「吉田社長、しっかりして。悟みたいな腹黒い人間、どう頑張っても避けきれないわ」そう言うと、龍介は不思議そうに瑠美を見つめた。「そういえば、どうして俺がここにいることを知っているんだ?」「悟をずっと追ってたのよ」瑠美はさらりと答えた。「でも、あなたがいつ連れ去られたかは本当に知らないの。たまたまその時は家に帰って寝てたのよ」「何はともあれ、助かったよ。必ず恩は返す」「そんなの、私たちが無事にここを出てからの話よ」瑠美は龍介の言葉をあまり気にしていない様子だった。「俺のズボンのポケットにある携帯を取ってもらえないか?」瑠美は頷くと、慎重に周囲のワイヤーを避けながら携帯を取り出した。「次は?」「この携帯、悟に仕込まれたソフトがあってまともに使えないんだ。それを削除してくれればいい」「……それ、暗号化されてるんじゃないの?」龍介は頷いた。「俺の携帯には技術スタッフの連絡先が入ってる。君の携帯からメッセージを送れば、向こうで対処してくれるはずだ」「分かったわ」瑠美が作業をしている間に、晋太郎が手配した人が紀美子の会社に突入した。指示された場所に到着すると、彼らは部屋の扉を押し開けた。龍介の体に仕掛けられた爆弾を目にすると、すぐさま特殊部隊を呼んで解体を依頼した。特殊部隊が到着し爆弾の型式を確認すると、難しい顔をした。彼らの話によれば、この爆弾は、一度爆発すればこのビルを完全に崩壊させるほどの威力があるということだった。やがて、瑠美と龍介は無事に救出され、晋太郎の手配で病院へと運ばれた。翌日。紀美子は病室のベッドで目を覚ました。最初に目に入ったのは、ソファに座り、目を閉じて休んでいる晋太郎の姿だった。彼女は両腕を支えにして身を起こし、彼の名前を呼んだ。「晋太郎……」その声に、晋太郎はぱっと目を開けた。充血したその瞳を見て、紀美子は胸が少し痛んだ。晋太郎は立ち上がり、紀美子の横に座って尋ねた。「どうだ?少しは良くなったか?」紀美子は頷いたが、昨夜の出来事を思い出し、目を伏せた。「頭がまだちょっとぼんやりするけど、それ以外は大丈夫」「君が眠っている間に、龍介は救出されたよ」紀美子は驚いて彼を見た。「どこで見つかったの?悟は?!」「まだ見
晋太郎が彼を一瞥すると、冷ややかに言った。「吉田社長、充分休めただろうに、なぜ戻らないんだ?悟が来るのを待つつもりか?」紀美子は晋太郎の口調に含まれる嫉妬をはっきりと感じ取った。来てすぐ追い返そうとするなんて、彼ぐらいしかいないだろう。紀美子は慌てて話を逸らした。「龍介君、気にしないで。さあ、座って」龍介は笑みを浮かべ、ソファに腰を下ろした。「誰だって一度くらいは判断を誤ることがあるだろう。森川社長、そうじゃないか?」「自発的と強制では話が別だ」晋太郎は鼻で笑った。「でも結果は同じじゃないか」龍介は晋太郎の嫌味を切り返した。「……龍介君、怪我はどう?」龍介の顔には少し後悔の色が浮かんだ。「すまない、俺のせいで君たちにまで迷惑をかけてしまった」「そんなことない!」紀美子は慌てて否定した。「そんなことないよ、龍介君。迷惑かけたのはこっちの方だよ。私が手伝ってって頼まなきゃ、悟と関わることなんてなかったのに……きっとこんなことにならなくて済んだ」龍介は静かに首を振った。「それは違うよ。結局のところ、俺が油断していたんだ」二人が互いに謝罪し合う様子を見て、晋太郎の顔色はみるみる曇っていった。「……もう話は済んだ?」彼は堪えきれず、割り込むように言った。紀美子は晋太郎の言葉に気にせず、龍介に続けて言った。