LOGINカフスボタンを入れたギフトボックスを彼の席に置き、これを受け取った彼がどんな顔をするか、そればかりを想像していた。けれど、待てど暮らせど、彼は帰ってこなかった。料理は冷め、温め直し、また冷めていった。夕暮れから深夜まで、玄関の鍵が開く音は一度もしなかった。結局、心を込めて作った料理は、すべて近所の野良犬の餌になった。彼女の真心もまた、犬に食わせたのと同じだった。結婚生活が崩壊する理由は、一つではない。重なりすぎたのだ。降り積もる雪に押し潰されるように、彼女の情熱は何度も突き放され、冷や水を浴びせられ、ついには火が消えた。二度と燃え上がることはない。あのカフスは、そのあとクローゼットの隅に放り投げたはずだった。自分ですら忘れていたものを、どうして今さら白彦が引っ張り出して着けているのか。意味がわからない。今日の彼の行動と同じ。すべてが、支離滅裂で滑稽だった。以前なら、璃々子がどんなに匂わせ投稿をしようが気にも留めなかった。だが今回は違った。ミキはその画面をスクリーンショットし、弁護士の峰岸に転送した。【これ、彼が話し合いに応じず不実な関係を続けているという、裁判への補強証拠になりませんか?】峰岸から返信があったのは、翌日の朝だった。【証拠としては弱すぎます。相手の名前が明記されていませんし、カフスボタン一つで『婚姻破綻後の不誠実な態度』を立証するのは困難でしょう】……確かにそうかもしれない。たとえ二人のツーショットを撮ったところで、決定打にはならない。元々幼馴染だと言い張られ、双方に否認されれば、由木グループの強力な法務部によって証拠能力を潰されるのがオチだ。唯一の確実な道は、彼に非を認めさせて、あの『公正証書』にサインさせることだけだ。「……っ、バカみたい!」苛立ちに任せてスマートフォンを投げ捨て、ミキはベッドに仰向けになり、ふうふうと息を吐き出した。その時、ドアのチャイムが鳴った。マネージャーの佐伯さんだろうと思い、裸足のままドアへ向かう。しかし、ドアを開けた瞬間――そこに立っていた男の顔を見て、ミキは反射的に扉を閉めようとした。だが、遅かった。白彦がとっさに腕を差し込み、ドアの枠に肘を押し当てていたのだ。「話がある」「私にはないわ!」ミキの拒絶をよそに
……というか、北里市に豪邸を持ってるはずの彼が、どうしてホテルに?その疑問を見透かしたのか、澪士は淡々と付け加えた。「自宅を改装中なんだ」「……ああ、そうなの」ミキは居心地が悪そうに視線を泳がせた。別に、わざわざ説明してもらう必要なんてない。よく考えれば、今夜のことだってそうだ。彼は自分を助ける義理なんて、これっぽっちもなかったはずだ。だって、二人の関係なんて。所詮は「友達の友達」でしかないのだから。二人は並んでエレベーターに乗り込んだ。「何階だ?」澪士が問いかける。「……18階」彼は無言でボタンを押した。ちなみに、彼自身は27階のロイヤルスイートに泊まっている。エレベーターが18階に差し掛かろうとした、その時だ。「――甘いものは好きか?」澪士が唐突に切り出した。あまりに意外な質問に、ミキは一瞬呆気に取られたが、反射的にこっくりと頷いてしまった。「なら、俺の部屋へ来い」さすがに、この時間にお邪魔するのはまずいんじゃ……逡巡が頭をよぎる。けれど、一度頷いてしまった以上、今さら断るのも不自然で、かえって自意識過剰な気がした。彼女はそのまま黙って、彼に従うことにした。北里に来る際の定宿にしているホテルだが、最上階のスイートに足を踏み入れるのは初めてだった。そこは、溜息が出るほど贅沢な空間だった。驚いたことに、立派なキッチンまで備わっている。澪士は部屋に入るなり上着を脱ぎ捨て、キッチンへと向かった。ほどなくして彼が運んできたのは、数種類のスイーツ。日付を見れば、どれも今日作られたばかりの新鮮なものだ。彼が相当な甘党だとは以前本人から聞いていたが、まさか滞在先のホテルにまでこれほど揃えているとは、よほどの執着だろう。差し出されたのは、以前も口にしたことのある有名店の品だった。味は文句なしに絶品だ。何よりミキを救ったのは、澪士が最後まで「なぜ車から飛び降りたのか」「なぜあんな時間に独りでいたのか」を一切詮索しなかったことだ。自分の結婚生活がいかに無惨な泥沼にハマっているか。それを何度も説明させられるのは、今の彼女にとって苦痛でしかなかった。惨めで、恥ずかしくて、たまらない。かつてミキは、詩織にとっての柊也を「更生不能な黒歴史」だと笑ったことがあった。け
