Mag-log in私と紀戸八雲(きど やくも)との結婚は、最初から秘密だった。 結婚したことを隠してきたこの3年間、私は外に言えないくらい誇れない妻として八雲のそばにいた。 外から見れば、八雲は東市協和病院第一の執刀医で、冷酷無情で、唯我独尊の存在だ。いわゆる高嶺の花である。 したし私は、ただそのそばに立っているちっぽけな麻酔科のインターン生だった。 無数の真夜中で、私はいつも1人で家でその人の帰りを待っていた。広い部屋の中、寒くてたまらなかった。 自分がもっと頑張れば、もっと優しくなれば、いつかきっと振り向いてくれると思い込んでいた。 しかし現実は無慈悲で、残酷だった。 「あの人のところにもう行かないでくれない?」私は八雲の裾をギュッと掴んで、細い声で何度もお願いをしていた。 なのに八雲ただ笑った。その笑い声から明らかな嫌味を感じた。「ただの契約なのに、紀戸の奥さんは随分役に入り込んでるね」 * 月日が経ち、八雲のあの娘の前でしか表れない優しさを見てきた。 何も言わずに、私は静かに離婚協議書1枚だけ残して、家を出た。 それから、白銀の東市で、知れ渡ったあの紀戸先生は雪に埋もれた道端で膝をついて、涙目で復縁をお願いしてきた。「優月(ゆづき)、離婚しないでくれ」 その頬からぽつりと落ちた涙は、私の目から、すでに雪のような冷たいものになった。淡々と微笑みながら、私はこう答えた。 「もしかして紀戸先生も役に入り込んでるの?ごめんね、芝居に付き合う暇はないの。契約期限はもう過ぎたわ。告白したいなら、まず列に並んでちょうだい」
view more颯也が持っていったその検査用紙は、西岡先生があらかじめ私のために用意してくれていたものだった。西岡先生が勤務時間を過ぎても外来に残っていたのは、私が検査を受けに来るのを待つためで、その検査用紙もすでに書き終えて机の横に置いてあったのだ。それを颯也は迷いなく手に取り、そのまま私の手首を掴んで歩き出した。まるで、隣にいた浩賢の表情がどんどん険しくなっていくのなど、最初から気にも留めていないかのように。私も西岡先生も、しばらく呆然としていた。西岡先生は状況をまったく把握できないまま、机の上の検査用紙を勝手に持っていかれてしまった。その一方で私は、反応する暇すらなく、そのまま颯也に強引に連れて行かれた。「待って」整形外科外来を引きずり出されそうになったその瞬間、もう片方の手首を誰かに強く掴まれた。浩賢だった。彼は私の手をぎゅっと握りしめ、頬を強張らせ、眉を深く寄せている。普段は優しく穏やかなその目が、今は颯也を鋭く睨みつけ、不満と怒りを隠そうともしていない。「夏目さん、何をしてるんだ?」「見て分からない?優月を検査に連れていくんだよ」颯也は足を止めざるを得なくなり、振り返って浩賢と視線を合わせた。細く吊り上がった狐のような目がわずかに細められるが、そこに譲る気配は一切なかった。「優月は俺が連れてきたんだ。西岡先生だって俺がお願いした。だから俺が連れていけばいい。君が出しゃばる必要はない!」浩賢の視線はまるで刃のように鋭く、息も荒くなっている。それでも颯也はまったく意に介した様子もなく、口元を歪めて妖しく笑った。「ずいぶん大きな口だね、藤原さん。知らない人が聞いたら、優月が君の所有物みたいに思うぞ。連れて来るのも連れて行くのも自由、そのうえ全部君の言う通りにしろって?」笑ってはいるが、その鋭さはまったく引けを取らない。案の定、その一言で浩賢の怒りは一気に跳ね上がった。私の手を握るその手はわずかに震えていて、声にも強い圧がこもっている。「優月は物じゃない!俺は一度だって彼女の意思に反することをしたことはない!それより君だろ、優月の気持ちを聞いたのか?勝手に引っ張って検査に連れて行って、彼女が本当に君と一緒に行きたいと思ってるのか?」口論に関して言えば、浩賢は颯也に敵わない。浩賢は実直で真っすぐな性格で、普段
