静香の治療方針は、そう簡単に決まるものではなかった。翌日、玲奈は病院に立ち寄ってから、いつも通り会社に出勤した。重野社長がわざわざ地方から足を運び、玲奈と礼二に会いに来ていた。昼になり、玲奈と礼二は重野社長を外に連れ出して食事に招待した。両社の協業はすでにほぼ合意に至っており、移動中に礼二は重野社長の滞在予定を確認した。重野社長は笑って言った。「今回は二日ほど滞在する予定です。実は明日、もう一件の案件があるものでね」礼二が興味深そうに訊いた。「ほう?どんな案件です?」「藤田総研との協業ですよ」その言葉に、玲奈と礼二はふっと笑みを引いた。だが重野社長は、彼らの表情の変化には気づいていなかった。長墨ソフトと藤田総研の間に過去の確執があることも知らなかった。彼は続けて言った。「藤田総研が数日前に技術面で大きなブレイクスルーを達成したそうで、今では業界全体がその将来性に注目していると聞きました。昨日、藤田総研の大森社長から電話があって、協業の話を持ちかけられたんですが、内容もなかなか良さそうだったので、承諾したんですよ」玲奈と礼二はここ最近ずっと多忙で、そういった情報に目を通す余裕すらなかった。突然の話に、ふたりの表情は曇った。礼二は玲奈に一瞥を送り、それから言った。「そうですか……」そうこう話しているうちに、目的地に到着した。食事を終えて店を出ようとしたところ、ちょうどエレベーター前で優里たちと鉢合わせた。「大森さん」優里と正雄たちの姿を見つけると、重野社長はにこやかに歩み寄り、声をかけた。優里と正雄たちも、重野社長や玲奈たちと鉢合わせるとは思っていなかった。重野社長に声をかけられ、正雄と優里は微笑んで挨拶した。ひと通り挨拶を交わしたあと、重野社長は玲奈と礼二に目を向けて言った。「大森さん、こちらのおふたりは――」礼二は穏やかに微笑んで言った。「紹介は結構です、私たちは顔見知りなんで」重野社長は笑って言った。「そうそう、前回お邪魔したときにお会いしましたね。いやあ、私としたこと、まったく記憶がポンコツで」そして思わず褒め言葉が漏れた。「大森社長も、大森さんも、今や会社の成長ぶりが目覚ましくて、本当に羨ましい限りです」その言葉に、優里と正雄は笑みを返した。ここ数日、藤田総
中島は藤田おばあさんとも面識があった。軽く藤田おばあさんと挨拶を交わしたあと、視線を玲奈へ向け、にこやかに言った。「あなたが玲奈かい?」玲奈は中島と会うのは初めてだった。彼女は礼儀正しく答えた。「はい」中島は満足げにうなずき、ほめるように言った。「なんて綺麗なお嬢さんだね」静香の容体については、中島は病院へ来る前にすでにある程度把握していた。だが、いきなり治療方針を出すことはせず、まずは静香の様子を見てから判断することにしていた。玲奈と青木おばあさんたちは、初診に立ち会ってから昼食を兼ねて中島をもてなそうと考えていた。しかし中島は、「治療方針が決まったらまた連絡するから」と言って、彼女たちに先に帰るよう促した。「食事のことはね」中島は玲奈を見ながら微笑んだ。「またいくらでも機会はあるさ。焦ることじゃないよ」中島にそこまで言われては仕方なく、玲奈と青木おばあさんたちは病院を後にした。病院を出たあと、玲奈は会社に戻り、藤田おばあさんは青木おばあさんを青木家まで送り届けた。その夜、玲奈が仕事を終えて青木家へ戻ると、藤田おばあさんはまだいた。夕食後、帰ろうとする藤田おばあさんは玲奈の手を軽く叩き、ため息をついた。玲奈と智昭が数日前、役所で離婚の手続きを進めたことは、彼女も知っていた。二人が決めたことなら、もう無理に引き止めるつもりはなかった。それに、無理に引き止めたところで、言うことを聞く相手でもない。離婚して仕切り直す。それは玲奈にとって、案外いい選択かもしれない。そんな思いを胸に、藤田おばあさんは優しく声をかけた。「自分のこと、大事にするんだよ」玲奈はうなずいた。「うん、そうします。おばあさまも、体に気をつけてね」藤田おばあさんが本宅へ戻ると、リビングに座っていた思いがけない人物に足を止めた。「何しに戻ってきたんだい?」振り返った智昭が肩をすくめた。「昨日、急に怒鳴られたからさ。てっきり、俺の顔が見たくなったのかと思って」老夫人は「ふん」と鼻を鳴らし、そばの執事に尋ねた。「いつからここに?」「六時頃にいらっしゃいました。ご報告しようとしたのですが、智昭様がおばあさんの邪魔をしないで、と……」そのとき、階段の上から茜が駆け下りてきた。「ひいおばあちゃん!」茜の姿を見ると、老
