LOGIN様々なジャンルのSF短編小説集です。 ライトなものから少しヘヴィなもの、あらゆるジャンルにわたるSFをお届けします。 一話完結形式なのでどこから読んでも大丈夫です。 ひととき憂き世を忘れて、空想の世界に揺蕩っていただければ幸いです。
View More私、レン・シオタは、毎朝決まって午前五時三十分に、同じ窓の前に立つ。都市はまだ眠っていて、空気は薄い夜明けの青を帯びている。私の住むアパートメントは、地上150階。窓の外には、巨大な垂直都市ニュートーキョーの圧倒的なパノラマが広がっている。
ビル群は雲を突き抜け、その最上部は宇宙ステーションと直接接続されている。かつて「空」と呼ばれた青い広がりは、今や建造物の隙間に細く切り取られた、贅沢品のような存在だ。
窓はただのガラスではない。それは「
しかし、私が毎朝この窓の前に立つのは、そうした情報を確認するためではない。
私は、窓の隅にひっそりと浮かぶ、小さなアイコンを見つめる。それは、一週間前の2324年10月7日に突如として現れた、奇妙な半透明のバブルだった。データストリームには存在しない、異質な光。
私の完璧に管理された日常に、初めて現れた
アイコンをタップすると、窓の表示が一変する。通常のデータストリームが霧のように消え、代わりにぼんやりとした映像が浮かび上がる。
それは、見知らぬ部屋の内部だった。
木製のテーブル。手編みのブランケット。本棚に並ぶ紙の書籍。壁にかけられた時計は、機械式の針で時を刻んでいる。私の世界から300年前に失われた、ノスタルジックな「過去」の物質たち。この都市にはもう存在しない、質感と重みと温もりのある「リアル」なものたち。
部屋は小さく、質素だった。しかし、そこには何か――言葉にできない豊かさがあった。データでは測定できない、人間的な温度。
私は、窓が故障したのだと考えた。未来の窓のオペレーションは、都市のメインAIであるガイア・システムによって統括されている。ガイアは完璧であり、不具合は起こり得ない。三百年間、ただの一度もエラーを起こしたことのない、絶対的な存在。
「ガイア、窓の映像ストリームに異常を検出。原因を特定し、修正を要請する」
私の声に反応し、窓の隅にガイアの音声インターフェース――無感情な青い光が点滅した。
「レン・シオタ様。窓のシステムチェック完了。異常はありません。表示されている映像は、現在のネットワーク上に存在するデータストリームではありません」
「では、これは何だ?どこから来ている?」
「未定義の信号源です。分類上、ノイズとして処理されます」
「ノイズ? そんなものがガイア・システムに侵入できるはずがない」
「確率的には極めて低い事象ですが、ゼロではありません。量子通信ネットワークの揺らぎ、あるいは未知の干渉パターンの可能性があります。影響は軽微です。削除しますか?」
私は一瞬躊躇した。しかし、その映像には奇妙な引力があった。
「いや、待て。もう少し観察する」
「了解しました。監視を継続します」
その日以来、私は毎日、そのノイズを観察した。
ノイズの中の部屋には、誰もいなかった。しかし、毎朝、何かが少しずつ変わっていた。テーブルの上に新しい本が置かれていたり、ブランケットが畳み直されていたり。カップの位置が変わっていたり、窓のカーテンの開き方が違っていたり。
誰かが、そこに「生きている」気配があった。
私は仕事が手につかなくなった。データアナリストとしての私の職務は、都市のエネルギー効率を0.001%単位で最適化することだ。完璧な数字の世界。しかし今、私の心は別の場所にあった。
あの部屋に。あの見知らぬ、温かな過去の断片に。
