橘が来るようになってから、三週間が経った。
彼は決まって週に一度、同じ曜日に現れる。 無口で、穏やかで、何かを押しつけることもない。 沙耶はいつしか、その夜を心待ちにするようになっていた。 少しずつ、彼の前では笑えるようになってきた。 それは営業用の笑顔ではなく、心の底から滲み出る自然なものだった。 橘はその笑顔を決して軽く扱わず、ただ静かに受け止めてくれる。 ――この人の沈黙は、安心する。 その日もいつも通り、穏やかな夜になるはずだった。 --- グラスの音が静かに響く。 沙耶と橘が短く言葉を交わしているとき、 店のドアが開いた。 「おいおい……ここ、結構いい店じゃん」 その声を聞いた瞬間、全身の血が凍った。 ――直樹。 あの、笑顔の裏に毒を隠した声。 背筋が冷たくなり、指先が震える。 「……どうして」 かすれた声が喉の奥から漏れる。 直樹は沙耶を見つけて、口角を歪めた。 「やっぱお前かぁ。噂で聞いてさ。何もできねぇ女が夜の店で働いてるって」 「……やめて」 「何? 何もできねぇくせに俺と離婚して逃げやがって。それで男に媚び売る仕事してさ。恥ずかしいのか?」 周囲の空気が凍りついた。 ママが眉をひそめ、他の客たちも気まずそうに視線を逸らす。 「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので――」 ママが静かに声をかけるが、直樹は無視した。 「お前、いつからそんな女にになったんだよ。 俺といた頃は、もう少しマシだったよな。」 言葉が鋭く、心をえぐるように突き刺さる。 沙耶の喉が詰まり、声が出ない。 体が勝手に後ずさった。 ――また支配される。 ――この空気、この圧迫感、あの時と同じ。 だが、その瞬間。 橘が静かに立ち上がった。 その動作ひとつで、空気が変わった。 「彼女が嫌がっています。やめてください」 低く落ち着いた声。 怒鳴り声ではない。 だが、その一言に凍るような重みがあった。 直樹は鼻で笑った。 「なんだよ、あんた。客か? こいつの男か?」 「いいえ。ただ、あなたのような人間が女性を侮辱するのを見過ごせないだけです」 「は? なに正義感ぶってんの? こいつは黙って俺の言うこと聞いときゃ幸せだったんだよ」 「……それがあなたの“愛し方”ですか?」 橘の声は低く静かだった。 その冷静さが逆に怖いほどで、直樹の顔に苛立ちが浮かぶ。 「なんだと?」 「あなたがどれほど“男”を語っても、 怯えた彼女の顔を見れば、何をしてきたか一目で分かります」 ピクリと直樹の目が動く。 橘は一歩、彼に近づいた。 「――出て行きなさい」 「は? てめぇ、何様のつもりだ」 「彼女の“味方”です」 その言葉が、静かに店内を震わせた。 次の瞬間、橘が直樹の肩にそっと手を置いた。 強く掴んだわけではない。 だが、直樹はわずかに身を引いた。 橘の目には、微動だにしない冷たい光が宿っていた。 「あなたがこの場にいることで、彼女が苦しんでいる。その事実を理解できないなら、人として終わっています」 直樹が息を呑んだ。 誰もが息を詰めて見守る中、橘の声がさらに低く落ちる。 「二度と、この店に近づかないことをおすすめします」 その圧に耐えきれず、直樹は顔を歪めた。 「チッ……くだらねぇ女守って、いい気になるなよ」 吐き捨てるように言い残し、ドアを乱暴に開けて出ていった。 静寂。 店中の時間が止まったかのようだった。 沙耶はその場に立ち尽くし、 気づけば涙が頬を伝っていた。 「……ありがとう」 声にならないほど小さく呟いた。 橘は何も言わず、ただそっとハンカチを差し出した。 その手が震えていないことが、彼女には不思議だった。 彼の沈黙が、あの恐怖をすべて洗い流していくようだった。 --- 営業後、沙耶は控室でママに背中をさすられていた。 「怖かったわね……でも、よく耐えたわ」 沙耶は涙をぬぐいながら、小さく笑った。 「もう、大丈夫です。今度は、誰にも支配されません」 ママは微笑んだ。 「そう。それが“夜の女”の強さよ」 --- 外に出ると、店の前で橘が待っていた。 「……送ります」 「大丈夫です、もう電車も――」 「今夜は、ひとりにしたくありません」 その静かな言葉に、胸が熱くなる。 そして、沙耶は小さく頷いた。 夜風が頬を撫でる。 過去の影が少しずつ遠ざかっていくような気がした。 ――この人の隣なら、前を向けるかもしれない。数日たち── 夜の街は、どこか切なげに輝いていた。 