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第一章:出会った二人の欠けし者たち⑧

Autor: 七森香歌
last update Fecha de publicación: 2026-08-18 07:42:16

 夜明け前の森でシュリがオオカミに襲われた一件から、数日が経った。普段通り、朝食と洗濯を済ませた後、出かける支度をしているのをシュリはドゥーエに見咎められた。

「出かけるのか?」

 シュリは部屋の奥の戸棚から薬の入った小瓶の数々を取り出して木箱に詰めながら、

「うん。薬をノルスに卸しにいくんだ」

「……そうか」

 ノルスとは、この森の近くにある田舎町である。ドゥーエがこの森に逃げ込む前に人を襲って失敗した場所でもある。

 ただでさえ“人喰い”という人間に忌まれる存在である上に、ノルスの自警団によって警戒されているであろうドゥーエは、シュリと共にノルスへ行くわけにはいかない。シュリがオオカミに襲われた先日の一件が頭を掠めたが、ドゥーエが彼女に同行を申し出るわけにはいかなかった。

「ドゥーエ、あたし、今日一日留守にするから、家のことお願いしていい? 掃除とか薪(たきぎ)割りとか、野菜や薬草の世話とかさ。あと、日が傾いてきたら、湿気る前に洗濯物片付けてくれると助かるかも」

 ドゥーエの憂いと葛藤を知ってか知らずか、木箱に薬の瓶を詰める手を止めると明るい声でシュリはそう言った。

「……ああ」

「お土産何がいい? 何か欲しいものがあれば、買ってきてあげる」

「別にそんなことは気にしなくていい。それより、そちらの箱も持っていくんだろう? 荷車に積んでおいてやる」

 シュリの横に積み上がった木箱の山をドゥーエは手で示すと、オーク材のダイニングチェアから立ち上がる。ドゥーエは箱の山を軽々と片手で持ち上げると、台所横の裏口の扉から外へ出ていった。

 ありがと、とシュリは艶やかで美しい黒髪が流れる長身痩躯の背中を見送ると、中身を詰め終わった木箱の蓋を閉める。壁にかけた使い古したキャメルのサッチェルバッグを取ってくると、財布と昼食用のナッツの詰まった巾着、水の入った山羊革の水筒を放り込んだ。

 ココアブラウンのケープを羽織って短剣を腰に吊ると、サッチェルバッグを背負う。シュリはずっしりと重い木箱を抱えると、ドゥーエを追って裏口から外へ出ていった。

「それで全部か?」

 先に運んできた分の木箱を積み込んでいたドゥーエは、シュリに気づいて振り返る。うん、と頷くと、ドゥーエは手を伸ばしてシュリから木箱を奪い取った。

「ごめんね、寒いのにこんなことやらせちゃって」

「気にするな。別にこれは俺がやりたくてやっていることだしな」

「へ……?」

 どういうこと、とシュリが聞き返そうとすると、ドゥーエは照れ臭いのか、居心地悪そうに顔を背けた。ドゥーエはシュリから奪った木箱を荷車に積み込むと、箱が動かないように縄で固定していく。できたぞ、と少し気恥ずかしそうにシュリに一瞥をくれるとぼそりと口の中で呟いた。

「……気をつけて行ってこい」

「うん、ありがと」

 シュリは微笑んだ。荷車の持ち手を掴み、行ってきます、と彼女が口にすると、ドゥーエは呆気に取られた顔をした。そして、一瞬の後、彼は口の端を吊り上げると、ぎこちなくシュリへと対になる言葉を返す。

「……あ、ああ。その……いってらっしゃい」

 慣れない言葉の響きにくすぐったさを覚えてシュリはくすりと小さく笑った。つられてふっと声を漏らしたドゥーエの顔は、冬の蒼穹のように透明に澄んで美しかった。

(ドゥーエってこんなふうにも笑えるんだ)

 きれいだ、と思いながらシュリはドゥーエへと小さく手を上げて見せる。そして、持ち手を掴み直すと、シュリはずっしりと重い荷車を引いて、森の出口へと向かって歩き出した。

 ノルスの町外れにある薬問屋の前に荷車を止めたシュリは、コツコツと扉を叩いた。

「キサラさん、シュリです。今月分の薬の納品に来ました」

 あいよ、と扉の向こうで嗄れた声が返事をした。程なくして、キィと扉が開き、一枚の書類を手にした小柄な老婆が姿を現した。

 シュリは通常の相場の三割引きという条件で、キサラの店と契約をしている。シュリにとって不利な契約内容であることは間違いないが、それでも他に生きていく手段を持たないシュリにとって、このノルスの町では破格の条件であることは間違いなかった。

