LOGINどうやら、息子はもう助からないらしい。安東家の二人の目には、ためらいの色が浮かんでいた。たった一人の息子だ。そう簡単に見捨てられるはずがない。特に名津美にとっては、その想いはひときわ強かった。十月十日、腹の中で育てて産んだ我が子。まさに自分の身体の一部をちぎって生まれた存在なのだ。どうして、痛まないはずがあるだろう。けれど今、自分の手でその子を切り捨てろと言われている。親として、どうしても心がついていかない。名津美は虚ろな表情を浮かべる辰琉をちらりと見た。その瞳の奥には、深い哀れみがにじんでいた。だが、最終的には顔を背け、何も言わなかった。その一瞬の視線で、辰琉はすべてを悟った。自分は捨てられる側だ、と。彼は俯いて、前髪の影に表情を隠しながら、空虚な笑みを浮かべた。――わかっている。自分は選ばれなかったのだ。会社か、自分か。その選択に迷うほどのことではない。むしろ、数分間も考えたこと自体、彼には偽善的に思えた。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。緒莉は静かに腕の力を抜いた。まさか母がここまで冷酷になれるとは思わなかった。今まで、母の覚悟を甘く見ていたのだ。――やっぱり、母はすごい。緒莉の胸には満足感が広がった。辰琉を刑務所に送ってしまえば、すべてが終わる。あの秘密も、永遠に闇の中で腐り果てる。辰琉が本当に狂っているのか、演じているのか、もはや関係ない。中に入ってしまえば、生きるも死ぬも彼の意思では決められないのだ。そう思うと、緒莉の胸は興奮で高鳴った。傍らで立ちながら、爪が手のひらに食い込むほど握りしめる。この場にはまだ多くの人が見ている。今、感情を漏らすわけにはいかない。重い沈黙が続く中、美月はソファにゆったりと腰を下ろしていた。焦る様子など微塵もなく、むしろ余裕すら感じられる。選択権は相手の手にある。だが、主導権は常に自分の側にある。美月はそのことを誰よりも理解していた。だからこそ、一切不安を見せない。焦るべきは、向かいの者たちなのだ。「選びなさい。難しい話でもないでしょう?」美月の穏やかな声に、孝寛の肩がびくりと震えた。もう、決断するしかない。緒莉も横で見ていて悟った。今日、辰
辰琉は頭を垂れ、まるで悪いことをして叱られている子どものようだった。孝寛の背筋も、いつものようにしゃんと伸びることはなく、ずっと曲がったまま。その間、彼の胸中では、自分の顔を地面に押しつけられ、踏みにじられているような屈辱が渦巻いていた。こんなに時間が経っているのに、この女はまだ考えを決められないのか。その思いが積もるたび、孝寛の背中はさらに重く沈み、今度こそ二度と真っ直ぐには戻らない気がした。理由は分からない。ただ、胸の奥で確信に近い予感があった。隣の名津美も、歯を食いしばって堪えていた。彼女は決して、手に入れた栄華を手放したくはない。ようやく掴んだ安穏な生活を、いまさら昔の苦しい日々に戻せるわけがない。緒莉は、母親の意図を確かめるようにその横顔を見た。彼女には分かっていた。母の目的が最初から「辰琉」ただ一人だったことを。だが美月は何も言わず、黙って目の前で背を丸める二人を見つめていた。そして次に、まるで心ここにあらずのような辰琉を一瞥し、深くため息をつく。「もういいわ。そんなことしなくても。立ちなさい」美月の言葉に、二人は恐る恐る背を伸ばした。互いに顔を見合わせるが、彼女の真意は分からない。緒莉の胸中には、ある予感がよぎったが、それを確信することもできず、母の心を軽々しく推し量ることもできなかった。長年そばにいて分かっている。母は誰かに支配されるのを嫌い、自分のペースを乱されることを何よりも嫌う人だ。孝寛は逡巡ののち、おそるおそる口を開く。「それで......二川会長は......」「あなたたちを、そして安東グループを見逃してあげてもいいと言ってるの」その一言に、孝寛の顔がぱっと明るくなる。それはつまり、助かるという意味ではないのか。「ということは......今回は、これで水に流してくださるという......?」恐る恐るそう尋ねる声。その表情には媚びるような笑みが浮かんでいた。無理もない。今この局面は、安東家にとってまさに生死を分ける一線だった。もし美月が許してくれさえすれば、安東は再び立て直せる。彼はもうすぐにでも新しい取引先を探すと誓おうとした、その時。美月の冷たい鼻息が空気を裂いた。「水に流す?ずいぶん都合のいい話
