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第一章:出会った二人の欠けし者たち⑦

Autor: 七森香歌
last update Data de publicação: 2026-08-17 18:50:30

 ふっと眠りの世界から意識を引き戻され、シュリは瞼を開いた。見慣れた家の天井が視界に像を結んでいく。背にはごつごつとした男の体の感触と温もりを感じる。

 聴覚を満たすすうすうというドゥーエの寝息に心地よさと温かさを覚えながら、シュリはちらり、と窓の外へと視線をやる。まだ外は薄暗い。どうやら普段起きる時間よりも早く目覚めてしまったらしいと覚醒していくにつれてシュリは悟った。

 現実を認識すると、すうっと波が引くように眠気が遠ざかっていく。再度目を閉じてみたが、寝直すことは叶いそうになかった。

(……そうだ)

 隣で眠るドゥーエの寝息と鼓動を聞きながら、日が昇ってくるのを待つのも悪くはなかったが、せっかく目が覚めたのだからと、ドゥーエを起こしてしまわないように気をつけながら、シュリはそっとベッドを抜け出した。

 すとん、と静かな部屋の中で微かな衣擦れの音を立てながら、シュリはベロア生地のスモーキーグリーンのネグリジェを脱いでいく。明け方の冷気に晒された肢体と頭をグレーのギンガムチェックのワンピースに通し、オークグレーのブーツに足を滑り込ませる。シュリはココアブラウンのケープを羽織り、自衛のためのナイフを腰に下げると、キィと小さくドアの蝶番を軋ませながら家の外へ出た。

 朝が来る前の仄暗い闇を湛えた森の中をシュリは歩き出した。目覚めの刻(とき)を待つ森の中は静まり返っていて、金風が木々の間を吹き抜けていく音がやけに大きく聞こえた。

 辺りには湿った土の匂いが充満している。夜露に濡れた落ち葉の下から覗く地面では、霜がきらきらと水晶のような無垢な光を放っていた。

 出会ったときに深手を負っていたとはいえ、ドゥーエの傷の治りが遅いことにシュリは気づいていた。

 基本的に自給自足の生活であることもあり、シュリが作る料理は野菜を使ったものに偏りがちだ。”人喰い”であるドゥーエには、人の肉を食べさせてやるのが一番であることくらい、シュリも知ってはいる。だからといって、ドゥーエのために誰かを殺すことも、自分の肉を分け与えることもシュリにはできそうになかった。

 人の肉は無理だとしても、せめて何か少しでも栄養のあるものをドゥーエに食べさせてあげたいと思いながら、シュリは暗い森の中を危なげなく進んでいく。シュリは時折立ち止まっては、生い茂る木々の根元へと視線を走らせる。今の時期であれば、まだこの森に棲息する野鳥の卵が手に入るかもしれなかった。いつもよりも時間に余裕がある今日は、森の奥でドゥーエのために卵を探してみるつもりだった。

(こういう草むらの窪みに巣がありがちなはず……いくつか卵が手に入るようなら、じゃがいもとほうれん草を入れてオムレツに……)

 時季が過ぎてほとんど花の落ちたハギの茂みをがさがさと探りながら歩き続けていると、ふいにシュリの聴覚にぐるるという低い唸り声が飛び込んできた。シュリははっとして背後を振り返り、顔を強張らせた。ふわふわと浮かれていた気分が焦りと緊張に呑み込まれていく。

(っ……オオカミっ……!)

 食料が乏しくなる寒い時期、オオカミはパックと呼ばれる群れ単位で連携して狩りをする。今、シュリは自分を獲物として見定めたらしい八頭のオオカミたちに囲まれてしまっていた。卵探しに気を取られるあまりにオオカミに気づくことが遅れた己を呪い、シュリは歯噛みする。

 オオカミたちによって、逃げ道はすべて封じられてしまっている。それに仮に逃げたとしても、自分とオオカミの足の速さを考えればすぐに追いつかれてしまうだろう。

(やるかしかない……!)