色とりどりのネオンがぼやけ、春の雨がアスファルトを艶やかに濡らしている。 沙耶は、ゆっくりと歩いていた。 ヒールの音が、しっとりとした路面にリズムを刻む。 懐かしい香り――香水とシャンパンと、煙草が少し混ざった“夜の匂い”。 それは、彼女が何度も逃げ場にしてきた場所の匂いだった。 ラウンジ《ルクレール》。 沙耶は、扉の前で小さく息を吸い、そして押した。 カラン、とドアベルの音が鳴る。 そこには、いつもの光景が広がっていた。 柔らかな照明、磨かれたカウンター、静かに流れるジャズ。 その奥で、ママがグラスを拭いていた。 顔を上げた瞬間、目が合う。 「……いらっしゃい、沙耶」 あの声の温度に、胸の奥がきゅっと熱くなった。 「ママ……」 「久しぶりね。座りなさいな」 促され、沙耶はカウンター席に腰を下ろした。 隣では、亜美が相変わらず元気に笑っている。 「沙耶さん、なんか雰囲気変わったね。 前よりすごくキラキラしてる」 「そう?」沙耶は照れたように笑った。 「たぶん……やっと自分の足で立てたからかな」 「うん、わかる。 なんか、“守られる”女から“歩いてく”女になったって感じ」 ママがふっと微笑む。 「そうね。あの頃の沙耶は、声をかけるたびにどこか怯えてたわ。 でも今は違う。ちゃんと自分で光を見てる」 沙耶の指先が、グラスの縁をなぞる。 そこには、たくさんの夜が映っていた。 笑えなかった夜、泣きながらシャンパンを開けた夜、 そして――少しずつ人を信じられるようになった夜。 「ママ、私……研究開発の仕事に戻ることにしたの。 正式に、橘グループの研究主任として。 だから、ここを辞めようと思って」 言葉を終えると、ママは黙って沙耶を見つめた。 その沈黙が、優しさで満ちていた。 「……そう。やっぱり、行くのね」 「うん。 この場所があったから、私はもう一度立ち上がれた。 だから、ちゃんとお礼を言いたくて」 ママはグラスを置き、ゆっくりとカウンターを回り込む。 そして、沙耶の肩を抱いた。 「ありがとうなんて言わなくていいのよ。 この世界に来た女はね、みんな何かを捨てて、何かを探しに来る。 あんたは“自分”を見
雨上がりの街に、橘グループ本社が白く輝いていた。 だが、その内部では静かな嵐が吹き荒れていた。 「これが、新素材データの不正流出記録です」 芹沢美緒が冷ややかに言い放った。 「あなたの“恋人”――桐生沙耶さんが関わっていたそうですよ」 会議室の空気が一瞬で張りつめた。 橘の父・巌が眉をひそめる。 「……どういうことだ、蓮」 「そんなはずはありません」 美緒は、冷たく笑った。 「証拠はあるわ。メール送信記録、サーバーログ、すべて桐生さんの社内IDからの転送」 橘は拳を握りしめながら、静かに答えた。 「俺は彼女を信じます」 「優しいのね。でも現実を見たほうがいいわ。 “恋”で仕事が壊れるのは、あなたのお母様を見て学ばなかったの?」 その一言で、橘の瞳に炎が宿る。 「――その話を、軽々しく口にするな」 重い沈黙。 だが、橘はすぐに携帯を取り出し、短く打った。 ――「話したい。今すぐ来られるか? 橘からの連絡のあと、研究ラボに向かった沙耶は、すぐにデータの異常に気づいた。 「……このタイムスタンプ……私が退勤した後、深夜にアクセスされてる。 しかも、内部LAN経由」 彼女の指が素早くキーボードを叩く。 ログ解析、端末署名の追跡、管理者権限の確認――。 「アクセス履歴が一度削除されて、再書き込みされてる……これ……内部犯だわ」 沙耶の瞳が細く光る。 「内部の誰かが、芹沢さんに協力してる」 キーボードを叩く指先が止まらない。 ――見逃さない。 彼女は、心の中で強く誓った。 * 数時間後。 会議室。 芹沢美緒が、余裕の笑みで座っていた。 「橘副社長、そろそろ現実を受け入れたほうがいいんじゃなくて?」 その扉が開き、沙耶が姿を現した。 白のブラウスに黒のスーツ。表情は静かだが、瞳には確かな光。 「お話、拝見しました。ですが、少し気になる点があったので、調べさせていただきました」 美緒が冷笑する。 「まだ往生際が悪いわね」 沙耶は無言でパソコンを接続し、スクリーンにデータを映した。 「こちらが“私のID”から行われた不正転送ログです。 しかし、このアクセスには、通常社員には使えない“管理者権限”が必要です」 会議
