ウェイターがランチをテーブルに運んできた。 若子は子どもを抱いたままでは食事がしづらい。 それを見た西也が、そっと言った。 「若子、俺が抱こうか?先に食べなよ」 「大丈夫。抱いたままでも食べられるし、この子はおとなしいから」 そう言いながら、若子は赤ん坊をしっかりと抱き直す。 ―ところが、その言葉が終わるや否や、赤ん坊が突然大きな声で泣き出した。 「えっ......!?」 予想外の反応に、彼女は慌てる。 「どうしたの?どこか痛い?それとも抱き方が悪いの?」 焦りながら腕の位置を変えてみるが、赤ん坊の泣き声は止まらない。 「お願い、泣かないで......」 必死にあやすが、泣き声はむしろ大きくなっていく。 西也はフォークとナイフを置き、すぐに彼女のそばに駆け寄った。 「若子、俺に抱かせて」 「大丈夫、私が泣き止ませるから!」 彼女は、小さな頬を撫でながら必死に語りかける。 「ねえ、お願いだから泣かないで......ママが悪かったなら謝るから......」 その声はかすかに掠れ、涙を堪えているのがわかった。 彼女自身も、もう泣きそうだった。 「大丈夫だ、俺があやせば、すぐに落ち着くよ」 「いや、あなたじゃダメ。私があやすの。私はこの子の母親なのに......どうして私が抱くと泣いちゃうの?こんなの、嫌...... 赤ちゃん、お願い、泣かないで......」 西也は、若子が今にも崩れそうになっているのを感じた。彼はそっと身を屈め、彼女の耳元で静かに囁いた。 「若子、みんな見てるよ。落ち着いて、帰ってから話そう。 それに、これは若子のせいじゃない。赤ちゃんって、そういうものだろ?俺が抱いてても泣く時は泣くし」 「......本当に?」 彼女は不安そうに西也を見上げる。 「本当だよ。ほら、さっきまでは平気だったじゃないか。一度俺に抱かせてみて?」 若子は、迷いながらも彼に赤ん坊を渡した。 西也は、赤ん坊をしっかりと抱き、慣れた手つきであやす。 その動作は、まるで何度も繰り返してきたかのように自然だった。 「ほら、大丈夫だろ?」 しばらくすると、赤ん坊は泣き止み、静かに彼の腕の中に収まる。 若子は小さく息を吐いた。 けれど、その目にはどうし
「違うよ。俺にとっては、これが『公平』なんだ」 西也は優しく言った。 「お前は俺の妻で、俺はこの子の父親だ。だから、父親として当然のことをするだけさ。お前とこの子を守るのは、俺の責任なんだから」 周りの客たちは、彼らの言葉こそ理解できなかったものの、西也の仕草や表情から、彼が妻を慰めていることは一目でわかった。 彼の優しさ、誠実さが伝わり、その場にいた人々は、羨望の眼差しを向けた。 西也は、腕の中の赤ん坊を優しく抱きしめる。 「いい子だな、ほら。ママはお前をとても愛してるんだぞ。でもね、ママはお前を産むのに本当に大変だったんだ。 命がけでお前を守ったんだから、少しは休ませてあげたいんだよ。 だから、次はママの腕の中でも泣かないであげてくれよ?そうしないと、ママが悲しんじゃうからな」 若子は、じっと西也を見つめた。 その姿は、まるで眩いほどの父性の象徴だった。 ―この人は、私の人生で、最も苦しい時にそばにいてくれた。 ―私がどんなに弱っていても、ずっと支えてくれた。 ―それどころか、この子の本当の父親ですらないのに、まるで実の息子のように優しく接してくれる...... 彼女は、出産前に不安に思っていたことを思い出した。 産後うつになったらどうしよう。 感情が不安定になったらどうしよう。 けれど、そのどれもが起こらなかった。 ―西也が、そばにいてくれたから。 この世界には、出産後に一人で育児をし、夫に気にも留められず、ひたすら耐えるしかない女性がたくさんいる。 でも、自分はそうではなかった。 それは、彼が支えてくれたから。 しかも― 彼はこの子の「本当の父親」ではないのに。 彼らは法的には夫婦だが、夫婦としての関係を築いたわけではなかった。 それでも、彼はここまでしてくれる。 若子の心が、張り詰めた糸のように、ぷつりと切れた。 「......ありがとう、私の旦那さま」 そう言って、彼の胸に飛び込んだ。 一瞬、西也の動きが止まった。 彼の腕の中にいる若子が、今、確かに言った。 「......今、何て言った?」 まるで自分の耳を疑うように、彼女を見下ろす。 若子の目には、涙が滲んでいた。 「西也は、私にあまりにも良くしてくれる......私
