LOGIN夫の初恋の人は、もう助からない病気にかかっていた。 夫の神谷雅臣(かみや まさおみ)はよく星野星(ほしの ほし)に向かってこう言った。「星、清子にはもう長くはないんだ。彼女と張り合うな」 初恋の人の最期の願いを叶えるため、雅臣は清子と共に各地を巡り、美しい景色を二人で眺めた。 挙句の果てには、星との結婚式を、小林清子(こばやし きよこ)に譲ってしまったのだ。 5歳になる星の息子でさえ、清子の足にしがみついて離れなかった。 「綺麗な姉ちゃんの方がママよりずっと好き。どうして綺麗な姉ちゃんがママじゃないの?」 星は身を引くことを決意し、離婚届にサインして、振り返ることなく去っていった。 その後、元夫と子供が彼女の前に跪いていた。元夫は後悔の念に苛まれ、息子は涙を流していた。 「星(ママ)、本当に俺(僕)たちのこと、捨てちゃうのか?」 その時、一人のイケメンが星の腰に腕を回した。 「星、こんなところで何をしているんだ?息子が家で待っているぞ。ミルクをあげないと」
View More彩香はまだ何か言いたげだったが、ふと横目に仁志の姿が入った。彼女は立ち上がり、星に声をかけた。「星、外で話そう」ふたりは病室を出て、静かに扉を閉めた。彩香は小声で説得する。「星、気持ちは分かるよ。こんな目に遭わされて、あなたが怒るのは当然だわ。でも、雅臣がS市でどれだけの力を持っているか、あなたも分かってるでしょう?影斗がいても、清子の黒歴史を公開したら、きっとすぐに揉み消される。一度警戒させたら、清子の音楽会の直前に何か仕掛けるのなんて......そう簡単にはできなくなるわ」彩香はちらりと病室の方を見て、声を落とした。「あなたが身近な人を守りたいのは分かる。でも、数日の差で結果は変わる。それなら今は無理に動かず、まず仁志の嘘のスキャンダルをどうにか落ち着かせる方がいい。......まずは、あのセレブたちを見つけて、弁護士を入れて訴えましょう」しかし星は首を振った。「仁志は記憶をなくしているわ。過去が本当かどうか、私たちには確かめようがないわ」彩香はため息をついた。「......まあ、それもそうね」星は続けた。「しかも、今は雅臣が火に油を注いでる。簡単に鎮火するとは思えないわ」ふたりの声は大きくはなかったが、仁志にはひとつ残らず聞こえていた。――星は、自分のために清子の黒歴史を早めに暴くつもりなのか。――自分のために、雅臣に反撃しようとしているのか。そう思った瞬間、仁志の胸の奥で、何かが熱く跳ねた。死んだように沈んでいた心臓が、久しく感じたことのない速度で脈打つ。――これが、「誰かに大切に思われる」という感覚。その瞬間、彼はふと理解したような気がした。なぜ清子が、あれほど幼稚で必死な手段を使って、雅臣の注意を引こうとしたのか。......確かに、この感覚は人を夢中にさせる。病室の外で話し終え、彩香は星に説得される形になった。今の星の人気は絶頂。雅臣が抑え込もうとしても、以前ほど簡単ではない。星が実名で清子の闇を暴けば、確実に話題になり炎上する。ただし――それは星にとって危険でもあった。彩香は提案した。「星......だったら、私のアカウントで出すのはどう?私はあなたのマネージャーだし、私が代わりに言ってるって
航平は、星が何を気にしているか、痛いほど理解していた。清子――その存在は、星の胸に刺さったまま抜けない一本の棘。だからこそあのとき、星がどれだけ清子に濡れ衣を着せられ、陥れられていても、航平は決定的な証拠を出さず、星の無実を明かさなかった。夫が別の女ばかりかばう姿。それを星自身に見せつけなければ、彼女は雅臣を本気で見限らなかっただろうからだ。星は少し考え込んだ。「2人が知り合いかどうかは分からない。でも......少なくとも、私の情報が流れたことは一度もないわ。むしろ仁志は、この期間、何度も私を助けてくれた」航平は静かに言う。「それも仕込みかもしれない。わざと信頼させるための自作自演、という可能性もある」星は人を悪意で裁くような考え方を、極力したくなかった。しかし、航平の言葉にも一理あった。かつて誠一に信頼を裏切られたときも、最初は同じように気を許してしまったのだ。星は航平の好意を感じ取り、静かに答えた。「わかった。気をつけるわ」航平は優しく笑って、それ以上は踏み込まなかった。深入りすれば、彼女が反感を抱く――そのラインを、彼は熟知していた。話題は変わる。「星、雅臣の件......どうするつもりだ?」星が仁志を信じるなら――星と雅臣の溝を、決定的に深める方向へ導くしかない。そして、もし星が仁志さえも追い出せば、それは彼にとって最高の展開だ。星は冷ややかに笑った。「この時期に仁志の悪い噂を流したんだから......清子の黒歴史を全部出されても、文句は言えないわよね」彼女の手元には、清子に関する決定的な証拠が山ほどある。清子など、航平にとっては星と雅臣を壊すための道具でしかない。どうなろうと興味はない。航平はむしろ穏やかに言った。「星、私も清子が君を陥れた証拠をいくつか持ってる。あとで送るよ」星は微笑んだ。「ありがとう」――――カフェを出たあと、星は病院へ戻った。病室では、仁志がゲームをしていて、彩香は動画を見ていた。星の姿を見ると、彩香が顔を上げる。「星、どうだった?やっぱり雅臣の仕業?」星は頷いた。「ええ、もう確定したわ」ゲームをしていた仁志の指が、ふっと止まった。彩香が続ける。「
