Masuk——長い。
キスって、こんなに長くできるものだっけ。
頭の芯がぼうっとして、そんなどうでもいい感想しか浮かんでこない。
ようやく唇が離れた瞬間、私は反射的に彼の胸を押した。
「ちょ、ちょっと待って」
「何を?」
「何をじゃない! さっきの、通知!」
我に返った私は、水滴を滴らせる巧の顔を、じっと見上げた。
「あなたのスマホに、誰から連絡来たの?」
巧は、一瞬だけ目を丸くしたあと——ふ、と小さく笑った。
「それが気になって、キスの途中も気が散ってたのか」
「うるさい黙って。答えて」
私が本気で睨むと、巧は仕方なさそうに肩をすくめ、洗面台の上のスマートフォンを手に取った。
「ほら」
差し出された画面を、私は思わず覗き込む。
——な、なにこの信頼感。普通、見せてくれなくない?
——長い。 キスって、こんなに長くできるものだっけ。 頭の芯がぼうっとして、そんなどうでもいい感想しか浮かんでこない。 ようやく唇が離れた瞬間、私は反射的に彼の胸を押した。「ちょ、ちょっと待って」「何を?」「何をじゃない! さっきの、通知!」 我に返った私は、水滴を滴らせる巧の顔を、じっと見上げた。「あなたのスマホに、誰から連絡来たの?」 巧は、一瞬だけ目を丸くしたあと——ふ、と小さく笑った。「それが気になって、キスの途中も気が散ってたのか」「うるさい黙って。答えて」 私が本気で睨むと、巧は仕方なさそうに肩をすくめ、洗面台の上のスマートフォンを手に取った。「ほら」 差し出された画面を、私は思わず覗き込む。 ——な、なにこの信頼感。普通、見せてくれなくない? 画面に表示されていたのは、通知一覧。【真琴:今日の飯、何食べた?】【真琴:返信遅すぎ】【真琴:無視するなら押しかけるぞ】 ——え。「……真琴って、誰?」「学生時代からの、唯一の友人」 ——それだけ? 拍子抜けした私は、画面を上から下まで、もう一度確認する。 キリル文字も、「Босс(ボス)」という登録名も、どこにも見当たらない。 ——気のせいだった、のかな。あの日見た通知は。 もやもやとした違和感は残るものの、少なくとも今この瞬間の通知には、Wに繋がるようなものは、何もなかった。「……ふうん。ただの友達か」 安堵と、ちょっとした拍子抜けが混ざった声が出る。「そう。ただの友達」 巧は画面をポケットにしまいながら、こちらをまっ
「公開」ボタンを押した瞬間、世界が変わったわけじゃない。 ——けど、私の中では、確実に何かが動き出した。 私が公開したのは、自分で作曲した楽曲のデモ音源だった。 高校時代から、私はネット上で「Yuki」として活動してきた。 正体不明。顔出しなし。それでも「令和の歌姫」と呼ばれるほど、話題になっていた。 ——前世では、この曲を桜に盗まれた。 私の評判が地に落ち、家から追い出された隙に、桜はこの曲を自分名義で発表した。 そうして手に入れたのが、「天才美少女音楽プロデューサー」という肩書き。 ——ふざけるな、と思う。 しかも三日後には、業界の著名人が集う晩餐会が控えている。世界的音楽家・東堂凜まで出席する、あの場所。 前世の桜は、そこでこの曲を披露し、一躍脚光を浴びた。 ——だから、今回は先に行く。 しかも今回は、Yuki名義じゃない。 自分の実名で。 これで、この曲の本当の作者が誰なのか、誰にも否定できない形で刻まれる。 投稿を終え、スマートフォンを置いた、その直後。 ——ピロン。 メール受信の通知音。 見慣れないアドレスから、一通のメールが届いていた。 嫌な予感がしながらも、開く。 添付されていたのは——養父が会社を使って行っていた資金洗浄の証拠。 さらに、桜と宏一が旅館へ出入りする監視映像。 ——これ、私が自分じゃ絶対に手に入れられなかったやつだ。 差出人の名前を確認する。「W」 ——W。 その二文字を見た瞬間、前世の記憶が、頭の奥でカチリと音を立てた。 前世、私が孤立して、世間から袋叩きにされていたあの時。 たった一人、私を庇い、
