LOGIN夫の初恋の人は、もう助からない病気にかかっていた。 夫の神谷雅臣(かみや まさおみ)はよく星野星(ほしの ほし)に向かってこう言った。「星、清子にはもう長くはないんだ。彼女と張り合うな」 初恋の人の最期の願いを叶えるため、雅臣は清子と共に各地を巡り、美しい景色を二人で眺めた。 挙句の果てには、星との結婚式を、小林清子(こばやし きよこ)に譲ってしまったのだ。 5歳になる星の息子でさえ、清子の足にしがみついて離れなかった。 「綺麗な姉ちゃんの方がママよりずっと好き。どうして綺麗な姉ちゃんがママじゃないの?」 星は身を引くことを決意し、離婚届にサインして、振り返ることなく去っていった。 その後、元夫と子供が彼女の前に跪いていた。元夫は後悔の念に苛まれ、息子は涙を流していた。 「星(ママ)、本当に俺(僕)たちのこと、捨てちゃうのか?」 その時、一人のイケメンが星の腰に腕を回した。 「星、こんなところで何をしているんだ?息子が家で待っているぞ。ミルクをあげないと」
View Moreその瞬間、会場にいる令嬢たちの多くが、羨望の眼差しで星を見つめていた。誰かが小声で囁く。「星って、ずっと外にいたのに……完全にみんなに可愛がられてるよね。雲井家に株を10%貰って、しかも元々の原株も持ってる。それで今度は星野家まで10%譲るって。この街の社交界の令嬢で、ここまでの待遇、そうそうないでしょ?」別の声が続く。「明日香って、派手で完璧そうに見えるけど、雲井家で育ったのに、ずっと雲井グループに入れてもらえてなかったよね。星が戻ってから、やっとついでみたいに雲井グループへ入った。そう考えると、雲井家って明日香にはそこまでじゃない?」「結局、明日香は駒なんじゃない?あれだけ優秀に育てて、実態は政略結婚の道具。外に差別してるって言われたくないから、仕方なく雲井グループに入れただけだと思う」「そう聞くと、明日香も可哀想かも。星が戻った瞬間、愛され枠を総取りで、明日香は星の残り物を拾うしかないんだもん」あちこちから好き勝手な囁きが飛び、ほとんどが羨望と嫉妬だった。いま、星が手にしているものは、将来の後継者である靖に比べても、見劣りしない。星野おばあ様に名を呼ばれた瞬間、星のまぶたが理由もなく跳ね上がった。突然の話に、喜びは一切湧かない。その様子に気づいた仁志が、低い声で言う。「星野さん。どういうことですか?」星は小さく答えた。「分からない。星野家から事前に何も聞いてない」仁志の黒い瞳が、深く沈む。雲井家の人間もこの件を知らない。星がその場で動かないのを見て、靖が促す。「星、何をぼんやりしてるんだ?上がっておばあ様にお礼を言ってこい」靖にとって、星野家の株など大したものではない。けれど、あの利己的な星野家が株を渡すというのは、星へ少しは本心がある――そう見えなくもない。数秒後、星は足を踏み出し、壇上へ向かう。その背に、仁志がふいに声をかける。「星野さん」星が振り返る。仁志は短く言った。「気をつけてください」星は頷いた。ほどなく、星は星野おばあ様の隣に立つ。星野おばあ様は彼女の手を取り、慈しみに満ちた笑みを浮かべる。「星、今まで苦労したね」そう言いながら、星野おばあ様は横のトレーから一通の書類を手に取る。「星、これが星野グループの株式譲渡契約書だよ。ここにサインをすれば、星野グループの株10%はあ
綾羽が先に口を開いた。「司馬さん、どうしてお一人でお酒を飲んでいらっしゃるんですか?」怜央はグラスを持つ手を、ほんの一瞬止めた。ゆっくりまぶたを上げ、冷えた声で言う。「お二人とも。何か用か」綾羽は思わず息を呑んだ。怜央が、明日香にこんな態度を取るのを見たことがない。明日香の呼吸が、かすかに詰まる。指先が無意識に、ぎゅっと握りしめられた。覚悟していたはずなのに――その冷たさは、やはり胸に刺さる。綾羽はすぐ表情を整え、笑って言った。「いえ、用事というほどでは。しばらくお目にかかれなかったので、ご挨拶に」怜央は淡々と返す。「雲井さんとは、今はただの知ってる他人だ。俺は静かにしていたい。わざわざ挨拶に来る必要はない」綾羽の瞳に驚きが浮かぶ。明日香の笑みも、ゆっくり消えていった。怜央は、あまりにも率直に言い切った。彼女に残す体面など、最初からないと言わんばかりに。二人が言葉を失っていると、怜央が重ねて言う。