「別に」優里は笑ってそう言うと、さらりと腕時計を確認して口にした。「そろそろ時間ね、行きましょう」「うん」彼は会議室の皆に軽く挨拶してから、優里とともにその場を後にした。玲奈はそのまま藤田グループの技術スタッフたちと仕事を続けていた。静香の容体が悪化して以来、玲奈は青木おばあさんの体調も心配で、ずっと青木家に滞在していた。その夜、玲奈は藤田グループでの仕事を終えたあと、青木家に戻って夕食をとった。食事を終えた直後、スマホに未読メッセージが届いた。差出人は瑛二だった。【明日、基地に戻る】玲奈はメッセージを見て返信しなかった。瑛二はそれを予想していたのか、しばらくしてまたメッセージが届いた。【一ヶ月後、会おう】つまり、それは彼女が正式に離婚したあと、改めて想いを伝えるという宣言だった。玲奈はその意図を理解していたが、それでも返信はしなかった。スマホを置いて机の上の本を手に取ろうとしたとき、また着信があった。今度は、藤田おばあさんからだった。玲奈が電話に出ると、すぐに藤田おばあさんの声が飛び込んできた。「玲奈、静香のこと、私もう聞いたのよ。こんな大事なこと、なんであなたもあなたのおばあさんも私に一言も言ってこないの?」玲奈は言葉に詰まり、しばし沈黙した。藤田おばあさんは焦ったように尋ねた。「古賀先生――静香の療養院の主治医から聞いたの。あなたのおばあさん、静香の体調異変を知ってから、急に身体が弱ったって。今どうなの?」「おばあちゃんは、ここ二日くらいで少し落ち着いてきました。前よりは気力も戻ってきてます」藤田おばあさんは安堵の息をついて言った。「それならよかった」そう言いながら、すぐに玲奈に向けて付け加えた。「玲奈、心配しないで。静香のことは、私がなんとかするから。最高の先生を探してあげる」「ありがとうございます、おばあさま」玲奈はそう言ってから、続けた。「でも私も、すでに専門の先生にお願いしていて、明日こちらに来て母の状態を直接診てくれる予定なんです」「そうなのか。なら、まずは様子を見てみましょう」「はい」そのあとは、電話口でしばらく沈黙が続いた。藤田おばあさんの声は、少し湿っていた。「お母さん、本当に……」運が悪すぎる。玲奈は、その言外の思いをすぐに察したが、ま
玲奈は何も言わず、ふたりの脇を通り抜けて会議室へ入っていった。玲奈と智昭がドア前で言葉を交わす場面は、会議室内の多くの人の目に入っていた。だが、誰も玲奈と智昭の関係を知らないため、ただの挨拶程度に思われ、特に気に留める者はいなかった。けれど、礼二だけは事情を知っていた。彼女が戻ってくるなり、小声で尋ねた。「ケンカでもしたのか?」玲奈は首を振った。「してない」ふたりの関係が最悪だった時期ですら、まともに言い争いになることはなかった。まして今となっては、言葉をぶつけ合う気力すらなかった。現在、長墨ソフトと藤田グループの本格的な協業が始まっており、そのため玲奈はその日一日、藤田グループの社内で過ごしていた。午後五時を少し過ぎた頃、会議室にどよめきが走った。「マジかよ、成功した!」「ん?何があったの?」「以前作ってたモデル、玲奈さんに指摘されたじゃないですか?先週みんなで再検討して、この数日間、アルゴリズムからデータ、そしてモデル構造まで見直したんです。その結果、今さっき精度が一気に向上して!ここ二年近く悩まされてた壁が、まさかこんな形で突破されるとは!」別の技術者も興奮気味に言った。「ずっと頭抱えてたモーダルアライメントの問題も、新しいヒントが見えてきたんです。いやぁ、玲奈さんって、本当にすごいっす!」藤田グループは国内屈指の大手企業であり、集まっている人材も当然その中でも一流と呼ばれる者ばかりだ。つまり、自他ともに認める実力者ばかりだった。それでも彼らは、今まさに「上には上がいる」と痛感していた。興奮冷めやらぬ藤田グループの技術スタッフのひとりが、玲奈に歩み寄り、手を取って言った。「長文生成の論文の筆頭著者、やっぱり只者じゃないっすね!玲奈さん、マジで神です!」玲奈は控えめに笑いかけ、何かを言おうとしたその瞬間、背後に立つ優里の姿が目に入った。笑みが一瞬だけ揺らぐ。ちょうどそのとき、興奮気味だった藤田グループのスタッフたちも彼女の存在に気づいた。「大森さん?いつの間に来てたんですか?」優里はまだ何も答えていなかったが、咲村教授が代わりに微笑みながら言った。「大森さんはもう少し前からいらしてたよ。みんなが熱中してて気づかなかっただけさ」優里は微笑んだ。ただ、よく見れば、その微笑みが