「私、藤河別荘の家を売ろうと思ってるの」龍介は、この間何があったのかまだ知らなかった。「どうして売るんだ?」紀美子は苦笑しながら、昨夜の出来事を彼に説明した。龍介は真剣な顔つきで言った。「となると、事故物件になってしまうな。売らなくても、もうあそこに住むのはお勧めできない」紀美子は頷いた。「そうよ。龍介君はまだそこに住むつもり?」龍介は晋太郎の険しい顔をちらりと見た後、静かに答えた。「君がいないなら、俺もあそこにいる意味はない」晋太郎は、思わず口元を引きつらせた。こいつ、本気で紀美子とくっつくつもりか?俺が目の前にいるってのに、何も気にしないのか?「そうね」紀美子は言った。「私がいないのに、これから紗子が来て住むのは不便だわ」「今はどこに住んでいるんだ?」龍介は尋ねた。紀美子は頬を少し赤らめて答えた。「潤ヶ
どうして、この二人は顔を合わせると争いが止まらないのだろうか?初めて会ったときも、彼らはこんなふうに皮肉を言い合っていた。待って……紀美子はふと晋太郎を見た。彼が初めて龍介君に会ったときも、今日と同じような話し方をしていた。だが、記憶を失った後の彼は、一度も今日のような強い嫉妬心をにじませることはなかった。紀美子は一瞬考え込んだ。晋太郎は記憶が戻っていないと言っていたはずでは?今の彼の様子は、まるで完全に記憶を取り戻したかのようだ。その目に浮かんでいる独占欲は、演技で出せるようなものではない。まさか、クルーズのあの夜、彼にあまりにも強い刺激を与えすぎたせいで……性格は元に戻っているが、記憶はまだ少しずつ回復している途中なのか?龍介はしばらくすると席を立ち、先に帰っていった。紀美子の視線は、晋太郎に向けられた。「晋太郎、話があるの」晋太郎は顔を上げ、彼女を見つめた。「何?」紀美子は探るように言葉を紡いだ。「実際もう記憶、戻ってるんでしょ?どうして正直に言わないの?」晋太郎は、いつか紀美子からこう問われる日が来ることは分かっていた。そのため彼は動揺することもなく、ただ静かに答えた。「はっきり言ったはずだ。記憶は戻っていない」紀美子はじっと彼を観察した。紀美子には確信があった。それなのに、晋太郎には微塵の動揺もない。まさか、本当に勘違いか?紀美子は納得がいかず、さらに続けて言った。「こんなことで私に隠し事をしてほしくないの。もし騙していたことがわかったら……本気で怒るからね」「そんなことより、その家をどう売るか考えた方がいい」その一言で、紀美子は気を取られた。あの家は、短期間で何人もの人が亡くなっている。そのため、売れるかどうかも分からなかった。そのまま放置しておいても意味がないし、かといって自分が住むなんて……そんなの、絶対に無理だ。紀美子はしばらく考えた後、つぶやくように言った。「お祓いをしたほうがいいかな?」晋太郎の脳裏に、ふとゆみの顔が浮かんだ。彼は眉を上げ、紀美子を見つめて言った。「相談相手は、すぐそばにいるだろう?」紀美子には、その言葉の意味がすぐにはピンとこなかった。「誰のこと?」「小林さんだ」…
「三日後に会おう」小林は言った。電話を切った後、紀美子は物思いに沈んだ様子でソファに座り、黙り込んだ。そんな彼女の様子を横目で見ながら、晋太郎は少し胸が痛んだ。「何を言われたんだ?顔色が悪いぞ」紀美子は小林の言葉をそのまま晋太郎に伝えた。話を聞き終えた晋太郎は軽く目を伏せた。こういう類のことは彼にもわからず、どう慰めればいいのかわからなかった。翌朝。晋太郎はいつもより早く起きて別荘を出た。目が覚め、彼は俊介から深夜に送られてきたメッセージを確認していた。