緒莉は黙ったまま、ずっと辰琉の一挙一動を見つめていた。今日の彼、どうも静かすぎる。あの人、たしか「もう壊れてしまった」はずじゃなかった?なのに、どうして今はあんなにも落ち着いているの?いつもなら意味の分からないことを叫ぶはずなのに、今日はまるで普通の人みたいだ。それに......もしかして、自分たちの話を聞いている?緒莉は目を細め、そっと母親に耳打ちした。美月はそれを聞いてから、静かに視線を辰琉へと向ける。確かに、今日の彼はどこか違っていた。まるで、今この場で交わされている会話の内容を理解しているかのように。一方、孝寛はずっとテーブルの上の契約書から目を離せずにいた。あれにサインをしてしまえば、会社がどうなるかは誰よりも分かっている。破産か、あるいは死にもの狂いの延命か。どちらにせよ、もう元の姿には戻れない。「......息子をちゃんと教育できなくて、すみませんでした」孝寛はそう言いながら、額に浮かんだ汗をぬぐった。下ろした拳が、震えるほどに強く握りしめられている。そして、しばらくの沈黙のあと、彼は一つの決断を下したように深く頭を下げた。「私の教育が間違っていました。おっしゃる通り、すべて私の責任です。息子はこうなってしまいましたが......会社は私の一生を賭けたものなんです。どうか、それだけは壊さないでください。でなければ私は......家族にも株主にも、顔向けできません」いつも誇り高く、背筋を伸ばしていた孝寛が――その背を、初めて深く折った。名津美と辰琉、二人とも呆然としていた。辰琉の瞳が丸く見開かれる。彼は、こんな父親の姿を一度も見たことがなかった。名津美も同じだった。長年連れ添ってきたが、こんなふうに頭を下げる彼を見たのは初めてだ。若い頃、どれだけ喧嘩しても、絶対に折れない人だったのに......なのに今は――名津美もまた、心の中で何かを決めたようだった。彼女はゆっくりと美月の前へ歩み出て、先ほどまでの高慢な態度を消し去る。緒莉に向かって、やわらかく微笑んだ。「緒莉......おばさん――いいえ、私が悪かったの」そして美月と緒莉の前で、深々と頭を下げる。「今回は、本当に申し訳ございませんでした。どうか安東家と会社に、もう一
緒莉は喉を押さえ、何かを言いたそうにしながらも声が出せずにいた。まるで言葉を失ったようなその姿は、美月の言葉とぴたりと噛み合い、母娘の息は完璧に合っていた。美月はその流れに乗り、冷ややかに続けた。「うちの娘、あんなに元気だったのに、今じゃ口もきけない。これ、全部その息子のせいよ」再び、視線の矛先が一斉に辰琉へと向かう。全員の視線を浴びた彼は、相変わらずぼんやりとした笑みを浮かべていた。執事に支えられて立ち上がった名津美は、そんな息子を見て心の底から嫌悪の色を浮かべた。どうしてこの女だけがあんなに幸運なんだろう。産んだ娘は優秀で、母親にも孝行。そんな話、業界では誰もが知っていた。だが、いまさら何を言っても遅い。子どもたちはもう成長してしまった。美月は、まともに話すこともできない辰琉を見つめ、ふとため息をついた。かつてはきっと素直でいい子だったのだろう。それが、いまはこんな姿に――けれど、それでも罪の言い訳にはならない。人の首を絞めた以上、その代償は払ってもらわないと。美月は再び視線を契約書の束に戻した。「契約書を見なさい。二川グループとして正式に、安東グループとの提携を解消します。これまでの利益分についても、もう追及はしません。だから、自分で判断して、その契約解除書に早くサインしてちょうだい」美月はゆっくりと手を上げ、自分の爪先を眺めながら言った。「さもないと、見苦しいことになっても知らないわよ」孝寛の顔色はみるみるうちに悪くなった。まさかここまで徹底的に切り捨てられるとは思っていなかった。名津美もようやく状況を理解し、立ち上がって孝寛の袖を掴み、必死に首を振った。この契約を結んだ瞬間、自分はもう「誰もが羨む社長夫人」ではなくなる。その先、自分が外に出たとき、いったいどんな顔で人に会えばいいのか......辰琉も不安げに唇を噛んだ。自分はすでにこのざまだ。それでも美月は、まだ安東家を許そうとしない。もし「安東家」という名を失えば、自分はいったい何者になるというのか。孝寛もまた、胸の奥に焦燥が広がっていた。進むも地獄、退くも地獄。今この瞬間も、彼の立場を狙っている者は山ほどいる。もし二川の案件を失えば、会社の損失は計り知れない。