宏一の後ろ姿が、人混みの中に消えていく。 ——それでも、私はまだ、巧の腕の中から動けていなかった。「……有希?」 耳元で名前を呼ばれて、やっと我に返る。「な、なんでもない。ちょっと、びっくりしただけ」 慌てて一歩距離を取ったけれど、まだ心臓はうるさいままだった。 ——絶対、今の顔、赤くなってる。 巧は何も言わず、ただ愉快そうに私を見下ろしている。 ——その顔、やめて。見透かされてる気がするから。 そう思った、次の瞬間。 離れていったはずの宏一が、数メートル先で足を止め、振り返った。「——有希。一つ、忘れてた」 苛立ちを隠しきれない声。「その男、いつまで囲うつもりだ? 記憶喪失の行き倒れなんて、金の切れ目が縁の切れ目だ。すぐに愛想尽かすことになるぞ」 ——最後まで、嫌味を言わずにいられないんだ、この人。 呆れて言葉も出ない私の横で、巧が、静かに一歩前へ出た。「金の切れ目、ね」 低く、けれど妙に落ち着いた声だった。「なら、確認してくれるか」 巧は、懐から一枚のカードを取り出し、私にそっと差し出した。 漆黒のカード。刻印以外、何もない、ただの黒い板。 ——な、なにこれ。 意味は分からないけれど、受け取らない選択肢はなかった。 私はそのカードを受け取ると、そのまま宏一の頬に、軽く押し当てる。「今の私に、あなたじゃ手が届かないの」 宏一の顔が、カードを見た瞬間、凍りついた。「これ……まさか……」 ——なんか、めちゃくちゃ驚いてるけど。 世界にわずか五枚しか存在せず、限られた名家しか
「これ、俺も一緒に潰していいか?」 巧の声が、静かに耳に届いた。 ——今、記憶喪失の人が言う台詞じゃないよね、それ。 けれど、そんなツッコミすら、うまく声にならなかった。 数千件の罵倒コメントを前に、指先が震えている。「……巧」「大丈夫。俺がついてる」 肩に置かれた手のひらの温度が、やけにはっきり伝わってくる。 ——おかしいな。前世の私なら、とっくに心が折れてる場面なのに。 震えていた指が、少しずつ、力を取り戻していく。「……ありがとう。でも」 私は顔を上げた。「これは、私がやる」 巧が、少しだけ目を見開いた。「一人でか?」「一人でいい。——ううん」 言い直す。「一人がいい。この人たちに、思い知らせるのは、私の役目だから」 しばらく私を見つめたあと、巧はふっと小さく笑った。「……そういうところ、嫌いじゃない」 ——なにその言い方。記憶喪失設定、どこ行った。 けれど今は、それを追及している場合じゃない。 私はスマートフォンを握り直し、司法書士の嘉納さんに連絡を入れた。「嘉納さん。世間対応は私がやります。相続手続きは、そのまま進めてください」 通話を切ったあと、新しいアカウントを作成する。 アカウント名——「越前有希」。本名。顔出しなし。けれど、逃げも隠れもしない宣言。 投稿ボタンを、迷いなく押した。【三日後、私の潔白を証明する証拠を、すべて公開します】 続けて、もう一文。【養父母、橘家、そして桜へ】【逃げも隠れもしません。受けて立ちます】 ——宣戦布告
——一方その頃。 結婚式場では、ウェディングドレス姿の桜が、しれっと祭壇の前に立っていた。「あの、花嫁……有希さんじゃない、よね?」「え、じゃあ誰と結婚するの、恒一さん……」 ざわつく参列者たち。 養父は青筋を立てながら、「有希のやつ、わざと桜に恥をかかせたな」と歯ぎしりしていたらしいけれど—— 残念。そんな高尚な計算はしていない。 ただ、私は必要なものを取りに行っただけだ。 ……というわけで、私は今、我が家(8平米)のキッチンに立っている。「はい、できた」「……これ、俺の……?」「あなた以外に誰がいるの」 湯気の立つ味噌汁と、卵焼き。