この夜が明ける頃、永遠になる

この夜が明ける頃、永遠になる

last updateLast Updated : 2025-10-05
By:  柚綺詩音Ongoing
Language: Japanese
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元夫のモラハラにより離婚して半年。 沙耶は男性不信で、笑顔も無くしたまま日々時間が過ぎるだけの生活を送っていた。 このままではいけないと、自ら男性不信を治すため夜にラウンジで働くことを決意する。 世の中には色んな男性がいるはず、終わった元夫のトラウマに縛られたままの生活を変えたい一心で夜の世界へ飛び込むが、ラウンジに来る客は軽率な人ばかり。トラウマ克服も出来ず上手く笑えず、店から客に媚びろと言われてもなかなか出来なくて売上も伸び悩んでいた中、無口な男性が来店する。

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Chapter 1

壊れた日常

 カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。

 時計の針は午前十時を指している。

 沙耶はベッドの上で、天井を見つめたまま動けずにいた。

 目を閉じても、開けても、何も変わらない。

 世界が色を失って半年――離婚してからの時間は、まるで止まったように感じていた。

 キッチンの時計の針の音だけが部屋に響く。

 冷蔵庫の中には、コンビニで買ったペットボトルの水と、食べかけのヨーグルトがひとつ。

 冷えた空気と、しんとした静けさ。

 人の声が、恋しかった。……けれど、怖かった。

 あの人の声が、まだ頭の奥に残っている。

 ――「お前なんか、誰にも必要とされない」

 ――「俺がいなきゃ何もできないくせに」

 その言葉は呪いのように、今も沙耶を縛りつけている。

 六畳一間のアパートの中、彼女は息をするだけで疲れていた。

 洗濯物は畳まず、郵便物は玄関に積まれたまま。

 誰かに会う約束も、電話をすることもない。

 時間だけが、音もなく流れていく。

 「……このまま、消えてしまえば楽なのに。」

 ぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋に落ちる。

 涙は出なかった。ただ、胸の奥がずっと重かった。

 携帯の画面には、友人からの未読メッセージ。

 “久しぶりにご飯でも行かない?”

 沙耶は数秒見つめたあと、画面を伏せてため息をついた。

 “もう誰かと話す元気なんてない”

 心の中でそう呟いた瞬間、自分でも嫌気が差した。

 ――何も変わらない。

 ――このままじゃ、何も取り戻せない。

 その夜、外に出たのは、気まぐれだった。

 部屋にいるのが怖くなった。テレビをつけても、音が心に入ってこない。

 上着を羽織り、ふらりと街へ出た。

 夜風が肌を撫でる。街の明かりが、ぼんやりと滲む。

 繁華街のネオンはまるで別の世界の光のようだった。

 笑い声、香水の匂い、キャッチの声。

 すべてが自分の知らない現実だった。

 そのとき、ふと目に留まった。

 ――「ラウンジスタッフ募集」

 店の前に貼られた小さなポスター。

 “経験不問、未経験歓迎。女性の新しいスタートを応援します。”

 新しいスタート。

 その言葉が、胸の奥に小さく響いた。

 「夜の仕事なんて、私にできるわけない」

 そう思いながらも、手は止まらなかった。

 電話番号をメモする手が、わずかに震えていた。

 翌日、意を決して電話をかけた。

 ――「ラウンジ・ルクレールです」

 低く落ち着いた女性の声。おそらく“ママ”だろう。

 面接の日取りが決まったあと、沙耶の心臓は早鐘のように打ち続けていた。

 怖い。でも、このままでは、何も変わらない。

 “私は、私を取り戻したい”

