元夫のモラハラにより離婚して半年。 沙耶は男性不信で、笑顔も無くしたまま日々時間が過ぎるだけの生活を送っていた。 このままではいけないと、自ら男性不信を治すため夜にラウンジで働くことを決意する。 世の中には色んな男性がいるはず、終わった元夫のトラウマに縛られたままの生活を変えたい一心で夜の世界へ飛び込むが、ラウンジに来る客は軽率な人ばかり。トラウマ克服も出来ず上手く笑えず、店から客に媚びろと言われてもなかなか出来なくて売上も伸び悩んでいた中、無口な男性が来店する。
View Moreカーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。
時計の針は午前十時を指している。 沙耶はベッドの上で、天井を見つめたまま動けずにいた。 目を閉じても、開けても、何も変わらない。 世界が色を失って半年――離婚してからの時間は、まるで止まったように感じていた。 キッチンの時計の針の音だけが部屋に響く。 冷蔵庫の中には、コンビニで買ったペットボトルの水と、食べかけのヨーグルトがひとつ。 冷えた空気と、しんとした静けさ。 人の声が、恋しかった。……けれど、怖かった。 あの人の声が、まだ頭の奥に残っている。 ――「お前なんか、誰にも必要とされない」 ――「俺がいなきゃ何もできないくせに」 その言葉は呪いのように、今も沙耶を縛りつけている。 六畳一間のアパートの中、彼女は息をするだけで疲れていた。 洗濯物は畳まず、郵便物は玄関に積まれたまま。 誰かに会う約束も、電話をすることもない。 時間だけが、音もなく流れていく。 「……このまま、消えてしまえば楽なのに。」 ぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋に落ちる。 涙は出なかった。ただ、胸の奥がずっと重かった。 携帯の画面には、友人からの未読メッセージ。 “久しぶりにご飯でも行かない?” 沙耶は数秒見つめたあと、画面を伏せてため息をついた。 “もう誰かと話す元気なんてない” 心の中でそう呟いた瞬間、自分でも嫌気が差した。 ――何も変わらない。 ――このままじゃ、何も取り戻せない。 その夜、外に出たのは、気まぐれだった。 部屋にいるのが怖くなった。テレビをつけても、音が心に入ってこない。 上着を羽織り、ふらりと街へ出た。 夜風が肌を撫でる。街の明かりが、ぼんやりと滲む。 繁華街のネオンはまるで別の世界の光のようだった。 笑い声、香水の匂い、キャッチの声。 すべてが自分の知らない現実だった。 そのとき、ふと目に留まった。 ――「ラウンジスタッフ募集」 店の前に貼られた小さなポスター。 “経験不問、未経験歓迎。女性の新しいスタートを応援します。” 新しいスタート。 その言葉が、胸の奥に小さく響いた。 「夜の仕事なんて、私にできるわけない」 そう思いながらも、手は止まらなかった。 電話番号をメモする手が、わずかに震えていた。 翌日、意を決して電話をかけた。 ――「ラウンジ・ルクレールです」 低く落ち着いた女性の声。おそらく“ママ”だろう。 面接の日取りが決まったあと、沙耶の心臓は早鐘のように打ち続けていた。 怖い。でも、このままでは、何も変わらない。 “私は、私を取り戻したい” そう心の中で呟きながら、彼女は鏡の前に立った。 半年ぶりに、口紅を塗る。 鏡の中の顔は、どこか他人のようだった。 ――次の夜、彼女の人生は少しだけ動き出す。数日たち── 夜の街は、どこか切なげに輝いていた。 色とりどりのネオンがぼやけ、春の雨がアスファルトを艶やかに濡らしている。 沙耶は、ゆっくりと歩いていた。 ヒールの音が、しっとりとした路面にリズムを刻む。 懐かしい香り――香水とシャンパンと、煙草が少し混ざった“夜の匂い”。 それは、彼女が何度も逃げ場にしてきた場所の匂いだった。 ラウンジ《ルクレール》。 沙耶は、扉の前で小さく息を吸い、そして押した。 カラン、とドアベルの音が鳴る。 そこには、いつもの光景が広がっていた。 柔らかな照明、磨かれたカウンター、静かに流れるジャズ。 その奥で、ママがグラスを拭いていた。 顔を上げた瞬間、目が合う。 「……いらっしゃい、沙耶」 あの声の温度に、胸の奥がきゅっと熱くなった。 