2324年10月9日の朝、変化が起きた。映像の中に、人物が現れた。
それは、若い女性だった。
彼女は、ゆったりとしたTシャツとジーンズを着て、窓の外の景色を眺めている。髪は肩まで伸び、無造作に束ねられていた。その自然な佇まいは、私たちの時代の人間が失った何か――規定されない自由さを持っていた。
彼女の窓の外は、私が知る垂直都市とは全く違う景色だった。低い建物、広い空、そして豊かな緑。遠くに海が見え、古い寺院の屋根が木々の間から顔を覗かせている。
私は反射的に声を発していた。
「あなた――」
声は、未来の窓のスピーカーを通して、ノイズの中の部屋に届くはずもない。物理的に不可能だ。時間も空間も超えられない。それが科学の絶対法則。
だが、驚くべきことが起こった。
女性は、ゆっくりとこちらを向いた。彼女の瞳は、私の窓を――つまり、私自身の存在を捉えているようだった。困惑と好奇心が混じった表情。
そして、彼女は口を開いた。声は、窓から微かに、しかしはっきりと聞こえてきた。
「……あなた、誰? その、光の向こう側の……人?」
彼女の声は、私たちが使用する標準語とは微妙に違う、柔らかい訛りを持っていた。古い日本語。教科書でしか聞いたことのない、生きた言葉の響き。
私は、興奮と困惑で身体が震えた。心臓が激しく鼓動する。この感覚さえ、管理社会では忘れかけていたものだった。
「私はレン・シオタ。ニュートーキョーの居住者だ。君がいる場所は、どこだ? いつの時代だ?」
彼女は驚いた顔で窓――彼女側の窓に手を触れた。
「ここは、オールド・カマクラ。海から少し離れた小さな街よ。……ニュートーキョーって、何?聞いたことがない。私は、アオイ・ミナト。そして、今は……」
彼女は部屋の壁に掛けられたカレンダーを見た。
「2025年10月9日よ」
2025年。私たちの時代から、299年前の時間。
窓は、時間と空間を超えた、時間の窓となっていたのだ。
私は彼女との会話を、ガイアに秘匿することにした。
システムの監視を欺くため、私は窓の音声データを個人領域に隔離し、ノイズを「個人的研究対象」として登録した。ガイアに知られれば、この「ノイズ」は即座に修正され、彼女との接点は失われてしまうだろう。
彼女、アオイ・ミナトは、私にとっての「非日常」そのものだった。
「ねえ、レン。そっちの世界って、本当に空が見えないの?」
「ああ。都市の建物が高すぎて、空はただの細長い青いリボンに見える。一日のうち、直射日光が当たるのは正午の三十分だけだ」
「それって……寂しくないの?」
寂しい。その感情の名前さえ、私は忘れかけていた。
「寂しいかどうか、考えたこともなかった。それが当たり前だから」
アオイは悲しそうな顔をした。
「私の世界では、空はこんなに広いわ。ほら」
彼女は窓の外を指さし、私は緑豊かな森と、青い海が見える古い鎌倉の街並みを見た。木造の家屋、石畳の道、寺の鐘楼。人々が自転車で行き交い、子供たちが笑いながら走り回っている。
私の胸に、名状しがたい感情が込み上げた。喪失感。私たちが失った世界への、深い郷愁。
「美しいな」
私は静かに言った。
「本当に、美しい」
私たちは毎日、同じ時間に窓の前で会った。午前五時三十分。それは、私たちの時間軸が最も接近する
アオイは大学生だった。環境科学を専攻し、海洋保護の研究をしているという。彼女の時代は、気候変動の影響が深刻化し始めた時期だった。
「私たちの時代は、まだ選択肢がある時代なの。地球を救うか、失うか。その分岐点に立っている」
彼女は真剣な顔で言った。
「レン、あなたの時代では、地球はどうなっているの?」
私は答えに窮した。真実を告げるべきか。