 そう心の中で呟きながら、彼女は鏡の前に立った。

 半年ぶりに、口紅を塗る。

 鏡の中の顔は、どこか他人のようだった。

 ――次の夜、彼女の人生は少しだけ動き出す。

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壊れた日常
 カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。 時計の針は午前十時を指している。 沙耶はベッドの上で、天井を見つめたまま動けずにいた。 目を閉じても、開けても、何も変わらない。 世界が色を失って半年――離婚してからの時間は、まるで止まったように感じていた。 キッチンの時計の針の音だけが部屋に響く。 冷蔵庫の中には、コンビニで買ったペットボトルの水と、食べかけのヨーグルトがひとつ。 冷えた空気と、しんとした静けさ。 人の声が、恋しかった。……けれど、怖かった。 あの人の声が、まだ頭の奥に残っている。 ――「お前なんか、誰にも必要とされない」 ――「俺がいなきゃ何もできないくせに」 その言葉は呪いのように、今も沙耶を縛りつけている。 六畳一間のアパートの中、彼女は息をするだけで疲れていた。 洗濯物は畳まず、郵便物は玄関に積まれたまま。 誰かに会う約束も、電話をすることもない。 時間だけが、音もなく流れていく。 「……このまま、消えてしまえば楽なのに。」 ぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋に落ちる。 涙は出なかった。ただ、胸の奥がずっと重かった。 携帯の画面には、友人からの未読メッセージ。 “久しぶりにご飯でも行かない?” 沙耶は数秒見つめたあと、画面を伏せてため息をついた。 “もう誰かと話す元気なんてない” 心の中でそう呟いた瞬間、自分でも嫌気が差した。 ――何も変わらない。 ――このままじゃ、何も取り戻せない。 その夜、外に出たのは、気まぐれだった。 部屋にいるのが怖くなった。テレビをつけても、音が心に入ってこない。 上着を羽織り、ふらりと街へ出た。 夜風が肌を撫でる。街の明かりが、ぼんやりと滲む。 繁華街のネオンはまるで別の世界の光のようだった。 笑い声、香水の匂い、キャッチの声。 すべてが自分の知らない現実だった。 そのとき、ふと目に留まった。 ――「ラウンジスタッフ募集」 店の前に貼られた小さなポスター。 “経験不問、未経験歓迎。女性の新しいスタートを応援します。” 新しいスタート。 その言葉が、胸の奥に小さく響いた。 「夜の仕事なんて、私にできるわけない」 そう思いながらも、手は止まらなかった。 電話番号をメモする手が、わずかに震えていた。 翌日、意を決して電話をかけ
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再出発の兆し
面接当日。 指定された住所は、繁華街の一角にある雑居ビルの三階。 エレベーターの中には、香水と煙草の混ざったような甘い匂いが漂っていた。 「ル・クレール」―― 扉の向こうからは、柔らかなジャズとグラスの音。 思っていたより静かで、落ち着いた空間だった。 「どうぞ」 低く、落ち着いた声。カウンターの奥にいた女性が振り返った。 整った髪型に、控えめなメイク。品のある笑顔。 その人が“ママ”だった。 「桐生沙耶さんね。座って」 ママは沙耶を見つめながら、グラスに水を注ぐ。 視線が優しいのに、どこか鋭い。 “この人には嘘が通じない”と、直感で分かった。 「あなた綺麗な顔立ちしてるわね。夜の仕事は初めて?」 「はい……」 「ふうん。緊張してるわね」 ママは笑った。その笑顔に、ほんの少し救われた気がした。 「うちはね、顔よりも“心”を見てるの。  でもね……あなた、ちょっと目が笑ってないわ。」 沙耶ははっとして、俯いた。 ママは続ける。 「無理に笑わなくてもいいの。最初は誰だって怖いものよ」 その言葉が、胸の奥に温かく染みた。 ――この世界にも、優しさはあるのかもしれない。 採用はその場で決まった。 ママは「来週からね」と言って、名刺を渡してくれた。 白地に金の文字で書かれた“ル・クレール”。 