「お前、自分の本性を若子の前でどこまで隠し通せると思ってる?」 修の低い声が静かに響く。 「時間が経てば、いずれ彼女の前で素顔をさらすことになる。その時になったら―」 「素顔をさらす?」 西也は修の言葉を遮るように口を挟んだ。 「藤沢さんは本当に甘いね」 彼は薄く笑いながら続ける。 「俺と若子は夫婦だよ?もし俺が『ろくな奴』じゃなかったとして、それがどうした?彼女にとって大切なのは、俺が彼女に優しくすることだけだ」 西也の瞳に、強い自信が宿る。 「俺は世界中を裏切ったとしても、彼女だけは裏切らない」 その言葉が突き刺さる。 「お前とは違うんだぞ」 修の表情が強張る。 「お前は世界を裏切らなかった。でも―彼女を裏切った。そんなお前に、誰かを警告する資格があるのか?」修は何も言えなかった。それこそが、彼の唯一の「敗北」だから。 もしかしたら、若子にとっては、西也がどんな人間であろうと関係ないのかもしれない。 あるいは―最初から彼の本質を知っていて、それでも気にしていないのかもしれない。 修が沈黙したのを見て、西也は自分が優位に立ったことを確信した。一歩前に出て、ゆっくりと言う。「だから、お前があの件の真実を若子に伝えたところで無駄なんだ。彼女はお前の言葉を信じない。たとえ信じたとしても、俺には彼女に許してもらう方法がある。俺たちには子供がいる。彼女が、子供の父親を簡単に切り捨てられるとでも?」 「......真実?」 修の眉が微かに動く。 西也の目に、一瞬だけ疑念の光がよぎる。 「......お前、俺が何のことを言ってるかわかってるよな?」 「まさか、あのことか?」 修は静かに目を細めた。 「レストランで、お前が『俺に突き飛ばされた』と嘘をついたこと......そのことか?」 修は冷静な口調で言った。 「確かに、あの時、若子はお前を許したな。正直、驚いたよ。お前がそれほど彼女にとって大事な存在だったとはな」 西也の疑念はますます深まった。 ―こいつは本当に何も覚えていないのか? あの「事件」の日、若子は修を選ばなかった。 いや、それどころか―修を死なせようとした。 あの時、修は深く傷を負い、電話で助けを呼ぼうとした。 だ
―やっとわかった。 若子が西也を選んだ理由が。 彼女の中には、西也の子どもがいる。 だからこそ、彼女は子どもの父親を守る道を選んだ。 最初から、彼女の心は彼と共にあった。 繋がっていたのは二人の心で、自分はただの傍観者に過ぎなかったのだ。 それなのに、自分だけが愚かにも恋い焦がれ、命まで投げ出そうとしていた。 でも― 若子の心は、とうの昔に別の男のものだった。 彼女の身体も、心も、すべて最初から。 自分なんかじゃなかった。 修は、渾身の力を振り絞って、薄く笑ってみせる。 「俺は確かに死ななかった」 ゆっくりと、静かに言った。 「むしろ元気に生きてる......お前には残念だったかな?」 そして、挑発的に付け加える。 「どうだ、賭けをしないか?どっちが先に死ぬか―俺は絶対に、お前より先には死なない」 西也は片方の口角を持ち上げ、薄く笑った。 「賭ける必要なんてないさ」 「......ほう?」 「俺は絶対に長生きするよ」 西也の瞳が鋭く光る。 「若子と一緒に、白髪になるまで過ごす。俺たちの子どもの成長を見守り、孫を抱く。それが俺の未来だ」 修は、静かに一歩踏み出した。 二人の距離が縮まり、空気は張り詰める。 「......それなら、こっちも言っておこう」 修の声は低く、冷たい。 「若子はお前にくれてやる。俺はもういらない。俺には新しい女がいる。前に若子が選んだのがお前だったのは事実だし、それでお前は誇らしげだったよな? でもな、俺もあの選択には感謝してるんだ。おかげで、すべてがはっきりしたし、俺が本当に大切にすべき女に出会えたからな」 そう言うと、修は踵を返した。 西也の目が細くなる。 ―本当に? そんなはずがない。 修がこんなにあっさりと手放せるとは思えない。 この男には、もっと深く、もっと長く苦しんでほしい。 西也はゆっくりと振り返り、背中に向かって言い放つ。 「お前って本当に哀れな男だな。いつも虚勢を張るだけだ。 俺と若子の息子が大きくなったら、教えてやるさ―かつて彼の母親が、どれだけ卑劣で無能な男を愛していたのかってな」 次の瞬間― 修の拳が、迷いなく振り抜かれた。 西也の顔面に、強烈な一撃が叩き込まれる