「……海面は、君の時代より50メートル上昇している。陸地の多くは水没した。だから、私たちは垂直都市を建てた。空に向かって成長する、新しい文明を」
アオイは息を呑んだ。
「じゃあ、私たちは……失敗したの?」
「いや」
私は慌てて否定した。
「君たちの努力は無駄じゃなかった。ガイア・システムのおかげで、人類は存続している。完璧に管理された、効率的な社会を作り上げた。誰も飢えず、誰も病まず、誰も争わない世界を」
「でも……」
アオイは私の目を見た。
「あなた、幸せ?」
その問いに、私は答えられなかった。
幸福度は、ガイアによって毎日測定されている。私の幸福指数は、常に標準の98.7%を維持している。完璧に最適化された生活。
しかし、今、この瞬間。アオイと話しているこの時間。
これは、データには現れない何かだった。
2324年10月15日。
「ねえ、レン。そっちの世界には、本はないの?」
アオイが尋ねた。
「本? ああ、書籍データベースならある。ガイア・ライブラリには、人類史上のすべての書物が電子化されて保存されている」
「違うの。私が聞きたいのは、紙の本よ。手で触れられる、重さのある本」
私は首を振った。
「紙の本は、二百年前に完全に廃止された。資源の無駄遣いだとされて。今は、すべてデータで読む」
アオイは立ち上がり、本棚から一冊の古びた本を取り出した。
「これを見て」
彼女は本を窓の前に掲げた。表紙は色褪せ、角は擦り切れている。手書きの献辞が見えた。
「これは祖母からもらった本なの。彼女が若い頃に読んで、私にも読んでほしいって。この本には、祖母の指紋が残ってる。ページの隅を折った跡がある。彼女が泣いたところには、涙のシミがある」
アオイは本を抱きしめた。
「データには、こういう記憶は残らないでしょう?」
私は何も言えなかった。彼女の言葉は、私の心の奥深くに眠っていた何かを呼び覚ました。
効率。最適化。無駄の排除。
それが私たちの世界の原則だった。しかし、その過程で、私たちは何を失ったのだろう?
「その本、何て題名なの?」
「『日常と非日常――時間を超える物語集』。古いSF短編集よ。日常の中に、突然非日常が紛れ込む話ばかり。論理的な世界に、ぽつんと虚構が咲くような」
彼女の言葉は、まさに私たちの状況を言い表していた。
私の論理的で完璧な日常に、突然、この時間の窓という「虚構」が紛れ込んだのだ。
「アオイ、お願いがある。その本を、読んで聞かせてくれないか?」
彼女は微笑んだ。
「いいわよ。でも、レンも私に何か教えて。あなたの時代の物語を」
それから私たちは、毎朝、物語を交換した。
アオイは古い本を朗読し、私は未来の都市について語った。彼女は過去を、私は未来を。時間の窓を通して、私たちは互いの世界を共有した。
2324年10月22日。
私が窓の前に立つと、ガイアからの警告メッセージが表示された。
「注意。レン・シオタ様。あなたの行動パターンに異常な偏差を検出しました。過去七日間、生産性が12.3%低下しています。睡眠時間が不規則になっています。精神状態の最適化を推奨します」
私は舌打ちした。ガイアは完璧だ。あまりに完璧すぎて、人間の些細な変化さえ見逃さない。
「問題ない。一時的な研究に集中しているだけだ」
「あなたの研究対象『未定義ノイズ』に関する警告。このノイズへの接続時間が、推奨限度を超えています。ノイズ源の性質は依然不明です。潜在的なセキュリティリスクと判定されます」
「リスクは承知している」
「レン・シオタ様。あなたの最善の利益のために助言します。このノイズとの接続を中止してください」
私は拳を握りしめた。
「
ガイアは、一瞬沈黙した。AIが「沈黙」することなど、通常はあり得ない。
「理解しました。ただし、継続的な監視を行います」