「ほかに用は?」――露骨な退去の促しだった。明日香は無理に笑って頭を下げる。「特にありません。お休みのところ、失礼しました」綾羽は信じられない顔のまま、明日香に続いてその場を離れた。「明日香、どういうこと?怜央、急に別人みたいじゃない?」明日香は淡く答える。「……本当に、もう関わりたくないんじゃない?」綾羽は納得できない様子で言う。「本当に関わりたくないなら、どうしてあなたに株を渡すの?あれは退路よ。接点を残して、また会う口実を作ってるだけ」そして、もっともらしい結論に辿り着いたように目を輝かせた。「明日香、思わない?あの冷たさ、逆にわざとらしいって。きっと突き放して気を引いてるのよ。最近あなたが……私の叔父さんと近かったから。怜央、嫉妬してるんじゃない?」明日香の眉が、わずかに動く。「……そう、かな」綾羽は笑って畳みかけた。「星野家より重要な宴なんて山ほどあったのに、どれも出てない。それなのに、わざわざこの寿宴だけ来た。あなたのためじゃなきゃ何?」明日香は長く息を吐いた。「……もういい。私は司馬さんの気持ちを尊重する」綾羽は軽く笑う。「大丈夫。怜央がいなくても、私の叔父さんがいるじゃない」そして何か思い出したように声を落とした。「それでね、明日香。叔父さんが言ってたの。今日はあなたに、特別な大きな
雲井家の人間は、自分たちの立場を誇りに思っている。あまりに下品なやり方は、おそらくできない。けれど、星野家のように一度没落を味わい、もう一度頂点に戻りたい一族なら――追い詰められた末の最後の一手に出る可能性はある。星野おばあ様の寿宴当日。星はいつも通り、仁志を自分のエスコートとして連れてきた。会場の入口に着いたとき、星は気づく。今日の仁志は、普段よりもやけに寡黙だった。「仁志、今日どうしたの?具合悪い?」仁志は眉を寄せる。「理由は分かりません。今日は、どうも落ち着きません」「昨夜も眠れなかった?」「いいえ」気分の影響なのか、最近は不眠の発作も少しずつ落ち着いてきている。このままなら、そのうち普通の人と変わらなくなるかもしれない。宴会場に入ってから、仁志は隙を見て雅人に電話を入れた。朝陽の件が、どこまで進んでいるのか確認するためだ。雅人は言う。「いくつか障害があります。最近、朝陽が星野家と頻繁に接触しています。こちらも尾行は付けていますが、慎重すぎて、有用な情報が掴めていません」朝陽は、仁志の正体をすでに知っている。さらに、対応する時間も十分にあった。怜央の時のように、簡単に崩せる相手ではない。しかも、葛西先生と星の関係がある以上、使えない手段も多い。仁志は、星と葛西先生を敵同士にするわけにはいかない。せいぜい朝陽の立場を揺さぶる程度で、怜央のように腕を折ったり脚を折ったりはできない。本来なら時間をかける案件なのに、仁志は急げと言った。雅人は、このままでは要求された結果を出せないかもしれない――そう感じていた。仁志は少し考えてから言う。「今日の宴では、何か起きるかも」雅人が息を呑む。「仁志さん、情報筋は確かですか?」「ただの俺の予感だ。朝陽が、これほど沈黙していたのに、何もしないとは思えない。星野家と接触している。今日は星野おばあ様の寿宴。この宴が平穏で終わるとは思わない」「こちらで準備を?」「相手の狙いが分からない以上、動けば裏目に出る。もう少し様子を見る。連中が何を仕掛けるつもりか、見極める」……宴会ホールは金色の装飾に輝き、グラスの触れ合う音が絶えなかった。葛西家、志村家、川澄家、雲井家――主要な家の要人はすでに揃っている。その中に、怜央までいた。優芽利に、綾羽が小声で言う。
「え?俺は智子の彼氏だけど。お前たち、誰?」「は?智子の彼氏は俺だ。付き合ってもう三か月だぞ!」「ふざけるな。智子はとっくに別れたって言ってた!」「別れてない!一昨日だってホテル行っただろ!」「一昨日?智子は一昨日、うちに泊まってたけど?」「泊まった?!ありえない。俺、昨日は智子と一緒だった。しかも初めてだって言ってた!」若くて端正な男が六人。全員が智子の見舞いに来て、そして――全員が智子の彼氏だと分かった瞬間、廊下は一気に修羅場になった。彼らは、智子が最近付き合っていた男たち。彼女は一度に一人だけ、なんてことはしない。少なくとも二、三人は同時進行だ。バレかけたことは何度もあった。けれど口がうまい。