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第九話「もう、夫婦だろう?」

last update publish date: 2026-10-20 17:30:37

「……誰からだ」

 さっきまでの、からかうような余裕は、もうどこにもなかった。

 ——な、なにその圧。

「W。証拠を送ってくれた人。前にも話したでしょ」

「……会うのか」

「まだ決めてない。けど」

 私はスマートフォンをテーブルに置いた。

「この人が誰か、知っておく必要はあると思う」

 巧は、しばらく黙って画面を見つめていた。

 ——なんか、思ったより深刻な顔してるんだけど。記憶喪失の人が、そんな顔する?

「……そうだな」

 やがて、巧はいつも通りの、少し掴みにくい笑みに戻った。

「なら、俺も一緒に行く」

「は? なんで」

「妻の警護は、旦那の仕事だろ」

 ——さらっと「旦那」って言うのやめて。

 私はまだ

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     ——長い。 キスって、こんなに長くできるものだっけ。 頭の芯がぼうっとして、そんなどうでもいい感想しか浮かんでこない。 ようやく唇が離れた瞬間、私は反射的に彼の胸を押した。「ちょ、ちょっと待って」「何を?」「何をじゃない! さっきの、通知!」 我に返った私は、水滴を滴らせる巧の顔を、じっと見上げた。「あなたのスマホに、誰から連絡来たの?」 巧は、一瞬だけ目を丸くしたあと——ふ、と小さく笑った。「それが気になって、キスの途中も気が散ってたのか」「うるさい黙って。答えて」 私が本気で睨むと、巧は仕方なさそうに肩をすくめ、洗面台の上のスマートフォンを手に取った。「ほら」 差し出された画面を、私は思わず覗き込む。 ——な、なにこの信頼感。普通、見せてくれなくない? 画面に表示されていたのは、通知一覧。【真琴:今日の飯、何食べた?】【真琴:返信遅すぎ】【真琴:無視するなら押しかけるぞ】 ——え。「……真琴って、誰?」「学生時代からの、唯一の友人」 ——それだけ? 拍子抜けした私は、画面を上から下まで、もう一度確認する。 キリル文字も、「Босс(ボス)」という登録名も、どこにも見当たらない。 ——気のせいだった、のかな。あの日見た通知は。 もやもやとした違和感は残るものの、少なくとも今この瞬間の通知には、Wに繋がるようなものは、何もなかった。「……ふうん。ただの友達か」 安堵と、ちょっとした拍子抜けが混ざった声が出る。「そう。ただの友達」 巧は画面をポケットにしまいながら、こちらをまっ

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    「公開」ボタンを押した瞬間、世界が変わったわけじゃない。 ——けど、私の中では、確実に何かが動き出した。 私が公開したのは、自分で作曲した楽曲のデモ音源だった。 高校時代から、私はネット上で「Yuki」として活動してきた。 正体不明。顔出しなし。それでも「令和の歌姫」と呼ばれるほど、話題になっていた。 ——前世では、この曲を桜に盗まれた。 私の評判が地に落ち、家から追い出された隙に、桜はこの曲を自分名義で発表した。 そうして手に入れたのが、「天才美少女音楽プロデューサー」という肩書き。 ——ふざけるな、と思う。 しかも三日後には、業界の著名人が集う晩餐会が控えている。世界的音楽家・東堂凜まで出席する、あの場所。 前世の桜は、そこでこの曲を披露し、一躍脚光を浴びた。 ——だから、今回は先に行く。 しかも今回は、Yuki名義じゃない。 自分の実名で。 これで、この曲の本当の作者が誰なのか、誰にも否定できない形で刻まれる。 投稿を終え、スマートフォンを置いた、その直後。 ——ピロン。 メール受信の通知音。 見慣れないアドレスから、一通のメールが届いていた。 嫌な予感がしながらも、開く。 添付されていたのは——養父が会社を使って行っていた資金洗浄の証拠。 さらに、桜と宏一が旅館へ出入りする監視映像。 ——これ、私が自分じゃ絶対に手に入れられなかったやつだ。 差出人の名前を確認する。「W」 ——W。 その二文字を見た瞬間、前世の記憶が、頭の奥でカチリと音を立てた。 前世、私が孤立して、世間から袋叩きにされていたあの時。 たった一人、私を庇い、

