INICIAR SESIÓN仮面の口腔外科医と、震える声
律(28歳)の武器は、「声」だ。 口腔外科医としての腕はもちろん一流だが、それ以上に彼は、患者の不安を溶かすような柔らかなトーンを使い分けることができた。 「すぐ終わりますよ」「大丈夫、怖くない」 それは、幼い頃から厳格な両親に「常に理知的で、周囲を安心させる存在であれ」と仕込まれた賜物だった。 (僕の声は、誰かのものじゃない。親が求めた『理想の息子』の音色だ) そんな律が、二度目の訪問で椿の前に座った。 閑院長は一歩引いた場所で、無言で指示を出す。「お前のやり方でやれ」と。 律が今回選んだのは、言葉遊びの多い、リズム感のある詩集だった。 椿は相変わらず、膝を抱えたまま床の一点を見つめている。 「……椿ちゃん。今日は、少しだけ僕に付き合ってくれるかな」 律が声を出す。いつもの、非の打ち所がない「営業用」の優しい声だ。 詩を読み始めると、その心地よいリズムに、部屋の空気がわずかに緩む。律の声には、子供を惹きつける天性の引力があった。 だが、三ページ目を捲ったとき。 律の視界に、椿の小さな「手」が入った。 彼女は、自分の耳を塞ごうとしていた。 律の心臓が跳ねる。 拒絶された――いや、違う。 椿の瞳が、一瞬だけ律を射抜いた。その目は「嘘つき」と言っているように見えた。 (見抜かれたんだ。僕が、心にもない綺麗な声を出していることを) 律の指先が、わずかに震える。 親の前でテストの点数を報告する時の、あの冷たい汗が背中を伝う。 完璧に読まなければ。失敗は許されない。 喉が、キュッと締まる。 「……あ、……」 次のフレーズで、声が裏返った。 エリート歯科医としては、あるまじき失態。 けれど、律はその瞬間、演じるのをやめた。 喉の奥にある、もっと低くて、少し掠れた、彼自身の本当の声を絞り出す。 「……ごめんね。今の、かっこ悪かったよね」 台本にはない言葉。 律は本を閉じ、椿と同じように少しだけ背中を丸めた。 「僕もね、ずっと怖かったんだ。間違えるのが。……今も、実はすごく怖い」 椿の耳から、ゆっくりと手が離れた。 彼女は初めて、律の顔を正視した。そこには、完璧な「先生」ではなく、自分と同じように怯え、それでもそこに立とうとする一人の人間がいた。 律はもう一度、本を開く。 今度の声は、決して美しくはなかった。けれど、血の通った、温度のある響きだった。 「――五分です」 叶芽の声が響く。 律が立ち上がると、椿がほんの少しだけ、本当に一瞬だけ、こっくりと頷いた。 部屋を出た廊下で、律は壁に寄りかかって深く息を吐いた。 「……情けないな。声、裏返っちゃいましたよ」 自嘲気味に笑う律に、閑が横を通り過ぎながら低く言った。 「それでいい。……初めて、響いたな」 律は自分の喉をそっと触れた。 初めて、自分の本当の声で、誰かと繋がれた気がした。五分間の奇跡、その先へ 「――では、五分休符を始めましょう」 閑(しずか)の合図で、5人の歯科医が椿を囲む。 今日は特別だった。5人が代わる代わる、一つの物語をリレー形式で読んでいく。 律の包み込むような声。 理の真剣で一生懸命な響き。 蒼太のこだわり抜いた静かなトーン。 叶芽の鋭く、けれど未来を指し示す強い口調。 そして、閑のすべてを包み込み、黒炎を温かな光に変えた締めくくり。 五分が経過したその時。 ずっと俯いていた椿が、ゆっくりと顔を上げた。 そして、その小さな頬が、ふわりと持ち上がる。「……ありがとう。せんせい」 椿が笑った。 半年間、誰にも見せなかった、ひだまりのような笑顔。 5人の男たちは、一瞬だけエリートの仮面を忘れ、一人の人間として、深く、静かに拳を握りしめた。 「素晴らしいものを見せてもらったわ」 部屋の入り口に、男女の20代後半の2人組がいた。 一人は、凛としたオーラを纏い、すべてを見通すような知性的な瞳を持つ、直木賞作家・館花琴音(たちばな ことね)27歳。女性。 もう一人は、温かみの中に作家としての鋭い感性を秘めた、本屋大賞作家・織木真々。おき、ままと呼び、男性だ。