それを握りしめながら、沙耶は帰りの電車で小さく息を吐いた。 不安と、ほんのわずかな期待。 夜風が車窓の外を過ぎていく。 “もう一度、笑えるようになりたい” その小さな願いが、胸の奥で静かに灯っていた。──── 初出勤の夜。 黒いワンピースに、髪はゆるく巻いた。 鏡の中の自分を見つめながら、何度も息を整える。 “笑顔を、忘れないように” そう心の中で繰り返しながら、店のドアを開けた。 「いらっしゃい、沙耶さん!」 明るい声が響く。振り向くと、同僚の亜美が手を振っていた。 ショートカットで、華やかな笑顔。どこか少年っぽい可愛さがある。 「今日からだよね? 緊張してるでしょ」 「……はい」 「大丈夫! 最初は誰でも固いの。とりあえず笑っとけばなんとかなるよ!」 そう言って、亜美は軽やかに笑った。 その自然さに、沙耶は少しだけ救われる。 だが、現実は甘くなかった。 最初に着いた席で、隣の客が笑いなが
last updateLast Updated : 2025-10-05
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出逢い
それは、湿った風の吹く金曜の夜だった。 梅雨の終わり、街は蒸し暑く、雨に濡れたアスファルトが街灯を映していた。 沙耶は、出勤前の鏡の前で小さく深呼吸した。 「……笑顔、忘れないで。」 そう自分に言い聞かせながら、口角を上げる。 けれど、それはやっぱり、ぎこちなかった。 “このままじゃダメだ” そう思っても、心の奥に沈んだ恐怖は、簡単に拭えない。 店のドアを開けると、冷たい空調とグラスの音が出迎える。 シャンパンの泡が弾ける音、男たちの笑い声、 香水と煙草が入り混じる、夜の匂い。 「おはよう、沙耶さん!」 亜美が手を振る。 彼女の笑顔はいつも太陽みたいで、沙耶は少しだけ羨ましくなる。 「今日はVIPが来るってママが言ってたよ。気をつけてね」 「VIP……?」 「うん。ママが『特別なお客様』って。」 その言葉に、沙耶の胸が少しざわついた。 いつもより空気が張りつめている。 ママも珍しく念入りに花を整え、照明の明るさを調整していた。 夜の八時を少し過ぎた頃。 ドアが静かに開く。 “彼”は、ゆっくりと店に入ってきた。 背の高い、無駄のない動き。 黒のジャケットに白のシャツ、シンプルなのに、品があった。 目立つわけではない。けれど、 彼がそこに立つだけで、空気がわずかに変わる――そんな存在感。 ママが軽く会釈した。 「いらっしゃいませ、橘様」 “橘”。 それが、彼――橘 蓮の名だった。 「こちらへどうぞ」 ママが案内した席は、店の奥。静かな照明が落ちる特別席。 沙耶はママの指示で、そのテーブルを担当することになった。 「沙耶さん、行ける?」 亜美が小声で聞いた。 「……うん、やってみる」 震える手でトレーを持ち、彼の前に立つ。 「こんばんは。お飲み物は……?」 声が少しだけ上ずった。 橘は顔を上げた。 その目は、深く静かな色をしていた。 どこまでも透き通っていて、けれど底が見えない。 見つめられた瞬間、沙耶は呼吸を忘れた。 「……ウイスキーを。ロックで。」 低く落ち着いた声。 その響きが、胸の奥を震わせる。 「か、かしこまりました」 慌てて背を向けたが、心臓の鼓動が止まらない。 ――何、この感じ。 怖くない。 でも、怖い。 胸の奥が、ずっとざわついている。 ウイスキーを
last updateLast Updated : 2025-10-05
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距離