店員がコーヒーを置いていったあと、航平はようやく口を開いた。「星、君たち......仁志の件を調べてるんだろ?」仁志は今、星の側で働くアシスタントだ。そんな彼が巻き込まれた以上、星が黙っているはずがない。星は静かに頷いた。航平が続ける。「何か掴んだのか?」星は即答しなかった。言うべきかどうか迷っていた、そのとき――航平が声を潜める。「......もしかして、雅臣が関わってるんじゃないか?」星の目がわずかに揺れた。「航平......あなた、何か知ってるの?」航平は重々しくうなずく。「――あれは、勇が雅臣に持ちかけた策だ。勇は口が軽いから、昨日うっかり漏らしたんだ」彼は星の反応を探るように、静かに観察しながら言葉を続ける。「最初の計画は交通事故を装って、仁志を消すこと。運よく彼が生き延びたから、次の手に移ったんだ。仁志に悪い噂をぶつければ――君の性格なら、そんな男を絶対にそばに置かない。狙いはそれだ」星は冷笑した。「雅臣......本当に私のことはよく分かってるのね」航平はカップを持ち上げ、視線を伏せて、目の奥の光を隠す。「勇の話じゃ、あの噂は完全な捏造ってわけでもないらしい」航平はちらりと星を見る。「火のないところに煙は立たないだろ?仁志は素性も分からず、身元も調べられない。もしかしたら......」「仁志はそんな人じゃないわ」星はきっぱり遮った。航平の目が細くなる。「星......そこまで信じるのか?」「彼を信じてるんじゃない。私の目で見てきたものを信じてるの」航平の呼吸が、わずかに乱れる。「でもな、星......目に映るものが、本物とは限らない。全部演技の可能性だってあるんだ!」星は驚いたように航平を見る。「もし彼が本当に金目当てなら、真っ先に私を狙うはずよ。でも、彼からそんな気配は一度も感じなかった」星の声は静かだが、確信に満ちていた。「私にも、彩香にも、凛にも、仁志は一線を越えたことがない。翔太や怜くんへの接し方だって、何も問題はない」航平はコーヒーをひと口飲み、気持ちを押し殺す。「.....それだけでは言い切れない。彼が普通じゃないことは、君だって気づいてるはずだ」星は言葉
彩香は肩をすくめるように笑った。「雅臣は、勇を庇ってばかりで、自分の尻拭いに追われてるわ。ほんと、毎回てんやわんやよ」仁志は静かに問う。「でも......鈴木さんと神谷さん、それに山田さんは幼馴染ですよね?それを裏切れる人を、本当に信じていいんですか?」彩香は即座に否定した。「航平は裏切ったわけじゃない。雅臣と勇のやり口があまりに下劣で、見ていられなかったのよ。それに翔太くんのためでもあるわ。彼は、星が傷つくところを見たくなかったの」彩香は淡々と続ける。「航平が星を手助けしても、勇が実害を受けたわけじゃないしね。この前、勇が朝陽に狙われた時なんて、航平は真っ先に助けに行ったし、雅臣にも説得して動かせたのよ。親友には親友なりの義理は通してる人だから」その言葉に、仁志はしばらく沈黙した。……その頃。病院の廊下では、星が航平の電話に出ていた。「星、今日時間ある?君に伝えたいことがある」彼は声を潜める。「仁志の件だ」星は数秒黙り、落ち着いた声で答えた。「分かったわ。いつものカフェで?」「うん。待ってる」星は彩香と仁志に、ひと言断りを入れて病院を出た。カフェに着くと、なんと航平はすでに席についていた。星より早いなんて珍しい。航平は立ち上がり、紳士的に椅子を引いた。「星、ハリーを破って優勝したんだってな。おめでとう」そう言って、テーブルに置かれた包装の美しい箱を差し出した。「これは、勝利のお祝いだ」二人の距離は長い年月で自然と近かった。星は迷いなく受け取る。「ありがとう」航平が言う。「開けてみて?」促され、星は包装を丁寧にほどく。中から現れたのは――若い女性ヴァイオリニストを象った、水晶のオルゴール。繊細で、どこか懐かしい光を放つ。スイッチを入れると――流れ出したのは、あの白い月光。オルゴールの中の女性は、弦を引くようにゆっくりと動き出す。その顔は、驚くほどに精巧だった。「......これ、私?」星が呟くと、航平は目を細めて言う。「ああ。出張で見つけた彫刻師に頼んだんだ。気に入ってくれたら嬉しい」星は目を輝かせ、そっと持ち上げた。手元のモデルヴァイオリンに気づき
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