若子は必死に感情を抑え込んだ。 「......あなたたちは、そんなふうに知り合ったのですね?」 「ええ」侑子はこくりと頷く。「そうです。あの日以来、私と修は何度も会うようになって......自然と一緒にいる時間が増えていきました」 その言葉に、若子の心が締め付けられる。 まるで胸の奥が引き裂かれるような痛みだった。 ―修があのとき傷ついていた。 その彼を救ったのが、目の前の女性だった。 ならば、二人がこうして結ばれるのも当然の流れだったのかもしれない。 侑子が修の命の恩人だということは、素直に感謝すべきことだった。 もし彼女がいなければ、修は本当に死んでいたかもしれないのだから。 あの時、自分が見た血の跡。修の姿が消えていたこと。 必死に探したけれど、どこにも見つからなかったこと― 彼は、救われていたのだ。 「......あなたと修の関係は、今どうなっているのですか?」 本当は聞いてはいけないとわかっていた。 それでも、若子はどうしても口にしてしまった。 侑子は、修の苦しむ姿を思い出した。 彼がどれほど追い詰められていたかを知っていた。 だからこそ、彼の尊厳を守るために、毅然とした態度をとった。 背筋を伸ばし、堂々と答える。 「私たちは恋人同士です......それ以外に何があるっていうんですか?」 若子の膝の上に置かれた手が、ぎゅっと服の裾を握りしめる。 「......つまり、あなたたちはすでに関係を持ったということですか?」 思わず、直接的な言葉が口をついて出た。 頭に血が上り、どうしてこんなことを聞いてしまったのか、自分でもわからなかった。 侑子の心臓が大きく跳ねる。 しかし、目の前の女性が修を顧みず、別の男性と幸せそうに暮らしていることを思い出すと、怒りが込み上げてくる。 修はあんなにも若子を想っていたのに。 彼女のために命まで投げ出そうとしたのに― それなのに、若子は修を捨て、別の男と家庭を築き、子供までいる。 そんな彼女に、修の痛みをわかる資格なんてあるのだろうか? そう思うと、侑子の胸の奥に湧き上がったのは、奇妙な対抗心だった。 「ええ、もちろんです」 侑子は、はっきりと言い切った。 「私たちは同じ屋根の下で暮らしていま
彼女と西也の間には、何もなかった。 西也は紳士だった。 決して無理強いをすることはなく、常に彼女を尊重していた。 若子が彼に対して申し訳なさを感じている理由のひとつは、そこにもあった。 「そうですね。この話はもうやめましょう」 侑子は満足げに微笑む。 「どうせ、あなたと修はもう終わったんですから。もう二度と、そんなことが起こることもないでしょうし」 まるで、これからは修が完全に自分のものだと宣言するような言葉だった。 若子は何も言わず、腕の中の子供の背をそっと撫でる。 侑子はその様子を見て、さらに続けた。 「松本さん、私はただ、もう彼を傷つけないでほしいんです」 若子は眉を寄せる。 「......私は彼を傷つけた覚えはありません。アメリカに来たのは、彼の方です」 偶然の旅行? 「たまたま」恋人を連れてやって来た? 「偶然」同じレストランで鉢合わせた? そんな都合のいい偶然なんて、本当にあるのだろうか? アメリカは広い。 それなのに、どうして彼はここにいるのか。 若子は、偶然を信じることはできても、修との間に起こることが「ただの偶然」だとは思えなかった。 もしかすると― 修は、侑子を連れて、わざとここに来たのかもしれない。 まるで、何かを見せつけるように。 「......私が言っているのは、そういうことではありません」 侑子の声が低くなる。 「この前、彼が大怪我を負ったのは、全部あなたのせいなんです」 その言葉に、若子は沈黙する。 その反応を見て、侑子は確信した。 ―あの謎の男が言っていたことは、本当だったのだ。 若子は、見た目こそ優しくて穏やかに見えるけれど、心の底では修を殺そうとしていたのかもしれない。 侑子は、心の奥で震えながら思った。 ―やっぱり、人は見かけによらない。 「......彼があなたに話したんですか?」 若子はぼんやりと呟いた。 彼女はもう、この出来事が一生ついて回ることを理解していた。 きっと、忘れることなんてできない。 修との間にあるこの亀裂は、埋めることも、癒やすこともできない。 彼らは夫婦に戻ることもできず、恋人に戻ることもできない。 いや、それどころか― 友人ですら、赤の他人ですらいら