侑子は初めて若子を目にした。 ―彼女って、こんな人だったんだ。 初対面なのに、不思議と違和感はなかった。 鏡を見ているような感覚はないけれど、それでもどこか似ていると感じる。 けれど、若子のほうがずっと綺麗だった。 そして、彼女の隣にいる男性―優雅で洗練された雰囲気をまとい、圧倒的な存在感を放つその人は、若子を見つめる目にあふれんばかりの愛を宿していた。 侑子は若子がどんな人なのか知らない。 でも、目の前の光景を見るだけでわかる。 彼女は幸せな女性だ。 前夫には今も忘れられず、現在の夫には心から大切にされている。 ―いいな、羨ましい...... そう思ったのも束の間、さらなる驚きが彼女を襲った。 ―二人には、子どもがいる......? その事実を、修は何も言っていなかった。 誰からも聞かされていなかった。 ―もしかして、修も知らなかったの......? 侑子はそっと修の横顔をうかがった。 彼は完全に固まっていた。 目を大きく見開き、何かを信じられないかのように。 「藤沢さん......」 侑子はそっと彼の袖を引いた。 「ここを出ましょう?」 彼の様子が明らかにおかしかった。 このままだと、爆発してしまうかもしれない。 何より、彼がこんなにも愛していた人が、他の男と幸せそうにしている―それは、あまりにも強すぎる刺激だった。 しかし、修は動かなかった。 そのまま、じっと立ち尽くし、若子とその夫、そして彼の腕の中にいる幼い子どもを見つめ続けていた。 ちょうどそのとき、ウェイターが近づいてきた。 「お客様、ご予約はされていますか?」 「すみません、すぐに出ます」 侑子がそう答えて、もう一度修の袖を引く。 「藤沢さん、帰りましょう」 それでも修は動かなかった。 ただ、ひたすらに彼らを見つめ続ける。 特に―あの赤ちゃんを。 修の心が激しく揺れ動く。 ―まさか...... 子どもがいるなんて、思ってもみなかった。 彼らは、いつ子どもを......? 信じられない。 理解できない。 怒りと悲しみが混ざり合い、胸の奥からどうしようもない感情が溢れ出す。 絶望と衝撃が一気に押し寄せ、息が詰まるような感覚に襲われる。
「西也、大丈夫よ」 若子は焦る気持ちを抑えながら、そっと彼の背中をさすった。 「どこにも行かないから。私はずっとあなたのそばにいる。約束したでしょう?」 彼女は一度口にした約束を破ったことがない。これからも、それは変わらない。 西也の息が、徐々に落ち着きを取り戻していく。 そして、力強く彼女を抱きしめた。 「俺たち三人は、ずっと一緒だよな?」 若子は、逃げられないと悟りながらも、小さく頷いた。 「ええ......ずっと一緒」 医者から言われていた。 ―治療を終えたばかりの西也は、絶対に刺激を受けてはいけない。 特に治療から四十八時間は、感情の波を抑えることが最優先。 ―どうしてこんな時に修が来るの? 西也の状況を知っていて、わざと刺激しに来たの? 若子が動揺しているうちに、修はゆっくりと歩を進める。 まっすぐに―彼女の前へと。 息が詰まりそうなほどの重苦しい空気。 若子は涙に滲む視界の中で、彼を見上げた。 胸が痛む。 ずっと会えなかった彼が、今、目の前にいる。 だけど―どうして、このタイミングで? どうして......? 修は、拳を強く握りしめた。 憤りに満ちた目が、彼らを見つめる。 西也の腕の中、すやすやと眠る小さな赤ちゃん。 修は目をそらすことができなかった。 西也が、その小さな体をしっかりと抱いている。 ―パパ。 さっき聞こえた、その言葉が耳に突き刺さる。 若子と西也には、子どもがいる。 計算すればすぐにわかる。 彼らが離婚して、そう時間が経たないうちにできた子どもだ。 ―そういうことか。 修の頭の中で、何かが弾けた。 離婚してすぐに、こいつと関係を持ったってことか? あれだけ「何もない」なんて言っておきながら? 友達だなんて、笑わせる。 これが「ただの友達」だとでも? 子どもまでいるのに? アメリカで、家族三人。 幸せそうに暮らしていたんだな。 なのに、俺は― どれだけ苦しんできたと思ってる? あんなに愛していたのに、何も知らずに、一人で地獄に落ちていたのは俺だけか? ―バカみたいだ。 若子は、修の表情を見て、胸が締めつけられる。 彼の瞳に浮かぶのは、怒り? 悲しみ?
