เข้าสู่ระบบ執着の矯正歯科医と、真夜中の青
「蒼太、まだか」 閑(しずか)の低い声が室内に響く。だが、蒼太(30歳)は動じない。 彼は面会室のテーブルの上で、三冊の本をミリ単位で並べ替えていた。 「光の入り方が違います。この角度だと、表紙の青が沈んで見える」 蒼太は、徹底した「こだわり」の男だ。矯正歯科医としての腕も、その異常なまでの執着心に支えられている。 幼い頃、彼が大切にしていた宝物を「勉強の邪魔だ」と親に捨てられたあの日から、彼は自分の選んだもの、自分の信じる美学に対して、絶対的な防壁を築くようになった。 (妥協は、自分を殺すことだ。完璧な一冊でなければ、彼女に届ける資格はない) ようやく納得したのか、蒼太が手に取ったのは、文字のほとんどない、深い青色が印象的な画集だった。 椿は、相変わらず黙って座っている。だが、これまでの3人で何かが変わったのか、その瞳にはわずかに「予感」のような光が宿っていた。 蒼太は朗読を始めない。 ただ、画集を開き、椿に見えるように置いた。 「……無理に聴かなくていい。ただ、この色を見ていて」 蒼太の声は、低く、どこか突き放すようでいて、不思議と心地よい。 彼は、物語を押し付けない。代わりに、言葉を一つひとつ、削り出すように紡ぎ始めた。 「これは、深い海の底の色。誰の声も届かない。親の期待も、学校の鐘も、ここまでは来ない。……君が今、いる場所だ」 椿の肩が、びくりと跳ねた。 大人たちが「外へおいで」と手を引く中で、蒼太だけは、彼女が閉じこもっている「暗闇」の美しさを肯定したのだ。 蒼太は、一分間に数行しか読まない。 余白の時間、彼は椿と同じ「青」を見つめていた。 選書にこだわりすぎたせいで、用意した文章の半分も読めていない。けれど、蒼太には確信があった。 「寂しいのは、悪いこと じゃない。……それは、自分を守っている証拠だから」 蒼太の指が、画集のページをゆっくりと捲る。 椿の瞳が、青いページを追って動いた。 そして、彼女の小さな唇が、音もなく動いた。 (……きれい) 声にはならなかった。けれど、蒼太には見えた。 その瞬間、時計が五分を告げた。 「――五分です」 叶芽の通告に、蒼太は迷いなく画集を閉じた。 「続きは、また今度。……僕が、一番いいと思うタイミングで持ってくる」 蒼太は、並べた本をまた几帳面に鞄に収めると、一度も振り返らずに部屋を出た。 その横顔には、自分の美学を貫き通した男の、静かな満足感が漂っていた。五分間の奇跡、その先へ 「――では、五分休符を始めましょう」 閑(しずか)の合図で、5人の歯科医が椿を囲む。 今日は特別だった。5人が代わる代わる、一つの物語をリレー形式で読んでいく。 律の包み込むような声。 理の真剣で一生懸命な響き。 蒼太のこだわり抜いた静かなトーン。 叶芽の鋭く、けれど未来を指し示す強い口調。 そして、閑のすべてを包み込み、黒炎を温かな光に変えた締めくくり。 五分が経過したその時。 ずっと俯いていた椿が、ゆっくりと顔を上げた。 そして、その小さな頬が、ふわりと持ち上がる。「……ありがとう。せんせい」 椿が笑った。 半年間、誰にも見せなかった、ひだまりのような笑顔。 5人の男たちは、一瞬だけエリートの仮面を忘れ、一人の人間として、深く、静かに拳を握りしめた。 「素晴らしいものを見せてもらったわ」 部屋の入り口に、男女の20代後半の2人組がいた。 一人は、凛としたオーラを纏い、すべてを見通すような知性的な瞳を持つ、直木賞作家・館花琴音(たちばな ことね)27歳。女性。 もう一人は、温かみの中に作家としての鋭い感性を秘めた、本屋大賞作家・織木真々。おき、ままと呼び、男性だ。「琴音さん……それに真々さんも」 閑が驚きに目を見開く。彼女たちは椿の様子をずっと心配で見守っていたのだ。 琴音は一歩前に出ると、5人の歯科医たちを、まるで新しい物語の主人公たちを見るような目で見つめた。「あなたたちの声には、傷ついた魂を癒し、立ち上がらせる力がある。