LOGIN私と紀戸八雲(きど やくも)との結婚は、最初から秘密だった。 結婚したことを隠してきたこの3年間、私は外に言えないくらい誇れない妻として八雲のそばにいた。 外から見れば、八雲は東市協和病院第一の執刀医で、冷酷無情で、唯我独尊の存在だ。いわゆる高嶺の花である。 したし私は、ただそのそばに立っているちっぽけな麻酔科のインターン生だった。 無数の真夜中で、私はいつも1人で家でその人の帰りを待っていた。広い部屋の中、寒くてたまらなかった。 自分がもっと頑張れば、もっと優しくなれば、いつかきっと振り向いてくれると思い込んでいた。 しかし現実は無慈悲で、残酷だった。 「あの人のところにもう行かないでくれない?」私は八雲の裾をギュッと掴んで、細い声で何度もお願いをしていた。 なのに八雲ただ笑った。その笑い声から明らかな嫌味を感じた。「ただの契約なのに、紀戸の奥さんは随分役に入り込んでるね」 * 月日が経ち、八雲のあの娘の前でしか表れない優しさを見てきた。 何も言わずに、私は静かに離婚協議書1枚だけ残して、家を出た。 それから、白銀の東市で、知れ渡ったあの紀戸先生は雪に埋もれた道端で膝をついて、涙目で復縁をお願いしてきた。「優月(ゆづき)、離婚しないでくれ」 その頬からぽつりと落ちた涙は、私の目から、すでに雪のような冷たいものになった。淡々と微笑みながら、私はこう答えた。 「もしかして紀戸先生も役に入り込んでるの?ごめんね、芝居に付き合う暇はないの。契約期限はもう過ぎたわ。告白したいなら、まず列に並んでちょうだい」
View More八雲が愛しているのは葵であって、私じゃない。だからこそ、私はもう気持ちを断ち切って、離れると決めたのだ。今さら彼とよりを戻すなんて、あり得ない。私は颯也に向かって、静かに微笑んだ。「ありがとうございます、夏目先生。でも……ごめんなさい、その気持ちは受け取れません。私は紀戸先生とよりを戻すつもりはないし、戻す必要もありませんから」「『ごめんなさい』なんて言わないでくれよ。優月が彼とよりを戻さないっていうなら、俺はむしろ嬉しいくらいだ」颯也は、ほっとしたように息をついた。そのまま口元を上げて、ぱっと明るい笑顔を見せる。さっきまでのわずかな陰りが、一瞬で晴れたようだった。まるで、曇り空が一気に晴れたみたいに。「……じゃあ、さっきのは?」私は思わず聞き返す。「わざとだよ。優月の中に、まだ紀戸さんがいるかどうか確かめたかった」彼はあっさりと、自分の意図を認めた。「正直、最初は藤原さんだけがライバルだと思ってた。でも後で知ったんだ、紀戸さんが優月の元カレだって。だから気になった。あいつがよりを戻したがってる可能性も、優月がそう思ってる可能性も」そこで、少しだけ悪戯っぽく笑う。「――でもさ、たとえ優月がそうしたがっても、俺は止めるよ。絶対に、やめさせる。紀戸さんの代わりに、俺が優月の中に入り込むから」「……夏目先生……」颯也が直球なのは分かっていたけれど、ここまでとは思わなかった。あっさりと自分の本音を認めてしまうなんて――それってもう、完全に手の内をさらしているのと同じだ。むしろ、そのせいで私は完全に言葉を失ってしまった。彼の顔を見つめる。妖しく艶めいた笑みを浮かべたその顔。細く長い狐のような目は弧を描き、眩しいほどに輝いている。どう返せばいいのか、分からない。「俺は自信あるよ。紀戸さんより、俺のほうがいい男だ」颯也はわずかに顎を上げた。さっきまで妖しく笑っていたその目が、今はまっすぐで真剣な光を宿している。「優月みたいな子は、大事にされるべきだ。俺ならちゃんと大事にする。絶対に、悲しませたりしない」その想いは、まるで花が咲き誇るみたいに、まっすぐ私の前に差し出されていた。――彼らしい。どこまでもストレートで、どこまでも熱い。一切の遠回しもない。だからこそ、私は余計にどうしていいか分からなくなる。思