「琴音さん……それに真々さんも」 閑が驚きに目を見開く。彼女たちは椿の様子をずっと心配で見守っていたのだ。 琴音は一歩前に出ると、5人の歯科医たちを、まるで新しい物語の主人公たちを見るような目で見つめた。「あなたたちの声には、傷ついた魂を癒し、立ち上がらせる力がある。……ただのボランティアで終わらせるには、もったいないわ」 真々が、いたずらっぽく笑って続けた。「我々の次の作品、あなたたちに『朗読ユニット』としてデビューしてもらえないかしら? 私たちが、あなたたちのために最高の物語を書くがどうします?」 閑は、背中の黒炎がすうっと静まっていくのを感じた。 親の期待に応えるために必死だった日々。自分を殺して笑っていた日々。 それらすべてが、この「五分間」のためにあったのかもしれない。「……いいでしょう。ただし、条件があります」 閑は、フェラガモの袖を整え、不敵に微笑んだ。「どんなに人気になっても、私たちは歯科医だ。そして、五分間は、誰も傷つけない。……そのルールだけは、守らせてもらいますよ」
計算する歯科医と、未来の地図 「効率が悪い。四人もかけて、まだ一言も引き出せないなんて」 叶芽(33歳)は、面会室の前で冷ややかに言い放った。 彼はインプラントと歯周病を専門とするフリーランス。常に数手先を読み、自分を一番高く売れる場所で戦うリアリストだ。 幼い頃、彼は親から「これからは稼げなければゴミだ」と叩き込まれた。愛されている実感よりも先に、自分の「時価」を意識させられて育った彼にとって、ボランティアという甘い響きは本来、唾棄すべきものだった。(でも、閑院長のこの『実験』には投資価値があるだろう。……この子を救うこともね) 五回目の訪問。叶芽は椿の前に座ると、これまでの四人のような「共鳴」や「寄り添い」は一切見せなかった。 彼女が取り出したのは、美しい装丁の、けれど内容は「世界を旅する少女の冒険記」という、自立心の強い一冊だった。「椿。ここで黙っていれば、周りの大人は喜んで世話を焼いてくれる。でも、それはいつまでも続かない。あと十年もすれば、貴方は一人で立たなきゃいけない」 隣で律が「言い過ぎですよ」と苦笑するが、叶芽は止めない。 椿が初めて、戸惑ったように顔を上げた。「可哀想な子でいるのは、もうやめい。これ、読みなさい。私が教えるのは『逃げ場』じゃないわ。『戦い方』よ」 叶芽は朗読を始めた。 その声は、凛としていて涼やかで、迷いがない。 彼女が読むのは、逆境を知識と度胸で乗り越えていく少女の物語。 椿の瞳が、これまでの「静寂」への安らぎから、「未知の世界」への好奇心へと塗り替えられていく。 叶芽はあえて、物語の途中で本を閉じた。 「……え?」 椿の口から、小さな、本当に小さな声が漏れた。 初めての、自発的な「言葉」。 叶芽は口角を上げ、電卓を叩くように鮮やかに言い放った。「続きが知りたければ、自分で考えなさい。あるいは、次に私が来るまでに言葉を準備しておくことね。……無料のサービスはここまでよ」 時計が五分を刻む。 叶芽は真っ先に立ち上がり、颯爽と部屋を出た。 廊下に出てから、彼女は小さく鼻で笑った。「院長、計算通り。あの子、もう『被害者』の顔をしてないわ」 閑は何も言わず、ただ満足げに微笑んだ。
執着の矯正歯科医と、真夜中の青 「蒼太、まだか」 閑(しずか)の低い声が室内に響く。だが、蒼太(30歳)は動じない。 彼は面会室のテーブルの上で、三冊の本をミリ単位で並べ替えていた。「光の入り方が違います。この角度だと、表紙の青が沈んで見える」 蒼太は、徹底した「こだわり」の男だ。矯正歯科医としての腕も、その異常なまでの執着心に支えられている。 幼い頃、彼が大切にしていた宝物を「勉強の邪魔だ」と親に捨てられたあの日から、彼は自分の選んだもの、自分の信じる美学に対して、絶対的な防壁を築くようになった。(妥協は、自分を殺すことだ。完璧な一冊でなければ、彼女に届ける資格はない) ようやく納得したのか、蒼太が手に取ったのは、文字のほとんどない、深い青色が印象的な画集だった。 椿は、相変わらず黙って座っている。