「......私は彼を愛しています。彼は私のすべてなんです。彼のためなら何だってする。あなたに跪いてお願いすることだって、厭いません!」 「......」 若子の胸には、言葉にしきれない思いが渦巻いていた。 けれど、今さら何を言ったところで、すべては無意味だった。 何を言えるというのだろう? 自分と修の関係は、ここまでこじれてしまった。 もし目の前の女性が、彼に幸せをもたらせるのなら、それはそれでいいのかもしれない。 ―たとえ、自分の心が痛むとしても。 ―たとえ、この女が敵意を剥き出しにし、挑発してくるとしても。 それでも、修が幸せならば、それでいい。 彼は自分の子供の父親なのだから。 ......たとえ、彼がこの子を望んでいなかったとしても。 「山田さん、そうおっしゃるのなら......どうか、彼と幸せになってください。もう、私にこれ以上話すことはありません」 侑子は、食い下がるように問い詰める。 「つまり、修を解放するということですか?」 若子は、こめかみを押さえながらため息をついた。 「あなたの言い方だと、まるで私が彼に執着していて、命を狙っていたみたいですね......あなたは、私と彼の間に何があったか、本当に知っているんですか?」 言い終わらぬうちに、突然、店内に響く大きな声― 「うわっ、トイレで喧嘩してる!誰か来て!」 店の客らしき人物の叫び声だった。 「......喧嘩?」 若子の眉が鋭く寄る。 嫌な予感がした。 侑子の顔色も険しくなる。 二人は立ち上がり、急いで洗面所へと向かった。 すでに店のスタッフが駆けつけ、必死に二人の男を引き離そうとしていた。 修と西也― 二人の男は血相を変え、互いに殴り合い、服は引き裂かれ、顔には青あざができている。 壊れたドア、散乱した破片。 周囲のスタッフが体格の良い男たちを呼び、ようやく二人を押さえ込んだ。 それでも彼らはなおも暴れ、まるで相手を打ち倒さなければ気が済まないと言わんばかりだった。 すぐに、誰かが警察を呼んだ。 「修!」 洗面所の外で、二つの女性の声が同時に響いた。 それは、若子と侑子―二人が同時に呼んだ名前だった。 その瞬間、修と西也は動きを止め、若子の方を振り向い
「修!」 侑子は修のもとへ駆け寄ると、彼の顔を両手で包み込んだ。 「大丈夫なの?痛くないの?」 彼の傷ついた顔を心配そうに見つめながら、内心では安堵していた。 さっき若子が「修」と呼んだとき、一瞬、胸が凍りつくほど焦ったのだ。もしかして、これがきっかけで二人が復縁してしまうのではないか―?絶対に、そんなことは許せない。けれど、幸いにも若子が気にかけていたのは自分の夫のようだった。 修は侑子に抱きしめられたまま、ただ黙っていた。 まるで魂を抜かれたように、ぼんやりとして、どこか遠くを見つめている。 呆然とした表情は、まるで魂を抜かれたかのようだった。 若子は、その様子を見ながら、改めて思う。 ―この女性は、本当に修を愛しているのだな、と。 その愛情の強さが、ひしひしと伝わってくる。 若子は視線を西也に移し、そっと声をかけた。 「西也......大丈夫?」 修と同じく顔に傷を負っていたが、彼のほうが明らかにひどい状態だった。 彼はつい最近、治療を終えたばかりなのに...... 無理をして、また何か悪化するのではないかと心配になる。 「......平気だ」 西也は目を伏せ、彼を押さえていた男たちに向かって言う。 「もう離せ」 だが、スタッフは彼が再び暴れることを恐れ、すぐには手を離さなかった。 若子は彼らに向かって静かに言った。 「すみません、主人を放していただけますか?もう手は出しませんから」 その言葉を聞いて、ようやく男たちは彼を解放した。 西也は口元の血を拭いながら、小さく苦笑する。 「......心配かけてすまない。大丈夫、ただのかすり傷だ」 強がるその姿は、どこか痛々しかった。 若子はそんな彼にそっと微笑み、静かに提案する。 「......子供を抱いてあげて」 西也は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頷き、若子の腕からそっと子供を受け取った。 その様子を確認すると、若子は今度は修のほうへ向き直った。 「修......どうして、いつもこうなるの?」 その声には、怒りも、咎めるような強さもなかった。 ただ、静かに問いかける。 しかし、その穏やかさの奥には、深い悲しみが滲んでいた。 「なんだって?」 若子の視線が彼