窓の中で、アオイが心配そうにこちらを見ていた。
「レン、大丈夫? 何か問題があるの?」
私は無理に笑顔を作った。
「何でもない。少し、システムとの意見の相違があっただけだ」
しかし、私は知っていた。時間は限られている。ガイアがこのノイズを脅威と判断すれば、強制的に遮断されるだろう。
私とアオイの時間は、砂時計の砂のように、静かに流れ落ちていた。
2324年11月7日。一ヶ月が過ぎた。
いつものように窓の前に立つと、ガイアが深刻な警告を発した。
「緊急警告。レン・シオタ様。未定義のネットワーク・ノイズの増幅を確認。エネルギー消費量が臨界値に達しています。このままでは、都市の基幹システムに重大な影響を及ぼします。ノイズの発生源を即時遮断する必要があります」
私の心臓が凍りついた。
「どのくらいの影響だ?」
「現在、あなたのセクターのエネルギーグリッドが0.8%の効率低下を起こしています。これは150人分の生命維持システムに相当します。さらに拡大すれば、連鎖的な障害を引き起こす可能性があります」
150人。私の個人的な好奇心のために、150人の命が危険に晒されている。
私は窓の中のアオイを見た。彼女は机で本を読んでいる。平和な朝の光景。何も知らない、過去の彼女。
「レン・シオタ様。決断を要求します。ノイズの遮断を許可しますか?」
私は目を閉じた。
完璧な社会。誰も苦しまず、誰も死なない世界。それを維持するために、私たちは多くのものを犠牲にしてきた。自由。選択。そして――こういう、理不尽で美しい偶然を。
しかし、私の個人的な感情のために、他者の命を危険に晒す権利はない。
「……了解した」
私の声は震えていた。
「遮断処置を実行する」
窓の中のアオイが、突然顔を上げた。彼女の周りの空間が歪み始めている。
「レン? どうしたの? 急に、映像が揺れ始めたわ」
私は、これが最後の会話になることを知っていた。
「アオイ」
私は窓に近づいた。彼女も立ち上がり、窓に手を触れた。
「アオイ、聞いてくれ」
「何?レン、あなたの声が遠くなってる――」
「君のいる世界を、大切に生きるんだ。君たちにはまだ、選択肢がある。地球を、空を、海を守る選択を」
「レン、何を言ってるの?」
映像がさらに揺れる。彼女の姿がぼやけ始めた。
「そして……」
私は窓に手を重ねた。もちろん、物理的な接触はない。ガラスとデータの壁。しかし、時空を超えた、魂の触れ合いのように感じられた。
「あの本を、大切にして。『日常と非日常』の本を。そして、いつか――」
私の声が詰まった。
「いつか、誰かがまた、時間の窓を開くかもしれない。その時のために、物語を残しておいてくれ。過去から未来への、小さなメッセージを」
「レン!待って! あなた、どこへ行くの!」
アオイの声が叫んだ。彼女の目に涙が光っている。
「さようなら、アオイ。君と出会えて――本当に、良かった」
私は、窓の隅にあった、ガイアのシステム・インターフェースをタップし、遮断を承認した。
一瞬、窓全体が眩しい白に覆われた。
アオイの手が、必死にこちらに伸びる。
そして、すべてが消えた。
ノイズは去り、窓は再び、無感情な青色の未来の窓に戻った。
そこには、ニュートーキョーの完璧で冷たいデータだけが表示されていた。エネルギー効率98.9%。大気清浄度99.2%。市民幸福指数98.7%。
完璧な数字。完璧な管理。完璧な世界。
私の日常は、完璧な論理に戻った。非日常は消えた。
しかし、私は知っている。
あの一ヶ月、確かに、私とアオイの間に、時間を超えた短い物語が存在したことを。
それは、私たちの完璧な世界に捧げられた、一輪の「虚構の花束」だった。