芹沢美緒の一件から数日。 ラウンジの夜は、いつもより騒がしかった。 けれど、沙耶の胸の中には、不思議な静けさがあった。 あの夜――橘が彼女を庇い、美緒に向けた言葉が、今も胸に焼き付いている。 “彼女を侮辱するなら、二度と俺の前に現れるな” その声に、心が震えた。 誰かが自分を“守る”なんて、そんな経験は一度もなかった。 でも、橘に守られた瞬間、心の奥で何かが確かに目を覚ました。 ――もう、誰かの影に隠れて生きるのはやめよう。 そんな思いが、静かに、しかし確かに燃え始めていた。 翌日。 店のロッカールームで、沙耶は化粧を直していた。 隣には、いつものように亜美がいる。 「沙耶さん、この前の件、大丈夫? あんな女、ほんとムカつくよね」 「うん、大丈夫。ありがとう」 「でもさ、沙耶さん、最近なんか違う。目が強くなったっていうか……なんか、芯ができた感じ」 鏡越しに亜美の顔を見ながら、沙耶はふっと笑った。 「……かもしれないね」 亜美は首をかしげた。 「なんかあった?」 「ううん。ただね、思ったの。私、このまま夜だけの世界で終わりたくないなって」 ── 「夜だけの世界?」 「うん。私、前は研究開発の仕事をしてたの。化学系のメーカーで、新素材の開発とか。でも直樹が“女が研究職なんて生意気だ”って言って、無理やり辞めさせたの」 亜美の目が見開かれた。 「え……沙耶さん、そんなすごい仕事してたの!?」 「もう過去の話。でも、やっぱり私、好きだったんだ。研究も、ものづくりも。誰かに否定されても、あのとき感じてた“夢中”を取り戻したい」 その声には迷いがなかった。 “逃げるため”じゃなく、“もう一度立ち上がるため”の言葉。 亜美は、ゆっくりと笑った。 「……沙耶さん、めっちゃかっこいい」 「ふふ、ありがとう。でも、怖くないわけじゃないよ」 「…それでもやるんでしょ?」 「うん」 沙耶の微笑みは、かつてのように無理に作ったものではなかった。 そこには、確かな意思があった。 数週間後。 橘は本社の重役会議室にいた。 父・橘巌の冷たい視線が、息子を貫いている。 「芹沢家との縁談を断ったと聞いたが、本当か」 「はい」 「あの家との関係を切
橘の車の助手席から降りたとき、 沙耶はまだ夢を見ているような気分だった。 空は晴れ渡り、秋の風が頬を撫でる。 ラウンジの夜とは違う昼の光が、彼の横顔を照らしていた。 ――こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいい。 そう思った矢先だった。 「蓮さん」 背筋が凍るような甘い声が響いた。 振り返ると、そこに立っていたのは、 高級ブランドのコートを羽織り、完璧に整えられたメイクの女性。 「……美緒」 橘の声がわずかに硬くなった。 彼女――芹沢美緒はゆっくりと微笑み、 沙耶の方を上から下まで値踏みするように見た。 「まあ……珍しいわね。 蓮さんが、女の人と昼間に出歩くなんて」 その言葉の裏に潜む毒に、沙耶は思わず息を呑んだ。 「どちらさまですか?」 美緒の笑顔は冷ややかに歪む。 「まさか……夜のお店の方?」 橘が一歩前に出た。 「やめろ、美緒」 「ふふ。図星なのね?」 「彼女にそんな言い方をするな」 橘の低い声に、一瞬空気が張り詰めた。 美緒は肩をすくめ、挑発的に微笑んだ。 「あなたの立場、わかってる? 副社長として将来は社長として橘グループを引っ張っていかなければいけないのに、“誰と付き合うか”も、会社の信用に関わるのよ?」 「僕の人生を会社で決められると思うな」 「思ってるわ。だって、それが“橘蓮”っていうブランドでしょう?」 美緒は軽やかに橘の腕を取ろうとしたが、 彼はさりげなく避けた。 「……君とは、もう終わった話だ」 「終わってないわよ?」 美緒の瞳が冷たく光った。 「父があなたのお父様と再び会う予定を立ててるの。 “正式に”婚約の日取りを決めるって」 その言葉に、沙耶の胸が音を立てて崩れた。 婚約――。 そんな言葉が、この人に似合うはずがないのに。 橘は苦い表情のまま、美緒をまっすぐ見据えた。 「……僕は君と婚約するつもりはない」 「ふうん、そう言えるのは今のうちよ」 美緒が冷たく笑った。 「でも、いいのかしら? そんな“水商売の女”なんかと関わって」 その視線が、再び沙耶を刺す。 「所詮、男の気まぐれで拾われた可哀想な子でしょ?」 その瞬間、橘の瞳が鋭く光った。 「美