……ただのボランティアで終わらせるには、もったいないわ」 真々が、いたずらっぽく笑って続けた。「我々の次の作品、あなたたちに『朗読ユニット』としてデビューしてもらえないかしら? 私たちが、あなたたちのために最高の物語を書くがどうします?」 閑は、背中の黒炎がすうっと静まっていくのを感じた。 親の期待に応えるために必死だった日々。自分を殺して笑っていた日々。 それらすべてが、この「五分間」のためにあったのかもしれない。「……いいでしょう。ただし、条件があります」 閑は、フェラガモの袖を整え、不敵に微笑んだ。「どんなに人気になっても、私たちは歯科医だ。そして、五分間は、誰も傷つけない。……そのルールだけは、守らせてもらいますよ」
計算する歯科医と、未来の地図 「効率が悪い。四人もかけて、まだ一言も引き出せないなんて」 叶芽(33歳)は、面会室の前で冷ややかに言い放った。 彼はインプラントと歯周病を専門とするフリーランス。常に数手先を読み、自分を一番高く売れる場所で戦うリアリストだ。 幼い頃、彼は親から「これからは稼げなければゴミだ」と叩き込まれた。愛されている実感よりも先に、自分の「時価」を意識させられて育った彼にとって、ボランティアという甘い響きは本来、唾棄すべきものだった。(でも、閑院長のこの『実験』には投資価値があるだろう。……この子を救うこともね) 五回目の訪問。叶芽は椿の前に座ると、これまでの四人のような「共鳴」や「寄り添い」は一切見せなかった。 彼女が取り出したのは、美しい装丁の、けれど内容は「世界を旅する少女の冒険記」という、自立心の強い一冊だった。「椿。ここで黙っていれば、周りの大人は喜んで世話を焼いてくれる。でも、それはいつまでも続かない。あと十年もすれば、貴方は一人で立たなきゃいけない」 隣で律が「言い過ぎですよ」と苦笑するが、叶芽は止めない。 椿が初めて、戸惑ったように顔を上げた。「可哀想な子でいるのは、もうやめい。これ、読みなさい。私が教えるのは『逃げ場』じゃないわ。『戦い方』よ」 叶芽は朗読を始めた。 その声は、凛としていて涼やかで、迷いがない。 彼女が読むのは、逆境を知識と度胸で乗り越えていく少女の物語。 椿の瞳が、これまでの「静寂」への安らぎから、「未知の世界」への好奇心へと塗り替えられていく。 叶芽はあえて、物語の途中で本を閉じた。 「……え?」 椿の口から、小さな、本当に小さな声が漏れた。 初めての、自発的な「言葉」。 叶芽は口角を上げ、電卓を叩くように鮮やかに言い放った。「続きが知りたければ、自分で考えなさい。あるいは、次に私が来るまでに言葉を準備しておくことね。……無料のサービスはここまでよ」 時計が五分を刻む。 叶芽は真っ先に立ち上がり、颯爽と部屋を出た。 廊下に出てから、彼女は小さく鼻で笑った。「院長、計算通り。あの子、もう『被害者』の顔をしてないわ」 閑は何も言わず、ただ満足げに微笑んだ。
執着の矯正歯科医と、真夜中の青 「蒼太、まだか」 閑(しずか)の低い声が室内に響く。だが、蒼太(30歳)は動じない。 彼は面会室のテーブルの上で、三冊の本をミリ単位で並べ替えていた。「光の入り方が違います。この角度だと、表紙の青が沈んで見える」 蒼太は、徹底した「こだわり」の男だ。矯正歯科医としての腕も、その異常なまでの執着心に支えられている。 幼い頃、彼が大切にしていた宝物を「勉強の邪魔だ」と親に捨てられたあの日から、彼は自分の選んだもの、自分の信じる美学に対して、絶対的な防壁を築くようになった。(妥協は、自分を殺すことだ。完璧な一冊でなければ、彼女に届ける資格はない) ようやく納得したのか、蒼太が手に取ったのは、文字のほとんどない、深い青色が印象的な画集だった。 椿は、相変わらず黙って座っている。だが、これまでの3人で何かが変わったのか、その瞳にはわずかに「予感」のような光が宿っていた。 蒼太は朗読を始めない。 ただ、画集を開き、椿に見えるように置いた。「……無理に聴かなくていい。