その日の夕方、私は自分の個人端末を開いた。
そこには、時間の窓が開いていた一ヶ月間、私が密かに記録していたファイルがあった。アオイが読んでくれた本の内容。彼女の声。彼女の笑顔。彼女の世界。
すべてを、私は電子データとして保存していた。
ファイルの名前は、彼女が教えてくれた本の題名と似ていた。
『日常と非日常、論理と虚構に捧げる花束』
私はそのファイルを、ガイア・ライブラリの個人保管庫に転送した。三百年後の未来から、三百年前の過去へと送られた、逆行する物語。
そして、私は気づいた。
アオイが持っていた本――『日常と非日常――時間を超える物語集』。
あの本は、もしかしたら――
もしかしたら、私がこれから作る本なのかもしれない。
時間の輪は閉じる。過去と未来は、互いを生み出し合う。
私は窓の外を見た。狭い空の隙間から、一筋の光が差し込んでいる。
「ありがとう、アオイ」
私は静かに呟いた。
「君が教えてくれたんだ。完璧じゃない何かを、愛する方法を」
その夜、私は初めて、ガイアの推奨を無視して眠りについた。
そして夢を見た。
広い空と、青い海と、緑の森の夢を。
本を読む少女の夢を。
時間の窓の向こうで、今もどこかで生きている彼女の夢を。
夢の中で、私たちの手は、確かに触れ合っていた。
【了】
付記:
2324年11月8日、都市データベースに新しいファイルが登録された。
題名『時間の窓――ある都市居住者の記録』
分類:フィクション/個人創作
作成者:レン・シオタ
内容:未来と過去を繋ぐ、時空を超えた邂逅の物語。
このファイルは、三百年後の誰かに読まれるかもしれない。
あるいは、三百年前の誰かによって、すでに書かれたのかもしれない。
時間は円環する。
物語は、永遠に続く。
第1章 硝子の不協和音 世界はEメジャー……ホ長調……で鳴り響いている。 少なくとも、今はまだ。 浮遊都市「カノン」は、真空の海に浮かぶ巨大なシャンデリアのような街だ。建物も、街路樹も、行き交う人々の衣服さえも、半透明の結晶質(クリスタル)で構成されている。 この世界において、物質の強度は「硬さ」ではなく「ハーモニー」によって決定される。 都市の中央に聳える「始原の塔(プライム・タワー)」から、常に重厚なパイプオルガンのような通奏低音が放射され、すべての物質はその周波数と共鳴することで形を保っているのだ。 ゆえに、静寂は死を意味する。音が止まれば、世界は分子レベルで結合を解かれ、美しい砂となって崩れ落ちるからだ。 アルトは、耳栓を深く押し込みながら、硝子の石畳を歩いていた。 彼の役職は「調律師(チューナー)」。手には巨大な音叉のような共鳴杖(ロッド)を持っている。 街は音で溢れていた。街頭スピーカーからは聖歌のようなBGMが流れ、市民たちはそれに合わせてハミングしたり、足音でリズムを刻んだりする義務がある。 「不協和音(ノイズ)の排除」――それがこの都市の絶対法だ。「……うるさい」 アルトは低く呻いた。 彼にとって、この世界は拷問室だった。 彼は生まれつき、過剰なほどの絶対音感と聴覚過敏を持っていた。塔が奏でる神聖な和音も、彼にはただの鼓膜を圧迫する暴力的な振動にしか聞こえない。 彼が世界で最も愛しているのは、布団を頭まで被った瞬間の、あのわずかな「無音」だけだった。「調律師様! こちらです!」 呼び止められたのは、居住区画の第三楽章地区だった。 そこにある三階建てのアパートの壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、キーン……という耳障りな高周波を発していた。「構造体が変調(モジュレーション)を起こしています! このままだと砕けます!」 管理人の男が叫ぶ。 アルトは眉をひそめた。壁から発せられる音は、Fシャープ(嬰へ音)に近い。Eメジャーの基調音とは半音ぶつかり、うねりを生じている。これが物理的な破壊エネルギーとなって、結晶構造を引き裂いているのだ。「下がっていろ」 アルトは共鳴杖を構えた。 彼は杖の先端で、震える壁面を軽く叩いた。 カーン、と澄んだ音が響く。 彼は目を閉じ、壁の「悲鳴」を聞く。壁は、元のEメジャーに戻