豪華ではないけれど、心を込めた朝ごはん。 巧は、それをじっと見つめたあと、そっと箸をつけた。「……美味しい」「でしょ?」 ——素朴な感想だけど、なんか妙に嬉しい。 食事をしながら、私はふと、罪悪感めいたものを覚えた。 ——この人を、復讐の道具として利用してる自覚はある。 だったら、せめて。「巧。私、貯金あるから」「……え?」「これから、私があなたを養う」 きっぱりと言い切って、私はテーブルの下から一枚の紙を取り出した。 婚姻届。「一緒にいてくれるなら、ちゃんと責任持つ。だから——」「……8平米の部屋、で……?」「悪い?」 巧は、しばらく黙って私を見つめていた。 ——あ、これは断られるパターンかもしれない。 そう思った矢先。「……くくっ」 小さく、彼が笑った。「な、何よ」「いや……可愛いなと思って」 ——え。今、記憶喪失の人が言う台詞じゃなくない? 動揺する私をよそに、巧はペンを手に取り——けれど、すぐには紙に触れなかった。「サインする前に」「な、何」「前金、欲しいんだけど」「前金って……お金なら——」「お金じゃない」 巧の指先が、そっと私の顎に触れた。「キス、してくれないか」 ——は???? 頭の中で盛大にハレーションが起きる。 え、この人、記憶喪失って設定どこいった?「べ、別にそんなの——」「してくれないなら、サインしない」 にこり、と笑う顔が、やけに自信満々だった。 ——ずるい。この顔、絶対ずるい。 しばらく睨み合ったあと、私は諦めて彼の頬に、ちょん、とキスを落とした。 顔が熱い。心臓がうるさい。 巧は一瞬だけ驚いたような
我が家、8平米。 家、というか、ワンルーム。「……ここ、住んでるとこ……?」 巧が、部屋を見渡して固まっている。 ——そりゃそうだろう。昨日まで財閥の御曹司だった人が来る場所じゃない。「文句あるの?」「……いや……」「ならよし」 私は彼を強引に座らせ、救急箱を取り出した。 腕の傷は、思ったより深い。 ——これ、絶対に「浮気相手役」用の小道具レベルの怪我じゃない。ガチだ。 消毒液を含ませた綿を近づけると、巧がびくりと肩を震わせた。「……痛い、の……?」「まだ触ってもないけど」「……怖い、から……」 上目遣い。震える声。 ——うん、この演技、あざとすぎでは? けれど顔には出さず、私は淡々と傷の手当てを続けた。「動かないで。すぐ終わるから」「……有希、は……俺の、婚約者……?」「違うけど」「……捨てないで、くれ……」 ——いや誰があなたを捨てるなんて言った。 呆れながらも、私はふと、手を止めた。 前世の自分と、目の前で怯えている男が、一瞬重なった。 誰かに縋らなければ生きていけなかった、あの頃の自分。「……分かった分かった。しばらく面倒見てあげるから、大人しくしてて」「……本当、に……?」「本当。その代わり、大人しくね」 巧は、ほっとしたように——いや、明らかに満足そうに、小さく口角を上げた。 ——今の顔、絶対「怯えてる男」の顔じゃなかったよね? 見なかったことにしよう。うん。 翌朝、私は巧を置いて鑑定機関へ向かった。 手にしているのは、あの日拾った牛乳グラスの破片。 ——これが、家族への反撃の第一歩。 鑑定士に破片を預け、結果が出るまでの間、私はスマートフォンで調べ物を進める。 前世の記憶を頼りに、養父の会社の不審な資金の流れ、桜と宏一の接点、そして——「越前様。少しお時間よろしいでしょうか」 声をかけてきたのは、依頼していた司法書士の嘉納さんだった。 やけに神妙な顔をしている。「鑑定結果、何か問題でも?」「いえ、それとは別件で……単刀直入に申し上げます」 嘉納さんは、書類を一枚、私の前に差し出した。「越前様は、故・神代グループ会長の、唯一の血縁者であることが判明しました」 ——は?「神代……家?」 聞き間違いかと思った。だって、神代家といえば——日本有数の名家。政財界に強い