今朝7時の便で帝都に到着し、9時半に都江宴で会おうというものだった。晋太郎が都江宴に着くと、ちょうど俊介も到着したところだった。二人は駐車場で会った。俊介の手には線香の入った籠が提げられていた。晋太郎は眉をひそめ、その線香から視線を上げて俊介を見た。「俺の母親とかなり親しかったようだな」俊介は笑みを浮かべただけで、直接には答えなかった。「まずは朝食を食べよう」晋太郎は何か考えながらも、彼とともにホテルの中へと足を踏み入れた。席に着くと、晋太郎は俊介が何か説明してくれると思っていたが、予想に反して俊介はこう言った。「晋太郎、このホテル、そろそろ拡張したほうがいいんじゃないか?」晋太郎は気のない口調で答えた。「元々お前のものだ。好きにすればいい」「法人はもうお前に変わったんだぞ」「俺はホテルなんかに時間を割く気はない。ここが人脈作りに便利だとしても、自分の手で育てたものじゃないから興味はない」俊介は苦笑し、首を横に振った。「俺ももう歳だ。体力的にもきつくなってきたし、こういう仕事からは手を引いて、のんびり余生を過ごしたいんだ」「それで?」晋太郎は詰め寄った。「お前が持ってる全ての事業を俺に託したのは、一体どういうつもりなんだ?」「晋太郎、お前がいろいろ知りたがってるのは分かってる。だが、焦りすぎだ」晋太郎の目が冷たく光った。「誰も、お前の行動は理解できない」ちょうどその時、美月が朝食を運んできた。二人の間に漂う異様な空気を感じ取り、彼女は傍らに座り、にっこりと俊介を見つめた。「ボス、戻ってくるなら、もっと早く知らせてくださいよ。A国まで迎えに行ったのに」俊介は苦笑いをした。
晋太郎は驚きのあまり、ただ俊介を見つめた。なぜ彼は母さんのことを白芷と呼ぶのだろう?なぜ母さんがあの和菓子を好んでいたことを知っている?息子である自分さえ知らなかったことを、俊介はどこで……その口ぶりから察するに、二人は旧知の仲だったに違いない。ただ、どの程度の関係だったのかはわからない。俊介は続けて墓石に語りかけた。「白芷、俺も歳を取った。これまで築き上げた事業や勢力を今までと変わらず管理することはもうできない。君の息子にすべて託そうと思うが……いいだろう?君の息子は優秀だ。能力も胆力もあり、決断力も抜群だ。時には俺を越えてくることもある。ずっと見てきたが、彼は貞則とはまるで違う。性格も考え方も、君そっくりだ。だからこそ、彼になら任せられる。俺は、すべての手続きを終えたらこの近くに家を買うつもりだ。暇な時にはよく君に会いに来るからな。君は花が大好きだっただろう?墓の周りに美しい花を植えてあげよう」そう言った後、俊介の声が少し震えた。「白芷……会いたかった……どうして一度も現れてくれないんだ?」彼の目は赤く潤んでいた。「死に顔を見せたくなかったのか?それとも……貞則から救えなかったことを責めているのか?白芷……あの時は悪かった。許してくれないか?夢でもいいから、一度会いにきてくれないか?」俊介が母に宛てた言葉の一つ一つから、晋太郎は彼の正体を悟った。しかし、彼は途中で遮ることはせず、最後まで聞き終えた後、車に戻ってから静かに口を開いた。「お前と俺の母親……昔、何か関係があったのか?」俊介は無言でうなずいた。「ああ……お前の父に引き裂かれなければ、別れることはなかった」「あの日、一体何が起こったんだ?」晋太郎は眉をひそめて尋ねた。「お前はどうしてこんな風になったんだ?」「昔な、お前の母さんと俺は大学で出会い、恋に落ちた。四年間、一度も喧嘩などしなかったよ。卒業後、彼女は家が貧しかったから、高給のグラビアモデルの仕事をすぐに引き受けた。美しかったから、数回撮影しただけで人気が爆発した。だが、それが裏目に出たんだ。彼女が身体を売って金持ちに取り入った──そんな噂が流れ始めたんだ」「そしてあるパーティーで……お前の父は彼女に酒を飲ませ、酔わせた。そして、そのまま無理やり……」「その夜のせ