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     宏一の後ろ姿が、人混みの中に消えていく。 ——それでも、私はまだ、巧の腕の中から動けていなかった。「……有希?」 耳元で名前を呼ばれて、やっと我に返る。「な、なんでもない。ちょっと、びっくりしただけ」 慌てて一歩距離を取ったけれど、まだ心臓はうるさいままだった。 ——絶対、今の顔、赤くなってる。 巧は何も言わず、ただ愉快そうに私を見下ろしている。 ——その顔、やめて。見透かされてる気がするから。 そう思った、次の瞬間。 離れていったはずの宏一が、数メートル先で足を止め、振り返った。「——有希。一つ、忘れてた」 苛立ちを隠しきれない声。「その男、いつまで囲うつもりだ? 記憶喪失の行き倒れなんて、金の切れ目が縁の切れ目だ。すぐに愛想尽かすことになるぞ」 ——最後まで、嫌味を言わずにいられないんだ、この人。 呆れて言葉も出ない私の横で、巧が、静かに一歩前へ出た。「金の切れ目、ね」 低く、けれど妙に落ち着いた声だった。「なら、確認してくれるか」 巧は、懐から一枚のカードを取り出し、私にそっと差し出した。 漆黒のカード。刻印以外、何もない、ただの黒い板。 ——な、なにこれ。 意味は分からないけれど、受け取らない選択肢はなかった。 私はそのカードを受け取ると、そのまま宏一の頬に、軽く押し当てる。「今の私に、あなたじゃ手が届かないの」 宏一の顔が、カードを見た瞬間、凍りついた。「これ……まさか……」 ——なんか、めちゃくちゃ驚いてるけど。 世界にわずか五枚しか存在せず、限られた名家しか

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    「これ、俺も一緒に潰していいか?」 巧の声が、静かに耳に届いた。 ——今、記憶喪失の人が言う台詞じゃないよね、それ。 けれど、そんなツッコミすら、うまく声にならなかった。 数千件の罵倒コメントを前に、指先が震えている。「……巧」「大丈夫。俺がついてる」 肩に置かれた手のひらの温度が、やけにはっきり伝わってくる。 ——おかしいな。前世の私なら、とっくに心が折れてる場面なのに。 震えていた指が、少しずつ、力を取り戻していく。「……ありがとう。でも」 私は顔を上げた。「これは、私がやる」 巧が、少しだけ目を見開いた。「一人でか?」「一人でいい。——ううん」 言い直す。「一人がいい。この人たちに、思い知らせるのは、私の役目だから」 しばらく私を見つめたあと、巧はふっと小さく笑った。「……そういうところ、嫌いじゃない」 ——なにその言い方。記憶喪失設定、どこ行った。 けれど今は、それを追及している場合じゃない。 私はスマートフォンを握り直し、司法書士の嘉納さんに連絡を入れた。「嘉納さん。世間対応は私がやります。相続手続きは、そのまま進めてください」 通話を切ったあと、新しいアカウントを作成する。 アカウント名——「越前有希」。本名。顔出しなし。けれど、逃げも隠れもしない宣言。 投稿ボタンを、迷いなく押した。【三日後、私の潔白を証明する証拠を、すべて公開します】 続けて、もう一文。【養父母、橘家、そして桜へ】【逃げも隠れもしません。受けて立ちます】 ——宣戦布告

  • 「浮気女」にされた私が拾った「貧乏男」は、過保護な億万長者でした ~私を売った家族よ、跪いて許しを乞うても手遅れです~   第四話 前金は、キス一つ

     ——一方その頃。 結婚式場では、ウェディングドレス姿の桜が、しれっと祭壇の前に立っていた。「あの、花嫁……有希さんじゃない、よね?」「え、じゃあ誰と結婚するの、恒一さん……」 ざわつく参列者たち。 養父は青筋を立てながら、「有希のやつ、わざと桜に恥をかかせたな」と歯ぎしりしていたらしいけれど—— 残念。そんな高尚な計算はしていない。 ただ、私は必要なものを取りに行っただけだ。 ……というわけで、私は今、我が家(8平米)のキッチンに立っている。「はい、できた」「……これ、俺の……?」「あなた以外に誰がいるの」 湯気の立つ味噌汁と、卵焼き。豪華ではないけれど、心を込めた朝ごはん。 巧は、それをじっと見つめたあと、そっと箸をつけた。「……美味しい」「でしょ?」 ——素朴な感想だけど、なんか妙に嬉しい。 食事をしながら、私はふと、罪悪感めいたものを覚えた。 ——この人を、復讐の道具として利用してる自覚はある。 だったら、せめて。「巧。私、貯金あるから」「……え?」「これから、私があなたを養う」 きっぱりと言い切って、私はテーブルの下から一枚の紙を取り出した。 婚姻届。「一緒にいてくれるなら、ちゃんと責任持つ。だから——」「……8平米の部屋、で……?」「悪い?」 巧は、しばらく黙って私を見つめていた。 ——あ、これは断られるパターンかもしれない。 そう思った矢先。「……くくっ」 小さく、彼が笑った。「な、何よ」「いや……可愛いなと思って」 ——え。今、記憶喪失の人が言う台詞じゃなくない? 動揺する私をよそに、巧はペンを手に取り——けれど、すぐには紙に触れなかった。「サインする前に」「な、何」「前金、欲しいんだけど」「前金って……お金なら——」「お金じゃない」 巧の指先が、そっと私の顎に触れた。「キス、してくれないか」 ——は???? 頭の中で盛大にハレーションが起きる。 え、この人、記憶喪失って設定どこいった?「べ、別にそんなの——」「してくれないなら、サインしない」 にこり、と笑う顔が、やけに自信満々だった。 ——ずるい。この顔、絶対ずるい。 しばらく睨み合ったあと、私は諦めて彼の頬に、ちょん、とキスを落とした。 顔が熱い。心臓がうるさい。 巧は一瞬だけ驚いたような

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