Masuk数日後の夜。
ラウンジ「ル・クレール」はいつもより静かだった。 金曜の喧騒が嘘のように、客の数もまばら。 けれど、沙耶の胸の奥は落ち着かない。 ――あの人、また来てくれるだろうか。 自分でも理由がわからなかった。 ただ、あの“橘”という男の沈黙が、妙に心に残っていた。 何も言わないのに、何かを抱えているような…… そんな人に、初めて会った気がする。 「沙耶さん、今日ちょっとソワソワしてない?」 亜美がカウンターの隣でニヤニヤしながら覗き込む。 「そ、そんなことないよ」 「うそ。なんか落ち着きないもん」 「……別に、何もないって」 「ふ〜ん、まあいいけど」 亜美は笑ってグラスを拭き続けた。 その明るさが、少し羨ましかった。 その時、店のドアが開いた。 反射的に顔を上げる。 ――そこに、いた。 橘 蓮。 あの時と同じ黒いジャケット。けれど今夜は少し柔らかい表情をしているように見えた。 心臓が一瞬で早鐘を打つ。 「橘様、いらっしゃいませ」 ママが微笑みながら出迎える。 「今日はお一人で?」 「ええ、少しだけ飲みに」 その視線が、まっすぐ沙耶の方を向いた。 ――見つめられた。 何も言われていないのに、胸が熱くなる。 ママが軽く目配せをする。 “行きなさい”という無言の合図だった。 沙耶はトレーを持ち、深呼吸して彼の席へ向かった。 「こんばんは。お久しぶりです」 「……また来てしまいました」 その言い方が少し照れているようで、 思わず、沙耶の口元が緩んだ。 「ありがとうございます。嬉しいです」 「前に飲んだウイスキー、ありますか」 「はい、同じものでよろしいですか?」 「ええ」 いつも通りの短い会話。 けれど、彼の声を聞くだけで、 心の奥の何かが少しずつ解けていく気がした。 沈黙が訪れる。 でも、あの日とは違う。 不思議と、苦しくない。 橘がふと、グラスを指で回しながら言った。 「……この店、静かでいいですね」 「そうですね。私も、落ち着きます」 「前は、人が多い場所にいたんですか?」 少しだけ、胸が痛んだ。 元夫の顔が一瞬、脳裏をかすめる。 だが、今夜は不思議と、怖くなかった。 「……そうですね。ちょっと、いろいろあって。 今は静かな場所のほうが好きです」 橘は何も聞き返さなかった。 ただ、頷きながら、 「静けさの中で、自分の声が聞こえるようになる」 そう呟いた。 その言葉が、まるで心の奥を見透かされたようで、 沙耶は思わず目を伏せた。 ――この人、言葉が少ないのに、どうしてこんなに伝わるんだろう。 その夜、彼は前より少し長く滞在した。 何気ない話を少しずつ交わしながら、 沙耶は、久しぶりに“笑顔”を見せていた。 作り笑いではない、本当に自然な笑み。 亜美が遠くの席からその様子を見て、ニヤニヤしていた。 営業後、控室に戻ると、案の定話題にされた。 「ねぇ沙耶さん、あの人の時だけめっちゃいい顔してたよ?」 「えっ、そ、そんなことないってば!」 「あるある! なんか、久しぶりに笑ってた気がする」 「……ほんとに?」 「うん。沙耶さんの笑顔、ちゃんと綺麗だった」 その言葉に、胸が熱くなった。 “笑ってた”―― その一言が、涙が出るほど嬉しかった。 誰かに笑顔を褒められるなんて、いつぶりだろう。 笑うことが怖くなくなったのは、あの人のおかげだ。 夜道を歩きながら、沙耶は空を見上げた。 風が少しだけ優しく感じた。 ――少しずつでいい。 ――この人と話していると、心が動く。 「……私、また自然に笑えるかもしれない」 その小さな呟きは、夜の静けさの中に溶けていった。夏の匂いが少しずつ濃くなり始めた頃── 白い光が、チャペルのステンドグラスを通して柔らかく降り注いでいた。 花々の香りが空気に溶け、静かなオルガンの音が響く。 沙耶は純白のドレスに身を包み、胸の奥で小さく息を整えた。 鏡の中の自分を見つめながら、ほんの少しだけ微笑む。 ――もう、泣かない。 この日を迎えるまでに流した涙は、すべて未来へつながる雫だった。 控室の扉がノックされる。 「沙耶、準備はできた?」 扉を開けると、そこにはママと亜美が立っていた。 