「あの時はまだお前の父に太刀打ちできなくてな。何年もじっと我慢して、力をつけてやっと対決しようと思ったんだ。ところが、手を打つ前にあの遊園地事故が起こった。後のことは、もうお前も知ってる通りさ」晋太郎は、俊介のこれまでの経緯と彼の母への執着に強い衝撃を受けた。しばらく考えてから、晋太郎は問いかけた。「そこまで彼を恨んでいるのに、なぜ俺を助けようとした?」俊介は首を振った。「助けようとしたわけじゃない。最初はお前を試していただけだ。お前が彼と同じような人間なら、俺はためらいなくお前を殺していただろう。だが、この数日間接してみて、お前は彼とは違う人間だと分かった。そして、白芷との残された唯一の繋がりでもある。愛する人の残したものを大切に思うのは、ごく自然なことだろう?まあ……お前に親切にすることで、白芷への未練を埋め合わせようとしているのかもしれん」晋太郎が黙り込んでいるのを見て、俊介は軽くため息をついて続けた。「まあ、すぐには受け入れられないだろう。だから今まで黙ってたんだ。晋太郎、たとえお前が俺を拒んだとしても、それでいい。俺も無理に押し付ける気はない。お前がどんな道を選ぼうと、俺の気持ちは変わない」「受け入れられない」晋太郎はきっぱりと言った。「自分の力でのし上がる。それこそが本当の実力だ」「そうか」俊介はあっさりと納得した。晋太郎が他人に頼るような人間ではないことは、最初からわかっていた。これだけの権力と財力を目の前にしても揺るがない――やはり、見込んだ通りの男だ。都江宴に戻ると、俊介が部屋に戻って行ったため、晋太郎は自分の仕事に向かった。実際には、彼が去った直後、俊介は美月を呼び寄せた。美月がドアを開けて俊介の寝室に入ると、彼は椅子に座って外の空をぼんやり見ていた。その様子を見て、美月は晋太郎と彼の話がまとまらなかったことを悟った。彼女は静かにドアを閉め、俊介のそばに歩み寄った。「ボス、彼の性格はあなたもよくご存知でしょう。後継者がいなくても仕方ないですよ」俊介は微笑みながら美月を見つめた。「本当にそう思うか?」美月は戸惑った。「どういう意味ですか?」俊介は笑みを浮かべたまま答えず、そばのリモコンを取ってテレビをつけた。すると、白芷が三人の子供たちと遊んでい
紀美子は軽く眉をひそめた。美月が突然食事に誘ってくるなんて、何か変だ。「遠藤さんは晋太郎のアシスタントでしょう?わざわざ私たちを食事に誘う必要はないと思いますが」紀美子は探るように言った。「入江さんもお気づきでしょうが、彼があなたを連れ帰ったということは、相当大切にしている証拠です。それに、入江さんにお願いしたいことがあります。彼の前でちょっとだけ私のことをかばってくれませんか? 仕事を少しでも減らしてほしいんです。まだ未婚の女性に、ひどすぎます!」紀美子はやんわりと断った。「遠藤さん、冗談はやめてください。私はただ一時的に住んでるだけで、家が決まり次第すぐに出ていきます。それに、晋太郎はまだ私のことを完全には思い出してませんし、私が何を言っても意味がないと思います。それに、たとえ記憶が元に戻ったとしても、彼の仕事には干渉しないつもりです」美月は予想外の反応に驚いた。理屈が通じないなら、裏を返すしかない。美月は軽くため息をついて言った。