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第7話

Aвтор: 癒し猫
「私……」

少し疲れている、と千尋が言いかけた瞬間、電話は突然切れた。

健太は千尋に目を向け、尋ねた。

「今夜も接待か?」

千尋は首を横に振る。

「わからないわ。何も言っていなかったから」

テーブルの料理にはほとんど手がつけられておらず、場の空気は和んでいた。

千尋はこの雰囲気を壊したくなかった。

急いでスマホを開き、征司に断りの連絡を入れようとしたが、健太に腕を強く掴まれた。

「おい、行かないなんて言うなよ」

健太が言った。

「俺の昇進の話かもしれないだろ?」

千尋が一瞬思い描いた穏やかな時間は、現実によって打ち砕かれた。

「あなたの頭の中、昇進のことしかないの?

私が疲れてるって、見てわからない?行きたくない。家でゆっくりしたいだけなのに」

健太は慌てて千尋をなだめ、その手を握りしめて優しく語りかける。

「千尋、ごめん。俺が悪い。俺が甲斐性なしだから……君にあんな男に頭を下げさせることになった。

でも、うちの今の状況は、わかってるだろ……本当に、他にどうしようもないんだ」

健太は千尋の後ろに回り込み、両手で彼女の肩を掴んで、揉みほぐしながら、耳元で囁くように言った。

「社長自ら電話してくるなんて、よっぽど大事な話のはずだ。

俺が昇進さえできれば、必ず自分の力で支社のマネージャーのポストを掴んでみせる。

そうなったら、君にもうこんな苦労はさせないから」

正直なところ、征司に「来い」と言われれば、千尋に断る選択肢はなかった。

健太のためではない。実家の借金を征司が肩代わりしてくれたからだ。

千尋には征司に対して大きな借りがあり、断る資格などなかった。

健太はまた、千尋を罪悪感と憐憫の感情が渦巻く結婚生活に引き戻そうとしている。

「『結婚してから苦労するのは、相手を見る目がなかったせいだ』とよく言うけれど、以前の千尋は冷静に相手を見ていたつもりだった」

しかし、最近の自分は次第に正気を失いつつある、と千尋は自覚していた。

車が「璃宮」に着く。

降りる直前、健太は千尋の手を強く握った。

「千尋、それと、例の件……しっかりチャンスを掴めよ」

チャンス?子供を作れない男が、子供を持つことに必死になるなんて、滑稽じゃないか。

千尋はむっとして尋ねた。

「彼が避妊するのに、どうやってチャンスを掴めって言うの?」

健太は意味深に千尋の胸のブローチを指差した。

「これで、ゴムに穴を開けるんだ」

千尋は一瞬、息をのんだ。

健太がこのブローチをつけさせたのは、そのためだったのか。

健太は必死に懇願するような口調で続けた。

「俺の人生なんて、もうこの先たかが知れてる。でも、君との間に子供ができれば、それで報われるんだ。

誰の子かなんてどうだっていい。君が産んでくれた子なら、俺はそれを自分の本当の息子として育てる。

頼むから、行ってくれ、千尋。苦労をかけるけど、頼む」

健太が「苦労をかける」と言うのを聞くたび、千尋の胸には嫌悪感がふつふつと湧き上がる。

千尋は思わず問い返した。

「本当に、他人の子供を自分の子として育てるのが平気なの?」

健太はまた力なくうなだれた。

「千尋、俺はもう男じゃないんだ。俺は……俺は男として失格なんだ……自分が情けなくて……」

健太は千尋にすがりついて泣き始めた。

その嗚咽に、千尋の心は締め付けられるようだった。

「もう、泣かないで」

千尋は健太の背中を優しくさすりながら、罪悪感を覚えて言った。

「私が言い過ぎたわ」

妻に不倫してほしい男なんているわけがない。

立場を置き換えてみれば、健太の気持ちも理解できなくはない。

健太は血の繋がりを気にしていないのではなく、そもそも彼自身には子供が作れないのだ。

健太は見栄っ張りで、自分が子供を作れないことを、絶対に他人に知られたくなかった。

だから、他の男を利用してでも子供を作り、世間体を保ちたかったのだ。

車が「璃宮」に着き、降りる間際に健太は再び千尋を抱きしめて念を押した。

「一番大事なことを忘れるなよ」

健太の切迫した眼差しを見て、千尋は健太がどれほど自分が妊娠することを望んでいるかを思い知った。

個室のドアを開けると、征司がゆったりとお茶を飲んでいた。

征司の視線が千尋に向けられ、下から上へとじっくりと眺めた。

征司の気を引くために、健太が選んだ非常に短い黒のスカート。

コートを脱ぐと白い脚があらわになり、千尋自身も思わずスカートの裾を少し下に引っ張った。

席に着くと、征司の手が当然のように彼女の太ももの上に置かれた。

「どうやって来た?」

千尋は視線をそらした。

「タクシーで」

「……」

征司は軽く軽く目を上げ、千尋が本当のことを言うのを待っていた。

千尋は窓の外に目をやった。

そこからはちょうど「璃宮」の正面玄関が見え、おそらく健太が千尋を送ってきたのを征司に見られたのだろう。

