私と紀戸八雲(きど やくも)との結婚は、最初から秘密だった。 結婚したことを隠してきたこの3年間、私は外に言えないくらい誇れない妻として八雲のそばにいた。 外から見れば、八雲は東市協和病院第一の執刀医で、冷酷無情で、唯我独尊の存在だ。いわゆる高嶺の花である。 したし私は、ただそのそばに立っているちっぽけな麻酔科のインターン生だった。 無数の真夜中で、私はいつも1人で家でその人の帰りを待っていた。広い部屋の中、寒くてたまらなかった。 自分がもっと頑張れば、もっと優しくなれば、いつかきっと振り向いてくれると思い込んでいた。 しかし現実は無慈悲で、残酷だった。 「あの人のところにもう行かないでくれない?」私は八雲の裾をギュッと掴んで、細い声で何度もお願いをしていた。 なのに八雲ただ笑った。その笑い声から明らかな嫌味を感じた。「ただの契約なのに、紀戸の奥さんは随分役に入り込んでるね」 * 月日が経ち、八雲のあの娘の前でしか表れない優しさを見てきた。 何も言わずに、私は静かに離婚協議書1枚だけ残して、家を出た。 それから、白銀の東市で、知れ渡ったあの紀戸先生は雪に埋もれた道端で膝をついて、涙目で復縁をお願いしてきた。「優月(ゆづき)、離婚しないでくれ」 その頬からぽつりと落ちた涙は、私の目から、すでに雪のような冷たいものになった。淡々と微笑みながら、私はこう答えた。 「もしかして紀戸先生も役に入り込んでるの?ごめんね、芝居に付き合う暇はないの。契約期限はもう過ぎたわ。告白したいなら、まず列に並んでちょうだい」
View More私のこの自信に満ち、率直な発言に、人事部主任は一瞬表情を曇らせた。だがすぐに、彼はこう尋ねてきた。「昨日、協和病院の交流グループにあなたと新雅総合病院麻酔科の夏目先生のツーショットが上がっていたけど、それについてどう思う?」「交流会だった以上、協和病院としての友好と誠意を示すのは当然のことです。写真で夏目先生が私を支えているように見えるのは、あの時ちょうど甲板が揺れていて、彼が紳士的に手を貸してくれただけです」私の目があまりにも澄んでいたせいか、人事部主任の顔も、部屋に入ってきた時ほど険しくはなかった。短い沈黙のあと、彼はこう告げた。「とりあえず、普段通り仕事に戻りなさい。この件については我々がきちんと調査する」渡りに船だった。ただ、どこのどいつがわざわざ匿名の告発状を人事部に持ち込んだのか、それだけが引っかかった。まあ、結果を静かに待つとしよう。そう思っていた矢先、人事部のドアを出た瞬間、まさかの人物と鉢合わせした。葵だった。彼女もまさかここで私と会うとは思っていなかったのだろう、一瞬戸惑った顔をしたが、軽く会釈してからおずおずと人事部の扉を押した。そして間もなく、「私が人事部に呼ばれた」という話があっという間に麻酔科内で広まった。私の平然とした表情に焦った様子で、桜井さんが言った。「もうダメなら、青葉主任にお願いしに行こうよ。あの人、病院でも古株だし、きっと一言頼めば......」「ちょっと待って」と、看護師長が異を唱えた。「病院が調査すると言うなら、こっちから動く必要ないでしょ。最後に誰が仕掛けたか、見ものじゃない?」二人の言い合いを見ているうちに、私の不安も少しずつ和らいだ。そうして、退勤時間が来るのをじっと待った。ちょうど荷物をまとめようとした時だった。廊下に響く大きな声。「水辺先生いますか?水辺優月先生、いますか?」この声は......神経外科の尾崎薔薇子じゃない?こんな時に、彼女が私に何の用だろう?不思議に思いながら科室を出て、顔を上げると、そこには薔薇子だけでなく、目を真っ赤にした葵の姿もあった。彼女は薔薇子の袖を引っ張り、か細い声でつぶやいた。「やめようよ薔薇子......水辺先輩のせいじゃないし、帰ろ?」けれど薔薇子はその場を動かず、挑戦的な視線をこち