ママは相変わらず気品に満ちていて、深紅のドレスを着こなしている。 亜美は笑顔で涙ぐみながら、花束を抱えていた。 「ほんとに綺麗……! 沙耶さん、まるでお姫様みたいです!」 「やめてよ、泣いちゃうじゃない……」 沙耶は笑いながら、亜美をそっと抱きしめた。 ママが静かに微笑む。 「思い出すわね。ルクレールで初めて会った日のこと。 あの時のあなた、目が死んでたわ」 「……そうでしたね」 沙耶は懐かしむように目を細める。 「でも今のあなたは、すごく綺麗。 強くて、愛されてる女の顔をしてる」 その言葉に、胸の奥が熱くなる。 ママの指先が、そっと沙耶のヴェールを整えた。 「幸せになりなさい。もう、夜の世界には戻らなくていいの」 「ママ……本当にありがとうございました」 「感謝なんていらないわ。 あんたが自分でここまで歩いたんだから」 ママの瞳に、ほんの一瞬、涙が光った。 それを見た沙耶も、堪えきれずに微笑む。 --- チャペルの扉が開く。 バージンロードの先、白い光の中に蓮が立っていた。 タキシード姿の彼は、まっすぐに沙耶を見つめている。 その瞳に映るのは、どんな時も自分を信じてくれた人―― そして、人生を共に歩む“永遠”の相手。 足元に広がる花びらを踏みしめながら、一歩ずつ進む。 拍手の音が遠のき、心臓の鼓動だけがはっきりと聞こえる。 蓮の前に立った瞬間、すべての景色がやさしく滲んだ。 神父が誓いの言葉を告げる。 「健やかなる時も、病める時も―― 互いを支え、愛し合うことを誓いますか?」 沙耶は蓮を見上げ、穏やかに微笑んだ。 「誓います」 蓮の声が、
── 拍手が、会場いっぱいに広がっていた。 ステージの中央に立つ沙耶は、眩しい照明に包まれながら深く息を吐いた。 スライドに映し出されているのは、彼女が率いた新素材研究の最終成果。 その発表は大成功を収め、出席していた国内外の研究者たちが一斉に立ち上がって拍手を送っていた。 胸の奥が熱くなる。 “ようやくここまで来たんだ”――そんな思いが、静かにこみ上げてくる。 壇上の少し後ろ、聴衆の列の中で、蓮が穏やかに微笑んでいた。 スーツ姿のその瞳には、どこまでも優しい光が宿っている。 沙耶の唇がかすかに動いた。 (……ありがとう、蓮) --- 会場の片隅。 橘グループの重鎮たちの中に、ひときわ堂々とした姿があった。 蓮の父――橘厳。 鋭さの中に品格を纏った男だ。 彼は静かに腕を組み、壇上の沙耶を見つめていた。 かつて息子が彼女を選んだと聞いたとき、厳は何も言わなかった。 だが今――その瞳には、はっきりとした誇りが宿っていた。 拍手の中、厳が小さく呟く。 「……見事だ。あの子を選んで、間違いはなかったな」 隣で控える秘書が驚いたように目を見張るが、 厳はただゆっくりと微笑んだ。 --- 発表が終わり、記者たちが引き上げたあと。 夕暮れの光が窓から差し込み、会場には穏やかな静けさが戻っていた。 蓮が壇上に上がり、資料をまとめている沙耶に歩み寄る。 「本当に……お疲れさま」 その声に振り向くと、蓮がいつものように柔らかく微笑んでいた。 沙耶の胸に、温かい波が広がる。 「ありがとう。 ここまで来られたのは、あなたが信じてくれたから」 蓮は小さく首を振った。 「違う。君が信じ続けたからだ。 自分を、そして未来を」 沙耶はそっと笑った。 その笑顔には、もう迷いがなかった。 --- その時、会場の扉が静かに開き、厳が入ってきた。 スタッフたちが慌てて姿勢を正す中、蓮は父の方へ向き直る。 「父さん……」 厳は重々しく頷き、ゆっくりと壇上へ上がった。 そして沙耶の前に立ち、まっすぐに目を合わせた。 「沙耶さん」 「はい」 「今日の発表、見事だった。 私の長い経営人生の中で、ここまで胸を打たれた研究発表は初めてだ