数日後の夜。 ラウンジ「ル・クレール」はいつもより静かだった。 金曜の喧騒が嘘のように、客の数もまばら。 けれど、沙耶の胸の奥は落ち着かない。 ――あの人、また来てくれるだろうか。 自分でも理由がわからなかった。 ただ、あの“橘”という男の沈黙が、妙に心に残っていた。 何も言わないのに、何かを抱えているような…… そんな人に、初めて会った気がする。 「沙耶さん、今日ちょっとソワソワしてない?」 亜美がカウンターの隣でニヤニヤしながら覗き込む。 「そ、そんなことないよ」 「うそ。なんか落ち着きないもん」 「……別に、何もないって」 「ふ〜ん、まあいいけど」 亜美は笑ってグラスを拭き続けた。 その明るさが、少し羨ましかった。 その時、店のドアが開いた。 反射的に顔を上げる。 ――そこに、いた。 橘 蓮。 あの時と同じ黒いジャケット。けれど今夜は少し柔らかい表情をしているように見えた。 心臓が一瞬で早鐘を打つ。 「橘様、いらっしゃいませ」 ママが微笑みながら出迎える。 「今日はお一人で?」 「ええ、少しだけ飲みに」 その視線が、まっすぐ沙耶の方を向いた。 ――見つめられた。 何も言われていないのに、胸が熱くなる。 ママが軽く目配せをする。 “行きなさい”という無言の合図だった。 沙耶はトレーを持ち、深呼吸して彼の席へ向かった。 「こんばんは。お久しぶりです」 「……また来てしまいました」 その言い方が少し照れているようで、 思わず、沙耶の口元が緩んだ。 「ありがとうございます。嬉しいです」 「前に飲んだウイスキー、ありますか」 「はい、同じものでよろしいですか?」 「ええ」 いつも通りの短い会話。 けれど、彼の声を聞くだけで、 心の奥の何かが少しずつ解けていく気がした。 沈黙が訪れる。 でも、あの日とは違う。 不思議と、苦しくない。 橘がふと、グラスを指で回しながら言った。 「……この店、静かでいいですね」 「そうですね。私も、落ち着きます」 「前は、人が多い場所にいたんですか?」 少しだけ、胸が痛んだ。 元夫の顔が一瞬、脳裏をかすめる。 だが、今夜は不思議と、怖くなかった。 「……そうですね。ちょっと、いろいろあって。  今は静かな場所のほうが好きです」 橘
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揺らぎ 過去のトラウマ
橘が来るようになってから、三週間が経った。 彼は決まって週に一度、同じ曜日に現れる。 無口で、穏やかで、何かを押しつけることもない。 沙耶はいつしか、その夜を心待ちにするようになっていた。 少しずつ、彼の前では笑えるようになってきた。 それは営業用の笑顔ではなく、心の底から滲み出る自然なものだった。 橘はその笑顔を決して軽く扱わず、ただ静かに受け止めてくれる。 ――この人の沈黙は、安心する。 その日もいつも通り、穏やかな夜になるはずだった。--- グラスの音が静かに響く。 沙耶と橘が短く言葉を交わしているとき、 店のドアが開いた。 「おいおい……ここ、結構いい店じゃん」 その声を聞いた瞬間、全身の血が凍った。 ――直樹。 あの、笑顔の裏に毒を隠した声。 背筋が冷たくなり、指先が震える。 「……どうして」 かすれた声が喉の奥から漏れる。 直樹は沙耶を見つけて、口角を歪めた。 「やっぱお前かぁ。噂で聞いてさ。何もできねぇ女が夜の店で働いてるって」 「……やめて」 「何? 何もできねぇくせに俺と離婚して逃げやがって。それで男に媚び売る仕事してさ。恥ずかしいのか?」 周囲の空気が凍りついた。 ママが眉をひそめ、他の客たちも気まずそうに視線を逸らす。 「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので――」 ママが静かに声をかけるが、直樹は無視した。 「お前、いつからそんな女にになったんだよ。  俺といた頃は、もう少しマシだったよな。」 言葉が鋭く、心をえぐるように突き刺さる。 沙耶の喉が詰まり、声が出ない。 体が勝手に後ずさった。 ――また支配される。 ――この空気、この圧迫感、あの時と同じ。 だが、その瞬間。 橘が静かに立ち上がった。 その動作ひとつで、空気が変わった。 「彼女が嫌がっています。やめてください」 低く落ち着いた声。 怒鳴り声ではない。 だが、その一言に凍るような重みがあった。 直樹は鼻で笑った。 「なんだよ、あんた。客か? こいつの男か?」 「いいえ。ただ、あなたのような人間が女性を侮辱するのを見過ごせないだけです」 「は? なに正義感ぶってんの? こいつは黙って俺の言うこと聞いときゃ幸せだったんだよ」 「……それがあなたの“愛し方”ですか?」 橘の声は低く静かだった。