―この人、修とどういう関係? なぜ、こんなにも親しげなの? 若子は、目の前の光景に息を呑んだ。 修の腕が、侑子の腰に回されている。 そして、静かに口を開いた。 「まさか、こんなところで前妻に会うとはな。しかも、彼女の旦那と......彼らの子どもまで」 ―彼らの子ども? 若子の心に、鋭い痛みが走る。 修は......自分の子どもを拒絶したのに。 そのくせ、こうやって「彼らの子ども」だと言い放つなんて― 西也は、腕の中の子どもをしっかりと抱きしめながら、皮肉気に言った。 「確かに驚いたな。俺たち家族で食事に来ただけなのに、まさかお前らまでいるとは」 そして、修の隣にいる侑子をちらりと見て、ゆっくりと問いかける。 「で―その女性とどういう関係?」 修は一瞬だけ、目を細めた。 それから、何事もなかったかのように微笑む。 「俺の彼女だ」 侑子の心臓が、大きく跳ねた。 修が嘘をついているのは分かっている。演技だと理解している。でも、そんな言葉を聞かされたら、どうしても心が揺れてしまう。彼女は感じた。自分と修の距離がまた少し縮まったのだと。それがどれほど貴重なことか……一方、若子はその言葉を聞いた瞬間、まるで鋭い刃で心を刺されたような衝撃を受けていた。 ―修に、恋人がいる? それは、いつから? まさか、数ヶ月前に光莉が言っていた「誰か」が、この女だったの? あの時は、ただの噂だと思っていたのに― 若子は、侑子をまじまじと見つめる。 華奢で、どこか儚げな雰囲気を持つ女。 その姿が、ふと、かつての雅子と重なった。 ―そういうことね。 修の好みは、昔から変わらない。 西也は冷ややかに笑った。 「へえ、恋人ね。いいことじゃないか。みんな、それぞれの人生を歩んでいるわけだ」 そして、ふと目を細め、探るように言葉を続ける。 「それで―お前たちは、アメリカに何しに来た?」 その瞬間、侑子は修の腕が強張るのを感じた。 彼の指先が、腰に食い込むほどの力を込める。 冷静を装っているが、内心は怒りに震えているのだろう。 彼は限界だった。 その怒りを見せることすら、自分に許していないのだ。 侑子は、そっと修の胸に寄り添い、背中に手を回した。 「
若子は、わざと「二ヶ月」という言葉を強調した。 まるで、何かを皮肉るように。 ―二ヶ月。 あの時、修は出張と言いながら、実際には雅子と過ごしていた。 その事実を知ったのは、ずっと後になってからだった。 彼に怒りを覚えるたびに、過去の傷が鮮明に蘇る。 彼が彼女を裏切った瞬間、彼女を傷つけた出来事の一つひとつが― 「そうだな」 修は、冷ややかに微笑みながら言った。 「せっかくの旅行だ。俺は侑子とここで一ヶ月ほど過ごすつもりだ」 そして、若子の瞳をしっかりと捉えながら、続けた。 「どれだけ時間が経っても、俺たちはずっと一緒にいる。一生、離れない」 ―反撃だ。 修は、若子の皮肉に対して、同じように皮肉で返した。 彼女が過去を引きずるなら、彼もまた、その過去を突きつける。 あの時、彼は命を懸けて彼女を助けた。 しかし、若子は彼を捨て、西也を選んだ。 その瞬間、修にとっての「償い」は終わったのだ。 彼は、すべてを終わらせた。 もう、何も残っていないはずだった。 侑子は、修の言葉に驚きながらも、心のどこかで嬉しさを感じていた。 ―本当に、ずっと一緒にいてくれるの? 彼が本気かどうかはわからない。 だけど、一ヶ月―それだけの時間を、彼と過ごせるのなら、それでよかった。 西也が口元に皮肉な笑みを浮かべる。 「藤沢さん、ここのレストラン、予約が取りにくいんだけど、席は確保してあるのか?」 修は淡々と答えた。 「いいや。だから、侑子と別の店に行くつもりだ」 西也は、わずかに眉を上げ、わざとらしく笑う。 「だったら、一緒にどうだ?俺と若子の席は四人掛けだし、久しぶりに昔話でもしようじゃないか」 ―挑発。 修は目を細めた。 「記憶が戻ったのか?」 西也は、余裕の笑みを崩さずに言った。 「順調に治療が進んでね。少しずつ思い出してきたよ。特に、藤沢さんの『偉業』をな」 修は、口元をわずかに歪める。 「へえ......それはよかったな。俺も、お前の『功績』はしっかり覚えてるよ」 その言葉に、西也の唇に浮かんでいた笑みが、一瞬で凍りついた。修があのことを口にしないか、心配になった。 けれど、もし修がここで何かを言ったところで、何になる? たと
