「愛しているのは君じゃない」 冷たい瞳で、冷たい顔で、冷たい声ではっきりと私に向かってそう告げたのは、将来結婚する相手で、私の婚約者である御影 直寛(みかげ なおひろ)。 彼は、お祖父様からの命令で私との交際、婚約に嫌々応じたのだ。 彼の心の中にはずっと初恋の人、速水涼子(はやみ りょうこ)がいたから。 それでも、私はいつか直寛が私自身を見てくれると思っていた。 いつかは、私の気持ちに答えてくれると思っていた。 けれど、私には彼の心を射止める事は愚か、女性として意識してくれる事もなかった。 そんな日々を送っていた時、彼は初恋の人涼子がお見合いをすると聞いて、パーティーに参加していたのに私を置き去りに、涼子の元へ走った。 絶望した私は、お酒を浴びるように飲み、気づいたら見知らぬ男性と朝を迎えてしまった。 その後。 直寛は自分の過ちに気づき、私に許しを乞う。 けれど、私はもう直寛への気持ちは捨て去った。 土下座されても。 愛を伝えられても。 もう私は直寛よりも愛しい人ができたから、あなたはもういらない。
View Moreそれからの私は、虎おじさまのパーティーに参加する準備にバタバタとしていた。いつもだったら毎日のように御影さんの会社にお弁当を届けていたけれど、先日御影さんの会社には涼子がいた。またあの時のような会話を聞く事も辛いし、と御影さんの会社に行く事はせず、ドレスの新調やアクセサリーの手配に追われていた。「あ…でも、一応…念の為に御影さんにお伝えだけはしておこう。もしかしたら、御影さんもパーティーに用があるかもしれないし」でも、きっと断られてしまうだろう。半ば諦め半分ではあるけれど、私は御影さんに連絡をする。今まで、電話をしても御影さんは殆ど出てくれた事はない。だから、必要な事だけを簡潔に記載して、メールを送る。そうすれば、御影さんも手が空いた時に確認はしてくれるだろう。だから私はパパっとメールを打ち、御影さんに送信した。◇〜♪直寛のスマホが、メールの着信を知らせる。専務室のソファに座っていた涼子は、ソファから立ち上がるとトトト、と軽い足取りで直寛へ近づいた。「直寛。仕事の連絡?」「…どうだろうな」涼子にちら、と視線を向けた直寛はスマホに届いたメールを開く。私用スマホの連絡先を教えている人物はそこまで多くない。(涼子は、ここにいる…。なら、茉莉花お嬢さんか?そう言えば、今日は会社に来ていないな)頼んでもいないのに、茉莉花は毎日弁当を作り直寛のために届けていた。(俺自身は絶対に口にしないのに…よく届けるものだと思っていたが、ようやく弁当が捨てられていると気づいてやめたのか?もしかして、それで祖父に泣きつきでもしたのか?)昔は、そんな女じゃなかったのに、と直寛は茉莉花の事を思い出し、不快そうに眉を寄せる。そして、メールの差出人に「藤堂 茉莉花」という文字を見つけて直寛はふん、と鼻を鳴らす。(やはり、祖父に泣きついたのか?文句でも言いたくて連絡を寄越したのか)見る価値などないか、と直寛は一瞬スマホを閉じてしまおうとしたが、他の連絡だったら、と思い直し茉莉花からのメールを開く。茉莉花からのメールの内容は、酷く簡潔。必要事項だけが書かれた内容に、直寛は僅かに片眉を上げた。「直寛?どうしたの?」涼子が甘い声を上げ、直寛の首に手を回して体を擦り寄せる。膝に乗ってきた涼子を慣れた様子で支えた直寛は、そのまま顔
「虎おじさま!」「茉莉花ちゃん、大きくなったね。美人になった!」駆け寄った勢いそのままに、私は虎おじさまに抱きつく。虎おじさまは危なげなく私を抱きとめると、嬉しそうに目尻を下げて私の頭を撫でてくれるのだが、撫でてくれる行為も、虎おじさまの言葉も、私が子供の頃から変わらなくて。私は頬を膨らませて虎おじさまに返す。「虎おじさま。私はもう25です。子供じゃないのですよ」「ははは、立派なレディーになったね。失礼した」「ふふふっ、許してあげます」虎おじさまは、昔と変わらない優しい目で私を見つめる。虎おじさま。田村琥虎(たむら ことら)はお父様の大学の後輩で、昔から仲良くしてもらっている。いくつも会社を経営していて、普段は海外に在住しているのだが、こうしてたまに帰国した際にお父様に挨拶をしに来て、私とも会ってくれる。