その夜、玲奈が退勤の準備をしていると、茜から電話がかかってきた。明日は土曜日。茜が電話をかけてきたのは、きっと会いに来ようとしていたのだろう。けれど、彼女には明日の予定がすでにあった。明日は青木おばあさんたちと一緒に療養院へ行き、母の治療薬について医師と相談することになっていた。だから、茜の電話は出なかった。土曜日。療養院に着いた玲奈は、静香の姿を見て言葉を失った。前回見たときよりもさらに痩せこけており、髪は乾燥してパサつき、顔色も血の気がまったくなかった。医師はこう説明した。「以前は精神安定のための薬を服用していたんですが、あれは肝臓と腎臓に負担がかかるんです。以前は問題なかったんですが、今のように臓器が衰弱している状態だと、続けるのは危険でして。だから、こちらでその薬の一部を中止しました。その結果、精神状態はかなり不安定になっていますし、今は臓器機能維持のための抗生物質も服用しているので、身体への負荷が相当大きいです……」玲奈はバッグを握る手に少し力を込めて、静かにうなずいた。その後、玲奈と裕司たちは医師と長く話し込み、ようやく正午頃になって療養院を後にした。帰り際、茜から再び電話がかかってきた。玲奈は唇を引き結び、そのまま着信を切った。それ以降、茜からの電話はなかった。だが、午後になって昨日帰国した凜音から連絡があり、一緒に買い物に出かけようと誘われた。玲奈は気分が沈んでいたうえに、青木おばあさんの体調もよくなかったため、家に残ってそばにいるつもりだった。だが、青木おばあさんは玲奈の手をそっと叩いて言った。「ずっと塞ぎ込んでちゃだめよ。たまには気晴らしも必要だから」「……うん」玲奈はそう答え、服を着替えて出かけることにした。凜音はこの数ヶ月ずっと海外でファッションショーに関わっており、お互い忙しくてなかなか連絡も取れていなかった。久しぶりに顔を合わせて、しばらく話をしているうちに、凜音は初めて静香の容体が悪化していることを知った。凜音は手にしていたミルクティーを飲むこともなくなり、辛そうに口を開いた。「おばさん……きっとよくなるよ」玲奈も、それを心の底から願っていた。けれど、静香の身体は確かに急速に悪化していた。それは、玲奈も、家族も皆が薄々感じていたことだった。「そん
午後、玲奈と翔太は社内で仕事の話をしていた。そこへ、ドアの外からノックの音が響いた。「青木さん、直江弁護士がいらっしゃいました」「わかった」そう返してから、玲奈は翔太に言った。「ちょっと私用があるから、先に仕事に戻ってて」翔太は智希とその助手に目を向け、軽くうなずいて部屋を後にした。智希と助手はそれぞれキャリーケースを一つずつ持っており、浅井がドアを閉めたあと、ふたりは中に入っていた各種の契約書や証書類を一つひとつ並べ、丁寧に確認を始めた。すべての書類を確認し終え、引き渡しが済んだあと、智希がふと思い出したように言った。「そうだ、藤田智昭の弁護士から伝言を預かってます。もし青木さんが会社の経営や意思決定に関わるのが面倒だと思ったら、株を売却しても構わないと。彼自身が、その買い手に名乗りを上げているそうです」玲奈はその言葉に表情を崩さず、淡々と答えた。「わかりました」それだけ伝えると、智希はあまり長居もせず、すぐに帰っていった。玲奈はふたつの箱に収められた大量の文書や証書を眺め、それからそのまま箱を脇に置き、再び仕事に集中し始めた。三十分ほど経った頃、礼二がオフィスにやって来た。部屋に入った彼は、ちょうど彼女の足元にあるふたつの箱に気づいて、首を傾げた。「ん?これ何?」「藤田智昭との離婚協議書にある不動産関係の証書」「全部?この量の不動産って、総額で五百億以上だろ?協議書には、離婚から二年以内に整理すればいいって書いてあったのに、まだ正式に離婚してないうちから全部手続き済ませたってのか。やけに早いな」「うん、全部入ってる。一つも抜けてない」礼二は「はは」と乾いた笑いを漏らした。「ずいぶん焦ってるんだな」すべての準備が整っていたのだから、数日前に離婚手続きの連絡があったのも納得だった。続けて、彼は聞いた。「現金も振り込まれた?」「うん。今朝、振り込み済みだった」「ちぇっ」智昭のあまりにあっさりとした対応に、彼は心のどこかでまだ引っかかっていた。玲奈がすでに前を向いていると分かっていても、やるせなさが残る。何を思ったのか、彼は鼻を鳴らして言った。「まだ離婚の手続きが完全に終わっていないのに、こんなに急いで全部渡すなんて。反対にあなたが『やっぱり離婚やめた』って言い出すのが怖くないのかね?」「さあ、