春の風が街をやさしく撫でていた。 桜の花びらが舞い散る道を、沙耶はゆっくりと歩いていた。 事件が終結してから数ヶ月――彼女の生活は静かで、穏やかだった。 研究所では新しいプロジェクトが始まり、彼女はチームリーダーとして正式に復帰していた。 かつて失われた自信を取り戻し、再び“桐生沙耶”として生きている。 もう、あの頃のように誰かの影に怯えることもない。 そんな沙耶が、今夜向かっているのは―― ラウンジ・ルクレール。 あの夜の世界で出会い、泣き、笑い、そして生き直した場所。 彼女にとって、第二の人生の始まりだった。 --- 扉を押して中へ入ると、懐かしい香りが鼻をくすぐった。 柔らかな照明、磨かれたグラス、低く流れるジャズ。 あの頃と何も変わっていない。 カウンターの奥から、ママが気づいて顔を上げた。 艶やかな髪をまとめ、いつもの深紅のドレスを纏っている。 相変わらずの威厳と優雅さ――“夜の女王”という言葉がぴったりだった。 「……沙耶じゃないの。久しぶりね」 その声に、胸の奥が温かくなる。 沙耶は微笑みながら深く頭を下げた。 「ママ、お久しぶりです。今日、どうしてもここに来たくて」 「ママや亜美ちゃんが、あの頃支えてくれたから」 ママは口角を上げ、ふっと笑う。 「支えたつもりはないわ。あなたが勝手に這い上がっただけ。 ただ、あの時のあなたの目を、忘れられなかったのよ」 「……目、ですか?」 「そう。折れそうなのに、消えない火が灯ってた。 あんな目をした女は、たとえどん底に落ちても、必ず戻ってくるの」 沙耶は胸の奥が熱くなるのを感じた。 その言葉は、あの夜の痛みも、涙も、全部包み込んでくれるようだった。 「でも私、あの頃は何もできなくて……」 「違うのよ」 ママが一歩近づき、沙耶の肩に手を置いた。 「強い女ってのはね、最初から強いんじゃないよ。 何度も泣いて、立ち上がって、自分で選んで生きていく女のこと。 あんたはもう、ちゃんとその顔してる」 沙耶の瞳がじんわりと潤む。 ママの言葉はいつも厳しく、それでいて温かい。 この場所で過ごした時間が、彼女を再び立たせたのだと、あらためて実感した。 --- 「沙耶さー
空の端が淡く朱に染まり、 遠くの高層ビルの窓が朝の光を反射して輝き始めた。 沙耶と蓮は屋上の手すりに寄り添うように立っていた。 まだ少し肌寒い風が吹いていたが、心の中は不思議なほど穏やかだった。 「綺麗ですね……」 沙耶の言葉に、蓮が小さく微笑んだ。 「夜を抜けた後の空は、特別だ。 まるで、全部が新しく始まるようだ」 「私……ずっと光を見たら、また何かを失う気がして、怖かった……。 でも今は、ただただこの朝が嬉しい」 「それでいい。 君が笑っていられることが、僕にとっての光だから」 蓮の言葉に、沙耶の頬が少し赤く染まる。 そして彼はポケットに手を入れ、小さな箱を取り出した。 「桐生沙耶さん。 この先、どんな未来が来ても…… 君が誰かに傷つけられることは、絶対にさせない 僕と一緒に明るい光の元で暮らしてくれないか?」 沙耶の瞳が揺れる。 「……蓮……はい」 彼は静かに箱を開けた。 中には、朝日の光を受けて淡く輝くリングがひとつ。 「これは、約束の指輪だ。 君が新しい朝を選んだその日から、ずっと贈りたかった」 沙耶は唇を噛み、こらえきれずに涙を零した。 その涙はもう、悲しみの証ではなかった。 「ありがとうございます……。 私、ようやく自分の道を歩ける気がします。 そして、これからはあなたと一緒に歩きたい」 蓮は優しく微笑み、彼女の指に指輪を滑らせた。 冷たかった金属が、体温を吸い込むように温かくなる。 「君の手は、もう震えていないな」 「えぇ……もう、怖くないです」 その瞬間、太陽が昇り切り、二人を金色の光が包み込んだ。 新しい一日が、静かに始まる。 沙耶は光の中で目を閉じ、そっと囁いた。 「蓮……私、この朝を、ずっと忘れません」 蓮が微笑みながら応える。 「この朝は、これから毎日迎えるんだ。沙耶、君と一緒に」 その言葉に、沙耶は微笑んだ。 胸の奥で何かが柔らかくほどけていく。 ――もう夜も何も、怖くない。 過去の痛みも、全てが今へと繋がっていたのだから。 金色の風が吹き抜ける屋上で、 二人はただ、静かに朝日を見つめていた。