「虎おじさま。今回の滞在はどれくらいの期間なのですか?今日は本家に泊まります?それとも、家に?」私が矢継ぎ早に質問していると、お父様が苦笑しつつ「落ち着きなさい」と話す。「琥虎は、本家には戻らない。今回の帰国は事業に関してだから、そんなに長くは滞在しないんだ」「まぁ…そうでしたの?残念です…。本日のお夕食はもう決まっていますか?」仕事で帰国したのならば、贅沢は言えない。せめて、食事を1度でもできたら、と思い私が虎おじさまにそう聞くと、虎おじさまは深く頷いてから答えた。「今回は、茉莉花ちゃんの家で食事をとる時間はないんだが…。仕事関係でパーティーを開くんだ」「パーティー、ですか?」「ああ。政界の人間や、業界の人を呼んでいる。少し広い会場だし、招待客が多くて…あまり話す機会は取れないかもしれないんだが…茉莉花ちゃんが良ければ、パーティーに招待してもいいかな?」「!勿論です!お招きありがとうございます!」虎おじさまの言葉に、私はぱっと表情を明るくする。きっと、虎おじさまはお父様にパーティーの事を話しに来たのだろう。それを裏付けるように、虎おじさまはスーツの内ポケットから招待状が入った封筒を2枚取り出した。1枚は私に。そうして、もう1枚はお父様に渡すのだろう、と考えていたのだけど、何故か虎おじさまは招待状を2枚とも私に手渡してきた。「え?お父様は…」私の疑問はすぐに分かったのだろう。
そんな頃だった。御影さんの家、御影ホールディングスに勤めていた役員が、不正を犯していた。資金洗浄による犯罪行為が発覚した。瞬く間に御影ホールディングスは一気に株価が下落。一時、かなり危うい事になったらしいのだが、その時に手を差し伸べたのが私のお祖父さんだったらしい。その時の恩があるからか。私と御影さんの年頃が合うからか。御影家の祖父がふと私の事を口にした。その頃の私は、御影さんの事が好きだったし、祖父から御影さんの事を聞かれた時に、好印象である事は伝えた。だから、大学を卒業した時。まさか私と御影さんを呼び出して、婚約の話をするとは思わなかった。恩があるから、と御影さんは嫌々ながら、渋々ではあるけれど自分の祖父の話に頷いた。けれど、大学を卒業してから3年。この3年間、私と御影さんは距離が縮まる事などなく、むしろこの3年間でどんどん御影さんから距離を置かれているような気がする。3年前に言われた言葉は、今でも私の頭にしっかり鮮明に残っている。あれほど冷たく、感情の籠っていない表情の御影さんは初めて見た。怖くて、はっきりと「敵視」されてしまったのは初めてで。私は御影さんの言葉に頷くしかなかったのだ。◇自宅マンションに帰ってきた私は、駐車場に車を停め、エレベーターで階を上がる。将来、御影さんと結婚するのだから、と祖父からプレゼントされたこのマンションの一室は、御影さんの住むマンションと一緒だ。エントランスにはコンシェルジュもいて、警備員も常駐している。マンションの地下にはスーパーも入っていて、とても住みやすいいい場所だ。けれど、私は御影さんの部屋に入った事はない。御影さんは、私が自分と同じマンションに住んでいる事が嫌なのだ。同じフロアに住んでいるため、時折御影さんと会うのだが、とても嫌そうに顔を顰める。そして、私と頻繁に顔を合わせるのが嫌な御影さんは、別のマンションの一室を購入し、最近はそちらの方を良く利用している。「このフロア…、戸数が少ないから、人がいなくて寂しい…」エレベーターから降りて、私は御影さんの住む部屋がある方向へ顔を向ける。私が住む部屋は、御影さんの部屋とは反対側にある。時折、友人を招いているのは見た事がある。けれど、涼子の姿をこのマンションでは見た事がない。
