七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

どんな男の心にも、手に入らなかった「特別な女」がいるという。江崎詩織(えざき しおり)はずっと、賀来柊也(かく しゅうや)だけは違うと信じていた。なにしろ二人は、若い頃からずっと一緒にいたのだから。でも、そんなのはただの幻想だった。結局、誰もがそんな「忘れられない人」を胸に抱いて生きている。柊也もまた、その例外ではなかったらしい。詩織が柊也と付き合い始めたのは18の時。それから、もう7年が経つ。二千日を超える夜と朝を共にし、誰よりも深く肌を重ねてきたというのに。それでも、彼が若い頃に一度だけ目にしたという女性の面影には、敵わないなんて。なんだか、笑えてくる。7年もかけて、一人の男の本心さえ見抜けなかったのだ。一体どれほどの想いだったのだろう。こんなにも長い間、その人を胸の内に秘めさせてしまうほどだなんて。詩織の意識が逸れていることに、彼女の上で激しく体を動かしていた柊也は気づいた。不機嫌さを隠しもせず、彼女に集中を促す。彼はベッドの上では、いつも貪欲だった。その拍子に、彼の腕がベッドサイドに置かれていた黒いビロードの小箱に当たった。落ちそうになったそれを、柊也は慌てて受け止める。下にいる詩織に当たらないように。見慣れないものだったからだろう。彼は珍しく興味を示した。「なんだ、これ」詩織は感情の読めない表情でその小箱をひったくると、無造作にベッドの脇へ放る。そして柊也の首に腕を絡め、喉仏に唇を寄せた。「こんな時に別のものに気を取られるなんて。もしかして、私に飽きたの」その吐息まじりの囁きに、柊也は抗えない。小箱のことなど一瞬で思考の彼方へ追いやられた。男が自分に夢中になっているその時、詩織は傍らに追いやられた黒い小箱に視線をやった。瞳が、じわりと潤む。──柊也、あなたはこの箱の中に何が入っているかなんて、永遠に知ることはないのよ。……ひと月前、エイジア・キャピタルが上場を果たした。柊也の仲間たちが、彼のためにささやかな祝賀パーティーを開いてくれた。詩織はめいっぱいお洒落をして、そのパーティーで柊也にプロポーズするつもりでいた。本来、そういうことは男がするべきだろう。でも詩織は、柊也を深く愛していたから。彼のためなら、女の意地もプライドも捨てて、自分からプロポーズしたって構わ
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第2話

太一の野次馬根性は留まるところを知らない。部屋の中では、他の男たちも一緒になって騒ぎ立て、その喧騒はひどくなるばかりだった。詩織には、柊也が何と答えたのか聞き取れなかった。ただ、胃がキリキリと締め付けられるように痛む。だがその痛みさえ、胸を抉るような心の痛みに比べれば、物の数ではなかった。十月十日。それは、彼女が急性アルコール中毒で倒れ、流産した日。彼女がたった一人で死の淵を彷徨っていた、まさにその時。彼は『忘れられない女』と、かつての愛を再燃させていたのだ。「お客様、どうかなさいましたか。ご気分でも」通りかかった店員が、床に蹲って真っ青な顔をしている詩織を見て、ぎょっとした声を上げた。詩織は、か細い声で救急車を呼んでほしいと頼んだ。救急車の中で冷や汗を流していると、柊也から電話がかかってきた。いつもなら、どんなに疲れていても眠くても、彼の電話には真っ先に出た。けれど、今日の彼女は、あまりにも痛すぎた。痛くて、何もかもどうでもよくなって、何も欲しくなくなった。柊也、その人でさえも。……詩織は、重度の胃炎で五日間入院した。原因は、前回のアルコール中毒と流産のあと、ちゃんと体を休めなかったことによるものだった。入院している間、柊也から連絡は一度もなかった。メッセージの一本すらなかった。もしかしたら最初から、柊也の世界にとって自分は、いてもいなくてもいい存在だったのかもしれない。ただ、今までの自分が、それに気づいていなかっただけなのだ。