Mag-log in私と紀戸八雲(きど やくも)との結婚は、最初から秘密だった。 結婚したことを隠してきたこの3年間、私は外に言えないくらい誇れない妻として八雲のそばにいた。 外から見れば、八雲は東市協和病院第一の執刀医で、冷酷無情で、唯我独尊の存在だ。いわゆる高嶺の花である。 したし私は、ただそのそばに立っているちっぽけな麻酔科のインターン生だった。 無数の真夜中で、私はいつも1人で家でその人の帰りを待っていた。広い部屋の中、寒くてたまらなかった。 自分がもっと頑張れば、もっと優しくなれば、いつかきっと振り向いてくれると思い込んでいた。 しかし現実は無慈悲で、残酷だった。 「あの人のところにもう行かないでくれない?」私は八雲の裾をギュッと掴んで、細い声で何度もお願いをしていた。 なのに八雲ただ笑った。その笑い声から明らかな嫌味を感じた。「ただの契約なのに、紀戸の奥さんは随分役に入り込んでるね」 * 月日が経ち、八雲のあの娘の前でしか表れない優しさを見てきた。 何も言わずに、私は静かに離婚協議書1枚だけ残して、家を出た。 それから、白銀の東市で、知れ渡ったあの紀戸先生は雪に埋もれた道端で膝をついて、涙目で復縁をお願いしてきた。「優月(ゆづき)、離婚しないでくれ」 その頬からぽつりと落ちた涙は、私の目から、すでに雪のような冷たいものになった。淡々と微笑みながら、私はこう答えた。 「もしかして紀戸先生も役に入り込んでるの?ごめんね、芝居に付き合う暇はないの。契約期限はもう過ぎたわ。告白したいなら、まず列に並んでちょうだい」
view more「サポーター、なんで外した?」車に乗ってから、颯也は私の手元に気づき、さらに問いかけてきた。「優月、それ、誰にもらったんだ?まさか藤原さんじゃないよな?」「違います」私は反射的に首を振り、少し間を置いてから付け加えた。「……たぶん、母がくれたんだと思います」――きっと、そうに違いない。あの夜、病室に来てくれたのも母だったのだろう。浩賢のはずがない。もし彼なら、あのとき「八雲がくれたものなのか」なんて聞くはずがない。もちろん、八雲でもない。あの頃の彼はずっと葵に付き添っていて、私のことなど気にも留めていなかった。そんな八雲が、サポーターを用意してくれるはずがない。……なのに、私はわざわざ確かめようとしてしまった。完全に諦めるために。このサポーターは、おそらく母がくれたものだ。母はいつだって口はきついのに、本当は優しい。あの数日、私たちは言い争って気まずくなっていたけれど、きっと直接会う代わりに、こうしてこっそり気遣ってくれていたのだろう。「お母さん、さすがだな。ちゃんと細かいところまで気が回る」颯也が感心したように言う。「……そうですね」私はぎこちなく笑った。少し迷ってから、口を開く。「ごめんなさい、夏目先生。今日は一緒に食事できそうにありません。急に食欲がなくなって……ちょっと疲れちゃって」嘘ではない。本当は、ついさっきまで楽しみにしていた。颯也と食べるご飯は、いつも美味しくて、心地よい時間だから。でも、今はどうしても、その気分になれなかった。「分かった。じゃあ送るよ。今日は早く休め」颯也の顔に一瞬だけ落胆がよぎったが、すぐにいつもの調子に戻る。何も言わずにハンドルを切り、私をマンションへ送り届けてくれた。私が気分を落としているのを察したのか、道中はずっと静かだった。私はシートに身を預け、窓の外をぼんやり眺める。薄暗い空。オレンジ色の街灯が、ひとつ、またひとつと後ろへ流れていく。心の中の光も、それに合わせるように、少しずつ消えていった。マンションの前に着き、私は車を降りて手を振った。そのとき――「優月」颯也が、私を呼び止めた。「まだ、紀戸さんのこと……忘れられないのか?」「……え?」あまりにも直球すぎる問いに、思わず言葉が詰まる。「さっきから見てると、気分も食
