Share

挑発②

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-07-15 05:07:49

 吉高のBMWは病院裏の駐車場に停まっていた。風に揺れる樹々がこれから味わう快楽に、ざわめいた。白衣から黒いワンピースに着替えた紗央里は、吉高を絡めとる女郎蜘蛛のようだった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   挑発③

    吉高が帰宅した。紗央里と熱い時間を過ごした日は惚けた顔をしている。明穂は見ることなくそれを感じ取った。汚らわしく振り向くことすら幅かれた。吉高はネクタイを解きながら、急患が入って遅れてごめんね。と聞いてもいないのに声を大にしている。馬鹿らしく、返事をする気も起きなかった。「夕飯、なに?」「茄子のオランダ煮とお素麺」「夏らしくて良いね!シャワーして来るよ」(紗央里さんはさっさと排水口に流してね!)明穂は台所に立ち、茄子の紫が湯気とともに柔らかく揺れる鍋を眺めていた。素麺の白が、まるで夏の雲のように軽やかに茹で上がる。窓の外では、夕暮れの空が茜色に染まり、遠くの蝉の声が途切れ途切れに聞こえる。吉高の声が背後から響いたとき、明穂の手は一瞬止まった。(・・・・・はぁ)シャワーの音が聞こえ始めると、彼女は小さく息を吐き、(排水口に流してね)という言葉を心の中で繰り返した。それは、紗央里という名前の女と、吉高の甘い薔薇の香を一緒に流してしまいたいという、切実な願いだった。明穂は吉高の浮気が発覚した当初は狼狽え動揺したが、相手の女性の姿を薄らと感じた時に覚悟を決めた。(離婚しよう)仙石の義父母や両親には申し訳ないが、浮気をした挙句に事もあろうか「セックスを愉しもう」などと平然と言い放つ男性と暮らして行ける筈がない。神の御前で「死が2人を分つまで」と誓い合ったが、明穂の心の中の吉高は死んだも同然だった。あの誓いは、純白のヴェールと祝福の拍手に包まれた日には永遠のものだったのに、今はただの空虚な響きにすぎない。吉高の笑顔、軽やかな口調、薔薇の香水の残り香。それらはすべて、明穂の胸に刺さる棘に変わっていた。食卓に並んだ茄子のオランダ煮は、醤油と生姜の香りが立ち上り、素麺はつるりと冷たく喉を滑る。吉高はシャワーから戻り、髪を拭きながらテーブルについた。タオルから滴る水が床に小さな染みを作る。明穂は彼の顔を見ず、ただ静かに料理を盛り付けた。「美味しい?」彼女の声は穏やかだったが、その裏には冷たい刃のようなものが潜んでいた。「美味しいよ、明穂と結婚した僕は幸せ者だよ」吉高の言葉

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   挑発②

     吉高のBMWは病院裏の駐車場に停まっていた。風に揺れる樹々がこれから味わう快楽に、ざわめいた。白衣から黒いワンピースに着替えた紗央里は、吉高を絡めとる女郎蜘蛛のようだった。

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   挑発

     午後の日差しを切り裂くように、スマートフォンの着信音が響いた。液晶画面は明瞭ではないが、それが誰からの着信か見えずとも分かる。あの日以来、紗央里は自己主張を繰り返し、何度も明穂に電話を掛けて来た。 明穂は一瞬、息を呑んだ。夫の不倫を水(見ず)に流したかったが、こうも正面から挑発されると、無視するわけにはいかない。彼女は深呼吸し、電話を取った。「はい、仙石ですけど」

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   吐息

     弱視の明穂を気遣い、吉高と暮らす新居はバリアフリー設計だった。仙石家と田辺家が建築費を折半して建てたこの家は、両家の深い結びつきを象徴し、吉高と明穂の結婚でより強固になるはずだった。だが今、吉高は紗央里との浮気、いや不倫に現を抜かし、明穂は悩む。両家の手前、誰にも相談できない。シェードランプの薄光が、部屋の静寂に冷たい影を落とす。 (・・・大智なら、私をこんな目に遭わせない)  ガラスに映る自分の顔が、過去の希望を嘲る。スマートフォンを手に吉高の足音が廊下に響くたび、明穂の心は締め付けられる。紗央里の影が天井に揺らめき、不安を掻き立てる。両家の期待を背負った家は、明穂にとって牢獄のようだ。彼女はシーツを握り、涙を堪えた。夜の静寂が、孤独を深める。吉高の裏切りと向き合いながら、明穂はただ耐えるしかなかった。 (・・・大智がいれば相談出来たのに) いや、そもそも明穂と付き合っていたのは大智だった。大智が「いつかおまえに相応しい男になって迎えに来る」と家を出て行かなければ、吉高と結婚することはなかった。あの約束が、明穂の心に今も刺さる。(・・・大智なら、紗央里なんて選ばない) バリアフリーの家は、両家の期待を背負い、明穂を縛る。吉高の不倫が発覚しても、彼女は誰にも相談できない。大智の言葉が頭を巡り、涙が滲む。なぜ彼は去ったのか。なぜ吉高とこうなったのか。誰もいないリビングで、彼女の孤独を深める。過去と現在の狭間で、明穂はただ耐えるしかなかった。  吉高が出勤し、静かになったひとりぼっちの家。明穂はリビングチェストの引き出しから、大智にもらったデジタルカメラを取り出し、胸に抱き締めた。大智との思い出が詰まったSDカードは、空き缶にぎっしり詰まっている。いつか大智が金沢に帰ってきた時、一緒に見ようと撮り溜めたものだ。けれど、吉高はそれを良しとしない。明穂がカメラを手にする度、不機嫌な顔をする。