月曜日、詩織が会社に出社すると、アシスタントの小林密(こばやし ひそか)が駆け寄ってきて、こそこそと噂話を切り出した。「詩織さん、聞きました?うちのエイジア・キャピタルに、落下傘が来るらしいですよ!女の人です!」「落下傘?」詩織は眉をひそめた。その言葉が信じられなかった。柊也は人事に関しては非常に厳格で、この詩織でさえ、入社した時は一番下のインターンからだった。会社にコネ入社なんて前例は、これまで一度もなかったはずだ。だが、密はきっぱりと言い切った。「本当なんです!私、社長が直々にサインした辞令、見ちゃいましたから。投資第三部のディレクター、だそうです!」詩織の眉間が、ぴくりと動いた。そこは、かつて柊也が彼女に約束したポストだった
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第3話

詩織が資料を配り終えて振り返ると、志帆はすでに席に着いていた。けれど、そこはいつも詩織が使っている、社長の隣の席だった。一瞬、詩織は息を呑み、そこは自分の席だと伝えようと口を開きかけた。だが、それを遮ったのは柊也の声だった。「お前は今後、向こうの席を使え」志帆が、申し訳なさそうに詩織へ微笑みかける。「ごめんなさいね。私、入ったばかりで分からないことだらけだから、柊也くんにすぐ質問できるよう、隣の方が都合がいいかなって」柊也自身にそう言われてしまえば、詩織に反論の余地などあるはずもなかった。彼女は黙って自分の書類をまとめると、ノートパソコンを抱えて部屋の隅の席へと静かに移動した。その間、会議室にいる誰もが息を殺し、一言も発さない。けれど、突き刺さるような視線だけははっきりと感じられた。皆の目に浮かぶあからさまな同情が、かえって針のように詩織の背中を刺す。まるで、針の筵に座らされているかのようだった。会議が中盤に差し掛かった頃、柊也があるプロジェクトについて、厳しい声で問い質した。「この案件、なぜ今になっても進捗がないんだ。担当は誰だ」彼のことをよく知る者なら、それが怒りの兆候だとすぐに分かった。会議室は氷ついたように静まり返る。張り詰めた空気の中、詩織がすっと立ち上がった。「……はい。私の担当です」氷のように冷たい視線が、詩織を射抜く。その声は、底冷えするほどに厳しかった。「理由を聞かせろ」「申し訳ありません。数日前から体調を崩しておりまして、プロジェクトの進行が遅れて……」詩織が言い終わる前に、柊也の怒声が飛んだ。「そんなものは理由にならん!どんな人間であれ、私的な事情で業務を滞らせることは許さないと、何度も言ったはずだ!それがこの会社のルールだろうが!」詩織は唇をきつく結び、それ以上の言葉を飲み込んだ。ただ静かに、こう告げる。「……すぐに、遅れを取り戻します」その返事を聞いて、柊也はフンと鼻を鳴らし、ようやく満足したようだった。会議が閉会する直前、柊也が全員に向けて声をかけた。今夜、『リヴ・ウエスト』で柏木さんの歓迎会を開く。会社を挙げての歓迎会だ、ぜひ全員参加してほしい、と。『リヴ・ウエスト』といえば、この街で最も格式の高い会員制クラブで、その料金も桁外れだ。破格の待遇と言っ
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第4話

密は、詩織が酒を飲むと聞いて、血相を変えた。「ダメです!詩織さん、体調が悪いんですから、お酒は飲めません!」かつて詩織がアルコール中毒で倒れた時、その接待の場に付き添っていたのは密だった。あの時の凄惨な光景が、今も彼女の脳裏には焼き付いている。あと少し搬送が遅れていたら、命が危ないと医者にはっきり言われたのだ。その恐怖は、今も消えていない。だが、太一はその言葉を鼻で笑った。「密ちゃん、詩織さんのこと、なめすぎでしょ。彼女が酒豪で有名なの、知らないわけ?前に柊也と北の方に出張した時なんか、二十人相手に差しつ差されつやっても、最後まで平然としてたんだぜ?なのに何?今さら三杯ぐらいで音を上げんの?