千尋はうつむいた。

「彼が送ってくれました」

「まったく君は」

征司のその、まるで歯がゆいといった口調は、この瞬間にあっては、妙に優しく響いた。

千尋の前の湯呑みに、征司がゆっくりとお茶を注いだ。

「外は寒い。温かいお茶でも飲んで暖まれ」

「ありがとうございます」

千尋は湯呑みを手に取り、一口すすった。

「例の件、どう考えた?」

征司が突然尋ねてきたので、千尋は何のことか分からなかった。

「何の件でしょう?」

「空港で、別れる時に言っただろう。離婚の話だ」

「えっと……それは……」

不意を突かれて、千尋は言葉に詰まった。

征司も千尋を急かす様子はなかった。

テーブルの上の湯呑みを見つめながら、千尋は考え込んだ。

白磁の湯呑は玉のように滑らかで紙のように薄く、温かみのある光沢を帯びていた。

それは、征司が人に与える印象――上品で穏やか、そして落ち着きと風格――によく似ていた。

征司の手が無造作に千尋の椅子の背もたれに置かれた。

「明日、離婚しろ」

相談ではなく、有無を言わせぬ要求だった。

「社長、申し訳ありませんが、お受けできません」

視界の端で、征司が足を千尋の方へ動かし、体も近づいてくるのが見えた。

「理解できないな。彼にそれほど執着するほどの価値があるのか?」

千尋にも理解できなかった。

なぜ征司がそこまでして自分に離婚を迫るのか。

千尋は思い切って言った。

「私は社長にとって、ただの遊び相手です。

『花に十日の紅なし』というではありませんか。

自分の立場はわきまえています。あなたは今、ただ新鮮さに惹かれているだけです。

どうして私のような人間にそこまで拘るのですか。

それに、もし私が離婚したら、あなたにとっては都合がいいでしょう。いつでも呼びつけられますから。

でも、私はどうなるの?

……離婚した女というレッテル以外に、この街には身寄りも頼る人もいません。

健太が私に安定した家庭を与え、細やかに世話をしてくれているのです。彼を見捨てることはできません」

千尋がそう言ったのは、征司が情にほだされて理解してくれることを期待したからではない。

一時的な気まぐれのために、自分の結婚生活を犠牲にさせるわけにはいかないと、征司に釘を刺したかったのだ。

千尋の答えは征司の予想通りだったようで、征司は表情を変えずに千尋にお茶を注ぎ続けた。

しかし、お茶が湯呑から溢れても、征司は手を止めなかった。

千尋はわずかに驚いて征司を見た。

「社長、お茶が……」

征司は言った。

「人間はこの湯呑と同じだ。どれだけ水が入るか、量には限りがある」

その目を見て、自分がその湯呑なのだと千尋は理解した。

自分の器をわきまえろ、と警告しているのだ。

「千尋」

征司はティーポットを置き、ティッシュを取ってゆっくりと手を拭いた。

「君が自分で離婚できないなら、俺が方法を考えてやろう」

「私は……」

千尋が断る間もなく、征司は手を上げ、彼女の目を見て言った。

「性のない結婚生活を守って、誰に見せるつもりだ?

健太は君の足を引っ張る以外に、何を与えられる?」

千尋は思わず口にした。

「愛です」

愛という言葉を聞いて、征司は唇をかすかに歪めた。

それは嘲笑ではなく、むしろ憐憫――あるいは当事者ゆえの迷いに対する諦めだった。

「あいつが君を愛していると?」

千尋は深く頷き、疑っていなかった。

「はい」

征司は顎で千尋のスマホを示した。

「今すぐ健太に電話しろ。迎えに来るように、と」

意味が分からなかったが、千尋は言われた通りにした。

もしかしたら、自分の拒絶に征司が腹を立て、早く追い払いたかったのかもしれない。

健太に電話をかけ、すぐに迎えに来るように伝えると、健太の声には不満の色が滲んでいた。

千尋がコートを着て帰ろうとすると、征司も立ち上がって一緒に出てきた。

二人は店の入り口に立っていた。

夜になって気温が下がり、少し肌寒い。

征司は千尋の手を取り、コートのポケットに入れた。

人に見られるのを恐れて千尋が手を引こうとすると、征司はそれを強く押さえつけた。

「社長」

千尋は警戒して周囲を見回した。

「見られたらまずいです」

征司は顔を横に向け、少し目を伏せて千尋を見下ろし、面白がるように言った。

「俺よりも、君の方が見られるのを恐れているんだろう?」

からかわれて、千尋はしばらく言葉が出なかった。

「……もし、取引先の方に、既婚女性と親密すぎるのを見られたら、会社の評判に悪影響が……」

征司は尋ねた。

「俺を心配しているのか、それとも君が怖いのか?」

知り合いに見られるのが怖いだなんて、言えるはずがない。

それは自ら面倒を招くだけだ。

「……社長のことを心配しています」

征司は見抜いていたが、何も言わなかった。

「安心しろ。ビジネスの世界では、誰もそんなことは気にしない。皆、利益しか見ていない」
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