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   夫婦の夜

     それでも夜はやって来る。吉高は明穂の身体を求め、ベッドに座った。シェードランプの柔らかな光に照らし出されるその顔は、双子の弟、大智とあまりにも似ていた。同じ鋭い目元、わずかに上がった唇。明穂の胸にざわめきが広がる。(・・・大智、大智も浮気をするのかしら) ぼんやりと映るガラス越しの吉高に、明穂は手を伸ばしそうになった。指先が震え、過去の記憶がよぎる。けれど「紗央里」という名が、霧のように浮かんでは消え、その指は宙を彷徨った。吉高の吐息が近く、温かく、彼女を現実に引き戻す。明穂の心は、愛と疑念の間で揺れ動く。ガラスに映る自分の影が、まるで大智の幻のように揺らめき、彼女を惑わせた。夜は静かに、しかし確実に深まっていく。ぎしっ「明穂、今夜は良いだろ?」「吉高さん」 そんな吉高との夜の営みは決して円滑であるとは言い難かった。明穂は吉高と初めて肌を重ね合わせた瞬間に違和感を感じ、それは結婚して2年経った今も慣れることはなかった。吉高の触れる手は熱く、求めているようでどこか遠い。明穂の心は、愛と距離の間で揺れていた。シェードランプの薄光が二人の影を長く伸ばし、部屋に沈黙が漂う。吉高の吐息が耳元で響くたび、明穂は大智の顔を思い出し、胸が締め付けられた。(・・・なぜ、こんなにも似ているのに) 「紗央里」の名が再び脳裏を掠め、明穂の指はシーツを握りしめた。夜は深く、彼女の心を静かに侵食していく。「よ、吉高さん」 吉高の指先はゆっくりと丁寧にパジャマのボタンに手を掛けた。明穂は肌があらわになるごとに、心が冷たくなるのを感じた。はだけた胸元に、吉高の唇が落ちてくる。乳首をついばむその感触に、怖気が走った。吉高の吐息は熱く、部屋の静寂を破るが、明穂の心はどこか遠くへ漂う。(・・・・大智なら、こんなことはしない) すりガラスの向こうの吉高の顔はひどく歪んで見えた。「紗央里」の名が再び頭を掠める。吉高の指が肌をなぞるたび、愛と拒絶が交錯する。シェードランプの薄光が二人の輪郭をぼかし、夜の重さが明穂の胸を締め付けた。彼女は目を閉じ、冷えた心を抱きしめるようにシーツを握った。夜は静かに、容赦なく進む。(この唇で、紗央里さんに同じことをしているのね) 顔も知らない、吉高の不倫相手の影が見上げた天井にゆらめく。教会で愛を誓い合った吉高が、幸せで穏やかな結婚生活を手放し、

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   LINE

     吉高は、明穂が自身の不倫に気づいているとは思いもよらなかった。彼は明穂の五感を軽んじ、弱視ゆえに輪郭や色しか見えないと決めつけていた。だが、明穂の目は見えない分、相手の機微な表情を鋭く感じ取り、聴覚や嗅覚は健常者を凌駕していた。吉高の白衣に残る薔薇のシャンプーの香り、廊下での微かな足音の乱れ、それらが明穂の心に疑惑を刻む。バリアフリーの家、静かなリビングで、明穂は鼻歌を止め、吉高の帰宅を待つ。彼女の指はデジタルカメラを握り、大智の記憶をなぞる。(大智がいたら相談できたのに・・・) 「紗央里」あの呟きが、吉高の裏切りと結びつく予感に、胸が締め付けられる。夕陽が窓から差し込み、明穂の弱視の瞳にぼんやり映る。吉高の不自然な笑顔、言葉の隙間から漏れる動揺を、彼女は見逃さない。吉高の温もりが、今は冷たく遠い。明穂は唇を噛み、気づかぬふりを続ける。(また、紗央里さん) 愛欲に溺れた吉高は、大胆にも明穂がいるリビングで紗央里とLINEを交わした。通知音を切っていても、スマートフォンの画面をなぞる指先の微かな音、その頻度が、バリアフリーの家に静かに響く。明穂は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。弱視の瞳に映る赤い丸は、ぼんやりとしか見えないが、ハートのスタンプだろうと直感し、眉間に皺を寄せて目をぎゅっと瞑った。吉高の白衣に残る薔薇の香り、言葉の隙間に潜む動揺、彼女の鋭い五感は、すべてを捉える。明穂は気づかぬふりを続けるが、心は軋む。吉高はソファで無神経に笑うが、明穂の瞑った瞳の裏では、大智の面影と紗央里の香りが交錯し、彼女を静かな絶望へと押しやる。「どうしたの?ご飯できたよ?」「あ、ちょっと仕事の電話」「・・・・・・そう」「ごめんね」「うん、お仕事なら仕方ないよ」 確かに、病院からの呼び出しはあるだろうが、わざわざ庭先に出て話す必要はない。吉高の行動は明らかにおかしかった。ダイニングテーブルの湯気が、温かな食卓を包んでいたはずが、一瞬で寒々とした空気に変わる。冷たくなったシチューは、明穂の心の叫びそのものだった。庭先から漏れる微かな愛の囁き。「紗央里」 呼び合う声が、明穂の鋭い聴覚に明瞭に届く。耳を塞いでも、汚らわしい言葉が心に流れ込み、彼女を締め付ける。弱視の瞳に映るぼんやりとした世界で、吉高の裏切りが鮮明になる。 教会で誓ったすべてが今、脆く崩れる。明

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status