孝寛は、額の汗もないのにハンカチで拭い、何を言えばいいのか分からずに口をつぐんだ。代わりに美月が声を上げた。「どうしたの?言葉も出ないの?じゃあ、仕方ないわね。私が代わりに言ってあげる。さっき、こっちが奥さんにあれだけ酷いことをした時、あんたは上の階で臆病者みたいに隠れて見てたでしょ」美月は、孝寛の後ろで視線を泳がせる辰琉を見つめ、まるで子どもに話しかけるような口調で続けた。「その出来の悪い息子をかばってたのね。ああ、なんて立派なお父さんなのかしら。正直、父親としては悪くないと思うわ」一瞬、その言葉は褒め言葉のように聞こえた。だが次の瞬間、美月の声色が鋭く変わる。「でも、『夫』失格よ!」彼女は、床に座り込んで表情を失った名津美を指さした。「これが、『妻』への態度なの?」美月の言葉に、孝寛の顔は赤と青が入り混じったように変わっていく。鳴り城では名の知れた人物である自分が、こんなふうに他人に責められるとは......それが世間に広まったら、立場がない。「二川会長」孝寛の声が低く沈む。「ここは鳴り城ですよ。今は少し引くところは引いた方がいい。そうでないと......いざという時、誰もあなたに手を差し伸べなくなりますよ」だが、美月はその脅しにもまったく動じなかった。彼女は秘書に目配せし、契約書の束をテーブルの上に置かせた。「これが、これまで一緒に進めてきた案件全部よ。確認しなさい」美月は相手の理屈に乗らなかった。いま言い返しても、自分の正当性を証明するだけの堂々巡りになる。だから速戦即決が一番だ。この男の性格は、彼女が一番よく知っている。孝寛は目の前に積まれた契約書を見て、心臓を掴まれたような衝撃を覚えた。まさか、本気なのか?今までは、ただの脅しだと思っていた。しかし、美月の表情には一切の冗談がなかった。「......本気でやるつもりか」隣で見ていた緒莉は、思わず笑い出しそうになった。この期に及んで、母がまだ冗談を言っているとでも思っているのだろうか。美月はただ首を振った。「ここまで来ても、まだ分からないのね。前にも言ったでしょう?また来るって。問題が解決しない限り、引く気なんてないのよ」美月の全身から放たれる気迫に、孝寛は一瞬たじろい
まさにそのことをよく分かっていたからこそ、辰琉も理解していた。よほどのことがない限り、父親は絶対に姿を現さないだろうと。黙り込んだままの息子を見て、孝寛の胸の奥にまた怒りが込み上げる。今にももう一発お見舞いしてやろうとしたその瞬間、階下から激しい物音が響いた。女の叫び声も混じっている。「やめて!やめなさいってば!何するのよ!昼間っから家に押し入った上に、うちの物を壊すなんてどういうつもり!?」名津美の悲鳴も、美月の手を止めることはなかった。むしろ、美月はその怯えた表情を愉快そうに眺めている。「あら?こんな時でも、まだ旦那さんと息子のことを気にしてるの?」顎を少し上げ、美月はわざと一言ずつ区切りながら冷ややかに言った。「たとえ私があなたの家を壊したとしても、あの父子はどちらも出てこないわよ。女一人を前に出して、全部押し付けてるような人間たちなんて、庇う価値があるの?」その言葉を聞いた瞬間、名津美は床に崩れ落ち、泣き声を上げた。何も言い返せず、ただ涙だけが止まらない。緒莉は美月の隣に座り、かつて自分にあれこれと厳しく言ってきた名津美が、今や道端の野良猫のように打ちひしがれている姿を見て、胸の奥がすっと晴れた。ざまあみろ、という気分だった。やはり、母は一枚も二枚も上手だ。何をするにも、自分のやり方を持っている。そんな母の背中を見ながら、緒莉は改めて安心を覚えた。この人のそばにいれば、何も怖くない。一方の名津美は、美月の言葉を頭の中で繰り返していた。たしかに、言っていることにも一理ある。自分はいったい、何のために必死になっているんだろう。逃げ回る夫と息子のために?それだけの価値があるのか?何も答えず、ただ俯いて涙をこぼす名津美。その姿に、美月もそれ以上は言葉を投げかけなかった。この女も、この女なりに哀れな人間だ――そう思ったからだ。夫にも息子にも見捨てられ、一人で盾になるなんて、普通じゃない。美月は保镖たちに目で合図を送った。「続けなさい」指示を受けた保镖たちはためらうことなく、再び手を上げた。今まさに壊そうとしたその瞬間。堪えきれなくなった孝寛が、ついに飛び出してきた。リビングの花瓶――あれは高い金を払って買ったものだ。客を迎