若子と修の席は、まっすぐ向かい合う形だった。 目を上げれば、互いの顔が見える。 しかし、侑子の背が若子側に向いているため、若子の視線は修にしか届かない。 そして―修もまた、ふと顔を上げ、彼女を見た。 心臓が跳ねる。 若子はすぐに視線をそらし、ナイフとフォークを動かし、無理やり食べ物を口に運んだ。 本当なら、美味しいはずの料理。 でも―喉を通るたびに、苦さが広がる。 なぜ? なぜ、こんなことになったの? あの人― あの、山田侑子という女性。 彼女は、修の「恋人」。 あんなに愛していると言っていたのに。 修は、結局、別の女と付き合っている。 若子は、怒るべきではなかった。 だって、彼女は西也と結婚したのだから。 でも― 彼女は「愛しているから」西也と結婚したわけではない。 一方で、修は? あの女と「恋愛」をしているのだろう。 ―もう、男なんて信じない。 若子は自分にそう言い聞かせる。 どんなに甘い言葉を並べたところで、彼らの愛は、いつか必ず変質する。 修を責めるつもりはない。 彼は、自由だ。 だが、胸の奥が痛む。 嫉妬なんて、するべきじゃないのに。 感情が、思うように抑えられない。 ―私たちは、そんなに縁がなかったの? 彼女は、そっと顔を上げた。 修の指が、優しく侑子の前髪を撫でている。 その仕草は、とても丁寧で、愛おしそうで― 若子の視線に気づいたのか、西也が小さくため息をついた。 「若子......別の席にしないか?」 「大丈夫」若子は無理に笑みを浮かべた。「席を変えなくてもいいよ。食べ終わってからでいい 。言葉は軽やかだったが、心は真逆だった。 痛い。 苦しい。 でも、平然を装うしかなかった。 西也の前で、余計な感情を見せるわけにはいかない。 それに、修とはもう終わった関係だ。 彼が誰とどんな関係になろうが、自分には関係のないこと。 そう―関係ないはずだった。苦しみは、ただ未練があることの証にすぎない。修はもう吹っ切れたように見えた。 でも、頭の中ではあの日の記憶が蘇る。 ―彼を、選ばなかったあの日。 選べなかった。 どちらを選んでも、後悔することがわかっていた。
―これは、かつて修と若子が愛した曲。 なのに今、その曲さえも別の女に捧げるというのか。 ......いいわ、本当に素晴らしい。 修、あんたって人は、どこまでも残酷ね。 桜井雅子に一曲。 山田侑子にも一曲。 誰にでも曲を与えられるのね。 お互い、もう忘れると決めたはずなのに。 なのに、まるで戦っているみたいに、互いに譲らず、互いに傷つけ合って。 けれど、最後に苦しむのは自分自身― 「綺麗な別れ」なんて、どこにもない。 骨の髄まで愛してしまったら、残るのは、生きるか死ぬかの痛みだけ。 テーブルを挟んだ向こうで、西也は若子の張り詰めた感情を感じ取っていた。 どれだけ平静を装っても、その震える想いは伝わってくる。 どんなに冷静を装っても、彼女の心が揺れていることを、西也は見逃さなかった。 もし本当に修に未練がないのなら、こんなに必死に感情を抑えようとはしない。 気にしているからこそ、感情が乱れるのだ。 ―曲が終わる。 若子の膝の上で握りしめた手は、小刻みに震えていた。 そのとき、修が立ち上がる。 彼は何事もなかったかのように席を離れ、洗面所へ向かって歩き出した。 その姿を、若子の視線が追う。 ―無意識に。 それを察した西也は、ふと目を細めた。 「若子、ちょっと赤ちゃんを抱いててくれる?」 「え?うん、もちろん」 西也は立ち上がり、慎重に赤ちゃんを若子の腕に預ける。 