それとも、相手を見て態度変えてるだけ?……ああ、もしかして、志帆ちゃんの顔を潰す気か?」場の空気が凍りつくのを感じて、志帆が割って入った。「太一くん、江崎さんも女の子なんだから、そんなにいじめちゃだめよ」「いじめてなんかないって」太一は納得いかない様子で、柊也に同意を求める。「なぁ、柊也。これって、いじめてることになるか?」柊也が、すっと瞼を上げた。色のない視線が詩織の頬を撫でるように滑り、その唇の端を、冷ややかに歪めて言い放った。「……別に」その一言で、太一は完全に勢いづく。「だよな!柊也もこう言ってんじゃん。志帆ちゃんは心が綺麗すぎるんだよ。詩織さんみたいに、修羅場を潜り抜けてきて、損得勘定で動くことにかけてはプロな人間とは違うんだからさ」侮辱的な言葉を投げつけられても、詩織は何も言い返さなかった。ただ、じっと柊也を見つめた。彼の瞳の奥に、何か、別の感情を探すように。彼が助け舟を出してくれるのを、待っていた。たとえそれが、「もういい」とか「ふざけるな」という一言だけであっても、構わなかった。それは、絶望の淵に沈む前の、最後の足掻きだったのかもしれない。だが、柊也が口を開くことは、なかった。彼の瞳に映るのは、氷のような無関心だけだった。その瞬間、詩織の中で、何かがぷつりと切れた。まるで背後から、氷の欠片が無数に混じった冷水を頭から浴びせられたように。心の奥で燻っていた最後の期待の火を、根こそぎ消し去っていく。詩織は、どこか夢でも見ているかのように、ふ、と自嘲の笑みを浮かべると、テーブルの上のグラスに手を
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第5話

そんな過去を思い出しながらも、詩織は完璧な笑顔で応対する。辰巳は、詩織の返事を聞くと、残念そうにしながらも、どこか羨ましそうに言った。「賀来社長は本当に果報者だ。江崎さんのような逸材がいてくれるんだから、そりゃあ事業も成功するわけだ」「いえ、とんでもないお言葉です。私からすれば、一代で会社を築かれた辰巳社長こそ、心から尊敬しております」酒席での社交辞令に過ぎないと分かってはいても、辰巳は彼女の言葉にすっかり気を良くした。「いやぁ、江崎さんと話していると、どうしてこうも気持ちがいいのかねぇ。こっちの言いたいことを全部汲んでくれる。さあ、この一杯は君にだ」「辰巳社長は肝臓を労わらないといけませんから。この一杯は、私が代わりにいただきます。では、失礼して」辰巳は、気風のいい人間との付き合いを好んだ。詩織のそういうさっぱりとした性格が、彼はことのほか気に入っていた。彼女が杯を空にするのを見ると、慌てて声をかける。「おいおい、そんなに無茶するな。このプロジェクトの契約相手は、君しかいないと決めてるんだ。他の誰が来ても、ハンコは押さんよ!」「……ありがとうございます、辰巳社長!」詩織はそう言うと、彼のグラスに丁寧に酒を注いだ。その時、辰巳は彼女の顔色が普通でないことに気づき、気遣わしげに尋ねた。「江崎さん、君、もしかして具合でも悪いのかね? 顔色が優れないようだが」「いえ、大丈夫です」「無理はするな。なら、俺の運転手にでも病院まで送らせようか」詩織が、それには及ばないと断ろうとした、その時。個室の扉が、コンコン、とノックされた。ウェイターがドアを開け、中へと入ってくる。「辰巳社長。賀来社長が、辰巳社長がこちらにいらっしゃるとお聞きしまして。こちらのワインを、と」辰巳は、ウェイターが恭しく差し出すワインに目をやった。ロマネ・コンティ。――とんでもない代物だ。だが、彼がそれ以上に不思議に思ったのは、柊也がこの店にいるのなら、なぜ詩織と一緒ではないのか、ということだった。その疑問を口にする間もなく、柊也が、志帆を連れて姿を現した。「辰巳社長、このワインはお気に召しましたか」柊也は、詩織の存在などないかのように、その視線を彼女の横を通り過ぎさせ、辰巳に声をかけた。男が纏っているのは、清潔な白いシャツ一枚だけ。体に寸