「キサラさん、こちらが今月分です。確認をお願いできますか?」

 シュリは荷車に積まれた木箱の蓋をすべて開くと、キサラに納入内容の確認を促した。キサラは銀縁の眼鏡の奥のアイスブルーの双眸を細めると、手に持った書類の内容と荷車の薬品を照らし合わせていく。彼女はシュリが持ってきた薬を確認し終えると、

「今月分も問題ないよ。裏の倉庫に運び入れておいておくれ」

「わかりました」

 シュリは荷車から木箱を下ろすと、店舗裏にある倉庫へと運んでいく。シュリが倉庫と荷車の往復を終えると、店の前でシュリの作業が終わるのを待っていたキサラから金貨の入った布袋を手渡された。袋の口を開けて中を確認すると、いつも通り金貨が十枚入っている。

「確かに受け取りました。キサラさん、もうしばらくここに荷車を止めておいてもいいですか? 帰る前に少し買い物をしてきたくて」

 シュリの言葉にキサラは露骨に嫌そうな表情を浮かべると、

「構わないが、何かされてもわたしゃ責任取らないからね。それでもいいなら勝手にしな」

 ありがとうございます、と頭を下げるとシュリはその場を後にした。

 ドゥーエは土産など気にしなくてもいいと言っていたが、彼のために何か買って帰りたかった。普段なら因縁のあるこの町でなく、ひとつ先のシュトレーの街で必要な買い物をしていたが、今日は移動のための時間をドゥーエの喜びそうなものをじっくりと吟味する時間に充てたかった。

(人間のものは無理だとしても、ドゥーエはやっぱりお肉がいいのかな? 奮発していいお肉買って帰ってワインで煮込んで……そうだ、チーズも用意して、上にかけて焼いたら美味しいかも)

 そんなことを考えながら、シュリは軽い足取りで町の通りを進んでいく。ドゥーエがどんな反応をするか、想像するだけで心が自然と弾んだ。

 商店が軒を連ねる界隈に足を踏み入れると、肉を扱う店をシュリは探した。

 きょろきょろと辺りに視線を巡らせながら歩いていると、シュリは突然肩口に衝撃を覚えてたたらを踏んだ。背後を振り返ると、シュリにぶつかったらしいネイビーのキルティングコートの男が立ち去っていくのが視界に入った。聞こえよがしに舌打ちをするその男は、どうやらわざとぶつかってきたようで、悪びれる様子もない。

 辺りの店からちらちらと無遠慮な視線がシュリへと投げかけられていた。通りすがりの人々も足を止め、悪意を孕んだ目を向けてくる。

「ほら、あの子……エフォロスの森に住み着いてる……」

「ああ、気味が悪いわよね……関わると不幸が訪れるとかっていう……あの子のせいでエレヌさんは弟さんを亡くしたっていうし……」

「何でもあの子の母親って禍いを振り撒く魔女だったって言うわよ……魔女の子は魔女だもの、何しにきたか知らないけど、早くこの町から出て行ってくれないかしら。安心して外を出歩けないわ」

 ひそひそと漏れ聞こえてくるシュリを嫌悪する言葉に、彼女はすっと現実に引き戻された。ドゥーエのことを考えて高揚していた気持ちが、冷や水を浴びせられたかのようにすうっと急速に冷えていく。

 こつん、とシュリの背中に何かがぶつけられた。足元を見ると石が転がっている。

 それを皮切りに、シュリへと一斉に物が投げつけられ始めた。出ていけという言葉と共に心身に与えられる容赦のない痛みにシュリは歯を食いしばって耐える。目の奥が熱くなり、鼻腔につんと塩辛いものを感じる。

(駄目、泣いたら駄目だ。あたしは何もしていない。なのに、ここで泣いたりしたら、ノルスの人たちが言っていることが事実だって認めたことになる)

 浮かれていた自分が馬鹿みたいだと思った。自分がノルスをうろつけば、嫌な思いをすることくらいわかりきったことのはずだった。買い物であれば、日を改めていつも通りもう少し足を伸ばし、シュリのことを知る人の少ない隣街のシュトレーまで行くべきだった。

 料理に使う酒の瓶が飛んできて、シュリの左頬に叩きつけられた。痛みを感じた頬に手をやると、小さなガラスの破片が突き立っていた。シュリは頬に手をやってガラスを取り除くと、無造作に地面に放り捨てた。頬を濡らしているぬるりとした液体が酒なのか、傷口から流れる血液なのか確かめる気にはなれなかった。

 シュリは痛みに耐えながらも、背筋をしゃんと伸ばした。相乗的に激しくなっていく、振るわれる覚えのない二種類の暴力に曝されながら、無言で前を見据えてシュリは大股にその場を歩き去った。

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