last updateLast Updated : 2025-10-05
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告白 涙の余韻
夜風が冷たく、心地よかった。 さっきまで張りつめていた胸の奥が、少しずつ緩んでいく。 店を出た沙耶は、しばらくの間、橘と並んで無言のまま歩いていた。 言葉が見つからない。 泣きすぎて、喉が痛かった。 でも、不思議と苦しくなかった。 ――泣くって、こんなに温かいことだったんだ。 ずっと涙を我慢して生きてきた。 泣いたら負けだと、そう思っていた。 でも今夜は違った。 守られたことが、こんなにも心を震わせるなんて。 「……すみません。情けないところ、見せちゃって」 ようやく声を出すと、橘が首を横に振った。 「情けなくなんてありません。  あなたは、今までひとりで戦ってきた。それだけです」 その一言に、また涙が滲んだ。 「……どうして、そんなふうに言ってくれるんですか」 「自分に重なるからかもしれません」 「え?」 橘はふと立ち止まり、夜空を見上げた。 「僕も……人を信じることが、少し苦手なんです」 「……橘さんが?」 いつも穏やかで、冷静で、完璧に見える彼。 その言葉に、沙耶は思わず顔を上げた。 「僕の周りには、たくさんの“笑顔”があります。でも、そのほとんどが……本物じゃない」 「本物じゃない?」 「僕に近づいてくる人の多くは、“名前”や“立場”を見ている。  僕自身を見てくれる人なんて、ほとんどいないんです」 静かな声。 そこに、深い孤独が滲んでいた。 「……どうしてそんなことに」 「僕の父は、橘グループの社長です」 「……えっ」 思わず立ち止まる。 あの橘グループ――テレビでもよく耳にする大手商社。 つまり、橘は―― 「……御曹司、なんですか?」 「そう呼ばれるのが、正直、いちばん嫌なんです」 苦笑いを浮かべながら、橘は続けた。 「誰もが“金”と“地位”しか見なくなる。  笑顔も、優しさも、全部偽物に見えてしまう」 沙耶は息をのんだ。 その静かな告白に、胸が締め付けられた。 「でも――」 橘の目が、まっすぐに沙耶を見た。 「あなたは違いました」 「……え?」 「あなたは、最初から何も取り繕わなかった。  笑おうとせず、無理に話そうともせず、僕が誰であろうか詮索もせずただ、誠実にそこにいた」 心臓が早く打ち始める。 橘の声は淡々としているのに、その言葉の一つひとつが心
last updateLast Updated : 2025-10-05
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罠 小さな幸せのあとで(前半)
あの夜から、橘は定期的にラウンジへ顔を出すようになった。 決して派手ではない。 静かに飲み、静かに帰っていく。 けれどその時間が、沙耶にとっては一日のご褒美のようだった。 「最近の沙耶さん、なんか雰囲気変わったよね」 ある夜、亜美がグラスを磨きながら笑った。 「前より表情が柔らかくなった。なんか……女の顔になってきた感じ」 「ちょ、ちょっと。そういう言い方やめて」 沙耶は顔を赤くしながら笑った。 「でも、当たってるでしょ?」 「……そんなこと、ないよ」 「ふーん? じゃあ、橘さんって人とは?」 「……ただの、お客さん」 「嘘つけ。沙耶さんの“ただの”は、もう信用しない」 亜美がニヤニヤしながらウインクした。 思わず笑ってしまった。 昔なら、こんな軽口にすら心が反応しなかった。 けれど今は違う。 笑える自分が、ちゃんと戻ってきている。 そんな変化を、ママも静かに見守っていた。 「いい顔になってきたわよ、沙耶」 「え……私、そんなに変わりました?」 「うん。無理して笑ってた頃とは違う。  自然な笑顔が出るようになった。女の顔になってきたのよ」 ママの言葉に、胸の奥が温かくなった。 夜の終わり。 店の前で橘が待っていた。 「送ります」 「……ありがとうございます」 帰りのタクシーの中、橘がぽつりと言った。 「最近、よく笑うようになりましたね」 「え?」 「初めて会ったときは、どこか凍ってるようでした。  