ただ、この色を見ていて」 蒼太の声は、低く、どこか突き放すようでいて、不思議と心地よい。 彼は、物語を押し付けない。代わりに、言葉を一つひとつ、削り出すように紡ぎ始めた。「これは、深い海の底の色。誰の声も届かない。親の期待も、学校の鐘も、ここまでは来ない。……君が今、いる場所だ」 椿の肩が、びくりと跳ねた。 大人たちが「外へおいで」と手を引く中で、蒼太だけは、彼女が閉じこもっている「暗闇」の美しさを肯定したのだ。 蒼太は、一分間に数行しか読まない。 余白の時間、彼は椿と同じ「青」を見つめていた。 選書にこだわりすぎたせいで、用意した文章の半分も読めていない。けれど、蒼太には確信があった。「寂しいのは、悪いことじゃない。……それは、自分を守っている証拠だから」 蒼太の指が、画集のページをゆっくりと捲る。 椿の瞳が、青いページを追って動いた。 そして、彼女の小さな唇が、音もなく動いた。(……きれい) 声にはならなかった。けれど、蒼太には見えた。 その瞬間、時計が五分を告げた。「――五分です」 叶芽の通告に、蒼太は迷いなく画集を閉じた。「続きは、また今度。……僕が、一番いいと思うタイミングで持
饒舌な矯正歯科医と、五分の静寂 理(おさむ)(28歳)にとって、世界は「正解」か「不正解」かのどちらかだった。 矯正歯科医という仕事は、乱れた歯列を正解へと導く緻密な作業だ。0.1ミリの狂いも許されない環境で、彼は常に理論武装をしていた。「この本を選んだ理由は三つあります。一つ目は語彙の選択が適切であること、二つ目は……」 三度目の訪問。理は椿の前で、自分が選んだ一冊について、とうとうと解説を述べていた。 閑院長が横で「早く読め」と言わんばかりに視線を送っているが、理は止まらない。 彼にとって、沈黙は「恐怖」だった。 幼い頃、テストで満点を逃した時、親が向けたあの氷のような沈黙。それを埋めるために、彼は常に「正論」を話し続ける子供になったのだ。(黙ったら、僕の価値がなくなる。何かを教えていないと、僕はここにいちゃいけないんだ) 理は、最新の教育心理学に基づいたという絵本を開き、朗読を始めた。 だが、彼の読み方は「解説」に近かった。「ここは、この主人公の悲しみを表現していて、つまり……」 ふと、理の視線が椿とぶつかった。 椿は、憐れむような目で理を見ていた。 まるで、必死に自分を保とうとして喋り続ける大人を、子供の方が観察しているような、そんな逆転した構図。 理の言葉が、ぴたりと止まった。 部屋に、完全な沈黙が訪れる。 いつもなら耐えられないはずのその空白の中で、理は気づいた。 椿が、理の「完璧な解説」ではなく、理が持っている「本」そのものをじっと見つめていることに。(……僕は、何をやってるんだ。この子に知識を教えに来たんじゃない。ただ、隣にいたいだけなのに) 理は、手に持っていた絵本をそっと脇に置いた。 そして、自分の鞄から、ボロボロになった別の本を取り出した。 それは、彼が唯一、親に隠して読みふけっていた古い図鑑だった。「……これ、僕が子供の時に一番好きだった本なんだ。字はあんまりないんだけど。……一緒に、見るだけでいいかな」 理は解説をやめた。 ただ、ページをめくる。 そこには、正解も不正解もない、ただ美しい結晶の写真が並んでいた。 椿が、少しだけ身を乗り出した。 理はもう、何も言わなかった。 五分間のうち、三部間はただ、ページをめくる紙の音だけが響いていた。 説明