あの夜のことを、沙耶は何度も思い出していた。 橘の腕の中で泣いた自分。 あの温もりが、まだ身体のどこかに残っている。 抱きしめられたとき、世界の音がすべて遠くなった。 恐怖も、恥も、過去の影も――その瞬間だけは、消えていた。 「……ありがとう」 その一言すら、あのときは言えなかった。 でも、今なら言える気がした。 * 夜明け前。 ラウンジの閉店後、沙耶は橘と並んで歩いていた。 街はまだ眠っていて、湿ったアスファルトの匂いがした。 「……すみません。私のせいで、嫌な思いをさせてしまって」 橘は首を横に振った。 「あれは、あなたが謝ることじゃない」 その穏やかな声に、胸が締めつけられる。 「でも、怖かったです。 あの人の声を聞いた瞬間、また全部戻ってくる気がして……」 「戻りませんよ」 橘が静かに言った。 「あなたはもう、逃げずに立っていた。 ちゃんと、あの人と向き合っていた。 それだけで、もう過去には負けていません」 沙耶は、夜明けの光のようにゆっくり微笑んだ。 「……橘さんって、いつも強いですね」 「強い? 僕が?」 「はい。どんな時も落ち着いてて、誰にも動じない」 橘は少し笑って、空を見上げた。 「僕は……本当は、強くなんかないですよ」 「え?」 「僕は、“強く見せなきゃいけない人間”なんです」 沙耶は、その言葉の意味を掴めずに見つめた。 橘はポケットから名刺を取り出し、沙耶の手にそっと差し出した。 “橘蓮 橘グループ副社長” その文字を見た瞬間、息が止まった。 「副社長……?」 「前に僕が橘グループの社長の息子だというのは話しましたよね。」 「そういう立場でいる限り、人の前で感情を出すわけにはいかないんです。 怒ることも、泣くことも、弱さを見せることも許されない。 でも――」 橘は少しだけ目を伏せた。 「あなたの前では、そういう鎧を脱げる気がするんです」 沙耶の胸に、熱いものが広がった。 「……私なんかの前で、ですか?」 「“なんか”って言葉、また使いましたね」 橘が微笑む。 「あなたの前では、強がらなくていい。 それが、どれだけ楽なことか……あなたにはわからないでしょう?」 優しい冗談のように聞こえた。 でも、橘の瞳には本気の光が宿っていた。
雨は、止みそうで止まなかった。 ガラス越しに見える街灯が滲んで、世界が少し歪んで見える。 その夜、沙耶は出勤していた。 心はまだ落ち着かない。 スマホを見れば、直樹からのメッセージが何通も増えている。---《既読つかないってどういうこと?》《逃げんなって言ったよな?》《お前みたいな女、誰も本気で相手にしないんだよ。俺だけだったんだよ、わかってんの?》《調子に乗ってると痛い目見るぞ》--- ――息が苦しい。 店の明るい照明が、まるで牢獄のライトのように感じる。 笑おうとしても、口角が上がらない。 客の声が遠くでこだまして、何も聞こえなくなっていく。 「沙耶さん、顔色悪いけど大丈夫?」 亜美が心配そうに覗き込む。 「うん……大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」 本当は震えていた。 誰にも悟られたくなかった。 そんなとき――。 ラウンジの扉が、静かに開いた。 店内がざわつく。 見覚えのあるシルエットが、そこに立っていた。 ――直樹。 「……久しぶりだな、沙耶」 笑っているのに、目だけが笑っていなかった。 冷たい視線が、まっすぐに沙耶を射抜く。 「まさか、まだここで働いてるとはな。 俺から離れたら、やっぱ堕ちるの早かったな」 周囲の空気が一瞬で凍る。 他の客たちも、何事かと視線を向けた。 「……お帰りください」 沙耶は声を絞り出す。 しかし直樹は笑った。 「そんな言い方するなよ。元夫に対してさ」 その一言で、心臓が跳ねた。 “元夫”――その響きだけで、身体が強張る。 「おい、どうした? 泣きそうな顔して。 あの頃と同じだな。何も変わってねぇ。 弱くて、何もできない。俺がいなきゃ、何もできない女だ」 その言葉が、刃のように胸を刺す。 足が震え、声が出ない。 「沙耶さん!」 亜美が立ち上がろうとした瞬間、 低く落ち着いた声が店内に響いた。 「――彼女に、何の用ですか」 橘だった。 黒のスーツを濡らしたまま、ドアの前に立っていた。 その姿は、まるで“冷たい嵐の中の盾”のようだった。 「誰だお前」 直樹が鼻で笑う。 「彼女の客です」 橘の声は冷静で、だが鋭い。 「……客? ははっ。金払って構われてるだけだろ。 あいつはそういう女なんだよ」 瞬間、橘の目の色が変わった。