮った。「哲也じゃない。そいつは調べさせた」一葉の行方が掴めず、犯人が顔見知りだと判断した慎也は、真っ先に言吾を疑う一方で、同時に哲也の身辺調査も命じてい