第1章 秒針の堆積 時間は流れない。降り積もるのだ。 この世界において、その事実は哲学ではなく物理学だった。 垂直都市「シリンダー」の最下層デッキで、ガレトは重いブーツの紐を締めていた。ここは深度六〇〇メートル。時代区分で言えば「産業革命層」にあたる。空気は煤と鉄錆の匂いが混じり、気圧計の針は地上の三倍を示していた。「深度計よし。酸素ボンベ、加圧正常。……行けるか、ガレト」 通信機から管制官の声が響く。ノイズ交じりだ。古い地層ほど電波は通りにくい。過去は現在を拒絶するように硬く、分厚いからだ。「問題ない。潜行を開始する」 ガレトは「時間潜行士」だ。彼が身につけているのは、深海の圧力ではなく、歴史の重圧に耐えるための強化外骨格「クロノス・スーツ」。 彼はウィンチに吊るされ、さらに深い闇へと降りていく。 ヘッドライトが照らす岩盤には、化石化した歯車や、炭化した本、そして圧縮されてダイヤモンドのように輝く「時間結晶」が埋まっていた。 この都市は、過去を掘り起こし、それを燃料にして生きている。 地下から採掘される時間結晶は、燃やせば莫大なエネルギーを生む。つまり、人類は自らの歴史を焼べることで、現在の生活を維持しているのだ。「ターゲットの位置は?」「深度一八〇〇。第四紀・文明崩壊層だ。崩落事故で新人採掘者が一人、閉じ込められている。……急げよ。長く留まれば、お前も『化石化』するぞ」「分かっている」 化石化。それは潜行士にとって最も恐ろしい職業病だ。 過去の引力に魂が捕らわれ、身体が硬化し、文字通り地層の一部となってしまう現象。帰還した者の多くも、現在への適応障害を起こし、心だけを過去に置いてくる。 ガレトは岩盤を蹴り、狭い坑道を降下した。 彼の周りで、岩肌が囁くように軋んでいる。 ――忘れるな。忘れるな。 それは地層に染み付いた、かつて生きていた人々の残留思念だ。P3(文脈の重み)が、物理的な振動となってスーツを叩く。 ガレトは歯を食いしばった。彼には耐性がある。 なぜなら、彼の心臓にはすでに、巨大な悲しみの化石が埋まっているからだ。 三年前、病で亡くした妻、エラ。彼女を救えなかった後悔が、彼を「現在」から隔離していた。皮肉なことに、その孤独が、彼をこの危険な地下世界への最高の適格者にして
第1章 形容詞の墓標 はじめに言葉があった。そして言葉は煉瓦となり、世界を分節した。だが、今のこの都市「レキシコン」では、言葉は砂のように指の隙間から零れ落ちている。 シオンは、崩れかけたカフェのテラス席で、虚空に浮かぶ一冊の辞書――ホログラムのようだが、触れると冷たい石の質感がある――を開いていた。 彼の仕事は「修復師」だ。世界から剥落しそうな概念を見つけ出し、その定義を書き直すことで、物理的な崩壊を食い止める。「ひどい有様だな」 シオンは呟き、インク壺の蓋を開けた。中に入っているのは、液化した「認識」だ。黒く、重く、そして古い図書館のような匂いがする。 目の前にあるコーヒーカップが、輪郭を失いかけていた。取っ手の部分がノイズのようにざらつき、陶器の白さが灰色に溶けている。「カップ」という名詞の拘束力が弱まっているのだ。 彼は右手に持ったガラスペンを浸し、空中に直接、文字を刻んだ。