「すぐ戻るよ」 そう言って、彼もまた洗面所の方へ向かった。 修は洗面所の鏡の前に立つと、蛇口をひねり、勢いよく冷たい水を顔に浴びせた。 ......少しでも、冷静になれるように。 だが、まったく足りなかった。 あと少しで崩れそうだった。 あと一歩で、理性を失いそうだった。 水滴が頬を伝う。 鏡の中の自分は、今にも壊れそうな目をしていた。 そのとき― 「バタンッ」 扉が乱暴に閉じられた音に、修は振り返る。 そこに立っていたのは、西也だった。 修の眉間がピクリと動く。 西也は特に気にする素振りもなく、ゆっくりと手を洗いながら、鏡越しに自分の髪を整えた。 そして、ふと何気ない調子で言う。 「彼女と旅行か、随分楽しそうじゃないか」 修の拳が静かに握
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声
若子の赤い唇がほんの少し開き、震えるような吐息が漏れる。 修の顔は彼女の首元にうずめられていて、その呼吸はどんどん熱を帯びていった。 そのとき、ふいに、耳元から微かに女の声が聞こえた。 「修......ヴィンセントさんの手術、終わったの......?」 修の体がピタリと止まる。情熱の最中に―別の男の名前を、若子の口から聞いた。 胸の奥が、ズキンと痛んだ。 彼は無意識に、彼女の目を覗き込む。若子はまだ目を閉じたまま、目覚めてはいない。夢の中か、半分眠ったままか―今、彼女は何もわかっていない。 それなのに、彼女の意識はあの男に向いていた。 眠っていても、彼のことを気にしている。 修は、自分がとんでもない男に思えた。 どうしてこんなときに、彼女の隙をつくような真似をしてしまったんだ? もう十分、若子は傷ついているのに。 それでも― 目の前で、何も身につけていない愛する人が横たわっている。どうして、どうして自分を抑えきれなかったのか。 修は苦しげに目を閉じる。熱い一滴が、頬を伝って、若子の肌に落ちた。 最後に、深く息を吐いて、彼はそっとシーツを引き上げた。ふたりの身体を隠すように、ゆっくりと。 そして、彼女を胸に抱きしめ、頬にキスを落とし、耳元で優しく囁いた。 「まだだよ......手術は終わってない。だから今は、安心して眠って。終わったらちゃんと教えるから」 若子の身体は限界だった。恐怖と疲労で、もう目を開ける力も残っていない。今の距離の近さにも、彼女は何も気づいていない。 修は彼女を抱いたまま、じっと見つめ続けた。 その夜、修が何度キスをしたか、自分でも覚えていない。 夜明けが近づく頃、彼は小さくため息をついて、彼女の耳元で呟いた。 「若子......もし時間を巻き戻せるなら、どれだけよかったか。 俺に雅子がいなくて、お前に遠藤がいなくて、ただふたりきりだったなら、それだけでよかったのに」 ...... 朝の光が、病室の窓から差し込んできた。柔らかな陽光が、若子の上に優しく降り注ぐ。 その光は空気の中で舞うように踊り、淡い花びらのように彼女の肌に触れる。 黒くなめらかな髪は白い枕に流れ落ち、眉は月のように穏やかに弧を描き、整った顔立ちをふんわりと引き立てていた。
修の服はすっかり濡れてしまっていた。 けれど彼はもう気にすることなく、自分の服もすべて脱ぎ捨て、若子と一緒にシャワーを浴びた。ふたりの身体は湯気の中で寄り添い、ただ静かに時間が流れていく。 洗い終えたあと、修はタオルで若子の髪と体を丁寧に拭き、そっと抱き上げて病室のベッドへ運んだ。柔らかなシーツをかけると、彼女を優しく包み込むように寝かせる。 ベッドに横たわる若子。夜の街灯が窓から差し込み、彼女の体を淡く照らしていた。まるで彫刻のように整った顔立ち。透き通るような肌は、まるで宝石のような光を放っていて、一本一本際立った睫毛、そしてほんのり上向いた赤い唇― あまりにも美しくて、息を呑んだ。 部屋は静かで、ほんのり暖かい光に包まれていた。