まさか、またしても世間の注目を浴びることになるとは思ってもみなかった。しかも、こんな形で。原因となった葵は、グループチャットで「ごめんなさい」と一言だけ謝ったきり、それから4時間が経っても、私に直接の連絡は一切なかった。もし偶然にも浩賢と出くわしていなければ、私は今でも何も知らず、無防備に笑っていたかもしれない。何より私が傷ついたのは、夫の八雲、今回の交流会に同行していた「紀戸先生」が、騒ぎの中心となった私を一言も擁護しないどころか、「無心の行為」だと言って、真っ先に葵の肩を持ったこと。そりゃ、あの子も謝罪のメッセージ一つ寄越さないわけだ。大したことない、紀戸先生が守ってくれると、思ってるに違いない。じゃあ私は?何も知らないまま、まるで「運命の恋人」のような写真を勝手に撮られ、そして勝手に、みんなの目に晒された私は?ちゃんと追及するなら、肖像権の侵害とだって言えるのに。指先がメッセージ欄の上を何度も彷徨ったけれど、結局送信はやめて、メッセージを削除した。もう、ここまで来たら、何を言っても無駄だ。説明の言葉が少なければ「誤魔化してる」と言われ、多ければ「自分を正当化してる」と言われるだろう。どう言ったって、どうせ悪く取られる。世の中には、事情も知らずに噂話に花を咲かせる人間が、何より多いのだから。「松島先生を探してくる」長い沈黙の後、浩賢が急に立ち上がり、真剣な顔で言った。「彼女が原因なんだ。ちゃんと説明してもらうべきだよ」もちろん、それは私も分かっていた。でも、これ以上彼を巻き込みたくなくて、やんわりと止めた。「明日の朝、病院でまた会うし......その時でいいよ」彼はこちらを一瞥し、少し眉を寄せた。「水辺先生、あまり調子よくなさそうだけど、体調悪い?」少し驚いて、私は軽く笑ってごまかした。「ちょっと、水が合わなかっただけ」「じゃあ、送るよ。今日は早めに休んだほうがいい」まさか、白霞市へ向かった初日からずっと熱を出していたというのに、数日経って、私の体調の異変に気づいたのは、彼一人だけだったなんて。水辺優月、あんたはもう、こんなところまで来ちゃったんだね。体の疲れはあったのに、眠りは浅く、夜中二度も夢を見た。夢の中で、同僚たちが私のことを噂し、病院側は私の能力が不十分
タクシーに乗って、父の療養院へ向かった。思えば、ここへ来るのはずいぶん久しぶりだ。白髪が目立ち始めた父の姿と、少しずつ衰えていく顔を見ていると、胸の奥が締めつけられた。もし父が、自分が頭を下げてまで決めた結婚が今のような状態になると知っていたら、きっと深く後悔して、自分を責めたに違いない。お父さん、私たち、間違ってたかもしれない。無理やり結んだ縁に、いい結果はないのよ。ネイルを整え、髪を切り、身の回りの用事を済ませると、もう夕暮れ時になっていた。布団を整えてあげてから、私は名残惜しそうに病室を後にした。ベッドに横たわる父の姿を最後にもう一度振り返って、私は自分に言い聞かせた。水辺優月、あんたはこんなことで倒れたりしない。気がつけば、私はいつエレベーターに乗ったのかさえ覚えていなかった。ぼんやりとしていた私の耳に、柔らかい声が届いた。顔を上げると、そこには見慣れた顔――浩賢がいた。「藤原先生はどうしてここに?」「やっぱり水辺先生か、偶然だな」少し話して分かったのは、なんと浩賢の祖父もこの療養院に入っているのだという。「水辺先生、ちょっと元気なさそうだね」私の様子に気づいた彼が、優しく声をかけてきた。「グループでの書き込み、気にしなくていいよ。冗談半分なんだから、時間が経てばみんな忘れるさ」「......グループ?」私は目を瞬かせた。「何のこと?」彼も驚いた。「協和病院のオフ会グループだよ。水辺先生、見てなかったの?」私は確かにそのグループに入っていたが、普段は業務以外の通知は全てミュートにしていた。