「サポーター、なんで外した?」車に乗ってから、颯也は私の手元に気づき、さらに問いかけてきた。「優月、それ、誰にもらったんだ?まさか藤原さんじゃないよな?」「違います」私は反射的に首を振り、少し間を置いてから付け加えた。「……たぶん、母がくれたんだと思います」――きっと、そうに違いない。あの夜、病室に来てくれたのも母だったのだろう。浩賢のはずがない。もし彼なら、あのとき「八雲がくれたものなのか」なんて聞くはずがない。もちろん、八雲でもない。あの頃の彼はずっと葵に付き添っていて、私のことなど気にも留めていなかった。そんな八雲が、サポーターを用意してくれるはずがない。……なのに、私はわざわざ確かめようとしてしまった。完全に諦めるために。このサポーターは、おそらく母がくれたものだ。母はいつだって口はきついのに、本当は優しい。あの数日、私たちは言い争って気まずくなっていたけれど、きっと直接会う代わりに、こうしてこっそり気遣ってくれていたのだろう。「お母さん、さすがだな。ちゃんと細かいところまで気が回る」颯也が感心したように言う。「……そうですね」私はぎこちなく笑った。少し迷ってから、口を開く。「ごめんなさい、夏目先生。今日は一緒に食事できそうにありません。急に食欲がなくなって……ちょっと疲れちゃって」嘘ではない。本当は、ついさっきまで楽しみにしていた。颯也と食べるご飯は、いつも美味しくて、心地よい時間だから。でも、今はどうしても、その気分になれなかった。「分かった。じゃあ送るよ。今日は早く休め」颯也の顔に一瞬だけ落胆がよぎったが、すぐにいつもの調子に戻る。何も言わずにハンドルを切り、私をマンションへ送り届けてくれた。私が気分を落としているのを察したのか、道中はずっと静かだった。私はシートに身を預け、窓の外をぼんやり眺める。薄暗い空。オレンジ色の街灯が、ひとつ、またひとつと後ろへ流れていく。心の中の光も、それに合わせるように、少しずつ消えていった。マンションの前に着き、私は車を降りて手を振った。そのとき――「優月」颯也が、私を呼び止めた。「まだ、紀戸さんのこと……忘れられないのか?」「……え?」あまりにも直球すぎる問いに、思わず言葉が詰まる。「さっきから見てると、気分も食
八雲が帰ってきたとき、私は必死に焦げた鍋をこすっていた。彼の姿を見た瞬間、胸が詰まって、涙がこぼれてしまった。「ごめんなさい……サプライズにしようと思ったのに、こんなことになって……」しゃくりあげながら謝る私に、八雲はふっと笑って、両手で私の顔を包み込んだ。優しく涙を拭いながら、軽くからかうように言う。「こんなことで泣く必要ある?ほら、顔ぐちゃぐちゃだぞ。まるで子猫だな」私は涙を拭きながらも、まだしょんぼりしていた。「でも、どうしよう……食材も無駄にしちゃったし、夕飯も遅くなっちゃった。簡単にラーメンでも作ろうか?」「そんな顔でまだ料理する気か?こんなに落ち込んでる優月を、これ以上働かせるわけないだろ」八雲は首を振って、私のエプロンを外し、コートを着せてくる。そう言うと、有無を言わせず私の手を引いて外へ連れ出した。「行こう、外で食べよう」「じゃあ、何食べるの?」車に乗せられながら聞いたけれど、彼は答えなかった。そして、到着した先で、私は思わず声を上げた。雑炊専門の店だった。「優月、これ食べたかったんだろ?今日はこれにしよう」八雲はそう言って、私の手を引いて席に座らせた。小さな店だった。テーブルも数えるほどしかなく、ほとんどが相席。私たちも隅の席に腰を下ろし、周囲の賑やかな声に包まれながら、その一杯を食べた。あれは、今までで一番美味しい雑炊だった。もちろん、あのスキンヘッドの店主の腕が確かなのもある。でも、それだけじゃない。食べ終えたあと、八雲は私の手を引いて、入り組んだ細い路地をゆっくり歩いた。星が瞬き、冬の風は冷たく頬を刺す。それでも、お腹の中には温かい雑炊が残っていて、隣には心から好きな人がいる。ただそれだけで、世界は驚くほど優しくて、温かく感じられた。そして今、颯也がその店の話をした。八雲も、きっと思い出したはずだ。あの夜のことを。私と一緒に歩いた、あの帰り道を。けれど、その瞬間、八雲の視線はすっと引かれた。私の手にある保温サポーターから。私が八雲を見たときには、彼はすでにその表情は淡々としていて、何事もなかったかのように西岡先生と話を続けている。それ以上、視線を向けることはなかった。ほんの一瞬の目配せすら、なかった。やがてエレベーターは地下二階の駐車場に到着し