「ママ……」 「久しぶりね。座りなさいな」 促され、沙耶はカウンター席に腰を下ろした。 隣では、亜美が相変わらず元気に笑っている。 「沙耶さん、なんか雰囲気変わったね。 前よりすごくキラキラしてる」 「そう?」沙耶は照れたように笑った。 「たぶん……やっと自分の足で立てたからかな」 「うん、わかる。 なんか、“守られる”女から“歩いてく”女になったって感じ」 ママがふっと微笑む。 「そうね。あの頃の沙耶は、声をかけるたびにどこか怯えてたわ。 でも今は違う。ちゃんと自分で光を見てる」 沙耶の指先が、グラスの縁をなぞる。 そこには、たくさんの夜が映っていた。 笑えなかった夜、泣きながらシャンパンを開けた夜、 そして――少しずつ人を信じられるようになった夜。 「ママ、私……研究開発の仕事に戻ることにしたの。 正式に、橘グループの研究主任として。 だから、ここを辞めようと思って」 言葉を終えると、ママは黙って沙耶を見つめた。 その沈黙が、優しさで満ちていた。 「……そう。やっぱり、行くのね」 「うん。 この場所があったから、私はもう一度立ち上がれた。 だから、ちゃんとお礼を言いたくて」 ママはグラスを置き、ゆっくりとカウンターを回り込む。 そして、沙耶の肩を抱いた。 「ありがとうなんて言わなくていいのよ。 この世界に来た女はね、みんな何かを捨てて、何かを探しに来る。 あんたは“自分”を見
雨上がりの街に、橘グループ本社が白く輝いていた。 だが、その内部では静かな嵐が吹き荒れていた。 「これが、新素材データの不正流出記録です」 芹沢美緒が冷ややかに言い放った。 「あなたの“恋人”――桐生沙耶さんが関わっていたそうですよ」 会議室の空気が一瞬で張りつめた。 橘の父・巌が眉をひそめる。 「……どういうことだ、蓮」 「そんなはずはありません」 美緒は、冷たく笑った。 「証拠はあるわ。メール送信記録、サーバーログ、すべて桐生さんの社内IDからの転送」 橘は拳を握りしめながら、静かに答えた。 「俺は彼女を信じます」 「優しいのね。でも現実を見たほうがいいわ。 “恋”で仕事が壊れるのは、あなたのお母様を見て学ばなかったの?」 その一言で、橘の瞳に炎が宿る。 「――その話を、軽々しく口にするな」 重い沈黙。 だが、橘はすぐに携帯を取り出し、短く打った。 ――「話したい。今すぐ来られるか? 橘からの連絡のあと、研究ラボに向かった沙耶は、すぐにデータの異常に気づいた。 「……このタイムスタンプ……私が退勤した後、深夜にアクセスされてる。 しかも、内部LAN経由」 彼女の指が素早くキーボードを叩く。 ログ解析、端末署名の追跡、管理者権限の確認――。 「アクセス履歴が一度削除されて、再書き込みされてる……これ……内部犯だわ」 沙耶の瞳が細く光る。 「内部の誰かが、芹沢さんに協力してる」 キーボードを叩く指先が止まらない。 ――見逃さない。 彼女は、心の中で強く誓った。 * 数時間後。 会議室。 芹沢美緒が、余裕の笑みで座っていた。 「橘副社長、そろそろ現実を受け入れたほうがいいんじゃなくて?」 その扉が開き、沙耶が姿を現した。 白のブラウスに黒のスーツ。表情は静かだが、瞳には確かな光。 「お話、拝見しました。ですが、少し気になる点があったので、調べさせていただきました」 美緒が冷笑する。 「まだ往生際が悪いわね」 沙耶は無言でパソコンを接続し、スクリーンにデータを映した。 「こちらが“私のID”から行われた不正転送ログです。 しかし、このアクセスには、通常社員には使えない“管理者権限”が必要です」 会議