「うん」浩賢の去っていく背中を見送りながら、胸の奥にまた温もりが広がった。けれど同時に、あの見えないプレッシャーもいっそう強くなる。浩賢は優しくて細やかで、私を困らせないように「友達」という名目で気遣い、親切にしてくれる。でも――本当は、ただの友達じゃないことくらい、私だって分かっている。なのに、どう断ればいいのか分からない。実際、一度はきちんと断ったはずなのに、今の彼のやり方では、断る理由そのものが見つからない。やっぱり、どこかで改めてはっきりさせるしかない。……その日も仕事は相変わらず忙しく、夕方になってようやく一日の業務を終えた。荷物をまとめて帰ろうとする。だが、オフィスを出る前に、背後から足音が追いついてきた。すぐ耳元で、柔らかな笑いを含んだ声が響く。「優月、今夜は何が食べたい?」颯也の声と笑顔には、どこか人を引き寄せる不思議な力があるのかもしれない。それとも、彼の唇がふと耳元に触れたせいか――まるで火に触れたみたいに、私は思わず跳ねるように身を引き、距離を取って慌てて彼を見た。今度の熱は、耳元から頬へと一気に広がっていく。颯也はその場に立ったまま、楽しそうに私を見つめていた。あの細長い狐のような瞳の奥で、柔らかな光が揺れている。「今夜、ですか?」どうにか気持ちを落ち着けながら、私はようやく意味を理解した。――そうだ、今夜は颯也と一緒に食事をする約束だった。少し気まずくなりながら口を開く。「すみません、夏目先生。今夜はちょっとご一緒できなさそうで……」「用事か?」颯也はわずかに眉を上げる。「はい」私は頷いて、すぐに付け加えた。「別の日に、改めてご馳走させてもらってもいいですか?」彼に「食事に誘われるのが嫌だ」と思われたくなかった。実際、感謝の気持ちもあるし、何度でもご馳走するのは全然構わない。それに、彼と食事をするのは楽しい。料理のセンスもいいし、一緒にいると気分も明るくなる。颯也の、妖しく笑っていた瞳が少しだけ陰り、ほんの一瞬、寂しげな色がよぎる。だがすぐにそれを抑え込み、軽く首を振った。「別に奢ってほしいわけじゃない。大丈夫だ、用事があるならそっちを優先してくれ」「はい、じゃあまた明日」それ以上気にかけている余裕はなかった。廊下の向こう
藤原夫人は、これらのことをすべて知っていて、それでも反対していないの?胸の中の驚きは一気に頂点に達した。「ふ……藤原夫人が……」「母は君のことをとても気に入ってるよ。一度しか会っていないけど、ひと目で分かったって、しっかりしていて大らかな子だってね。だから、ちゃんと大事にしなさいって言われてる」浩賢は私の言葉を引き取り、澄んだ黒い瞳でまっすぐこちらを見つめながら、穏やかで真剣な口調で言った。胸がわずかに揺れる。以前、入院していたとき、浩賢は藤原夫人が自ら煮込んだスープを持ってきてくれた。そのとき彼は、婚約を解消することを母親が承諾したとも言っていた。けれど私は、その言葉を信じていなかった。その後、彼はその話を二度と口にしなかった。それでも変わらず私に接し続けてきた。そして今日になって初めて、そのすべてを知ることになった――胸に広がる感情は、あの頃とはまるで違う。強く心を動かされる。けれど同時に、目に見えないプレッシャーのようなものが胸にのしかかる。私は浩賢を見つめたまま、何を言えばいいのか分からなかった。「水辺先生、早く食べて」私の戸惑いを察したかのように、浩賢はすぐに話題を変え、食事を促した。それから、顔色の悪い颯也のほうをちらりと見やる。「夏目先生、この朝食は量が少ないから、分けてあげられない。気を悪くしないでね」――わざとだ。完全にわざとだ。分けないだけならまだしも、わざわざ愛想よく言うあたりが余計に腹立たしい。しかもその愛想の売り方が絶妙に嫌味で、なおさらたちが悪い。案の定、颯也の表情はさらに陰り、険しさを増した。体の横に垂らしていた手は強く握り締められ、関節が白く浮き出る。手の甲には青筋が浮かび、その細長い狐のような目は刃のように鋭く、浩賢を射抜いていた。それでも浩賢はまったく意に介さない。その刃のような視線を真正面から受け止めながら、どこまでも穏やかで人のよさそうな笑みを浮かべている。「大丈夫。朝食はもう済ませているから。水辺先生、温かいうちに食べてね。俺はこれで仕事に戻るよ」颯也は握りしめた拳を白衣のポケットに押し込み、私にひとこと言い残すと、そのままオフィスを出ていった。「はい、すぐ食べます」私は少し申し訳なく感じながら答えた。だが浩賢はまったく気にする様子もなく、むしろ