 シュリは覚悟を決めて腰に吊るした短剣の柄に手をかける。手が恐怖にがたがたと震える。これで自分にできることなど高が知れてはいるものの、こんなところで無抵抗でオオカミたちの朝食になるのはごめんだった。

 脳裏をちらりとドゥーエの顔が過った。なんでこんなときに、とシュリは戸惑いを覚えた。やだなあ、と小さく苦笑混じりに呟きながら、シュリは短剣を抜き放った。

(あたし……あいつと一緒に暮らすの、楽しいんだ。だから……)

 こんな馬鹿な形でシュリが死んだと知ったら彼はどう思うのだろうか。どうするのだろうか。

(馬鹿馬鹿しい。あいつがどうするかなんて、あたしの尺度なんかじゃ測れないっていうのに)

 じわじわとオオカミたちが包囲を狭めてくる。彼らはシュリに飛びかかるタイミングを図っているように見えた。

 ふいにシュリを取り囲むオオカミたちの一頭が地面を蹴って飛び上がった。こちらへ向かって、残像を描きながら滑空してくるその姿がやけにゆっくりと視界に映る。獰猛さを孕んだ静謐な金の双眸と視線が交錯する。冷たい死の気配が迫ってきているのを感じる。

 オオカミから放たれる悠然とした空気感に圧倒されていたシュリは我に返ると、手にした短剣を構える。シュリに食らいつこうとするオオカミの大きく開けられた口腔の粘膜がぬらりとした赤い光沢を放っていた。

 他のオオカミたちも、シュリを一網打尽にするべく、彼女へと向かって跳躍する。間近に迫ったオオカミへと向かって短剣を闇雲に突き出すが、多勢に無勢だ。とてもではないがこの場を生きて切り抜けられそうにはない。

 そのとき、シュリへと向かってきていたオオカミが地面に叩きつけられた。え、とシュリは息を呑む。

「シュリ!」

 切羽詰まった声で彼女の名を呼んだのは険しい表情を浮かべたドゥーエだった。オオカミたちとシュリの間に割って入ると、彼はシュリの手から有無を言わさずに短剣をもぎ取った。そして、彼は流れるような卓越した動きで、短剣を閃かせてオオカミたちを切り刻んでいく。やがて、シュリに襲いかかってきていたオオカミたちは、血溜まりの中に倒れ伏し、動かなくなった。

「シュリ……無事か?」

 短剣の刃に付着したオオカミの血を外套の裾で拭いながら、ドゥーエはシュリを振り返った。機嫌の悪さを隠す気もないようで、その端正な顔は顰められている。

「ドゥーエ……助けて、くれたんだよね……? その……何か、怒ってる……?」

「お前な……」

 そう言ったドゥーエの深紅の双眸の奥に怒りの炎が静かに揺れた。寝乱れたままの黒髪の隙間から覗く白い額には青筋が浮かんでいる。彼は怒気を孕んだ切れ長の目でシュリを睨み据えると、感情を押し殺した低い声で問うた。

「どうして、一人で出かけた? 森のこの辺りはオオカミたちの縄張りだ。迂闊に足を踏み入れれば、お前のような非力な小娘など、食われて当然だということくらいわかっているだろう?」

「それは……そう、だけど……」

 ドゥーエの指摘にシュリは口籠る。

「でも、ドゥーエ、あたしが起きたとき、ぐっすり寝てたし……それに、今朝はちょっとうっかりしちゃったっていうか……」

「俺がこうしてお前を見つけられなかったら、今ごろどうなっていたかわかっているのか! 大体、目が覚めたらお前がいなくなっていて、家の近くやいつもの川の辺りを探しても見つからなかったときの俺の気持ちがわかるか!? どれだけ心配したと思っている! ああやってオオカミに襲われているのを見つけたとき、どれだけ肝が冷えたと思っているんだ!」

 シュリの言葉を遮り、思わずといったふうにドゥーエは声を荒らげる。畳み掛けるように自分を心配する言葉を並べ立てていくドゥーエへとシュリは素直に頭を下げた。

「ごめん……」

 ふう、と嘆息すると、ドゥーエは肩をすくめた。ふっと鋭さを帯びていた彼の表情が解け、柔らかく和らいでいく。ドゥーエは短剣をシュリに返しながら、

「ともかく、無事でよかった。だが、もうこんなふうに心配させないでくれ。何か用があって、危ない場所に立ち入らなければならないなら、俺を頼れ。仮に今朝みたいに俺が眠っていたとしても、起こしてくれて構わない。お前に何かあったら、俺は……」

 ドゥーエの目が憂いで翳る。シュリは不思議そうに彼の顔を覗き込み、

「……ドゥーエ?」

「……何でもない」

 気にするな、と言いながらドゥーエはごまかすように低い位置にあるシュリの頭へと手を伸ばすと、彼女の黒い髪をくしゃりとかき混ぜた。手に触れた彼女の存在とぬくもりが失われずに済んだことにドゥーエは安堵を覚えていた。

 一体、自分は今、何を言いかけたのだろうか。なぜ自分はこんなにも彼女に執着してしまっているのだろうか。

(シュリのことなど、最後には”喰って”しまえばいいと思っていたはずなのに、シュリが危険な目に遭うことを看過できなくなっている……何故、こんな……?)