興味もなかったし、特に見ようとも思っていなかった。浩賢に言われて、私は初めてそのグループを開き、無数の未読メッセージをゆっくりとスクロールしていった。そして見るにつれ、心がズシリと沈んでいった。見るまでは気づかなかったが――見た瞬間、背筋が凍った。最初は何の気なしに貼られていた、白霞市での交流会の写真。二十枚ほどの真面目な勉強風景の中に、私と颯也が一緒に写った一枚があった。クルーズ船の上、ライトショーの光の下。彼が私の手首をそっと支え、私は彼の差し出した手をしっかりと握っていた。角度のせいか、まるで映画のワンシーンのように見えた。運命に導かれた男女――そんな演出の中、私と颯也が主役として
八雲は、みんなの前で取り乱した。使用人たちは慌てて片付け、義母は急いでティッシュを差し出した。潔癖症の彼は、袖口についた数滴のスープを見て顔をしかめ、無言で洗面所へ向かった。案の定、義母はそれ以上話を続けなかった。まあ、私も別に彼を陥れようと思ったわけじゃなかった。でも川辺の写真は、結局彼が葵と一緒に見に行ったわけで......私が彼の代わりに矢面に立った。普通なら、少しぐらいフォローがあってもいいはずなのに。けど八雲は、何も言わなかった。なら私も、伝えておかないと。「一度は我慢するけど、毎回あなたの尻拭いをするつもりはない」と。5分後、新しいシャツに着替えた八雲がリビングに戻ってきた。私に一瞥をくれて、冷たく言った。「時間がない。先に帰るよ」渡りに船だ、と思ったのも束の間、彼の冷ややかな目線が視界に入ってきて、背筋が凍りついた。どうやら、また怒ったようだ。私は助手席に乗り込んで本家を後にした。ところが数秒後、「ブオンッ」とエンジンが吠え、猛獣のようにベンツGが走り出した。身体が前に持っていかれ、私は慌ててシートベルトを掴んだ。風が耳元を切り裂くように吹き抜け、心臓が喉元まで跳ね上がった。不安と恐怖で息が乱れ、目をきつく閉じた。どれくらい時間が経ったのか、「キキィィッ」と急ブレーキの音が響き、私は再び前のめりに。目を開けると、八雲は車を道路脇に停めていた。無言のまま、ハンドルの上で指をトントンと鳴らして、何かを考えているようだった。たかがスープがかかっただけで、そんなに怒ること?何か言おうとしたけど、その瞬間、胃が焼けつくように熱くなり、息をするのもつらかった。急いでドアを開け、道端に身を乗り出して、えずいた。その時だった。「楽しいか?」耳元に低く鋭い声が突き刺さった。いつの間にか私の横に立っていた八雲が、不機嫌そうに言った。「わざと彼らを挑発して、面白い?」「わざと」?「挑発」?私は困惑して八雲を見た。苦し紛れに呟いた。「最初に仕掛けたの、私じゃないでしょ......」義母が私をどう責め立てていたか、彼はちゃんと見てたはずなのに。どうして、私がわざに挑発したことになるの?八雲は小さく鼻を鳴らし、指の関節が白くなるほど力を込めて拳を握った。「以前のお前は、もっ
これは遠回しに私を責めてる。でも私と八雲とでは、立場がまるで違う。彼は飛行機を降りれば専用車に迎えてもらえるが、私はただの一介の職員。「紀戸奥さん」の身分を隠してる以上、みんなと一緒にタクシーを並んで待つしかない。時間がかかるのは当然だ。心の中では反論していたけど、口に出す元気はもうなかった。昨夜の甲板の風が効いたのか、頭がずしりと重かった。料理が運ばれてくると、義母はすぐに八雲のためにスープをよそい、体調はどうか、無理してないかと優しく声をかけていた。母の慈愛と子の孝行、その理想形。そして私は、完全に空気扱いだった。黙ってご飯だけでも食べて終わらせよう、そう思っていた矢先。鼻先に漂ってきたのは、あの独特なドリアンの匂いだった。吐き気が込み上げ、思わず口を押さえて何度かえずいた。