切ったばかりの電話が、また鳴り響いた。やはり璃々子からだ。彼は取り憑かれたように受話器を取る。「白彦さん……っ、私、何も見えない!怖い、怖いよぉ……っ」心臓を握り潰されるような衝動が、白彦を襲った。バックミラー越しに後方を確認すると、ミキはすでに路肩まで歩いており、何事もなかったかのように見える。彼は電話の向こうの震える声に応えた。「今、すぐに行くから!」「……お車、止めますか?」運転手が顔色を伺うように尋ねる。「いや、いい。このまま『景風苑』へ向かえ」そこは、白彦が璃々子のために用意した住処だ。白彦は一瞬の沈黙の後、吐き捨てるように付け加えた。「……別の車を一台手配して、あいつを拾わせろ」「承知いたしました」運転手はすぐさま同僚に連絡を入れ、行き先を告げる。白彦を乗せた車は、進路を変えることなく、ただ一点、璃々子の待つ場所へと加速していった。後続の車の邪魔にならないよう、ミキは擦り傷の痛みをこらえ、引きずるような足取りで路肩へと移動した。街灯のぼんやりとした光の下で、膝の状態を確かめる。かなり広範囲に皮がむけ、血が滲んでいた。昔の自分なら、これくらい放っておいただろう。強欲な叔父夫婦に虐げられていた頃の傷に比べれば、この程度、痛みのうちに入らない。だが、今は表に出る仕事をしている身だ。わずかな傷跡もキャリアに響く。一刻も早く病院で手当てをしなければならなかった。タクシーを拾おうとしたが、あいにく反対車線側のほうが捕まりやすそうだ。ミキが横断歩道を渡ろうとした時、タイミング悪く信号が赤に変わった。彼女は足を止め、じっと信号が変わるのを待つ。その時、交差点の三車線目に、一台の黒いベントレーが停車した。後部座席に座る澪士は、会食で飲んだ酒のせいで少し頭が重かった。冷たい外気を入れようと窓を開け、ふと視線を投げた先で、彼は見覚えのある影を見つける。次の瞬間、彼は衝動的にドアを開け、車を降りていた。赤信号で停車している車の間を縫い、一直線にミキのもとへ歩み寄る。「……こんな夜更けに、一人で何をしている」そんな問いを投げかけようとした澪士だったが、言葉が詰まった。捲り上げられたパンツの裾から、血の滲んだ無惨な膝の傷が目に入ったからだ。彼の胸に、嫌な締め付けが走る。「その怪我、ど
ミキは、思わず吹き出しそうになった。「それで?それが自慢になると思ってるの?」既婚者の男が毎日家に帰る。そんなのは当たり前のことだ。それを誇らしげに語る口ぶりが、ひどく滑稽に思えた。救いようがない。それに、今の自分にとってはどうでもいいことだ。無関心を装う態度に、白彦の胸の中に言いようのない不快感が広がる。それでも感情を押し殺し、努めて穏やかに言葉を継いだ。「君が買った多肉植物、毎日ちゃんと世話をしているんだ。欠かさず水をやっているのに、なぜか一鉢、また一鉢と枯れていって……」それを聞いたミキの胸に、冷めた笑いがこみ上げた。水を毎日?それが『心を込めた』つもりなのだろうか。本当に大切に思うのなら、多肉植物が水を嫌う性質だと調べるくらい、簡単なことのはずだ。反省している、やり直したい。ミキには、その言葉が白々しくしか聞こえなかった。こちらが嫌がる璃々子との関係を清算しようとしないのと、全く同じ。彼の言葉には、ひとかけらの真実味もない。視線を外し、窓の外に広がる暗い夜の底を見つめる。かつて、この胸の内をさらけ出してすがった時は、見向きもしなかった。すべてを捨て、関わりを断った途端にこれだ。男という生き物は、つくづく身勝手だと思わずにはいられない。流れゆく夜景は、二度と同じ場所には戻らない。二人の関係が、もう二度と元に戻らないのと同じように。微塵も揺るがない態度に、白彦の焦りが募っていく。