甘くあやして、無垢なふりもできる。しかも乗り換えが早い。だから、ここまで派手に転覆したのは初めてだった。男たちは互いに状況を突き合わせ、揃って智子を睨みつける。奪われた側の女たちから逃げ出したばかりなのに、次は自分の彼氏たち。智子の顔は、ハチに刺されて片目が大きく腫れ、もう片方も腫れかけ。頬は赤く腫れて炎症を起こし、さらに女たちに叩かれ、引っかかれて――目も当てられない有様だった。さっきまでの可憐さなど、影も形もない。男たちは、その醜い姿に嫌悪を覚え、同情の欠片も湧かない。襟元を掴み、次々に問い詰める。智子は鼻水と涙でぐしゃぐしゃになり、これほど惨めな思いをしたことはなかっただろう。騒ぎが大きすぎて、見物人まで集まってきた。浮気の修羅場ほど、みんなが好きなものはない。床に散らばった露骨な写真を撮り、SNSに上げる者まで出てくる。……病院の向かい側で、怜央は退屈そうに双眼鏡を下ろした。こうなるのは最初から分かっていた。驚きもない。優芽利ですら相当な愚か者だと思っていたのに、まだ上がいた。あれだけ長い間、仁志に弄ばれ、ずっと見世物にされていたのに。病院でこれほど混乱が起きれば、すぐ通報が入る。病院を出たあと、仁志は星に言った。「星野さん。智子さんみたいな人間には、近づかないほうがいいんです」星は智子と会った回数も少なく、星野家にも彼女にも深い情はない。だからその言葉に、すぐ頷いた。「分かった。ただ、来週末は星野おばあ様の寿宴よ。私だけじゃなくて、雲井家も出席することになる」普段は星野家と距離を置け
男の体つきは引き締まり、すらりとした長身だった。彫刻のように整った顔立ちに、魅惑的な瞳が光を湛えている。眉間には色気が漂っていた。男の低く、そしてハスキーな声が響いた。「怜、また悪いことをしたな」しかし、男の子・榊怜(さかき れい)は小さく震え、星に抱きついた。星は怜を背中に隠れさせ、「あなたは、この子とどういう関係?」と尋ねた。男は、まるで今やっと星に気づいたように綺麗な眉をつり上げた。「どういう関係だって?もちろん、この子の父親だ」星は疑わしそうに彼を見た。「本当に?」男は不敵そうに笑った。「信用できないなら、警察を呼んで調査してもらおうか?」「いいわよ
「ごめんなさい、私ったら不注意で......漢方をあなたの服にかけちゃった......」「その上着、私が綺麗に洗うから」病室の外にいた星には、ふたりの表情は見えなかった。ただ、会話のひとつひとつが扉越しにはっきりと聞こえてくる。雅臣はしばらく黙っていたが、ようやく絞り出した声は、たったの三文字だった。「......大丈夫」その声には怒りも苛立ちも感じられず、淡々としていて、まるで汚れたのがただの布切れでもあるかのようだった。「最近、あなたがよく着ていたから、きっとお気に入りなんだと思ってたの。私が汚しちゃったんだから、責任を取らせて。ちゃんと綺麗にして返すから...
「殺人犯には死刑を!」女性たちは興奮状態になり、まるで今にでも星を引き裂きたいかのように恐ろしい形相で星を睨みつけていた。知らない人から見たら、星が彼女たちの親の仇だと思い込むだろう。彼女たちの様子を見て、星は彼女たちが清子のファンだと推測した。彼女は普段、あまりネットを見なかったので、清子に熱狂的なファンがいることを知らなかった。昨日、調べてみて初めて、清子のフォロワーが1000万人を超えていることを知った。清子の可憐な容姿とバイオリンの才能、さらに不治の病と闘いながら懸命に生きている姿は、多くの人の共感を呼んでいた。半年間で、清子の人気は、二流芸能人と肩並べられ
自分が血を流れるほどの怪我をしているというのに、雅臣は心配するどころか、「何が間違いだったか、分かってるのか?」と冷たく尋ねてきたのだ。街行く人でさえ、自分の様子を見たら心配になるのだろう。それなのに、夫である雅臣は、まだ自分の謝罪を待っていたのだ。星は、思わず笑ってしまった。雅臣は眉をひそめた。「何がおかしい?」星は額の血を拭ったが、服についた腐った野菜や卵液の跡が、彼女の惨めさを際立たせていた。「この5年間の私の苦労は、全て無駄だったのね」星は汚れをぬぐうことのをやめて、車内の雅臣を無表情で見つめて言った。「これがあなたが言ってた、私に後悔させる方法?ネット
Ratings
reviewsMore