義母は一瞬驚いた様子で私を見て、すぐに気遣うような声で言った。「どうしたの?急に吐き気なんて。どこか体調悪い?田中先生に診てもらおうか?」田中先生は紀戸家の専属医で、私も彼のお世話になったことがある。二度の血液検査、どちらも「妊娠疑い」で。私はすぐ義母の意図に気づいたが、テーブルの上のドリアンパイに目を落としたら、再び吐き気に襲われた。思い出した。結婚して間もない頃、キッチンのスタッフに苦手な食材を聞かれたとき、「ドリアンの匂いがどうしてもダメ」と答えたことがある。あれから3年、もう誰も覚えていない。私という「紀戸奥さん」は、いてもいなくても同じ存在だったのだ。隣に座る八雲ですら、私の不調を一言もフォローしてくれなかった。つい一日前、同じ匂いで吐き気に襲われたのを見ていたはずなのに。以前なら、黙ってトイレにこもって耐えていただろう。でも今日は、違った。私は回転台に手をかけ、ドリアンパイに視線を送りながら、静かに言った。「お義母さん、私......ドリアンの匂いが苦手なんだ」そう言いながら、ドリアンパイをくるりと遠ざけた。義母は驚いたように私を見たが、その瞳の奥の期待がすぐに失望に変わり、つぶやくように言った。「今までそんな話聞いたことなかったわよ。急に神経質になったのね」私は箸を握りしめた。次に義母の口から飛び出したのは、皮肉の効いた一言だった。「麻酔科なんて、いつも昼夜逆転でしょ。いったいいつになったら
葵が恥ずかしそうに身を翻した姿に、私も颯也も、一瞬固まってしまった。彼は苦笑して私に視線を向け、「誤解ですよ。俺と水辺先生は、仕事の話をしていただけです」と弁解した。葵はその声に反応し、振り向いて、颯也の私の手首に添えられた手を見つめながら、悪戯っぽく言った。「そうなんですか?」私は何も言わずにそっと手を引き、颯也に礼を言ってから、真剣な声で答えた。「夏目先生の提案、真剣に考えてみます」葵は目を丸くして興味津々に言った。「水辺先輩、どんな提案なんですか?私たちにも教えてもらえますか?」彼女は元気で人懐っこく、私たちの中で一番年下でもある。普段なら気にも留めなかったかもしれない。でもこの瞬間、胸の奥に微かな苛立ちが湧き上がった。「風が強いので、先に戻りますね」颯也もすぐに歩調を合わせた。「じゃあ、一緒に戻りましょう」船室に戻る直前、後ろから葵の小さな声が聞こえてきた。「私、もしかして余計なこと聞いちゃったの......」きっと八雲に言っているのだろう。だが、私が戻った理由は言い訳ではなかった。今日一日中、体調が優れなかったし、さっきの気持ち悪さがまたぶり返してきた。人目につかないよう、急いでトイレへ向かった。外では楽しげな声が響き始めていた。きっともうすぐライトショーが始まるのだろう。少し落ち着いてトイレを出ると、数歩先で誰かとぶつかりそうになった。八雲だった。彼は電話中で、私は何事もないように通り過ぎようとした。ところが、その横を通った瞬間、彼の口から低く冷ややかな嗤い声が漏れた。「どうやら、俺はお前を甘く見ていたようだな」私は思わず立ち止まり、彼の鋭い横顔を見つめた。「東市では俺の昔の友人と親しくなり、白霞市では別の病院のエースとすぐに打ち解けて――水辺先生は本当に、忙しい一日だったな」「打ち解ける」?「忙しい」?私は静かに彼を見つめた。ここ数日、溜まりに溜まった怒りが、一気に噴き出した。出張中だからと我慢してきたけど、彼は私を怒らない人間だと思っているの?私は袖を整え、無表情で言い返した。「紀戸先生に敵わないよ。一人の人を大事にして、どこへでも連れて行って......それだけで感動して本当の愛の証でも贈りたいくらいよ」彼の表情が一瞬止まった。どうやら言
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