「あいつらを見捨てるっていうのか?」——俺のことも、このまま切り捨てるつもりか?すがるようなその視線に、ミキが口を開きかけたその時。タイミングを見計らったように、白彦のスマートフォンが鳴り響いた。聞き慣れた専用の着信音。それを耳にした瞬間、ミキは胸の奥から強烈な吐き気がこみ上げてくるのを感じた。なんとしてもミキから確かな答えが欲しかったのだろう。白彦は珍しく、璃々子からの着信を指先で弾いた。「ミキ、俺たちはもう一度……」『最初からやり直せないか』。その言葉を紡ぎ終える前に、再び無情な着信音が車内に響き渡る。ミキは薄い唇の端を歪め、冷笑を落とした。「早く愛しのお姫様の電話に出たら?一秒でも遅れたら、手首でも切られちゃうんじゃない?」白彦は苛立たしげに眉をひそめた。だが、まるで
先ほどの友人たちの会話を思い出し、ミキは鼻で笑った。「たぶん、今でも私がただ駄々をこねてるだけだと思ってるわね」これまでの長い歳月、彼女は常に譲歩し、彼に合わせてきた。彼にとってそれはあまりにも当たり前になりすぎて、ミキが本気で自分を切り捨てようとしているなんて、夢にも思っていないのだろう。佐伯に慰めるように背中を叩かれ、ミキは並々と注がれたグラスを煽った。「さあ、飲みましょ!せっかくの打ち上げなんだから、関係ない奴に気分まで台無しにされたくないわ」彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。「……私の自由な日々に、乾杯」数時間後、店を出る頃には、ミキはすっかり出来上がっていた。佐伯に肩を貸してもらいながら、通りでタクシーを待つ。そこへ、白彦たちの一行が店から出てきた。先頭を歩いていた武志がミキの姿に気づき、ぎょっとした声を上げる。「おい、あれって……お前の元奥さんじゃないか?」白彦の足が止まった。目を細め、エントランスに立つ人影を凝視する。わずか一秒で、それがミキであると確信した。次の瞬間、彼は迷いのない足取りで彼女の方へ突き進んだ。佐伯は到着したタクシーの運転手に、現在地を伝えようと聞き耳を立てていた。ふと、肩にかかっていた重みがふわりと消える。驚いて振り返ると、そこには凍りつくような表情をした白彦が、ミキの腕を強引に掴んで自分の方へ引き寄せている姿があった。酔いが回って意識が朦朧としていたミキは、いきなり硬い胸板に顔をぶつけ、痛みに顔を歪めた。「……誰よ、もう……」顔を上げ、自分を捕らえている男を睨みつける。その輪郭がはっきりと結ばれた瞬間、彼女の整った眉が不快げに寄った。「放して!」「いつ北里に戻ってきた」白彦は放すどころか、さらに力を込めて彼女の細い腕を締め上げた。その痛みで頭に血が上ったミキは、なりふり構わず彼の脚を蹴り飛ばした。「いつ戻ろうが私の勝手でしょ!あんたには一ミリも関係ないわ。さっさと手を離して!じゃないと警察呼ぶわよ!」「大声を出しても無駄だぞ。ここは俺と武志が共同経営してる店だ。セキュリティも俺の息がかかっている」白彦は彼女の脅しなど歯牙にもかけず、冷たく言い放った。「由木さん、あまり強引な真似はおやめください」さすがに我慢できず、佐伯が口を挟んだ。
「白彦、悪いことは言わねえ。女ってのは甘やかしすぎちゃダメなんだ。つけ上がるだけだぞ」喋っているのは、由木白彦と長年つるんでいる悪友の、乾武志(いぬい たけし)だった。ミキがすでに由木家から籍を抜き、法的にも関係を断ったことを知る数少ない人間の一人だ。「武志の言う通りだよ。ミキのやつ、わざとお前を脅してるだけだって。弁護士まで立てて『公正証書を作れ』なんて息巻いてるけどさ、結局お前がいなきゃ生きていけないんだから」そう追従したのは、もう一人の友人、仙道健(せんどう けん)だ。普段から口の悪い男だが、今日はさらに輪をかけて毒を吐いている。「放っておけよ。向こうが音を上げて縋り付いてくるまで、適当にあしらってればいいんだ」武志が鼻で笑って付け加えた。「そうそう。身寄りのない女なんだ、お前に見放されたら行く当てもないだろ」白彦は終始無言のまま、ただひたすらに酒を煽っていた。