まるで幻想の中にいるようだった。 修の目には、愛しさと切なさが溢れていた。まるで星のように輝くその瞳は、彼女だけを映していた。 その眼差しは、心と心をつなぐ橋だった。 ―どれだけ、彼女に会いたかったか。 どれだけ、彼女を想い、苦しんできたか。 修の目は、彼女から一瞬たりとも離せなかった。呼吸ひとつさえ、彼女の存在を感じるためにあるような気がしていた。 こんな風に、ただ見つめ合うことが―どれだけ久しぶりだっただろう。 彼女のすべてが愛おしい。顔も、身体も、心も。たとえ、どれだけ傷つけられたとしても、それでも彼女を愛してしまう。 眠る彼女の顔を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。あたたかくて、幸せで、でも同時に―絶望的な痛みも伴っていた。 自分の想いは、もう届かないのかもしれない。 彼女の世界に、自分はもう居場所がないのかもしれない。 若子は―もう俺を、必要としていない。 その現実に、修はただ静かに彼女を見つめ続けた。 それでも。たとえ彼女に拒まれたとしても。 彼女の幸せを守れるなら、命だって惜しくない。 「若子......俺に、守らせてくれないか?お前の人生の中に、俺をいさせてくれないか?夫じゃなくてもいいんだ」 ―その瞳に、狂気のような光が宿っていく。 修は立ち上がり、病室の扉へ向かうと、鍵をガチリと閉めた。 再びベッドに戻ると、彼女を包んでいたシーツを、ゆっくりと、まるで宝物を扱うようにめくっていく。 その瞬間、彼女の姿がすべ
「修......頭がクラクラする......眠い......」 若子の声はかすれ、まるで力が抜けるようだった。 修の瞳に、やるせない悲しみが浮かぶ。彼女の疲労は、身体だけじゃない。心のほうが、もっと限界だった。 「大丈夫。眠っていいよ。あとは、俺に任せて」 修はそっと若子の頬を撫で、囁いた。 「修......彼を、死なせないで、お願い、彼は私の命の恩人なの......彼がいなかったら、私はもう......あの男たちに捕まって、ひどいことされて......彼は危険を顧みずに私を助けてくれて......銃まで......だから、お願い、お願い、生かして」 若子の目に涙が浮かび、その声は今にも消え入りそうだった。 「わかった、約束する。俺が必ず、彼を救ってみせる」 修は彼女をぎゅっと抱きしめ、その耳元で誓うように囁いた。 若子は少しだけ安心したように目を閉じる。 修は小さく息をつき、彼女の額に優しくキスを落とした。 「若子......お前をどうすればいいんだ」 他の男のことで傷ついて、泣いて、苦しんでいる彼女。それを慰めて、守ることを約束しなきゃいけないなんて― 修は自分にその資格がないことなんて、とうにわかっていた。離婚を言い出したのは、他でもない自分だ。彼女を傷つけたのも自分。 だから、若子が別の男の胸に飛び込んだって、文句なんて言える立場じゃない。それでも、胸が張り裂けそうだった。 彼女は、間違いなくあの頃のままの若子で、今、修の腕の中にいる。 そんな彼女を―どうして手放せるだろうか。 修の親指が、彼女のやわらかな口元をそっとなぞる。そして、思わず顔を近づけ、その唇にキスを落とした。 ......どれだけ、このキスを待ち望んでいたか。 キスをするとき、愛する相手がいるなら、目を閉じるものだという。けれど今の修は、目を閉じられなかった。 だって、見ていたかった。もっと、ずっと―彼女を。 ほんの一瞬でも目を閉じてしまったら、次に開けたとき、彼女がもうどこにもいない気がして、怖かった。 何度も唇を重ね、名残惜しそうに離れられずにいた。 この時間がずっと続けばいいのに。 以前、侑子にキスしたときは、目を閉じて若子の面影を思い描いていた。でも、違った。あの人は若子じゃない。 ―
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった