晋太郎が彼を一瞥すると、冷ややかに言った。「吉田社長、充分休めただろうに、なぜ戻らないんだ?悟が来るのを待つつもりか?」紀美子は晋太郎の口調に含まれる嫉妬をはっきりと感じ取った。来てすぐ追い返そうとするなんて、彼ぐらいしかいないだろう。紀美子は慌てて話を逸らした。「龍介君、気にしないで。さあ、座って」龍介は笑みを浮かべ、ソファに腰を下ろした。「誰だって一度くらいは判断を誤ることがあるだろう。森川社長、そうじゃないか?」「自発的と強制では話が別だ」晋太郎は鼻で笑った。「でも結果は同じじゃないか」龍介は晋太郎の嫌味を切り返した。「……龍介君、怪我はどう?」龍介の顔には少し後悔の色が浮かんだ。「すまない、俺のせいで君たちにまで迷惑をかけてしまった」「そんなことない!」紀美子は慌てて否定した。「そんなことないよ、龍介君。迷惑かけたのはこっちの方だよ。私が手伝ってって頼まなきゃ、悟と関わることなんてなかったのに……きっとこんなことにならなくて済んだ」龍介は静かに首を振った。「それは違うよ。結局のところ、俺が油断していたんだ」二人が互いに謝罪し合う様子を見て、晋太郎の顔色はみるみる曇っていった。「……もう話は済んだ?」彼は堪えきれず、割り込むように言った。紀美子は晋太郎の言葉に気にせず、龍介に続けて言った。「私、藤河別荘の家を売ろうと思ってるの」龍介は、この間何があったのかまだ知らなかった。「どうして売るんだ?」紀美子は苦笑しながら、昨夜の出来事を彼に説明した。龍介は真剣な顔つきで言った。「となると、事故物件になってしまうな。売らなくても、もうあそこに住むのはお勧めできない」紀美子は頷いた。「そうよ。龍介君はまだそこに住むつもり?」龍介は晋太郎の険しい顔をちらりと見た後、静かに答えた。「君がいないなら、俺もあそこにいる意味はない」晋太郎は、思わず口元を引きつらせた。こいつ、本気で紀美子とくっつくつもりか?俺が目の前にいるってのに、何も気にしないのか?「そうね」紀美子は言った。「私がいないのに、これから紗子が来て住むのは不便だわ」「今はどこに住んでいるんだ?」龍介は尋ねた。紀美子は頬を少し赤らめて答えた。「潤ヶ
どうして、この二人は顔を合わせると争いが止まらないのだろうか?初めて会ったときも、彼らはこんなふうに皮肉を言い合っていた。待って……紀美子はふと晋太郎を見た。彼が初めて龍介君に会ったときも、今日と同じような話し方をしていた。だが、記憶を失った後の彼は、一度も今日のような強い嫉妬心をにじませることはなかった。紀美子は一瞬考え込んだ。晋太郎は記憶が戻っていないと言っていたはずでは?今の彼の様子は、まるで完全に記憶を取り戻したかのようだ。その目に浮かんでいる独占欲は、演技で出せるようなものではない。まさか、クルーズのあの夜、彼にあまりにも強い刺激を与えすぎたせいで……性格は元に戻っているが、記憶はまだ少しずつ回復している途中なのか?龍介はしばらくすると席を立ち、先に帰っていった。紀美子の視線は、晋太郎に向けられた。「晋太郎、話があるの」晋太郎は顔を上げ、彼女を見つめた。「何?」紀美子は探るように言葉を紡いだ。「実際もう記憶、戻ってるんでしょ?どうして正直に言わないの?」晋太郎は、いつか紀美子からこう問われる日が来ることは分かっていた。そのため彼は動揺することもなく、ただ静かに答えた。「はっきり言ったはずだ。記憶は戻っていない」紀美子はじっと彼を観察した。紀美子には確信があった。それなのに、晋太郎には微塵の動揺もない。まさか、本当に勘違いか?紀美子は納得がいかず、さらに続けて言った。「こんなことで私に隠し事をしてほしくないの。もし騙していたことがわかったら……本気で怒るからね」「そんなことより、その家をどう売るか考えた方がいい」その一言で、紀美子は気を取られた。あの家は、短期間で何人もの人が亡くなっている。そのため、売れるかどうかも分からなかった。そのまま放置しておいても意味がないし、かといって自分が住むなんて……そんなの、絶対に無理だ。紀美子はしばらく考えた後、つぶやくように言った。「お祓いをしたほうがいいかな?」晋太郎の脳裏に、ふとゆみの顔が浮かんだ。彼は眉を上げ、紀美子を見つめて言った。「相談相手は、すぐそばにいるだろう?」紀美子には、その言葉の意味がすぐにはピンとこなかった。「誰のこと?」「小林さんだ」…
「三日後に会おう」小林は言った。電話を切った後、紀美子は物思いに沈んだ様子でソファに座り、黙り込んだ。そんな彼女の様子を横目で見ながら、晋太郎は少し胸が痛んだ。「何を言われたんだ?顔色が悪いぞ」紀美子は小林の言葉をそのまま晋太郎に伝えた。話を聞き終えた晋太郎は軽く目を伏せた。こういう類のことは彼にもわからず、どう慰めればいいのかわからなかった。翌朝。晋太郎はいつもより早く起きて別荘を出た。目が覚め、彼は俊介から深夜に送られてきたメッセージを確認していた。今朝7時の便で帝都に到着し、9時半に都江宴で会おうというものだった。晋太郎が都江宴に着くと、ちょうど俊介も到着したところだった。二人は駐車場で会った。俊介の手には線香の入った籠が提げられていた。晋太郎は眉をひそめ、その線香から視線を上げて俊介を見た。「俺の母親とかなり親しかったようだな」俊介は笑みを浮かべただけで、直接には答えなかった。「まずは朝食を食べよう」晋太郎は何か考えながらも、彼とともにホテルの中へと足を踏み入れた。席に着くと、晋太郎は俊介が何か説明してくれると思っていたが、予想に反して俊介はこう言った。「晋太郎、このホテル、そろそろ拡張したほうがいいんじゃないか?」晋太郎は気のない口調で答えた。「元々お前のものだ。好きにすればいい」「法人はもうお前に変わったんだぞ」「俺はホテルなんかに時間を割く気はない。ここが人脈作りに便利だとしても、自分の手で育てたものじゃないから興味はない」俊介は苦笑し、首を横に振った。「俺ももう歳だ。体力的にもきつくなってきたし、こういう仕事からは手を引いて、のんびり余生を過ごしたいんだ」「それで?」晋太郎は詰め寄った。「お前が持ってる全ての事業を俺に託したのは、一体どういうつもりなんだ?」「晋太郎、お前がいろいろ知りたがってるのは分かってる。だが、焦りすぎだ」晋太郎の目が冷たく光った。「誰も、お前の行動は理解できない」ちょうどその時、美月が朝食を運んできた。二人の間に漂う異様な空気を感じ取り、彼女は傍らに座り、にっこりと俊介を見つめた。「ボス、戻ってくるなら、もっと早く知らせてくださいよ。A国まで迎えに行ったのに」俊介は苦笑いをした。
晋太郎は驚きのあまり、ただ俊介を見つめた。なぜ彼は母さんのことを白芷と呼ぶのだろう?なぜ母さんがあの和菓子を好んでいたことを知っている?息子である自分さえ知らなかったことを、俊介はどこで……その口ぶりから察するに、二人は旧知の仲だったに違いない。ただ、どの程度の関係だったのかはわからない。俊介は続けて墓石に語りかけた。「白芷、俺も歳を取った。これまで築き上げた事業や勢力を今までと変わらず管理することはもうできない。君の息子にすべて託そうと思うが……いいだろう?君の息子は優秀だ。能力も胆力もあり、決断力も抜群だ。時には俺を越えてくることもある。ずっと見てきたが、彼は貞則とはまるで違う。性格も考え方も、君そっくりだ。だからこそ、彼になら任せられる。俺は、すべての手続きを終えたらこの近くに家を買うつもりだ。暇な時にはよく君に会いに来るからな。君は花が大好きだっただろう?墓の周りに美しい花を植えてあげよう」そう言った後、俊介の声が少し震えた。「白芷……会いたかった……どうして一度も現れてくれないんだ?」彼の目は赤く潤んでいた。「死に顔を見せたくなかったのか?それとも……貞則から救えなかったことを責めているのか?白芷……あの時は悪かった。許してくれないか?夢でもいいから、一度会いにきてくれないか?」俊介が母に宛てた言葉の一つ一つから、晋太郎は彼の正体を悟った。しかし、彼は途中で遮ることはせず、最後まで聞き終えた後、車に戻ってから静かに口を開いた。「お前と俺の母親……昔、何か関係があったのか?」俊介は無言でうなずいた。「ああ……お前の父に引き裂かれなければ、別れることはなかった」「あの日、一体何が起こったんだ?」晋太郎は眉をひそめて尋ねた。「お前はどうしてこんな風になったんだ?」「昔な、お前の母さんと俺は大学で出会い、恋に落ちた。四年間、一度も喧嘩などしなかったよ。卒業後、彼女は家が貧しかったから、高給のグラビアモデルの仕事をすぐに引き受けた。美しかったから、数回撮影しただけで人気が爆発した。だが、それが裏目に出たんだ。彼女が身体を売って金持ちに取り入った──そんな噂が流れ始めたんだ」「そしてあるパーティーで……お前の父は彼女に酒を飲ませ、酔わせた。そして、そのまま無理やり……」「その夜のせ
「あの時はまだお前の父に太刀打ちできなくてな。何年もじっと我慢して、力をつけてやっと対決しようと思ったんだ。ところが、手を打つ前にあの遊園地事故が起こった。後のことは、もうお前も知ってる通りさ」晋太郎は、俊介のこれまでの経緯と彼の母への執着に強い衝撃を受けた。しばらく考えてから、晋太郎は問いかけた。「そこまで彼を恨んでいるのに、なぜ俺を助けようとした?」俊介は首を振った。「助けようとしたわけじゃない。最初はお前を試していただけだ。お前が彼と同じような人間なら、俺はためらいなくお前を殺していただろう。だが、この数日間接してみて、お前は彼とは違う人間だと分かった。そして、白芷との残された唯一の繋がりでもある。愛する人の残したものを大切に思うのは、ごく自然なことだろう?まあ……お前に親切にすることで、白芷への未練を埋め合わせようとしているのかもしれん」晋太郎が黙り込んでいるのを見て、俊介は軽くため息をついて続けた。「まあ、すぐには受け入れられないだろう。だから今まで黙ってたんだ。晋太郎、たとえお前が俺を拒んだとしても、それでいい。俺も無理に押し付ける気はない。お前がどんな道を選ぼうと、俺の気持ちは変わない」「受け入れられない」晋太郎はきっぱりと言った。「自分の力でのし上がる。それこそが本当の実力だ」「そうか」俊介はあっさりと納得した。晋太郎が他人に頼るような人間ではないことは、最初からわかっていた。これだけの権力と財力を目の前にしても揺るがない――やはり、見込んだ通りの男だ。都江宴に戻ると、俊介が部屋に戻って行ったため、晋太郎は自分の仕事に向かった。実際には、彼が去った直後、俊介は美月を呼び寄せた。美月がドアを開けて俊介の寝室に入ると、彼は椅子に座って外の空をぼんやり見ていた。その様子を見て、美月は晋太郎と彼の話がまとまらなかったことを悟った。彼女は静かにドアを閉め、俊介のそばに歩み寄った。「ボス、彼の性格はあなたもよくご存知でしょう。後継者がいなくても仕方ないですよ」俊介は微笑みながら美月を見つめた。「本当にそう思うか?」美月は戸惑った。「どういう意味ですか?」俊介は笑みを浮かべたまま答えず、そばのリモコンを取ってテレビをつけた。すると、白芷が三人の子供たちと遊んでい
紀美子は軽く眉をひそめた。美月が突然食事に誘ってくるなんて、何か変だ。「遠藤さんは晋太郎のアシスタントでしょう?わざわざ私たちを食事に誘う必要はないと思いますが」紀美子は探るように言った。「入江さんもお気づきでしょうが、彼があなたを連れ帰ったということは、相当大切にしている証拠です。それに、入江さんにお願いしたいことがあります。彼の前でちょっとだけ私のことをかばってくれませんか? 仕事を少しでも減らしてほしいんです。まだ未婚の女性に、ひどすぎます!」紀美子はやんわりと断った。「遠藤さん、冗談はやめてください。私はただ一時的に住んでるだけで、家が決まり次第すぐに出ていきます。それに、晋太郎はまだ私のことを完全には思い出してませんし、私が何を言っても意味がないと思います。それに、たとえ記憶が元に戻ったとしても、彼の仕事には干渉しないつもりです」美月は予想外の反応に驚いた。理屈が通じないなら、裏を返すしかない。美月は軽くため息をついて言った。「実を言うと、私は地元が帝都ではありません。こっちに友達もほとんどいなくて……今夜お誘いしたのは、個人的に親しくなりたいからです。それと、一人紹介したい人がいるんです」最後の一言に、紀美子は興味を引かれた。「どんな方を紹介してくれるんですか?」「それは夜のお楽しみ。あ、二人のお子さんも連れてきてくださいね」美月は付け加えた。紀美子は軽く眉をひそめた。いったい誰なんだろう?子供たちまで連れて行く必要があるなんて。しばらく沈黙した後、紀美子は言った。「わかりました。場所と時間を送ってください」電話を切った後、美月は扇子で自分の頭を軽く叩いた。早くこう言っていれば、紀美子とこんなに無駄口をきかずに済んだのに!自分自身にイライラしながら、彼女の頭の中にはあの鈍感な男、肇の顔が浮かんだ。美月は唇を噛みながらニヤリと笑い、肇にメッセージを送った。紀美子は電話を切ったあと、晋太郎のラインを開いた。美月が食事に誘ってきたことを彼に伝えるべきか?しばらく考えた後、紀美子は携帯を置いた。美月が晋太郎に話していないということは、その相手が彼に知られない方がいい人なのだろう。とはいえ、子供たちを連れて夕食に行くことだけは、事前に伝えておいたほうがい
「僕たち、あなたのことなんて知りませんよ?会う理由なんてあるのですか?」佑樹は尋ねた。「前に君たちのおじさんの動画を送ったのを覚えているか?」佑樹と念江は、はっとして動きを止めた。次の瞬間、二人は同時に声をそろえて呼んだ。「先生?!」紀美子は困惑した表情で二人を見つめた。「そう、俺だよ」俊介はにこやかに言った。「イメージと違ったか?」「20代か30代かの人だと思ってたのに、まさか先生が中年だなんて。あんなに優秀なハッキング技術を持っているなら、少なくとも10年以上のキャリアがあるんでしょう?」俊介はうなずいた。「そうだ。たまたまこの分野でちょっとした才能があっただけだ」ちょっとした才能??佑樹は呆れ返った。彼の技術は世界中のトップハッカーを凌ぐものだ。それを「ちょっとした才能」だと言うのか?じゃあ、僕たちは何なんだ?初心者??「まあ……先生がわざわざ会いに来たってことは、用があるんでしょう?言ってください」佑樹が切り込んだ。「その通りだ」俊介は佑樹の賢さに感心した様子で答え、紀美子へ視線を移した。「この件については、君と相談しなければ」紀美子は俊介を見つめ、彼の説明を待った。俊介は腕を組みながら言った。「言うまでもなく、俺と晋太郎の母親との関係は君も分かっているだろう。そして、俺の能力は、『都江宴』を見れば理解できるはずだ。国外にも多数の勢力を持っているが、ここで全てを説明する気はない。ただ一つ、俺の勢力を継ぐ者が必要なんだ」紀美子は無意識のうちに隣にいる二人の子供に視線を移し、驚愕した。「俊介さん……まさかこの子たちを……」「そうだ」俊介は率直に答えた。紀美子は息を荒くした。あのカジノを思い出してしまったのだ。そこがどれほど危険で、混沌とした場所なのか、言わずとも分かる。もし子供たちがこのような世界に関わったら、同じ年齢の子供たちと比べて、精神的にかなり成長しすぎてしまうだろう。もともとこの子たちは早熟だが、こんなことに手を染めれば、さらに異常な成長を遂げてしまう。母親としては、子供たちが健康で安全でいることが一番大切だ。どうしていつも誰かが彼らを闇の中にはめようとするのか?紀美子はすぐに断ろうと口を開いたが、俊介
「違います!」佑樹は念江を一瞥してきっぱり否定した。「僕はもっと大きな力を必要としています。ハッカー技術などで満足して足踏みしているつもりはありません」佑樹の野心を目の当たりにし、紀美子の心臓は高鳴った。これまで、佑樹の顔にこれほどまでに断固たる表情を見たことはなかった。その様子は、まさに晋太郎そのものだった。冷徹で、そして決然としている。紀美子は思わず口を開いて尋ねた。「佑樹、それじゃあ、俊介さんについて行くつもりなの?」「ママの心配はよくわかる。暗い世界に触れるのが怖いんだろ?でも、ママ、ちょっと考えてみてよ。向上心があるのは悪いことか?人は生まれたときからスタートラインが違う。でも僕は、すでに多くの人を追い越してきた。今、僕がさらに強くなれる貴重なチャンスが目の前にあるのに、なんでそれを掴まずに、ただのんびり生きるだけで終わらせなきゃいけないんだ?」紀美子は胸を痛めながら彼を見つめた。「佑樹、ママはただあなたと念江、それにゆみが平和で健康に成長してほしいだけなの」「ママが僕を愛してくれているのはわかっている。でも、僕に選択する権利を与えてほしい。これからの道は長いんだから、僕は自分で歩いていかなきゃいけない」紀美子は唇を震わせながら、念江に向かって切望のように目を向けた。「じゃあ、念江は?」念江はしばらく黙ってから言った。「ママ、僕は佑樹の言うことが正しいと思う。目の前の豊かな生活だけを見て生きることは、無駄に生きているのと同じことだ」子供たちの答えを聞いて、紀美子の心はぎゅっと締めつけられた。ゆみはまだ小さいのに、もう自分の元を離れていった。今度は佑樹と念江まで?子供たちの考えは尊重したいが、子供たちが次々と彼女の手の届かない遠くへ旅立っていくことは耐えられなかった。紀美子の目が赤くなったのを見て、俊介は彼女が母親として心の中でどれだけ葛藤しているのかを理解した。だからこそ、彼はあらかじめ厳しい現実を伝え、彼らにもよく考える機会を与えようとした。「今すぐ決断しろとは言わん。もし君たちを後継者として育てるなら、その苦しみは想像を絶するものになる。温室で育った君たちにとって、外の闇は認識を超えている。俺はあらゆる面から鍛え上げるつもりだ。だから、今よく考えておけ」「分
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言
「俺は何も言わない!」ボディガードが運転手の口に貼られたテープを剥がすと、運転手は晋太郎を見上げて言った。晋太郎は冷たく笑った。「美月」運転手は晋太郎の側に来た女性を見て、次に何が起こるかをよく理解していた。「暴力で自白させようとしても無駄だ。俺は塚原社長を裏切るつもりはない。殺すならさっさとやってくれ!」運転手は歯を食いしばって言った。「誰が暴力を振るつもりだと言った?」「どういう意味だ?」運転手は一瞬呆然とした。「この世には特殊メイクがあるじゃない」美月が笑いながら言った。運転手は一瞬固まったが、すぐに気づいた。自分は、捕まってからただ口を塞がれ連れて来られたが、暴力を振るわれることはなかった。その間の動きは非常に静かで、部屋の中からは何の音もしなかっただろう。「社長がそう簡単に騙されると思うのか?」そう言い終わると、運転手は内心不安になり上階に向かって叫ぼうともがいたが、傍らのボディガードに素早く再び口を塞がれた。すぐに美月は道具を取り出し、彼とよく似た体型のボディガードの変装を始めた。30分後、美月はそのボディガードを完全に運転手に化けさせた。自分とそっくりに変装したボディガードを見て、運転手の瞳は恐怖に満ちた。美月は変声器を取り出してボディガードにつけた。「ほら、何か喋ってみて」ボディガードが声を出すと、運転手はひどく衝撃を受けた。もう終わりだ、完全に終わりだ!「上に行ったら、悟に夕食が要るかどうかと尋ねるだけ。もし『要る』と言われたら、食事を届けながら部屋の様子を窺う。もし『要らない』と言われたら、この盗聴器を中に入れ、ドアの前で待機して。中の状況を常に把握したいの」運転手の表情を見て、美月はボディガードに言った。「分かりました、美月さん」そう言うと、ボディガードはホテルに入り、美月の指示通りに三階に上がった。「社長、夕食はいかがですか?」悟の部屋の前で、彼はドアをノックして尋ねた。「いい」部下の声を聞いて、悟は疑うことなく答えた。「入江さんの分もいいのですか」ボディガードはゆっくりしゃがみ込み、盗聴器を入れた。「ああ、彼女は寝ている」美月と晋太郎の耳には悟の声がはっきりと届いた。晋太郎は眉をひそめた。悟はま
「あんたはもう逃げられないわ。いつ私を解放してくれるの?」紀美子が尋ねた。「紀美子、私に二つだけ約束してくれないか?」悟は俯いて、掠れた声で言った。「私のできる範囲なら、約束するよ」早くそこを離れるために、紀美子は悟の話に合わせた。「ありがとう」悟は笑みを浮かべた。紀美子は彼の要求を待ったが、しばらく経っても悟は何も言わなかった。「約束って何?」紀美子が怪訝そうに尋ねた。「一つは後で教える」悟は再び立ち上がった。 そして、彼は彼女に向かって一歩ずつ近づいた。紀美子は緊張して椅子の肘掛けを握りしめた。「もう一つは、今夜だけ、私と一緒にいてくれないか、紀美子」悟は彼女の前で止まり、跪いて耳元で囁いた。「悟、変なことを言わないで」紀美子は目を見開いて彼を見た。悟は首を振った。「心配するな。ただ静かに眠って、そばにいてほしいだけだ」そう言うと、悟はそっと一本の針を取り出し、紀美子が気づかないうちに彼女の手のツボに素早く刺した。 「痛っ!」紀美子は手を引っ込め、恐怖に満ちた目で悟を見た。「何をしたの?」 「言っただろう。ただ一晩眠って、一緒にいてほしいだけだって」悟は冷静に答えた。その言葉と同時に、紀美子は急激な疲弊感に襲われた。彼女はまだ何か言おうとしたが、猛烈な睡魔に脳を支配され、次第に視界がぼやけていった。やがて紀美子はゆっくりと目を閉じ、横に倒れこんだ。悟は彼女の体を受け止め、腰をかがめてベッドに運んだ。階下。晋太郎が民宿に着くと、美月は車から飛び出して彼の元へ駆け寄った。 晋太郎が質問する前に、晴が先に詰め寄った。「彼女たちはどこにいるんだ?」 「佳世子さんは無事ですが、紀美子さんはまた部屋に連れ戻されました」美月は答えた。「森川社長、無闇に上るのは控えた方がいいでしょう。悟が部屋に爆発物を仕掛けている可能性がありますので、不用意に動けません」美月は晋太郎に向き直って忠告した。「偵察班を出せ」晋太郎は険しい表情で言った。「もう手配済みです」美月は答えた。「既に悟の部下の一人を排除しました」晋太郎はホテルの窓を見上げた。「奴はどの階にいるか特定できたか?」「3階です。廊下には悟の
「美月さん、山田大河という技術者が紀美子さんを人質に取っています。奴らは銃を持っていますが、どうしますか?」少し離れた場所に立っていた二人の男は、彼らの会話を聞きながら、通信機を通じて美月に低い声で報告した。「騒ぎ立てる必要はないが、その場を離れるな。とりあえずは威圧感を与えるだけでいいわ。紀美子さんは私が何とかする」美月は周囲を見回して、指示を出した。 「了解です、美月さん」 二人のボディガードが座るのを見て、大河の緊張はさらに高まった。 彼らは晋太郎の部下に違いない。 一般人であれば、銃を持っている奴を見た途端に逃げるはずだ。悟はゆっくりと大河に近づいた。「大河、言うことを聞け、銃を下ろせ」 目が充血した大河は首を振った。「できません、社長……もう逃げられません。奴らがここにいるということは、外も囲まれているはずです」 「分かっているさ。だから、銃を下ろせと言っているんだ」 「社長……」大河は涙を浮かべた。「どうか生き延びてください。こんな女に惑わされて命を投げ出さないで!彼女は災いのもとです。俺が彼女を始末します!社長、生きて……」そう言い終わると、大河は銃の安全装置を外し、再び紀美子の額に銃口を向けようとした。その瞬間、彼の視覚には悟が銃を抜く姿が映った。「社長……」大河は動きを止め、驚愕して目を見開いた。「バン——」突然、ガラスが砕ける音が響いた。紀美子が慌てて振り向くと、顔に温かく湿った感触と強烈な血の匂いがした。背後からの拘束が弱まり、紀美子は大河が目を見開いたまま倒れるのを見た。銃弾は彼のこめかみを貫通し、傷口から血が止めどなく噴き出してきた。顔が青ざめた彼女の目を覆い、悟は最速で彼女を連れてエレベーターに乗り込んだ。ロビーに座っていた二人のボディガードはすぐに追いかけようとしたが、エレベーターの扉はすぐに閉まってしまった。「美月さん、奴らは上の階へ逃げました!」ボディガードの一人が報告した。「大河が手を出さなければ、こっちも動くつもりはなかったのに。困ったわ。部屋のカーテンを閉められたら、こちらの狙いは定まらない」「強行突破しましょうか、美月さん!」 「ダメだ!部屋に爆弾を仕掛けられたかもしれない。悟が危険
「大河さんからいろいろ聞いた」紀美子は優しい口調で、悟のそばに座った。「全ての恨みを捨てて、どこかでまたやり直そう」悟は大河を一瞥し、明らかに不満げな視線を向けた。「君もついて来てくれるか?」紀美子は悟の浅褐色の、澄み切った瞳を見つめた。これほどの苦難を乗り越えたとは信じ難いほどの、純粋な眼差しであった。彼には彼の事情があるが、彼女にも許せないことがあった。悟を去るように説得することは、彼女の最大の譲歩だった。「それができないのは分かっているでしょう?晋太郎は私を探すのを諦めないわ。一生ビクビクしながら生きていきたいの?」紀美子は言った。「君がそばにいてくれれば、私はどうなっても構わない」悟はそう言いながら、紀美子の手に触れようとした。しかし、紀美子はとっさに手を引っ込めた。悟の手は空中で止まり、数秒間硬直した後、静かに下ろされた。「紀美子、もうこれ以上言わなくていい。君がここに少しでも長くいてくれるだけで十分だ」悟は紀美子に言った。「そして大河、お前の気持ちは分かるが、彼女を脅す必要はない」大河は一瞬呆然とした。「しかし、社長……」「もうこれ以上言うな」悟は言った。「もう十分に話したはずだ。これ以上説明しても無駄だ。お前は大海と行け」大河は納得いかず、まだどう説得しようか考えていたその時、民宿の入り口から二人の男が入ってきた。大河はその二人の体格から、彼らは訓練を受けた者たちだとすぐに分かった。彼らは普段着を着ていたが、明らかに危険なオーラを帯びていた。大河は視線を紀美子に移し、いきなり彼女を掴んだ。その急な挙動に、紀美子も悟も反応できなかった。次の瞬間、大河は悟の目の前で、再び銃を紀美子のこめかみに突きつけた。「大河、紀美子を放せ!」悟の表情は一気に冷たくなった。「嫌です!」二人の男は足を止め、険しい表情で大河を見つめた。「社長、奴らが来ました。この女を人質にして逃げましょうよ!社長もこの女を連れていきたいでしょう?俺が無理やり連れていきます!」「大河!」悟は怒声を上げた。「お前、そんなことをして何の得がある?そう簡単に彼女を連れ去れるとでも思うのか?私は強要ではなく、彼女自身の意思でついて来てほしいんだ!」「社長!
大河は一歩ずつ紀美子に迫ってきた。「社長があいつらに手を出したのは仕方がなかったんだ!本当は社長だってそうしたくなかった!あの忌まわしい父親さえいなかったら、社長だって子供の頃からお前たちと同じように過ごせた!あいつに脅迫されなかったら、彼は一生消えない傷を負わされずに済んだんだ!」「社長が最も惨めだった頃のこと、お前は知らないだろうけど、俺はよく知っている!俺は社長の資料を調べ、昔の監視カメラの録画映像も観たからな。社長は毎日のように殴られ、ドブ川の汚水をぶっかけられるどころか豚や犬の餌を食わされそうになっていた。いかがわしい女を呼び寄せ、社長の体をボロボロになるまで弄んだこともあった!社長は一人でその時期を耐え抜いたんだ!あんなことをされたら、誰でもあいつらを恨むのは当然だ。」「確かに社長の手によって多くの人の命が失われた。だが彼は、正当な理由がなければ絶対に命を奪ったりしない!社長が、自分の医療技術でどれだけの人を救い、どれだけの家庭を助けてきたかわかってるのか?俺と外にいる運転手の大海も、社長の助けがあってここまで来られたんだ!社長は資金援助だけでなく、生きる希望を与え、病気を治し、薬を提供してくれた!あんな素晴らしい人間に、なぜ世界はこんなにも不公平なんだ?」大河が怒りに震えながら吐き出した言葉を聞いて、紀美子は完全に呆然とした。彼の話からすると、悟に関してまだまだ知らないことがたくさんあるらしい。いや、知らなかったわけではない!聞いていたとしても、自分の同情を引くための嘘だと思い込んでいたのだろう。本人が話すのと、他人から聞かされるのとでは全く印象が違う。「悟に話がしたいと伝えてくれる?できるだけ早く、彼を説得してみるから」「お前のような女、何を考えてるかわかったもんじゃない!」大河は紀美子の話を遮り、いきなり彼女の襟首をつかんだ。彼は紀美子を拘束しながら、拳銃を彼女のこめかみに突きつけた。紀美子は全身が硬直したが、それでも冷静さを保ち、交渉を続けようとした。「私を殺したら、悟があんたを許すと思う?」落ち着いて話すのは通じない。紀美子は強気に出るしかなかった。「怒られるのはわかってる。俺は殺されても構わない。社長の命さえ救えればそれでいい!」「私が死んで、彼は一人で生きようとすると思
悟の部屋を出て、大河はしばらく躊躇ってからエレベーターに乗り込んだ。三階に着くと、彼は紀美子の部屋の前へと歩み寄った。「お前一人で来たのか?社長は?」佳世子を見張っていた大海は不審そうに尋ねた。「社長に内緒で来た」そう言って、大河は殺意に満ちた視線を紀美子の部屋のドアに向けた。「お前、何をする気だ?」大河の視線に気づいた大海は尋ねた。「この女さえいなければ、社長はきっと俺たちと一緒に逃げてくれる!」大河は歯を食いしばって言った。「大海、お前は社長が命を落とすのをただ見てるつもりか?こんな女のせいでよ!」「どういう意味だ?」大河は今の状況を説明した。「どんな事情があろうと、社長の命令なしでは彼女に手を出してはならん!彼女はお前に何の恨みもないだろ!」「恨みがないだと?」大河は問い詰めた。「もし社長が本当に行かなかったら、社長の言う通りに俺達だけで逃げるのか?」大海は黙り込んだ。「いや……社長は俺の家族を六年も面倒見てくれた。この恩は命をかけても返しきれない」「だから社長を連れて逃げないと、俺たち全員がこの女のせいで殺されるんだ!」大河は警告した。「たとえそうだとしても、彼女を殺しちゃいけない。彼女は社長が最も愛した女だ。もし殺したら、社長はどうなる?」大海は依然として反対した。「時間が全てを癒やしてくれるはずだ!」大河は言い放った。「俺は、たとえ社長に恨まれ、殺されても構わない!」そう言い残すと、大河はドアを押し開け紀美子の部屋に入った。その時、背後からドアが開く音がした。二人の会話を聞いていた佳世子が、我慢できずに部屋から出てきたのだ。「部屋に戻れ!」大海は慌てて振り返り、彼女を遮った。「紀美子に手を出すなんて、許さないわよ!」佳世子は焦って横を見ながら叫んだ。「紀美子!早く逃げて!この二人があんたを殺そうとしてるわ!!紀美子!!」佳世子は身を乗り出しながら叫び続けた。部屋の中では、紀美子が驚いた様子で入ってきた男を見つめた。そして外から聞こえる佳世子の叫び声に耳を澄ませた。大河が速足で近づいてくるのを見て、紀美子はすぐに布団を蹴り飛ばし、ベッドの反対側に立った。「何をする気?」彼女は警戒しながら大河に問いかけた
「お父さん、悟の車の位置がわかった!前僕たちが泊まってたホテルだ!」晋太郎は早急に電話を切り上げ、立ち上がって佑樹の元へ駆け寄り、パソコンの画面を見た。確かに、以前宿泊していたホテルだ。「悟ってやつは本当に計算高い。父さんが監視役を引き上げた途端、そこを選んぶだなんて。父さんをバカにしてるの?それとも、父さんがそこを狙わないと踏んだのか?」「今はそんなことを言っている場合じゃない。すぐに人を送って状況を確認させる」晋太郎は美月の携帯に電話をかけた。「森川社長、何かご指示ですか?」美月はすぐに応答した。「前の民宿だ。佑樹が悟の車の場所を突き止めた」美月は佑樹がこんなに早く手がかりを見つけ出したことに驚いた。彼女は携帯を持ちながら、隣でまだコードを打ち続ける技術者たちに目をやった。こいつら、子供二人にも及ばないのね!口元を少し歪ませながら、美月は心の中でそう思った。「わかりました、すぐ偵察班を向かわせます」電話を切ると、晋太郎もテーブルの上の車の鍵を手に取った。「父さんも行くの?」佑樹が声をかけた。「母さんが悟の手中にいるんだ。ここに座っていられない」晋太郎は頷いた。「俺も行く!」晴は慌てて立ち上がり、晋太郎の側へ歩み寄った。「佳世子は抑えられてるし、俺もじっとしていられない」「分かった」晋太郎は佑樹を見た。「お前と念江はここで大人しく待っていろ。何かあったらすぐに電話しろ。ボディガードも外で待機させておく」「わかった。父さん、必ず母さんと佳世子おばさんを助けてきて!」今回の民宿への移動では、晋太郎は多数のボディガードを分散させて配置した。しかし、どれだけ慎重に行動しても、大河の監視網から逃れることはできなかった。ホテル。大河は再び悟のもとへ駆けつけた。「社長、もうここはバレています!晋太郎の手下がすでに向かってきています!」しかし、座って茶を飲んでいた悟は、大河の言葉にも大して動揺を見せなかった。「彼女が行きたがらない」声は淡々としていたが、悟の心は万本の針で刺されるように痛み苦しくなっていた。「社長!命あっての復讐です!女なんかより、自分の命の方が大事じゃないんですか!」「大河、行くならお前と大海だけで行け。もう私のことを構うな
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