仮面の口腔外科医と、震える声 律(28歳)の武器は、「声」だ。 口腔外科医としての腕はもちろん一流だが、それ以上に彼は、患者の不安を溶かすような柔らかなトーンを使い分けることができた。「すぐ終わりますよ」「大丈夫、怖くない」 それは、幼い頃から厳格な両親に「常に理知的で、周囲を安心させる存在であれ」と仕込まれた賜物だった。(僕の声は、誰かのものじゃない。親が求めた『理想の息子』の音色だ) そんな律が、二度目の訪問で椿の前に座った。 閑院長は一歩引いた場所で、無言で指示を出す。「お前のやり方でやれ」と。 律が今回選んだのは、言葉遊びの多い、リズム感のある詩集だった。 椿は相変わらず、膝を抱えたまま床の一点を見つめている。「……椿ちゃん。今日は、少しだけ僕に付き合ってくれるかな」 律が声を出す。いつもの、非の打ち所がない「営業用」の優しい声だ。 詩を読み始めると、その心地よいリズムに、部屋の空気がわずかに緩む。律の声には、子供を惹きつける天性の引力があった。 だが、三ページ目を捲ったとき。 律の視界に、椿の小さな「手」が入った。 彼女は、自分の耳を塞ごうとしていた。 律の心臓が跳ねる。 拒絶された――いや、違う。 椿の瞳が、一瞬だけ律を射抜いた。その目は「嘘つき」と言っているように見えた。(見抜かれたんだ。僕が、心にもない綺麗な声を出していることを) 律の指先が、わずかに震える。 親の前でテストの点数を報告する時の、あの冷たい汗が背中を伝う。 完璧に読まなければ。失敗は許されない。 喉が、キュッと締まる。「……あ、……」 次のフレーズで、声が裏返った。 エリート歯科医としては、あるまじき失態。 けれど、律はその瞬間、演じるのをやめた。 喉の奥にある、もっと低くて、少し掠れた、彼自身の本当の声を絞り出す。「……ごめんね。今の、かっこ悪かったよね」 台本にはない言葉。 律は本を閉じ、椿と同じように少しだけ背中を丸めた。「僕もね、ずっと怖かったんだ。間違えるのが。……今も、実はすごく怖い」 椿の耳から、ゆっくりと手が離れた。 彼女は初めて、律の顔を正視した。そこには、完璧な「先生」ではなく、自分と同じように怯え、それでもそこに立とうとする一人の人間がいた。 律はもう一度、
黒炎の歯科医と、凍りついた少女 児童相談所の面会室は、独特の重たい静寂に包まれていた。「……椿ちゃん、今日もお話ししてくれないんです」 職員の困り果てた声を、閑(しずか)は柔らかな微笑みで受け流した。「構いませんよ。私たちは、話しに来たわけではありませんから」 閑は、43歳。男性。歯科医院を経営し、常に完璧な笑顔と、全身フェラガモの装いで自分を武装している。だが、その微笑の裏側には、幼少期に親から植え付けられた「完璧であれ」という呪縛が、どす黒い炎となって今も燃え続けている。 部屋の隅で、8歳の椿が膝を抱えて座っていた。半年前の事故。それ以来、彼女の時間は止まり、心は死んだ。 閑は彼女の正面、少し離れた場所に座る。 時計の針が重なり、午後3時を指した。「始めよう」 閑の合図で、後に控えていた4人が静かに呼吸を整える。 五分休符。 それが彼らのユニット名だ。歯科医師としてエリート街道を歩みながら、親の期待という檻の中で息を詰めて生きてきた5人が、唯一「自分」に戻るための5分間。 閑が本を開いた。選んだのは、あえてハッピーエンドではない、孤独な旅人の物語だ。「――その街には、誰もいなかった」 閑の声が響く。 低く、深く、そして冷ややかでありながら、どこか共鳴を誘う響き。 閑は椿に「笑え」とは言わない。感情を強要することの苦しみを、誰よりも知っているからだ。(お前も、期待されていたんだろう。正しく、明るく、良い子であるようにと) 閑は椿を見ない。ただ、物語の中に自分の「黒炎」を混ぜ込んでいく。 理(おさむ)、蒼太(そうた)、律(りつ)、叶芽(かなめ)。4人の視線もまた、椿を射抜くのではなく、物語の風景をなぞるように虚空を彷徨っている。 椿の肩が、わずかに震えた。 今まで彼女に接してきた大人たちは皆、同情するか、励ますか、あるいは「話しなさい」と急かした。 だが、この5人は違う。 彼らはただ、そこに「空白」を置いているだけだ。「……五分です」 叶芽の声で、閑は本を閉じた。 余韻が部屋に満ちる。 椿は顔を上げなかったが、その指先が、自分のスカートの裾をぎゅっと掴んでいた。 感情が動いた証拠だ。 閑は立ち上がり、背中を向ける。「治療はしません。私たちはただ、ここに読みに来るだけ