八雲が帰ってきたとき、私は必死に焦げた鍋をこすっていた。彼の姿を見た瞬間、胸が詰まって、涙がこぼれてしまった。「ごめんなさい……サプライズにしようと思ったのに、こんなことになって……」しゃくりあげながら謝る私に、八雲はふっと笑って、両手で私の顔を包み込んだ。優しく涙を拭いながら、軽くからかうように言う。「こんなことで泣く必要ある?ほら、顔ぐちゃぐちゃだぞ。まるで子猫だな」私は涙を拭きながらも、まだしょんぼりしていた。「でも、どうしよう……食材も無駄にしちゃったし、夕飯も遅くなっちゃった。簡単にラーメンでも作ろうか?」「そんな顔でまだ料理する気か?こんなに落ち込んでる優月を、これ以上働かせるわけないだろ」八雲は首を振って、私のエプロンを外し、コートを着せてくる。そう言うと、有無を言わせず私の手を引いて外へ連れ出した。「行こう、外で食べよう」「じゃあ、何食べるの?」車に乗せられながら聞いたけれど、彼は答えなかった。そして、到着した先で、私は思わず声を上げた。雑炊専門の店だった。「優月、これ食べたかったんだろ?今日はこれにしよう」八雲はそう言って、私の手を引いて席に座らせた。小さな店だった。テーブルも数えるほどしかなく、ほとんどが相席。私たちも隅の席に腰を下ろし、周囲の賑やかな声に包まれながら、その一杯を食べた。あれは、今までで一番美味しい雑炊だった。もちろん、あのスキンヘッドの店主の腕が確かなのもある。でも、それだけじゃない。食べ終えたあと、八雲は私の手を引いて、入り組んだ細い路地をゆっくり歩いた。星が瞬き、冬の風は冷たく頬を刺す。それでも、お腹の中には温かい雑炊が残っていて、隣には心から好きな人がいる。ただそれだけで、世界は驚くほど優しくて、温かく感じられた。そして今、颯也がその店の話をした。八雲も、きっと思い出したはずだ。あの夜のことを。私と一緒に歩いた、あの帰り道を。けれど、その瞬間、八雲の視線はすっと引かれた。私の手にある保温サポーターから。私が八雲を見たときには、彼はすでにその表情は淡々としていて、何事もなかったかのように西岡先生と話を続けている。それ以上、視線を向けることはなかった。ほんの一瞬の目配せすら、なかった。やがてエレベーターは地下二階の駐車場に到着し
八雲は、颯也に言葉に気をつけろと言った。私はてっきり、葵を庇って、彼女の面目を取り戻すために割って入ったのだと思った。だが、違った。八雲が指摘したのは、颯也が浩賢をそんなふうに話すことだった。葵のためではなく、浩賢のために口を開いたのだ。……それって、どういうこと?私だけでなく、葵も明らかに驚いていた。彼女はぽかんとしたまま八雲を見つめ、小さく呟く。「八雲先輩……」「はいはい、分かった分かった。同僚だもんな、もうあいつのことは言わないよ」颯也は一瞬だけ意外そうにしたあと、すぐに立て直した。眉を軽く上げ、舌打ち混じりに笑いながら、狐のような目に光を宿す。「まあ、あいつも別に本当に人を見る目がないわけじゃないしな。な?」一応は譲歩したように聞こえるが、実際には、相変わらず葵を遠回しに刺している。ただ、さっきほど露骨ではないだけだ。葵の顔は、みるみるうちに青ざめていく。そのまま颯也を睨みつけ、怒りを押し殺しているのが分かる。「まあまあ、みんな同僚なんですから、仲良くしましょう……そうだ、紀戸先生。今年も院内の年間表彰、そろそろ始まる時期ですよね?今年も神経外科が有力でしょう?」空気を変えようと、西岡先生が慌てて話題を切り替えた。「それは分かりませんよ。整形外科も西岡先生のもとでかなりレベルが上がっていますし。今年は整形外科が取る可能性も十分あります」八雲も、その流れに自然に乗る。二人はそのまま業務の話へと移り、さっきのやり取りは完全に流された。言いかけた言葉をすべて飲み込まされ、葵の顔色はみるみる悪くなっていった。そのまま颯也をじっと睨みつけ、隠しきれない怒りが目に浮かんでいる。一方で、颯也の口元の笑みは、むしろ深くなる。気だるく、どこか勝ち誇ったような笑み。そして、ふと私に顔を向けた。「優月、夕食は雑炊にしない?いい店知ってるんだ。鶏と野菜の雑炊が絶品でさ。ピリ辛料理はまた今度にしよう。最近、胃腸の調子は良くないんだろ?刺激物は控えたほうがいい」「いいですね」私は頷いた。その瞬間、ふと視線を感じた。この感覚は、間違いなく八雲だ。八雲はまだ西岡先生と年度評価の話をしているはずなのに、意識の一部は確実にこちらへ向いている。私は心の中で、静かに息を整えた。そして、ゆっくりとあのリストサポー