芹沢美緒の一件から数日。 ラウンジの夜は、いつもより騒がしかった。 けれど、沙耶の胸の中には、不思議な静けさがあった。 あの夜――橘が彼女を庇い、美緒に向けた言葉が、今も胸に焼き付いている。 “彼女を侮辱するなら、二度と俺の前に現れるな” その声に、心が震えた。 誰かが自分を“守る”なんて、そんな経験は一度もなかった。 でも、橘に守られた瞬間、心の奥で何かが確かに目を覚ました。 ――もう、誰かの影に隠れて生きるのはやめよう。 そんな思いが、静かに、しかし確かに燃え始めていた。 翌日。 店のロッカールームで、沙耶は化粧を直していた。 隣には、いつものように亜美がいる。 「沙耶さん、この前の件、大丈夫? あんな女、ほんとムカつくよね」 「うん、大丈夫。ありがとう」 「でもさ、沙耶さん、最近なんか違う。目が強くなったっていうか……なんか、芯ができた感じ」 鏡越しに亜美の顔を見ながら、沙耶はふっと笑った。 「……かもしれないね」 亜美は首をかしげた。 「なんかあった?」 「ううん。ただね、思ったの。私、このまま夜だけの世界で終わりたくないなって」 ── 「夜だけの世界?」 「うん。私、前は研究開発の仕事をしてたの。化学系のメーカーで、新素材の開発とか。でも直樹が“女が研究職なんて生意気だ”って言って、無理やり辞めさせたの」 亜美の目が見開かれた。 「え……沙耶さん、そんなすごい仕事してたの!?」 「もう過去の話。でも、やっぱり私、好きだったんだ。研究も、ものづくりも。誰かに否定されても、あのとき感じてた“夢中”を取り戻したい」 その声には迷いがなかった。 “逃げるため”じゃなく、“もう一度立ち上がるため”の言葉。 亜美は、ゆっくりと笑った。 「……沙耶さん、めっちゃかっこいい」 「ふふ、ありがとう。でも、怖くないわけじゃないよ」 「…それでもやるんでしょ?」 「うん」 沙耶の微笑みは、かつてのように無理に作ったものではなかった。 そこには、確かな意思があった。 数週間後。 橘は本社の重役会議室にいた。 父・橘巌の冷たい視線が、息子を貫いている。 「芹沢家との縁談を断ったと聞いたが、本当か」 「はい」 「あの家との関係を切
橘の車の助手席から降りたとき、 沙耶はまだ夢を見ているような気分だった。 空は晴れ渡り、秋の風が頬を撫でる。 ラウンジの夜とは違う昼の光が、彼の横顔を照らしていた。 ――こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいい。 そう思った矢先だった。 「蓮さん」 背筋が凍るような甘い声が響いた。 振り返ると、そこに立っていたのは、 高級ブランドのコートを羽織り、完璧に整えられたメイクの女性。 「……美緒」 橘の声がわずかに硬くなった。 彼女――芹沢美緒はゆっくりと微笑み、 沙耶の方を上から下まで値踏みするように見た。 「まあ……珍しいわね。 蓮さんが、女の人と昼間に出歩くなんて」 その言葉の裏に潜む毒に、沙耶は思わず息を呑んだ。 「どちらさまですか?」 美緒の笑顔は冷ややかに歪む。 「まさか……夜のお店の方?」 橘が一歩前に出た。 「やめろ、美緒」 「ふふ。図星なのね?」 「彼女にそんな言い方をするな」 橘の低い声に、一瞬空気が張り詰めた。 美緒は肩をすくめ、挑発的に微笑んだ。 「あなたの立場、わかってる? 副社長として将来は社長として橘グループを引っ張っていかなければいけないのに、“誰と付き合うか”も、会社の信用に関わるのよ?」 「僕の人生を会社で決められると思うな」 「思ってるわ。だって、それが“橘蓮”っていうブランドでしょう?」 美緒は軽やかに橘の腕を取ろうとしたが、 彼はさりげなく避けた。 「……君とは、もう終わった話だ」 「終わってないわよ?」 美緒の瞳が冷たく光った。 「父があなたのお父様と再び会う予定を立ててるの。 “正式に”婚約の日取りを決めるって」 その言葉に、沙耶の胸が音を立てて崩れた。 婚約――。 そんな言葉が、この人に似合うはずがないのに。 橘は苦い表情のまま、美緒をまっすぐ見据えた。 「……僕は君と婚約するつもりはない」 「ふうん、そう言えるのは今のうちよ」 美緒が冷たく笑った。 「でも、いいのかしら? そんな“水商売の女”なんかと関わって」 その視線が、再び沙耶を刺す。 「所詮、男の気まぐれで拾われた可哀想な子でしょ?」 その瞬間、橘の瞳が鋭く光った。 「美