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第6話

翌日、詩織が出社するなり、アシスタントの密が何やらこそこそとした様子で近づいてきた。「詩織さん……」周囲に聞き耳を立てられないよう、密はぐっと声を潜めている。「昨日の夜、柏木さん、社長とお泊まりだったみたいです」スマートフォンの画面に映し出されていたのは、彼女がこっそりと撮ったという証拠写真だった。「今朝、お二人、同じ車でいらしたんです。それに柏木さん、昨日のままの服で……」詩織はスマートフォンの画面に目を落とした。車のドアの前に立つ柊也は、顔の半分を影に落とし、降りようとする志帆を俯き加減に見つめている。絶妙な角度で撮られたせいだろうか、写真の中の二人からは、どこか密やかな情愛が漂っているように見えた。数秒間、詩織は無言でそれを見つめていたが、やがて視線を外し、手のひらにあった薬を一気に口の中へと放り込んだ。数口の白湯で薬を流し込む。熱い液体が喉を通り過ぎていくが、不思議と熱さも痛みも感じない。本当に、何も感じなかった。詩織は午前中いっぱいを使い、自分が担当してきたプロジェクトの資料をすべて整理し、その合間に辞表まで書き上げた。その間、志帆が柊也のオフィスを訪れたのは四回。毎回、三十分以上も中に留まっていた。想い人がそばにいて機嫌が良かったせいか、昨夜、詩織が彼の元へ行かなかった件で柊也が詰問してくることは、意外にもなかった。昼休みが近づいた頃、柊也と志帆がオフィスから連れ立って出てきた。詩織のデスクの横を通り過ぎていくが、一瞬たりとも足を止めることはない。志帆が柊也に話しかけているのが聞こえる。お昼は何が食べたいか、と。昨夜、自分の代わりにお酒を飲んでくれたお礼に、ご馳走させてほしい、と。柊也は、近くにいい薬膳スープの店がある、と答えた。そこの滋養スープは気や血を補うのに良く、今の志帆の体にぴったりだと。「柊也くん……優しいのね」志帆の、見るからに感動した様子の声が聞こえた。エレベーターの扉が閉まる、その直前。詩織は、書き上げた辞表に自分の名前を打ち込んだ。密から【お昼、どうします?】とメッセージが届く。詩織は少し考えて、返信した。【例の薬膳スープのお店、行ってみない?】すぐに【いいですね!】と返事が来た。ちょうど昼食時で、店内は多くの客で賑わっていた。店に足を踏
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第7話

『赤ちゃん』という言葉に、詩織が無理やり心の奥底に押し込めていた痛みが、じわじわと全身に広がっていくのを感じた。……真っ白な天井の照明。……鼻をつく消毒液の匂い。……処置を終えた後の、体の芯まで凍えるような寒気。一生、忘れられない。自らの血肉が剥がれ落ちるような、あの痛みも、永遠に。今になって思えば、あの子は何かを予感していたのかもしれない。だから、静かにやって来て、また静かに去っていった。まるで、自分に代わって大きな厄災を引き受けてくれるかのように。会議が終わると、志帆が密に声をかけた。「小林さん、さっきの議事録、一部送ってくださる?」内心の怒りを抑えきれない密は、棘のある言い方で答える。「まだ、まとめてません」「だったら、整理してからでいいわ」「こっちは死ぬほど忙しいんです。そんな時間ありません」志帆は眉をひそめ、密を一瞥した。密はそんな彼女を無視して、詩織の周りの片付けを黙々と手伝っている。志帆が部屋を出て行った後で、詩織は彼女を諭すように言った。「覚えておいて。仕事に感情を持ち込んでは駄目。この会社では、それは許されないことよ。もしあなたがここで長くやっていきたいなら、誰の反感も買っちゃいけない。特に、自分より職位が上の人にはね」「……だって、詩織さんのことを思うと、悔しくて」「悔しいとか、そういうものじゃないの」詩織の表情から、すっと感情が抜け落ちていた。彼女にしてみれば、恋愛は等価交換ではない。自分が柊也に尽くすのは、自分がそうしたかったから。