「本当に偶然ですね、また水辺先輩と会うなんて」エレベーターの中で、葵は私を見た瞬間、目の奥に一瞬だけ驚きと、はっきりとした憎しみを浮かべた。だがそれもすぐに、作り物のような笑顔に塗り替えられる。確かに、よく会うものだ。まさに腐れ縁。私は口元をわずかに引き上げただけで、何も答えず、そのまま彼女の隣にいる八雲へ視線を移した。ちょうどそのとき、八雲の視線もこちらに向いていた。正確には、私の手にあるリストサポーターに。だが、次の瞬間には何事もなかったかのように視線を外す。まるで、最初からそれに気づいていなかったかのように。「奇遇だね。松島先生の検査も終わったのか?」先に口を開いたのは西岡先生だった。そのままエレベーターに乗り込み、私たちにも声をかける。「大丈夫、まだ余裕があるよ。水辺先生も夏目先生もどうぞ」「空気、あんまり良くないみたいですし、次を待ちましょうか」私の顔色を一瞥した颯也が、すぐにそう言った。さっきの一件を踏まえて、私の気持ちを気遣い、同乗を避けようとしてくれている。だが颯也が言い終える前に、私は西岡先生に答えていた。「いえ、大丈夫です。乗ります」颯也は一瞬、意外そうに私を見たが、何も言わず、そのまま一緒に乗り込んできた。エレベーターの扉が閉まる。狭い空間に、妙に張り詰めた静けさが満ちる。私は颯也の隣に立ったまま、向かいにいる八雲を静かに見つめた。何か手がかりが欲しくて。けれど八雲は終始視線を落としたまま、顔色一つ変えない。私のことも、私の手にあるサポーターのことも、まったく見ようとしない。そのとき、葵が八雲の腕に絡みつき、大きな瞳をこちらに向けてきた。「え?夏目先生だけがナイト役なんですか?藤原先生は?いないってことは……水辺先輩、最終的に夏目先生を選んだんですね?藤原先生、もう落選ですか。かわいそうに」私は視線をわずかに動かし、彼女を一瞥する。「そんなに残念なら、あとで藤原先生に伝えておくよ。松島先生を口説いたらどうかって」私がこのエレベーターに乗ったのは、彼女を許したからでも、診療科同士の関係を気にしたからでもない。確かめたいことがあったからだ。なのに、彼女はまたしても挑発してくる。完全に、私を「扱いやすい相手」だとでも思っているらしい。そんなに八雲の前で好き勝手なこ
ソファから思わず跳ね起きた。画面いっぱいに映し出された浩賢の顔を見た瞬間、心臓が喉元まで跳ね上がった。事故のあと、被害者遺族やネット民たちの反応を彼が見ていないはずがない。矢面に立つことがどれほど恐ろしいか、彼は誰よりも分かっている。それなのに──彼は、その責任を自ら背負ったのだ。……なんて、馬鹿なの。昨夜のあの慰めの電話が頭をよぎった。きっとあのとき、彼はすでに覚悟を決めていたのだろう。「カシャ、カシャ」とシャッター音が、ライブ映像の中で次々と響く。誰かが怒鳴り声を上げたかと思うと、黒いジャケットを着た男の記者がいきなり壇上へ駆け上がり、浩賢のマスクを掴んで引
良辰は鬼のような形相で、「必ず真相を突き止める」と言い放った。どうやら、彼自身も唐沢家の裏の動きを詳しくは知らないようだった。「もしお前たちが凛の死を利用して、俺を挑発したり、彼女を穢そうとしているなら……」言葉の途中で、彼は手にしていた日本刀を突然振り下ろした。「ザクリ」と鋭い音が響き、横に置かれていた花束が一瞬で真っ二つになった。私は静かにうなずき、真摯な声で答えた。「唐沢さん、どうぞお調べください。ただ、私の知る限り、唐沢家は本日の午後、東市協和病院に対して正式な弁護士チームを送り交渉する予定です。どうかお急ぎください」良辰はじっと私を一瞥し、すぐに背を向けて短く言っ
翌日の記者会見のことが気になって、私は尋ねた。「でも……今、世間の矛先は全部私に向いてる。明日の会見、本当に出なくていいの?」「必要ない」浩賢の声は迷いがなかった。「落ち着いて、ただ結果を待ってて」彼の穏やかな声色が、胸の奥に妙な安心を落とした。ほんの、三十秒ほどの間だけ。電話が切れたその瞬間、次に入ってきたのは──加藤さんからの着信。眉間を押さえ、ため息をひとつついてから通話ボタンを押した。「優月、これは一体どういうこと?私、まだスパも終わってないのに『事件』って聞いたのよ!」電話の向こうで加藤さんが悲鳴のように言った。「ニュースのあの『女性麻酔医師』って……まさか、
たぶん――八雲は、私と浩賢の会話を聞いていたのだと思う。誤解されたら困る。そう思って、私は慌てて口を開いた。「仕事のことよ。唐沢――」「どんな『仕事』だ?麻酔科のインターンが、朝っぱらから神経外科の医者に会いに行くような仕事があるのか?」彼は荒々しく私の言葉を遮った。「言い訳をするなら、もう少しマシなのにしたらどうだ」その言い方に、私は一瞬息を呑んだ。少し沈黙したあと、逆に問い返す。「じゃあ、紀戸先生は……どういう理由だと思う?」八雲は、言葉を詰まらせた。ただ、黙ったまま私を見つめている。彼は昨夜と同じ白いシャツを着ていた。襟元のボタンが二つ外れ、ネクタイはだらりと首に
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