会見の翌日。 都心の一角、報道陣の怒号とフラッシュが鳴り響く。 「橘グループの不正流出事件、真犯人の特定!」 ニュースの見出しが次々に更新され、世間は大きくざわめいていた。 画面には、拘束される芹沢美緒の姿。 端正な顔立ちに化粧も剥がれ、疲弊した表情が浮かぶ。 「……どうして私が……。あの女がいなければ、全部、私のものだったのに……!」 拘束されながら、彼女は震える声で叫んだ。 その目には、憎悪と悔恨が入り混じっていた。 だが、その視線の先に沙耶の姿はなかった。 一方、別の場所。 灰色の取り調べ室に座る男。 元夫・直樹。 椅子に腰を下ろし、乱れた髪を掻きむしりながら、 苛立たしげに机を叩いていた。 「全部、芹沢が勝手にやったんだ。俺は……巻き込まれただけだ!」 刑事が冷ややかに言い返す。 「だが、不正アクセスに使われた端末はあなたの会社のものだ。 あなたが“彼女に貸した”と証言している記録も残ってる」 直樹の目が一瞬、泳ぐ。 「……俺は、ただ……沙耶を……」 言葉を詰まらせた。 その名を口にした瞬間、 かつて自分が支配していた女が、もう自分の届かない場所に立っていることを思い知った。 「俺のものだったんだ……あいつは俺の……!」 言いかけながら拳を握りしめ、机を叩いた。 「俺は悪くない! 沙耶が……俺を馬鹿にしたんだ! あいつが謝れば、全部終わってたんだよ!」 刑事はため息をつき、記録用紙を閉じ、淡々と告げた。 「支配は愛じゃない。 あんたはそれを“間違えた”んだ」 「謝らなきゃいけなかったのは、あなたの方でしょう」 重たいドアが閉まり、 直樹は一人きりの静寂に沈んだ。 沈黙。 直樹はその言葉に何も返せず、ただ小さく唇を噛んだ。 その目には、もはや怒りでもなく、空虚さだけが漂っていた。 --- 同じ頃。 橘グループ本社の屋上で、沙耶と蓮は並んで立っていた。 長い夜がようやく明け、事件の幕が下りたのだ。 風が吹き抜け、沙耶の髪を揺らす。 彼女は深呼吸をして、静かに目を閉じた。 「終わりましたね……」 「……あぁ。君が、自分の力で終わらせたんだ」 蓮の声は静かで、どこか温かい。 沙耶はゆ
その頃、麗子ママは都心の高級ホテルのラウンジにいた。 向かいに座るのは、堂々たる風格の男――天城源一。 歳を重ねてもなお、声に力と温かみを併せ持つ人物だった。 「久しぶりだな、麗子。あの頃と変わらないな。」 「天城さんこそ。お世辞はいいのよ。 電話でお願いした件よ。」 麗子は資料を差し出した。 「これ、あなたの企業と橘グループの共同監査情報。 そこに“芹沢美緒”という名前が出てこないかしら?」 天城の目が光る。 「芹沢美緒……あぁ、聞いたことがある。 最近うちのグループを通して、不審なアクセスを仕掛けてきた人物だ」 「やっぱり……。彼女が沙耶を陥れてるのね」 麗子の声には、怒りよりも母のような強さがあった。 「お願い、天城さん。橘グループの監査局に協力して。 彼女のアクセス経路を正式に提出してほしいの」 天城は笑みを浮かべた。 「お前の頼みを断れる男が、この業界にいると思ってるか?」 麗子は安堵の笑みを浮かべた。 その夜、天城重工とルクレールのネットワークが動き出した。 美緒が仕掛けた不正経路を逆探知する“共同追跡プログラム”が走り出す。 --- 同時刻。 暗いオフィスの一室で、美緒は不敵に笑っていた。 「まさか、あの女がここまで粘るとはね……」 彼女の隣には、薄暗いスーツ姿の直樹が座っている。 「そろそろ潰していいんじゃないか?」 「焦らないで。落とすなら、一気に。 彼女の“正義”を嘘に変える瞬間を見たいの」 美緒は赤い唇を歪め、パソコン画面を見つめた。 だが次の瞬間、画面が一瞬だけフリーズする。 “アクセスエラー:監査遮断”の文字。 「……何?」 その背後で、直樹が冷ややかに笑った。 「ははっ、まさか……誰かが逆探知してやがるな」 美緒の笑顔が消える。 「そんな……誰が……?」 --- その答えはすぐに現れた。 橘がオフィスの監査室に入ると、そこには天城会長からの直通通達が届いていた。 > 《不正アクセス元:芹沢美緒(元橘グループ開発部) > 協力者:直樹(元研究所社員) > 目的:橘グループ研究情報の奪取および名誉失墜》 橘が息を呑む。 「……麗子ママ、あなたが……!」 沙耶のスマホ