でも今は……光がある」 沙耶は、ふと窓に映る自分の顔を見た。 確かに、少しだけ柔らかくなっていた。 「橘さんのおかげです」 「違いますよ。あなたが、自分で取り戻したんです」 その言葉が嬉しくて、涙が出そうになった。 でも、もう泣かない。 今は笑いたかった。 「……また、会ってくれますか?」 「もちろん」 橘は微笑み、静かに頷いた。 その夜、沙耶は久しぶりに穏やかな眠りについた。 夢の中で、橘が笑っていた。 暖かい光に包まれて――。 * 翌週。 橘と約束した休みの日。 沙耶は淡いグレーのワンピースを選び、鏡の前で何度も深呼吸をした。 「似合うかな……」 そんな不安を押し殺して待ち合わせ場所に向かう。 公園のベンチで待っていた橘が、彼女を見つけて微笑んだ。 「綺麗です
last updateLast Updated : 2025-10-05
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罠 過去との対峙(後半)
雨は、止みそうで止まなかった。 ガラス越しに見える街灯が滲んで、世界が少し歪んで見える。 その夜、沙耶は出勤していた。 心はまだ落ち着かない。 スマホを見れば、直樹からのメッセージが何通も増えている。---《既読つかないってどういうこと?》《逃げんなって言ったよな?》《お前みたいな女、誰も本気で相手にしないんだよ。俺だけだったんだよ、わかってんの?》《調子に乗ってると痛い目見るぞ》--- ――息が苦しい。 店の明るい照明が、まるで牢獄のライトのように感じる。 笑おうとしても、口角が上がらない。 客の声が遠くでこだまして、何も聞こえなくなっていく。 「沙耶さん、顔色悪いけど大丈夫?」 亜美が心配そうに覗き込む。 「うん……大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」 本当は震えていた。 誰にも悟られたくなかった。 そんなとき――。 ラウンジの扉が、静かに開いた。 店内がざわつく。 見覚えのあるシルエットが、そこに立っていた。 ――直樹。 「……久しぶりだな、沙耶」 笑っているのに、目だけが笑っていなかった。 冷たい視線が、まっすぐに沙耶を射抜く。 「まさか、まだここで働いてるとはな。  俺から離れたら、やっぱ堕ちるの早かったな」 周囲の空気が一瞬で凍る。 他の客たちも、何事かと視線を向けた。 「……お帰りください」 沙耶は声を絞り出す。 しかし直樹は笑った。 「そんな言い方するなよ。元夫に対してさ」 その一言で、心臓が跳ねた。 “元夫”――その響きだけで、身体が強張る。 「おい、どうした? 泣きそうな顔して。  あの頃と同じだな。何も変わってねぇ。  弱くて、何もできない。俺がいなきゃ、何もできない女だ」 その言葉が、刃のように胸を刺す。 足が震え、声が出ない。 「沙耶さん!」 亜美が立ち上がろうとした瞬間、 低く落ち着いた声が店内に響いた。 「――彼女に、何の用ですか」 橘だった。 黒のスーツを濡らしたまま、ドアの前に立っていた。 その姿は、まるで“冷たい嵐の中の盾”のようだった。 「誰だお前」 直樹が鼻で笑う。 「彼女の客です」 橘の声は冷静で、だが鋭い。 「……客? ははっ。金払って構われてるだけだろ。  あいつはそういう女なんだよ」 瞬間、橘の目の色が変わった。
last updateLast Updated : 2025-10-05
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光─ひかり─