「朝食を届けに?」颯也は眉を上げ、驚きを含んだ声を漏らした。彼が驚いた理由は分かる。さっき私は「朝食は食べた」と言ったばかりなのに、浩賢が食事を持って現れたのだから。私は少し気まずくなり、説明しようとした。けれど浩賢のほうが先に口を開いた。彼はランチボックスを開けながら中身を並べ、眉を上げて颯也をちらりと見やる。「ずいぶん大げさに新雅を辞めて東市協和病院まで追いかけてきて、優月を口説こうとしてるくせに、基本的なことも知らないんだね。優月は胃腸が弱いから、朝はちゃんとしたものを食べないと胃が痛くなる。今の住まいじゃ朝食を作るのも不便だし、この時間ならどうせ何も食べてないだろ?」浩賢は確かに私のことをよく知っている。生活リズムも、いつも朝食を食べ損ねがちなことも。けれど彼が颯也に向ける視線や口調には、あからさまな軽蔑と嫌悪が混じっていた。まるで挑発しているみたいだ。もともとこの二人は折り合いが悪く、顔を合わせれば言い合いになる。ここで衝突するんじゃないかと、私は不安になった。「それで、これを食べさせるつもり?屋台の食材は質も良くないし安全とも言えない。そんなものを食べたら、かえって胃腸に悪いだろう」案の定、颯也も眉をひそめ、対抗するような空気を纏う。一瞬で場の空気が張り詰めた。私は焦って、すぐに口を開いた。「大丈夫です……」確かに屋台の味噌汁は家で作るものとは違うけれど、そこまでひどいわけじゃない。営業には資格も必要だし、衛生が悪ければとっくに摘発されているはずだ。そんなに大げさな話じゃない。浩賢は善意で朝食を持ってきてくれたのに、あれこれ文句をつけるわけにはいかない。「誰が屋台で買ったなんて言った?優月に危ないものを食べさせるわけないだろう。これは全部家から持ってきたんだ。うちの野沢(のざわ)さんが作ったものだよ」浩賢はまったく動じることなく、落ち着いた様子で箸とスプーンを取り出して私に差し出した。顎をわずかに上げ、まぶたをゆるく持ち上げて颯也を見るその表情は、「そんなことくらい想定済みだ」とでも言いたげだった。その一言に驚いたのは、颯也だけじゃない。私も同じだった。「藤原先生、これ……家から持ってきたの?それじゃ……」浩賢は今日だけでなく、ここ最近ずっと朝食を持ってきてくれていた。私はずっと
整理券を受け取ったとき、私は大方の事情を察した。きっと昨晩、母がこっそり浩賢に連絡を取って、裏から何とかしてくれと頼んだのだろう。でも浩賢は筋の通った人だ。だから彼なりの答えが「規則通り、受付でちゃんと整理券を取る」だったのだ。それに加え、彼が昨夜も当直だったと考えると、私はひどく居たたまれない気持ちになった。「ありがとう、藤原先生......迷惑をかけて」彼は気にしなかった。「友達同士なのに、そんなの気にするなよ」彼がそう言ってくれればくれるほど、私の心には罪悪感が積もっていった。ちょうど謝ろうとした矢先、加藤さんから電話が入った。彼女とおじがすでに外来入口に到着して
実は私はお酒にそんなに強くはないのだ。それに飲んだのはロイヤルサルートウィスキーのような度数の高いお酒だし、二杯飲み干した後、少し気持ち悪くなった。でも食事会のボードゲームは楽しいことが目的だから、呼ばれたのに飲まないなら、つまり楽しめないということだ。そんなふうに見られないように、私も付き合わなければいけない。しかしこのお酒は、何グラスも何グラスも飲まされて、切りがなかった。あっという間に、私はもう四杯、五杯ぐらいも飲まされた。また薔薇子にグラスを挙げるよう言われた時、ずっと雰囲気を和らげている葵は突然口を開いた。「水辺先輩はもう何グラスも飲んじゃったよ。今回はやめてあげよう
気持ちを整理できたら、私はまた相談室に戻った。八雲はもう去っていって、豊鬼先生と何人かのスタッフしか残っていなかった。「今日は紀戸先生がいらっしゃったおかげで助かったんだ」豊鬼先生はまるで災難から幸い生き残ったように、ニヤニヤしながら私の顔に目を走らせた。「次にあの方に会ったら、ちゃんとお礼を言うんだぞ」お礼。私はこの言葉を噛み締めて、それから松島葵たちがお手洗いでの会話を思い返して、この瞬間、思わず鼻で笑った。八雲は葵のために助けに来たし、この場にいた他の人は、どう見ても濡れ衣を着せようとしたし、感謝することなど、できないわ。「水辺さんも今日麻酔科の役に立った
本当に八雲の主催だった。この瞬間、私は心の中で泣き笑いした。妻として、自分の夫の性格に関してはよく知っている自信がある。八雲は静かな場所が好きだから、一般的には、絶対にパーティーなどに行くわけがない。私が紀戸家に嫁入りしたこの3年間、そのような珍しい状況は1回か2回しかなかった。なのにたったこの半ヶ月で、その例外はもう2回もあった。目の前のこの純真無垢な女の子のために。お祝い?奢り?じゃあ私は?お茶を淹れてあげるためにいるのか?心が不意に真っ二つに分けられた。半分は失望の気持ちで、半分は羨ましい気持ちだった。「いや、私はいい」私は軽い口調で言った。「約束があ
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