だが、これまでの3人で何かが変わったのか、その瞳にはわずかに「予感」のような光が宿っていた。 蒼太は朗読を始めない。 ただ、画集を開き、椿に見えるように置いた。「……無理に聴かなくていい。ただ、この色を見ていて」 蒼太の声は、低く、どこか突き放すようでいて、不思議と心地よい。 彼は、物語を押し付けない。代わりに、言葉を一つひとつ、削り出すように紡ぎ始めた。「これは、深い海の底の色。誰の声も届かない。親の期待も、学校の鐘も、ここまでは来ない。……君が今、いる場所だ」 椿の肩が、びくりと跳ねた。 大人たちが「外へおいで」と手を引く中で、蒼太だけは、彼女が閉じこもっている「暗闇」の美しさを肯定したのだ。 蒼太は、一分間に数行しか読まない。 余白の時間、彼は椿と同じ「青」を見つめていた。 選書にこだわりすぎたせいで、用意した文章の半分も読めていない。けれど、蒼太には確信があった。「寂しいのは、悪いことじゃない。……それは、自分を守っている証拠だから」 蒼太の指が、画集のページをゆっくりと捲る。 椿の瞳が、青いページを追って動いた。 そして、彼女の小さな唇が、音もなく動いた。(……きれい) 声にはならなかった。けれど、蒼太には見えた。 その瞬間、時計が五分を告げた。「――五分です」 叶芽の通告に、蒼太は迷いなく画集を閉じた。「続きは、また今度。……僕が、一番いいと思うタイミングで持
饒舌な矯正歯科医と、五分の静寂 理(おさむ)(28歳)にとって、世界は「正解」か「不正解」かのどちらかだった。 矯正歯科医という仕事は、乱れた歯列を正解へと導く緻密な作業だ。0.1ミリの狂いも許されない環境で、彼は常に理論武装をしていた。「この本を選んだ理由は三つあります。一つ目は語彙の選択が適切であること、二つ目は……」 三度目の訪問。理は椿の前で、自分が選んだ一冊について、とうとうと解説を述べていた。 閑院長が横で「早く読め」と言わんばかりに視線を送っているが、理は止まらない。 彼にとって、沈黙は「恐怖」だった。 幼い頃、テストで満点を逃した時、親が向けたあの氷のような沈黙。それを埋めるために、彼は常に「正論」を話し続ける子供になったのだ。(黙ったら、僕の価値がなくなる。何かを教えていないと、僕はここにいちゃいけないんだ) 理は、最新の教育心理学に基づいたという絵本を開き、朗読を始めた。 だが、彼の読み方は「解説」に近かった。「ここは、この主人公の悲しみを表現していて、つまり……」 ふと、理の視線が椿とぶつかった。 椿は、憐れむような目で理を見ていた。 まるで、必死に自分を保とうとして喋り続ける大人を、子供の方が観察しているような、そんな逆転した構図。 理の言葉が、ぴたりと止まった。 部屋に、完全な沈黙が訪れる。 いつもなら耐えられないはずのその空白の中で、理は気づいた。 椿が、理の「完璧な解説」ではなく、理が持っている「本」そのものをじっと見つめていることに。(……僕は、何をやってるんだ。この子に知識を教えに来たんじゃない。ただ、隣にいたいだけなのに) 理は、手に持っていた絵本をそっと脇に置いた。 そして、自分の鞄から、ボロボロになった別の本を取り出した。 それは、彼が唯一、親に隠して読みふけっていた古い図鑑だった。「……これ、僕が子供の時に一番好きだった本なんだ。字はあんまりないんだけど。……一緒に、見るだけでいいかな」 理は解説をやめた。 ただ、ページをめくる。 そこには、正解も不正解もない、ただ美しい結晶の写真が並んでいた。 椿が、少しだけ身を乗り出した。 理はもう、何も言わなかった。 五分間のうち、三部間はただ、ページをめくる紙の音だけが響いていた。 説明