「実を言うと、私は地元が帝都ではありません。こっちに友達もほとんどいなくて……今夜お誘いしたのは、個人的に親しくなりたいからです。それと、一人紹介したい人がいるんです」最後の一言に、紀美子は興味を引かれた。「どんな方を紹介してくれるんですか?」「それは夜のお楽しみ。あ、二人のお子さんも連れてきてくださいね」美月は付け加えた。紀美子は軽く眉をひそめた。いったい誰なんだろう?子供たちまで連れて行く必要があるなんて。しばらく沈黙した後、紀美子は言った。「わかりました。場所と時間を送ってください」電話を切った後、美月は扇子で自分の頭を軽く叩いた。早くこう言っていれば、紀美子とこんなに無駄口をきかずに済んだのに!自分自身にイライラしながら、彼女の頭の中にはあの鈍感な男、肇の顔が浮かんだ。美月は唇を噛みながらニヤリと笑い、肇にメッセージを送った。紀美子は電話を切ったあと、晋太郎のラインを開いた。美月が食事に誘ってきたことを彼に伝えるべきか?しばらく考えた後、紀美子は携帯を置いた。美月が晋太郎に話していないということは、その相手が彼に知られない方がいい人なのだろう。とはいえ、子供たちを連れて夕食に行くことだけは、事前に伝えておいたほうがい
「僕たち、あなたのことなんて知りませんよ?会う理由なんてあるのですか?」佑樹は尋ねた。「前に君たちのおじさんの動画を送ったのを覚えているか?」佑樹と念江は、はっとして動きを止めた。次の瞬間、二人は同時に声をそろえて呼んだ。「先生?!」紀美子は困惑した表情で二人を見つめた。「そう、俺だよ」俊介はにこやかに言った。「イメージと違ったか?」「20代か30代かの人だと思ってたのに、まさか先生が中年だなんて。あんなに優秀なハッキング技術を持っているなら、少なくとも10年以上のキャリアがあるんでしょう?」俊介はうなずいた。「そうだ。たまたまこの分野でちょっとした才能があっただけだ」ちょっとした才能??佑樹は呆れ返った。彼の技術は世界中のトップハッカーを凌ぐものだ。それを「ちょっとした才能」だと言うのか?じゃあ、僕たちは何なんだ?初心者??「まあ……先生がわざわざ会いに来たってことは、用があるんでしょう?言ってください」佑樹が切り込んだ。「その通りだ」俊介は佑樹の賢さに感心した様子で答え、紀美子へ視線を移した。「この件については、君と相談しなければ」紀美子は俊介を見つめ、彼の説明を待った。俊介は腕を組みながら言った。「言うまでもなく、俺と晋太郎の母親との関係は君も分かっているだろう。そして、俺の能力は、『都江宴』を見れば理解できるはずだ。国外にも多数の勢力を持っているが、ここで全てを説明する気はない。ただ一つ、俺の勢力を継ぐ者が必要なんだ」紀美子は無意識のうちに隣にいる二人の子供に視線を移し、驚愕した。「俊介さん……まさかこの子たちを……」「そうだ」俊介は率直に答えた。紀美子は息を荒くした。あのカジノを思い出してしまったのだ。そこがどれほど危険で、混沌とした場所なのか、言わずとも分かる。もし子供たちがこのような世界に関わったら、同じ年齢の子供たちと比べて、精神的にかなり成長しすぎてしまうだろう。もともとこの子たちは早熟だが、こんなことに手を染めれば、さらに異常な成長を遂げてしまう。母親としては、子供たちが健康で安全でいることが一番大切だ。どうしていつも誰かが彼らを闇の中にはめようとするのか?紀美子はすぐに断ろうと口を開いたが、俊介
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言