 心の深淵にあるはずのその答えを、ドゥーエは知らなくていいと己の思考に蓋をする。その正体を知ってしまえば、後戻りできなくなってしまうような気がした。

 帰るぞ、と冷え切ったシュリの右手首を強引に掴むとドゥーエは踵を返した。

 朝を迎えられなかったオオカミたちの骸の上に、金色の光とともに死の静寂が降り注いでいた。

 その日の夕飯の後、シュリはダイニングテーブルで針と糸を手に繕い物をしていた。向かいに座ったドゥーエは、今朝、オオカミの群れに対処した際に汚してしまったシュリの短剣の手入れをしている。二人の間に置かれたランプの火が時折ゆらゆらと揺れる。

 シュリの手に握られたドゥーエの外套には、オオカミに襲われた彼女を助けるために早朝に大立ち回りを演じた際に、どこかに引っ掛けたらしい裂け目ができていた。そのため、朝のうちに洗濯したそれをシュリは針を手に繕っていた。

(うーん……ここは前にも破れた跡があるし、裏から当て布をして補強するべきかな……?)

 シュリは外套の袖にできた裂け目を見ながら思案を巡らせる。確か使っていない端切れが戸棚にあったはずだと彼女は椅子から立ち上がった。

 部屋の奥のスギの戸棚を開け、シュリは一番上の段から端切れの入った紙袋を取り出す。ドゥーエの外套と合わせても目立たない黒い端切れを取り出しながら、シュリはふと今日の礼をドゥーエに言っていないことを思い出した。

(あたし……ドゥーエにごめんって謝りはしたけど、ありがとうって言ってないな……)

 シュリは何とはなしに端切れの入った袋を漁る。白と赤のバイアスボーダーが走る紺色の布に目を止めると、シュリはそれを引っ張り出した。

(そうだ、これでハンカチでも作って、ドゥーエにあげようかな。今日のせめてものお礼に)

 それはとてもいい思いつきなような気がして、シュリは紙袋を戸棚に押し込むと、軽い足取りでダイニングへと戻っていく。

「ん? どうした? 妙に機嫌がいいな」

 羊毛で短剣の刀身を磨いていたドゥーエは不思議そうに顔を上げる。何でもない、と含み笑いをするとシュリは椅子に腰を下ろし、外套の裂け目を直し始める。

 外套の裏から黒い布を当てると、シュリは同色の糸を通した針で裂け目の周りをかがっていく。慣れた手つきで針を運びながらも、心がそわそわとするのをシュリは感じていた。

(ハンカチ、どうしようかな。せっかくだから刺繍とか入れちゃおうかな)

 シュリは布と布を縫い合わせながらもちらりと窓辺に目をやる。ベッドサイドの出窓では、鉢植えのポインセチアの苞葉が赤く色づき始めている。

(そういえば、お母さんが昔、ポインセチアの花言葉は『幸運を祈る』だって教えてくれたっけ……)

 近い将来、ドゥーエはきっとここからいなくなる。ドゥーエと過ごす今を心地よく感じている以上、直視したくはないけれど、受け入れなければならない現実だった。

 せめて、一緒にいられなくなる時が来ても、長く続く彼のこの先の幸せを祈りたかった。そして、あわよくばハンカチが彼がこの日々を思い出すためのよすがになればいいともシュリは心の隅で考えていた。

 シュリはドゥーエの外套を直し終えると、紺色の端切れを手に取った。アクセントになるように、白い糸でぐるりと布の外周を一定の間隔で縫い上げていく。

 糸の末端の始末をすると、シュリは針を縫針から刺繍針へと持ち替えた。針穴に赤い糸を通すと、フィッシュボーンステッチで苞葉(ほうよう)を布の上に描き始める。

 針が布を抜けていく音。短剣の刃が磨き上げられていく音。会話もなく、それぞれの時間を過ごしているだけなのに、それがかけがえのないもののようにシュリには思えた。

(ああ……無くしたくないなあ)

 ドゥーエのいる日常を。二人でいる時間を。寄り添い合う暖かさを。

 もう何年も忘れていたこの感覚をまた失いたくない、シュリはそう思いながら、黄色の糸でポインセチアの小さな花々を布に刻んでいく。

 二人で過ごす秋の夜長の風景をダイニングテーブルの上のランプが温かく照らし出している。真鍮の砂時計が橙色の灯りを反射してきらきらと光っていた。

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