それに対して柊也がどう応えるかは、彼自身の選択だ。その二つの間に等号を引こうとすれば、自分で自分の首を絞めるだけだ。柊也を愛していたから、将来を賭けて、海外留学の機会も諦めて、彼の起業に付き添い、彼を支えることを選んだ。結果は芳しいものではなかったけれど、後悔はしていない。負けを認めて、潔く身を引く。人生における最大の敵は、時として、自分の思考という名の檻に囚われたままの自分なのだから。ただ、一つの恋が終わること。それはどうしようもなく、人を疲れさせ、悲しませる。もう少し、時間が必要なだけ。きっと、乗り越えられる。……終業時刻が近づいた頃、詩織は志帆宛てにメッセージを送った。投資第三部のプロジェクト資料は
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第8話

だが彼は知らない。あの部屋が散らかっていたのは、彼の物で溢れかえっていたからだということを。柊也は根っからの仕事人間で、首席秘書である詩織は、彼の都合に合わせて二十四時間いつでも動けるように待機していなければならなかった。机の上には、彼がいつ必要とするか分からない各種資料が山積みになっていた。壁には、彼のスケジュールや業務計画を記したメモがびっしりと貼られていた。クローゼットには、彼がパーティーで着るための様々な礼服が掛けられていた。床には、彼がクライアントに贈るためのギフト類が無造作に置かれていた……もともと広くもないワンルームは、詩織にとって第二のオフィスと化していた。部屋全体で、彼女自身のものだと言えるのは、あの小さなシングルベッドだけだった。皮肉なことに、柊也はそのベッドさえも「狭すぎる」と嫌い、あの日以来、二度と彼女の部屋に来ることはなかった。家を出る前、詩織は引っ越し業者に一本電話を入れ、週末に荷物の整理を手伝う人員を手配してくれるよう頼んだ。もう、自分のものではない物をすべて部屋から運び出す時が来たのだ。……渉が選んだのは、最近オープンしたばかりで、体に優しい繊細な味わいで評判の創作料理の店だった。店名は『月蝕』。電話口で詩織が「胃の調子が悪い」と言ったのを聞いて、気を遣ってくれたのだろう。テーブルに並べられたのは、どれも胃に優しそうなあっさりとした料理ばかりだった。本当に、気が利く人だ。こういう気遣いは、誰かに教わってできるものではない。詩織は今まで、柊也が生活の中の些細なことを見過ごすのは、ただ仕事に集中しすぎているからだと信じようとしてきた。だから、そんな彼を受け入れ、気にしないように自分に言い聞かせてきたのだ。けれど今日、思い知らされた。柊也は、志帆が生理中だと知るや、彼女を気遣って薬膳スープを出す『百草庵(ひゃくそうあん)』へとわざわざ連れて行くような男だったのだ。彼もまた、ちゃんと気が利く人だった。ただ、その相手が自分でなかったというだけで。詩織は、いつもの生真面目な印象をがらりと変えていた。体に貼り付いていたようなスーツを脱ぎ捨て、長年きつくまとめていた髪も解いている。もともと透き通るように白い肌が、淡い色のワンピースに映え、まるで発光しているかのよう
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第9話

太一は、柊也が驚愕するだろうと踏んでいた。ところが、彼の反応は驚くほど平然としていた。「城戸の奴、まだ諦めてなかったのか」「ってことは……あいつ、江崎に声をかけるの、初めてじゃないのか?」「ああ」柊也は意にも介さず、その口調には確信さえ滲んでいた。「だが、あいつに引き抜けるようなタマじゃない。江崎は行かない」太一も同意見だった。彼はせせら笑う。「だよな。江崎がエイジアを辞めるわけねえよな」他の理由はさておき、柊也がエイジアにいる限り、詩織が会社を去ることなどあり得ない。「あの女も大概、食えねえよな。俺の見立てじゃ、わざと城戸をあの店に呼び出したんだ。俺に目撃させて、その噂をお前の耳に入れさせるために。