あの夜のことを、沙耶は何度も思い出していた。 橘の腕の中で泣いた自分。 あの温もりが、まだ身体のどこかに残っている。 抱きしめられたとき、世界の音がすべて遠くなった。 恐怖も、恥も、過去の影も――その瞬間だけは、消えていた。 「……ありがとう」 その一言すら、あのときは言えなかった。 でも、今なら言える気がした。 * 夜明け前。 ラウンジの閉店後、沙耶は橘と並んで歩いていた。 街はまだ眠っていて、湿ったアスファルトの匂いがした。 「……すみません。私のせいで、嫌な思いをさせてしまって」 橘は首を横に振った。 「あれは、あなたが謝ることじゃない」 その穏やかな声に、胸が締めつけられる。 「でも、怖かったです。  あの人の声を聞いた瞬間、また全部戻ってくる気がして……」 「戻りませんよ」 橘が静かに言った。 「あなたはもう、逃げずに立っていた。  ちゃんと、あの人と向き合っていた。  それだけで、もう過去には負けていません」 沙耶は、夜明けの光のようにゆっくり微笑んだ。 「……橘さんって、いつも強いですね」 「強い? 僕が?」 「はい。どんな時も落ち着いてて、誰にも動じない」 橘は少し笑って、空を見上げた。 「僕は……本当は、強くなんかないですよ」 「え?」 「僕は、“強く見せなきゃいけない人間”なんです」 沙耶は、その言葉の意味を掴めずに見つめた。 橘はポケットから名刺を取り出し、沙耶の手にそっと差し出した。 “橘蓮 橘グループ副社長” その文字を見た瞬間、息が止まった。 「副社長……?」 「前に僕が橘グループの社長の息子だというのは話しましたよね。」 「そういう立場でいる限り、人の前で感情を出すわけにはいかないんです。  怒ることも、泣くことも、弱さを見せることも許されない。  でも――」 橘は少しだけ目を伏せた。 「あなたの前では、そういう鎧を脱げる気がするんです」 沙耶の胸に、熱いものが広がった。 「……私なんかの前で、ですか?」 「“なんか”って言葉、また使いましたね」 橘が微笑む。 「あなたの前では、強がらなくていい。  それが、どれだけ楽なことか……あなたにはわからないでしょう?」 優しい冗談のように聞こえた。 でも、橘の瞳には本気の光が宿っていた。
last updateLast Updated : 2025-10-05
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約束
橘の車の助手席から降りたとき、 沙耶はまだ夢を見ているような気分だった。 空は晴れ渡り、秋の風が頬を撫でる。 ラウンジの夜とは違う昼の光が、彼の横顔を照らしていた。 ――こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいい。 そう思った矢先だった。 「蓮さん」 背筋が凍るような甘い声が響いた。 振り返ると、そこに立っていたのは、 高級ブランドのコートを羽織り、完璧に整えられたメイクの女性。 「……美緒」 橘の声がわずかに硬くなった。 彼女――芹沢美緒はゆっくりと微笑み、 沙耶の方を上から下まで値踏みするように見た。 「まあ……珍しいわね。 蓮さんが、女の人と昼間に出歩くなんて」 その言葉の裏に潜む毒に、沙耶は思わず息を呑んだ。 「どちらさまですか?」 美緒の笑顔は冷ややかに歪む。 「まさか……夜のお店の方?」 橘が一歩前に出た。 「やめろ、美緒」 「ふふ。図星なのね?」 「彼女にそんな言い方をするな」 橘の低い声に、一瞬空気が張り詰めた。 美緒は肩をすくめ、挑発的に微笑んだ。 「あなたの立場、わかってる? 副社長として将来は社長として橘グループを引っ張っていかなければいけないのに、“誰と付き合うか”も、会社の信用に関わるのよ?」 「僕の人生を会社で決められると思うな」 「思ってるわ。だって、それが“橘蓮”っていうブランドでしょう?」 美緒は軽やかに橘の腕を取ろうとしたが、 彼はさりげなく避けた。 「……君とは、もう終わった話だ」 「終わってないわよ?」 美緒の瞳が冷たく光った。 「父があなたのお父様と再び会う予定を立ててるの。 “正式に”婚約の日取りを決めるって」 その言葉に、沙耶の胸が音を立てて崩れた。 婚約――。 そんな言葉が、この人に似合うはずがないのに。 橘は苦い表情のまま、美緒をまっすぐ見据えた。 「……僕は君と婚約するつもりはない」 「ふうん、そう言えるのは今のうちよ」 美緒が冷たく笑った。 「でも、いいのかしら? そんな“水商売の女”なんかと関わって」 その視線が、再び沙耶を刺す。 「所詮、男の気まぐれで拾われた可哀想な子でしょ?」 その瞬間、橘の瞳が鋭く光った。 「美
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