八雲は、颯也に言葉に気をつけろと言った。私はてっきり、葵を庇って、彼女の面目を取り戻すために割って入ったのだと思った。だが、違った。八雲が指摘したのは、颯也が浩賢をそんなふうに話すことだった。葵のためではなく、浩賢のために口を開いたのだ。……それって、どういうこと?私だけでなく、葵も明らかに驚いていた。彼女はぽかんとしたまま八雲を見つめ、小さく呟く。「八雲先輩……」「はいはい、分かった分かった。同僚だもんな、もうあいつのことは言わないよ」颯也は一瞬だけ意外そうにしたあと、すぐに立て直した。眉を軽く上げ、舌打ち混じりに笑いながら、狐のような目に光を宿す。「まあ、あいつも別に本当に人を見る目がないわけじゃないしな。な?」一応は譲歩したように聞こえるが、実際には、相変わらず葵を遠回しに刺している。ただ、さっきほど露骨ではないだけだ。葵の顔は、みるみるうちに青ざめていく。そのまま颯也を睨みつけ、怒りを押し殺しているのが分かる。「まあまあ、みんな同僚なんですから、仲良くしましょう……そうだ、紀戸先生。今年も院内の年間表彰、そろそろ始まる時期ですよね?今年も神経外科が有力でしょう?」空気を変えようと、西岡先生が慌てて話題を切り替えた。「それは分かりませんよ。整形外科も西岡先生のもとでかなりレベルが上がっていますし。今年は整形外科が取る可能性も十分あります」八雲も、その流れに自然に乗る。二人はそのまま業務の話へと移り、さっきのやり取りは完全に流された。言いかけた言葉をすべて飲み込まされ、葵の顔色はみるみる悪くなっていった。そのまま颯也をじっと睨みつけ、隠しきれない怒りが目に浮かんでいる。一方で、颯也の口元の笑みは、むしろ深くなる。気だるく、どこか勝ち誇ったような笑み。そして、ふと私に顔を向けた。「優月、夕食は雑炊にしない?いい店知ってるんだ。鶏と野菜の雑炊が絶品でさ。ピリ辛料理はまた今度にしよう。最近、胃腸の調子は良くないんだろ?刺激物は控えたほうがいい」「いいですね」私は頷いた。その瞬間、ふと視線を感じた。この感覚は、間違いなく八雲だ。八雲はまだ西岡先生と年度評価の話をしているはずなのに、意識の一部は確実にこちらへ向いている。私は心の中で、静かに息を整えた。そして、ゆっくりとあのリストサポー
そのとき、葵がようやく我に返ったようで、慌ててずっと八雲に絡めていた腕を離し、頬を赤らめながら、恥ずかしそうに手を振って否定した。「ち、違う……!八雲先輩と私は付き合ったわけじゃないの。わ、私たちはただ、あの夜ここに置き忘れた手袋を取りに来ただけで……まだ、その……」今日は本当に、おかしなことばかりだ。ただの友人同士の食事が、八雲には恋人同士のデートだと断定され、私とは友人関係にすぎない浩賢が、私の手を引いて恋人のふりをしている一方で、何度一緒に寝たかも分からない「本物の恋人」たちは、必死に関係を否定している。どうにも理解できなかった。葵と八雲は、もうここまでの関係なのに、なぜそれ
しかしそのとき、窓越しに見覚えのある人影が目に入った。正確に言えば、二つの影だ。背の高い男がすっと立っている。黒のブリティッシュスタイルのコートに身を包み、その体躯はいっそう引き立っていた。冷ややかで近寄りがたい雰囲気をまとい、この古風な庭の中ではひときわ目立つ存在だ。そして、さらに目を引いたのは、彼の隣に寄り添う淡いピンク色の可憐な人影。小柄なその女性はシャネルのセットアップに、ふわふわとした可愛いバッグを肩に掛け、彼の腕に絡みつくようにして、半身を預けている。小さな顔を見上げ、何かを楽しげに話していた。絵に描いたような眉目秀麗さと、愛らしい笑顔。――八雲と、葵だった。
私はそのまま二人を追い出すような言葉を言った。その一言に、八雲と葵の表情には明らかな驚きが浮かんだ。葵は怯えたように私と八雲の顔を交互に見ながら、おそるおそる言った。「水辺先輩……八雲先輩は、加藤患者の状態を確認するために急いで駆けつけたんですよ。なのに今……」「もう結構です」私は葵の言葉を最後まで聞かず、八雲の方をまっすぐ見つめ、落ち着いた声で言った。「おじの病状について、今日から紀戸先生にご心配いただく必要はありません。私はすでに主治医変更の申請を出しましたので、近いうちに通知が届くと思います」その瞬間、場の空気が止まった。先ほどまで余裕ぶっていた八雲の表情も、その言葉を聞
私は電子ファイルを開いた。加藤さんは婚前契約書に目を通し、その内容をじっくり確認したあと、まるで魂が抜けたように立ち尽くし、震える声でつぶやいた。「契約が終わるまで……あと十八日しかないってこと……?」私ははっきりと頷いた。するとまた加藤さんが聞いてきた。「期限になったら……あんたたち、そのまま自動的に離婚するの?」「……市役所に行って、離婚届を出す必要はあると思う」「優月!」突然、加藤さんは声を荒らげ、足踏みしながら叫んだ。「優月!あんた本当にどうかしてるわ!こんな大事なこと、なんで今まで黙ってたのよ!」叫び終わると、怒りと悲しみが一気に押し寄せたのか、彼女はその場にしゃ
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