とぼとぼ、と歩く。会社から出て、車を停めている駐車場に向かっている私は、俯きながら歩いていた。しっかり前を見ないまま歩いていたせいだろうか。駐車場の角から人が出てきて、その人と私はぶつかってしまった。「──っ!」「すみません!」ガシャン!と私の手の中にあったお弁当を入れていた袋が落ちる。私にぶつかってしまった人は、男性のようで。ふらついてしまった私を咄嗟に支えてくれて、すぐに地面に落ちてしまった袋を拾ってくれた。袋に伸びる、白くて筋張った手が視界に入る。袋を拾ってくれる動作が凄くゆっくりに見えるほど、私は呆然としてしまったいたようで。「あの…?大丈夫ですか?」男性が袋を差し出してくれながら、声をかけてくれる。その声にはっとした私は、慌てて男性から袋を受け取り、頭を下げてお礼を告げて逃げるように男性から離れた。「す、すみませんでした…!」ぶつかってしまった事も、落としてしまったお弁当を拾わせてしまった事も申し訳なくって、私は男性の顔を見る事なくそそくさと車に逃げてしまった。バタン、と車のドアを閉めて、顔を上げて前を向くと、ぶつかってしまった男性であろう人物の後ろ姿が見えた。背筋を伸ばし、真っ直ぐ凛と前を向いて歩いて行く後ろ姿が、何故か御影さんと重なった。御影さんより、男性の方が若干背が高いように見えるけれど、私は男性の後ろ姿を見て御影さんを思い出し、先程の彼の会社の専務室から聞こえた会話を思い出して辛くなってしまう。「御影さん…凄く楽しそうで…優しい声で話してた…」私には、あんなに優しく、穏やかな声で話してくれた事は、ほとんど無い。まだ学生だった頃は、今よりは多少優しかったけれど、御影さんが涼子と会った後で機嫌が良い時に優しく接してもらった事が数回あるだけ。「御影さん…」ハンドルに額を押し付け、小さく彼の名前を呟く。せっかく、彼の会社に来たのに。私は冷たく言われ、会社を出てきた。私とは違い、涼子は御影さんの会社で、彼の仕事をする部屋で、一緒に過ごしている。しかも、あんなに親しげに。私は、暫くの時間車内で声を殺して泣いてから、自宅に戻った。◇御影さんのご実家、御影ホールディングスと私の実家である藤堂家は、昔から交流があった。お互いの祖父が、旧友だったらしく幼い頃から御影家に足を運んで
「勘違いしないでくれ、茉莉花お嬢さん。お付き合いするのは俺があなたを好きなんじゃなくて、祖父が言うから仕方なく交際をするだけだ」「御影さん…」「不用意な接触や無駄な会話はやめてくれ。必要最低限、会おう」そう言うなり、御影さんは私の返事を聞く事なく背中を向けてさっさと去ってしまった。御影直寛(みかげ なおひろ)。御影ホールディングスの専務取締役で、まだ26歳にも関わらず、傾き始めた御影ホールディングスの経営を立て直し、その功績を認められてつい最近専務取締役に就任した。私、藤堂 茉莉花(とうどう まつり)は中学校の頃から彼が好きで、ずっと彼の後を追っていた。彼の1学年下だった私は、学校内で彼を追っている内に、彼の隣にいつも一緒にいる女の子がいる事に気づいた。それが、速水涼子(はやみ りょうこ) だ。御影直寛の2つ下で、私の1つ下の学年の涼子は、彼の幼馴染だった。小・中学校は同じ敷地内にあったため、彼はいつも涼子と一緒に行動していたし、登下校も欠かさず彼女と一緒だった。でも、それでも良かった。たまに、御影さんから笑顔を向けられたり、少しだけ会話をできたりするのがとても嬉しかったから。少しでも、私を知ってもらって、御影さんに近づけたら。少しでも好意を抱いてもらえたら。そう思っていたけど、御影さんの中での最優先は変わらず涼子だった。その事実に打ちのめされて、枕を涙で濡らした日々はどれほどあっただろう。いつか、彼の心を射止める事ができたら。そう思っていたのに──。◇私は、御影ホールディングスの専務専用フロアで、ぽつりと廊下に残されたまま、立ち尽くしていた。手には御影さんのために作ったお弁当が入った袋が所在なさげに残されたまま。「御影さん…」せめて、せめてお弁当だけでも受け取ってもらえたら、と思って彼の後を追う。あれだけの事を言われて、辛くない訳じゃない。今すぐ帰ってくれ、と言う彼の気持ちが伝わっていない訳でもない。けど。彼は今、数日間の体調不良から復帰した直後だ。体に良い物を、消化にいい物を用意してきたお弁当。だから、それだけを渡してすぐに会社を出よう、と思い専務取締役の部屋に向かった私は、扉をノックする寸前に、中から聞こえてきた声に手をピタリと止めた。「直寛、体調はもう大丈夫なの
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