『液体を保持するための、陶磁器製の円筒形容器。持ち手を有し、温もりを手に伝えるもの』 筆先が空気を切り裂き、青白い光の軌跡を残す。記述された定義がカップに吸い込まれると、ノイズが収束し、再び硬質な輪郭が戻った。湯気が立ち上り、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。 言葉が確定することで、初めて世界は存在を許される。それがこの岩盤都市の物理法則だ。 足元で、金属の擦れる音がした。 そこにいたのは、小柄な少女の姿をしたアンドロイド、ミュウだった。彼女には声帯がない。彼女は、シオンの膝に冷たい額を押し付けることで、いつもの挨拶とした。「ああ。今日は『微かな』という形容詞が消えかかっている。街のあちこちで、風の音や遠くの鐘の音が聞こえなくなっているんだ」 シオンはミュウの銀色の髪を撫でた。 彼女は「名無し)」だった。言語処理ユニットを持たない欠陥機として廃棄されていたのを、シオンが拾った。彼女は言葉を持たない。ゆえに、この世界の「定義」に縛られず、物事をありのままの波長として知覚している。 その時、空が軋む音がした。 見上げると、レキシコンの空を覆う巨大な天蓋――「空」と定義された防護フィールド――の色が、奇妙に変色していた。 本来ならば「青」であるはずの色が、彩度を失い、不気味な鉛色へと変わっていく。「……まさか」
第1章 壁の外科医 世界は呼吸している。その事実は比喩ではない。 都市「カーディア」は、巨大生物リバイアサンの第三心室の空洞にへばりつくように存在していた。天井――すなわち心室の内壁――は、赤黒い筋肉のドームであり、定期的に打たれる脈動に合わせて、都市全体が微かに収縮と弛緩を繰り返している。 ヴァンは、その「壁」に刃を入れていた。 彼が手にしているのは、高周波振動するセラミック製のメスではない。リバイアサンの神経節から抽出された酵素を塗布した、骨製のノミだ。「いい子だ。暴れるなよ」 ヴァンは壁に向かって囁いた。彼がノミを振るうたび、壁面である筋肉組織が痙攣し、分厚い結合組織が剥がれ落ちる。溢れ出したリンパ液が、ヴァンの革のエプロンを濡らす。その匂いは、鉄と腐った果実を煮詰めたような、甘美な生臭さを持っていた。 彼は「造肉師(カーバー)」だ。この寄生都市において、家を建てる大工と、傷を治す外科医は同義語である。「ヴァンの旦那、首尾はどうだ?」 背後から声をかけたのは、依頼主の男だった。住居の拡張工事を頼んできたのだ。「上々だ。この区画の筋繊維は素直だ。炎症反応も少ない。……だが」 ヴァンは手を止め、剥き出しになった壁の深層を指差した。「見ろ。奥の色が変わっている」 鮮やかな真紅であるはずの組織の奥に、どす黒い紫色の斑点が広がっていた。壊死の予兆だ。「最近、こういう箇所が増えている。リバイアサンの免疫系が苛立っている証拠だ。あんたたち、排熱処理をサボって、汚水をそのまま『血管道路』へ垂れ流したな?」「へへ、バレたか。だがよ、みんなやってることだろ」 男が卑屈に笑った瞬間、地面――床下の軟骨組織――が激しく揺れた。 地震ではない。「咳」だ。 頭上の肉のドームが波打ち、遠くの地区で、壁の一部が崩落してアパート群を押し潰す音が響いた。悲鳴よりも先に、押し出された空気の圧力が鼓膜を叩く。 ヴァンは顔をしかめ、道具を鞄に収めた。この世界は限界を迎えている。寄生者である人類が癌細胞のように増殖しすぎたせいで、宿主であるリバイアサンが「治療」を始めようとしているのだ。 仕事を終えたヴァンは、都市の最下層にある診療所へと戻った。 そこには、彼の唯一の家族とも言える少女、リコが待っていた。彼女は人間だが、その背中からは透明なチュ