仮面の口腔外科医と、震える声 律(28歳)の武器は、「声」だ。 口腔外科医としての腕はもちろん一流だが、それ以上に彼は、患者の不安を溶かすような柔らかなトーンを使い分けることができた。「すぐ終わりますよ」「大丈夫、怖くない」 それは、幼い頃から厳格な両親に「常に理知的で、周囲を安心させる存在であれ」と仕込まれた賜物だった。(僕の声は、誰かのものじゃない。親が求めた『理想の息子』の音色だ) そんな律が、二度目の訪問で椿の前に座った。 閑院長は一歩引いた場所で、無言で指示を出す。「お前のやり方でやれ」と。 律が今回選んだのは、言葉遊びの多い、リズム感のある詩集だった。 椿は相変わらず、膝を抱えたまま床の一点を見つめている。「……椿ちゃん。今日は、少しだけ僕に付き合ってくれるかな」 律が声を出す。いつもの、非の打ち所がない「営業用」の優しい声だ。 詩を読み始めると、その心地よいリズムに、部屋の空気がわずかに緩む。律の声には、子供を惹きつける天性の引力があった。 だが、三ページ目を捲ったとき。 律の視界に、椿の小さな「手」が入った。 彼女は、自分の耳を塞ごうとしていた。 律の心臓が跳ねる。 拒絶された――いや、違う。 椿の瞳が、一瞬だけ律を射抜いた。その目は「嘘つき」と言っているように見えた。(見抜かれたんだ。僕が、心にもない綺麗な声を出していることを) 律の指先が、わずかに震える。 親の前でテストの点数を報告する時の、あの冷たい汗が背中を伝う。 完璧に読まなければ。失敗は許されない。 喉が、キュッと締まる。「……あ、……」 次のフレーズで、声が裏返った。 エリート歯科医としては、あるまじき失態。 けれど、律はその瞬間、演じるのをやめた。 喉の奥にある、もっと低くて、少し掠れた、彼自身の本当の声を絞り出す。「……ごめんね。今の、かっこ悪かったよね」 台本にはない言葉。 律は本を閉じ、椿と同じように少しだけ背中を丸めた。「僕もね、ずっと怖かったんだ。間違えるのが。……今も、実はすごく怖い」 椿の耳から、ゆっくりと手が離れた。 彼女は初めて、律の顔を正視した。そこには、完璧な「先生」ではなく、自分と同じように怯え、それでもそこに立とうとする一人の人間がいた。 律はもう一度、
黒炎の歯科医と、凍りついた少女 児童相談所の面会室は、独特の重たい静寂に包まれていた。「……椿ちゃん、今日もお話ししてくれないんです」 職員の困り果てた声を、閑(しずか)は柔らかな微笑みで受け流した。「構いませんよ。私たちは、話しに来たわけではありませんから」 閑は、43歳。男性。歯科医院を経営し、常に完璧な笑顔と、全身フェラガモの装いで自分を武装している。だが、その微笑の裏側には、幼少期に親から植え付けられた「完璧であれ」という呪縛が、どす黒い炎となって今も燃え続けている。 部屋の隅で、8歳の椿が膝を抱えて座っていた。半年前の事故。それ以来、彼女の時間は止まり、心は死んだ。 閑は彼女の正面、少し離れた場所に座る。 時計の針が重なり、午後3時を指した。「始めよう」 閑の合図で、後に控えていた4人が静かに呼吸を整える。 五分休符。 それが彼らのユニット名だ。歯科医師としてエリート街道を歩みながら、親の期待という檻の中で息を詰めて生きてきた5人が、唯一「自分」に戻るための5分間。 閑が本を開いた。選んだのは、あえてハッピーエンドではない、孤独な旅人の物語だ。「――その街には、誰もいなかった」 閑の声が響く。 低く、深く、そして冷ややかでありながら、どこか共鳴を誘う響き。 閑は椿に「笑え」とは言わない。感情を強要することの苦しみを、誰よりも知っているからだ。(お前も、期待されていたんだろう。正しく、明るく、良い子であるようにと) 閑は椿を見ない。ただ、物語の中に自分の「黒炎」を混ぜ込んでいく。 理(おさむ)、蒼太(そうた)、律(りつ)、叶芽(かなめ)。4人の視線もまた、椿を射抜くのではなく、物語の風景をなぞるように虚空を彷徨っている。 椿の肩が、わずかに震えた。 今まで彼女に接してきた大人たちは皆、同情するか、励ますか、あるいは「話しなさい」と急かした。 だが、この5人は違う。 彼らはただ、そこに「空白」を置いているだけだ。「……五分です」 叶芽の声で、閑は本を閉じた。 余韻が部屋に満ちる。 椿は顔を上げなかったが、その指先が、自分のスカートの裾をぎゅっと掴んでいた。 感情が動いた証拠だ。 閑は立ち上がり、背中を向ける。「治療はしません。私たちはただ、ここに読みに来るだけ