そうすりゃ、お前が焦って引き留めてくれるとでも思ったんだろ」太一は、すべてお見通しだと言わんばかりの口調で続けた。「お前が志帆ちゃんを重用して、自分を構わないから嫉妬してんだ。まったく安っぽい手だよな。分別ってもんがねえ。男が、女の嫉妬だの小細工だのを一番嫌うって分かってねえのか。そんな真似すればするほど、お前が離れていくってのによ。ほんと、身の程知らずもいいとこだ。自分が何様だと思ってんだ?志帆ちゃんと張り合おうなんて、土台無理な話だろ。どっちを選ぶかなんて、少しでも頭が回りゃ分かることだろうに」柊也に、太一のゴシップに付き合っている時間はなかった。適当に相槌を打って電話を切る。サインすべき書類の束をめくると、一枚の書類が目に留まった。詩織からの、退職願だった。彼はごく僅かに眉をひそめたが、すぐにその書類を脇に放ると、何事もなかったかのように他の書類にペンを走らせ始めた。……詩織は渉との話が弾み、すっかり上機嫌になっていた。帰り道、マンションの一階にある花屋で、自分のために花束を一つ買った。家に着いて、そういえば花瓶が一つもなかったことを思い出す。部屋中に溢れる、自分のものではない品々を眺めているうちに、せっかくの明るい気持ちが少しだけ翳りを帯びた。詩織は段ボール箱を見つけ出すと、そこへ書類をすべて詰め込んでいく。そうしてようやく、ダイニングテーブルの上を何もない状態に戻した。部屋をぐるりと見回し、やがて花瓶の代わりになりそうなものを見つけ出した。一つの、トロフィー。エイジア・キャピタ
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第10話

詩織が怜をなだめる間もなく、一方的に電話は切られた。すぐにかけ直そうとした、まさにその瞬間、今度は柊也からの電話が割り込んできた。詩織は、それに出るしかない。「広江に来い」柊也は用件だけを告げると、すぐに電話を切った。相変わらず、命令口調だ。詩織は数秒ためらったが、最終的に広江へ向かうことを決めた。だが、それは柊也のためではない。スカイウィング社と、怜のためだ。あの案件は、彼女自身が選び、心血を注いできたプロジェクトだった。何度も怜の元へ足を運び、提案を練り直し、ようやく相手の心を動かして漕ぎつけた提携なのだ。それを途中で見捨てるのは、どうしても忍びなかった。こうなっては、風間先生との約束を反故にするしかない。案の定、電話口でこっぴどく叱られた。詩織は、この件が片付いたら必ず、大人しく治療に専念しますからと、必死に約束するしかなかった。深夜、広江市に降り立つと、外は土砂降りの雨で、気温もぐっと下がっていた。詩織は急いで来たため、何の準備もできていない。おまけに、タイミング悪く腹の奥が鈍く痛み始め、体調は最悪だった。どうにか体を支えてタクシーに乗り込み、ホテルに着いた頃にはもう深夜零時を回っていた。時間は遅かったが、詩織はスカイウィング社の件について、柊也と事前に話をしておきたかった。明日の早乙女社長との再交渉で、こちらの方針が統一できていないせいで話がこじれるのを恐れたのだ。部屋に入ると、雨で濡れた髪を拭うのも忘れ、すぐに柊也の携帯を鳴らした。コールが数回鳴った後、ようやく相手が出た。だが、詩織が口を開くより先に、電話の向こうから聞こえてきたのは、志帆の声だった。「柊也くん、江崎さんから電話よ」柊也の返事はくぐもっていて、はっきりとは聞き取れない。志帆が、彼の言葉を伝える。「江崎さん、柊也くん、今シャワーを浴びているの。だから、後でまたかけ直してもらえる?」詩織は、思わず喉を詰まらせた。「……大したことではありませんので。賀来社長のお邪魔はいたしません」詩織はそう言うと、一方的に電話を切った。深夜のホテル。男女が一つ部屋に二人きり。何かが起こるには、あまりに都合のいいシチュエーションだ。窓の外では、雨足がさらに強まっている。詩織は窓際に立ち尽くしながら、体の芯
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