あの夜のことを、沙耶は何度も思い出していた。 橘の腕の中で泣いた自分。 あの温もりが、まだ身体のどこかに残っている。 抱きしめられたとき、世界の音がすべて遠くなった。 恐怖も、恥も、過去の影も――その瞬間だけは、消えていた。 「……ありがとう」 その一言すら、あのときは言えなかった。 でも、今なら言える気がした。 * 夜明け前。 ラウンジの閉店後、沙耶は橘と並んで歩いていた。 街はまだ眠っていて、湿ったアスファルトの匂いがした。 「……すみません。私のせいで、嫌な思いをさせてしまって」 橘は首を横に振った。 「あれは、あなたが謝ることじゃない」 その穏やかな声に、胸が締めつけられる。 「でも、怖かったです。 あの人の声を聞いた瞬間、また全部戻ってくる気がして……」 「戻りませんよ」 橘が静かに言った。 「あなたはもう、逃げずに立っていた。 ちゃんと、あの人と向き合っていた。 それだけで、もう過去には負けていません」 沙耶は、夜明けの光のようにゆっくり微笑んだ。 「……橘さんって、いつも強いですね」 「強い? 僕が?」 「はい。どんな時も落ち着いてて、誰にも動じない」 橘は少し笑って、空を見上げた。 「僕は……本当は、強くなんかないですよ」 「え?」 「僕は、“強く見せなきゃいけない人間”なんです」 沙耶は、その言葉の意味を掴めずに見つめた。 橘はポケットから名刺を取り出し、沙耶の手にそっと差し出した。 “橘蓮 橘グループ副社長” その文字を見た瞬間、息が止まった。 「副社長……?」 「前に僕が橘グループの社長の息子だというのは話しましたよね。」 「そういう立場でいる限り、人の前で感情を出すわけにはいかないんです。 怒ることも、泣くことも、弱さを見せることも許されない。 でも――」 橘は少しだけ目を伏せた。 「あなたの前では、そういう鎧を脱げる気がするんです」 沙耶の胸に、熱いものが広がった。 「……私なんかの前で、ですか?」 「“なんか”って言葉、また使いましたね」 橘が微笑む。 「あなたの前では、強がらなくていい。 それが、どれだけ楽なことか……あなたにはわからないでしょう?」 優しい冗談のように聞こえた。 でも、橘の瞳には本気の光が宿っていた。
雨は、止みそうで止まなかった。 ガラス越しに見える街灯が滲んで、世界が少し歪んで見える。 その夜、沙耶は出勤していた。 心はまだ落ち着かない。 スマホを見れば、直樹からのメッセージが何通も増えている。---《既読つかないってどういうこと?》《逃げんなって言ったよな?》《お前みたいな女、誰も本気で相手にしないんだよ。俺だけだったんだよ、わかってんの?》《調子に乗ってると痛い目見るぞ》--- ――息が苦しい。 店の明るい照明が、まるで牢獄のライトのように感じる。 笑おうとしても、口角が上がらない。 客の声が遠くでこだまして、何も聞こえなくなっていく。 「沙耶さん、顔色悪いけど大丈夫?」 亜美が心配そうに覗き込む。 「うん……大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」 本当は震えていた。 誰にも悟られたくなかった。 そんなとき――。 ラウンジの扉が、静かに開いた。 店内がざわつく。 見覚えのあるシルエットが、そこに立っていた。 ――直樹。 「……久しぶりだな、沙耶」 笑っているのに、目だけが笑っていなかった。 冷たい視線が、まっすぐに沙耶を射抜く。 「まさか、まだここで働いてるとはな。 俺から離れたら、やっぱ堕ちるの早かったな」 周囲の空気が一瞬で凍る。 他の客たちも、何事かと視線を向けた。 「……お帰りください」 沙耶は声を絞り出す。 しかし直樹は笑った。 「そんな言い方するなよ。元夫に対してさ」 その一言で、心臓が跳ねた。 “元夫”――その響きだけで、身体が強張る。 「おい、どうした? 泣きそうな顔して。 あの頃と同じだな。何も変わってねぇ。 弱くて、何もできない。俺がいなきゃ、何もできない女だ」 その言葉が、刃のように胸を刺す。 足が震え、声が出ない。 「沙耶さん!」 亜美が立ち上がろうとした瞬間、 低く落ち着いた声が店内に響いた。 「――彼女に、何の用ですか」 橘だった。 黒のスーツを濡らしたまま、ドアの前に立っていた。 その姿は、まるで“冷たい嵐の中の盾”のようだった。 「誰だお前」 直樹が鼻で笑う。 「彼女の客です」 橘の声は冷静で、だが鋭い。 「……客? ははっ。金払って構われてるだけだろ。 あいつはそういう女なんだよ」 瞬間、橘の目の色が変わった。
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