しかし、彼の言葉を聞いた瞬間― 若子の心の奥底で、微かな「喜び」が生まれてしまった。 ―修は、まだ私を忘れられない? ―山田さんの存在も、ただの演技に過ぎない? そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。 けれど、それはすぐに消えた。 もう、すべては手遅れだった。 現実は、そんな淡い期待を許してくれない。 彼女と修の間には、埋めることのできない溝がある。 だから、彼を追い払うしかない。 残酷な言葉で、徹底的に傷つけるしかない。 「......修、西也を傷つけないと気が済まないの?」 冷たい声が、静かに響く。 「そうよ、私はあの日、西也を選んだ。あなたがどう思おうと、それが私の決断だったの。私を恨むのは構わない。でも―」 若子は拳を握りしめ、痛みを堪えながら続ける。 「彼には手を出さないで。彼には何の罪もないのよ。西也もまた、傷ついた一人なのだから......! もし怒りの矛先を向けたいなら、私にしなさい。殴りたければ、私を殴ればいい。だからお願い、彼にはもう指一本触れないで......!」 修の指先が、ぎゅっと握り締められる。 心臓が抉られるように痛む。 ―また、彼女は遠藤を庇うのか。 ―いつもそうだ。 彼が西也を殴る理由なんて、一度も聞かない。 ただ、無条件に彼を庇うだけ。 視線を移すと、西也の口元に、わずかな笑みが浮かんでいた。 それは、まるで勝者の微笑み。 修の胸に、言いようのない敗北感が押し寄せた。 もう終わりだ― 彼は、何もかも失ったのだ。 「松本若子」 喉が焼けるように痛む。 「先にトイレに入ったのは俺だ。その後、こいつがついてきた。なぜ彼がついてきたのか、考えたことはあるか?俺がなぜ殴り合うことになったのか、考えたことは?」 「......西也が、何を言ったっていうの?」 若子はじっと修を見つめながら問い返した。 修はわずかに笑う。 「言ったところで、お前は信じるのか?」 その声には、諦めと皮肉が滲んでいた。 「お前はいつだってこいつの味方だ。何があろうと、彼を疑わない。証拠を突きつけられても、結局は許す。お前の中で彼は、何をしても許される存在なんだろ?」 「......違う」 若子は本能的に否定した。 だ
しかし、前回の件―あのときは、確かに西也が修を陥れたのだ。 もしも彼が自分で真相を話さなかったら、今でも修のことを誤解したままだったかもしれない。 今になって思い返せば、あの出来事は恐ろしいものだった。 一度目があったのなら、二度目があってもおかしくないのでは? けれど―今回の件には証拠がない。 監視カメラもない以上、事実がどうだったのか、彼女にはわからない。 修を疑いたくない。 けれど、それ以上に、西也を悪者にしたくなかった。 この二人のどちらかが間違っている。 だが、それが誰なのか―それだけは、どうしてもはっきりさせたかった。 心の奥では、西也のほうが間違っていてほしいと願っていた。 もう、修に対してこれ以上絶望したくなかったから。 「若子、確かに俺は少しきつい言い方をしたかもしれない。でも、それはこいつが若子を侮辱したからだ!」 西也の声には、怒りが滲んでいた。 「頭にきた俺に殴りかかってきたのは向こうだ。だから、俺もやり返したんだ。信じてくれ、俺は本当のことを言ってる」 「......きつい言い方?」 若子の唇がかすかに震えた。 「じゃあ、彼に何を言ったの?」 「ただ、『若子を大切にする』『子どもと一緒に幸せにする』って言っただけだ」 西也は少し苛立ったように答える。 「それと、彼がお前に対して酷いことを言ったから、それを否定しただけだ」 「修が......そんなことを言うはずがありません」 侑子が強く首を振った。 「修は紳士的な人よ。そんなふうに、松本さんを侮辱するなんて、絶対にありえません!」 そう言いながら、修の腕にしがみつく。 彼女の目には、微塵の迷いもなかった。 「本当に?確信してる?」 西也は冷たく笑う。 「ええ、確信しています」 侑子はまっすぐに彼を見据えた。 「私は修のことを知っています。そんなことを言う人ではありません。むしろ、あなたのほうが修を傷つけたんじゃないんですか?」 話は完全に平行線。 お互いの主張は食い違い、どちらも証拠がない。 ―いや、証拠がないわけではなかった。 「若子、証拠ならある」 西也はそう言って、ポケットからスマホを取り出し、再生ボタンを押した。 そこから流れてきたのは―修の
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声