この飲み会をセットしたのは彼自身だ。時間が経てば経つほど、彼の苛立ちは募っていた。特に、ミキの代理人である峰岸丞弁護士から二、三日おきに公正証書へのサインを催促されるのが、たまらなく癪に障る。離婚届を出してやったのだから、それで彼女の気は済んだはずだ。なぜあれほど徹底的に自分との縁を切ろうとするのか、彼には到底理解できなかった。これまでは少し放っておけば向こうから折れてきたのに、今回はどれだけ待っても彼女から歩み寄ってくる気配はない。プライドを捨てて自ら江ノ本市へ出向いたこともあった。だが彼女は弁護士の助言通り一切の接触を拒否し、どんな提案にも耳を貸さず、裁判をちらつかせてまで完全なる決別を突き通そうとしている。彼にとって唯一の救いがあるとすれば、このところ二階堂澪士が彼女のそばにいないことくらいだった。武志がまだ何か言おうとしたその時、テーブルの上に置かれていた白彦のスマートフォンの画面が光った。着信を報せるディスプレイには、その場にいる全員に見えやすいように名前が表示されている。健がその名前に気づいて、ニヤリと笑った。「おやおや、お前んとこの『愛妻』からお呼び出しだぜ。早く出てやれよ」武志も面白そうにからかう。「璃々子ちゃんは相変わらず寂しがり屋だねぇ。俺たち、集まってまだ一時間も経ってないのに」どうやら、彼の取り巻
向井が去った後、志帆は恐る恐る柊也の顔色を窺った。彼の様子は以前と少しも変わらない。平然として、静かなままだ。食事が進まない志帆に気づいたのか、彼がふと顔を上げる。「口に合わなかったか?」「ううん、そんなことないわ」その何気ない気遣いに、志帆の胸の痞えが少しだけ下りた気がした。食後、柊也はそのまま『エイジア』での会議へ向かうという。「ついでだから」と志帆を実家まで送り届けてくれた。帰宅するなり、美穂が目を丸くして出迎える。「早かったのね。てっきり一日中デートかと」「帰国したばかりだもの、会社が大忙しみたい。朝食の時間を作るだけでも大変だったんじゃないかしら」志帆はそう言
あの頑固な恩師のことだ。直接目の前に置いてやらなければ、薬を飲もうとなんてしないに決まっている。車を降りる際、詩織は運転手の湊に「すぐに戻るから」と一言残し、屋敷の玄関へ向かった。インターホンを押すと、家政婦が顔を出した。詩織の姿を認めると、柔和な笑みを浮かべる。「江崎さま。先生は散歩に出られておりまして、戻られるまで少し掛かるかと。中でお待ちになりますか?」「いえ、これを届けに来ただけですので。先生に、きちんと飲むようにお伝えください」詩織はそう言って、手にした紙袋を渡した。「かしこまりました」用件だけ済ませると、詩織は屋敷に足を踏み入れることなく踵を返した。家政
柊也は運転手を走らせ、アイスを買ってこさせた。だが、志帆はそれを二、三口舐めただけで、意味ありげな視線を柊也に送り続けた。しかし、彼の表情はあまりに平静で、彼女の暗示など微塵も察していないようだ。業を煮やした志帆は、わざとらしく彼の方へ身を寄せた。フェロモンを模した香水の甘い香りが車内に漂う。わざわざ胸元の大きく開いたミニドレスを選び、暑さを口実に上着まで脱ぎ捨てたのだ。その誘惑の意図はあまりに露骨だった。すると突然、柊也が口元に拳を当て、こほん、と咳払いをした。そして、やんわりと志帆の身体を押し戻した。「インフルエンザ気味なんだ。あまり近づかない方がいい。うつると
上機嫌で実家へ戻ると、珍しく父の長昭が帰宅していた。志帆は明るい声で挨拶を交わし、さりげなく『パース・テック』の審査状況について水を向けた。「ああ、昨日ちょうど市場監視局の村上さんと食事をしてね。上層部もあの案件にはかなり注目していると言っていたよ」立場上、長昭の口からはそれ以上の具体的な言及はなかった。だが、志帆にはそれで十分だった。上層部が注目しているということは、それだけ期待値が高い証拠だ。つまり、上場の可能性は限りなく高い。今日はなんていい日なの。まさに吉報続きね!志帆は心の中で祝杯を挙げた。……週末、詩織は小春に会うため、G市へと飛んだ。響太朗