佳世子は紀美子の手をしっかり握りしめながら言った。「1月1日に結婚式なのに、どうしてあなたは何も焦ってないの?晴の話だと、晋太郎は結婚の準備でてんてこ舞いらしいわよ。新婦としてもっと気合い入れなきゃ!」「本当に、やる気がないわけじゃないの」紀美子はため息をついた。「ただ疲れてるのよ。会社の仕事も山積みだし、こっちも色々あるし」佳世子は紀美子の手を離した。「紀美子、会社のことは私がいるでしょ?最初からあなたには自分のことに集中してって言ってたじゃない。婚約式は大雨で流れちゃったけど、結婚式はしっかり準備しなきゃ」紀美子は一瞬言葉に詰まり、黙ってしまった。彼女はそこまで急ぐ必要はないと思っていた。式の一週間前からドレスを試しに行っても十分間に合うくらいに。どうして佳世子の方が自分より焦っているのだろう。「あと2日待って。約束するわ。その時は絶対に逃げないから」「紀美子、まだ怖がってるの?」佳世子は我慢できずに聞いた。「一体何が怖いの?」「怖くないわ」紀美子は軽くため息をついた。「ただ本当に疲れてるの。毎日寝足りない感じ」佳世子は眉をひそめた。「寝足りない?」紀美子がソファに座って頷いた。「ええ、最近ずっとこんな調子で元気が出ないの。家に帰ればベッドに倒れ込むようにして寝ちゃう」佳世子の疑いの表情は、次第に喜びに変わっていった。彼女は興奮して紀美子のそばにしゃがみ込み、目を輝かせて聞いた。「紀美子、最近食欲はどう?」紀美子は真剣に考えてから答えた。「いつもより少し多いかも。食欲は問題ないわ」「吐き気は?」佳世子がさらに追及した。「ないわ」紀美子は首を振った。「吐き気があったら食べられないでしょ。どうしてそんなこと聞くの?」佳世子は紀美子の手を掴み、入口の方へ引っ張っていった。「紀美子、ちょっとついてきなさい!」「えっ、ちょ、どこ行くのよ!?」紀美子は困惑しながらもついていった。15分後、紀美子は佳世子に病院の前に連れてこられた。紀美子は病院を見渡しながら、佳世子に疑問の目を向けた。「ここに来てどうするの?私、別に病気じゃないのに」「縁起でもないこと言わないでよ!」佳世子はシートベルトを外しながらピシャリと口を挟んだ
紀美子は苦笑いしてなだめた。「どうしてあなたまで佳世子みたいに焦ってるの?」晋太郎は軽く咳払いした。「式まであと半月だ。早めに試着しておけば、気に入らない部分の修正も間に合うだろう」紀美子は佳世子が消えていった方向を見ながら、ゆったりとした口調で言った。「私は特にこだわりがないの。本当に気に入るドレスがなければ、自分でデザインしてもいいし」ちょうどその時、真顔の佳世子が廊下の角から現れた。その表情を見て、紀美子の胸が「ギュッ」と締めつけられるのを感じた。もしかして、検査で何か悪い結果が出たのか?携帯からは何か晋太郎の声が聞こえていたが、もう紀美子の耳には入っていなかった。佳世子が目の前に立つと、紀美子は無意識的に携帯を下ろした。「佳世子?検査結果はどうだった?」紀美子は不安そうに尋ねた。「私の体に何か問題でも?」電話の向こうの晋太郎の声がぴたりと止まった。紀美子の言葉を聞いて、彼は一瞬胸が苦しくなった。「何があったんだ?」晋太郎は電話で聞いたが答えはなく、佳世子と紀美子の会話が聞こえてきた。「紀美子」佳世子は深刻そうに言った。「あなたの体に、何かが増えているのよ」何か?晋太郎は急いで書類を置き、その顔は徐々に深刻に変わっていった。紀美子の表情も晋太郎と同様で、緊張して唾を飲み込みながら聞いた。「深刻なの?」佳世子は深く息を吐いた。「ええ、とても深刻よ。一生影響するわ。これから会社には行けなくなる。しっかり養生しなきゃ」紀美子は急いで電話を置き立ち上がった。「検査結果を見せて」「紀美子」佳世子は検査結果を渡さず、依然として真剣な表情で言った。「よく聞いて。この何かはね、どんどん大きくなっていって、最後には取り出さなきゃいけないの。そして何より、これが大きくなる過程で、あなたはしっかり食べて、よく飲んで、たっぷり眠らないといけないのよ」紀美子は何かがおかしいと感じ始めた。悪いものなら早く取り除けばいいじゃないのか?なんだか、おかしい……紀美子はじっと佳世子を見つめながら、疑いの色を浮かべた。「……佳世子、まさか私をからかってる?」佳世子はこらえきれずに唇の端を震わせた。その様子を見て、紀美子はわざと厳しい口調で言った。
「準備なんてしてないうちに子供授かる人なんて山ほどいるわよ」佳世子は紀美子を診察室へ引っ張っていきながら続けた。「せっかく来たんだから、嬉しい気持ちで迎えましょう。変な考えは持たないでよね。約束通りこの子は私が引き取るんだから。もし守らなかったら、許さないわよ……」その頃、まだ携帯を耳に当てていた晋太郎は、二人の声がだんだん遠のいていくのを感じた。晋太郎は眉をひそめた。紀美子は電話の存在を忘れたのか?彼はすぐに佳世子に電話をかけたが、何度かけても出なかった。顔を曇らせた晋太郎は、オフィスを飛び出そうとした。ちょうど上着を羽織った瞬間、晴がドアを開けて入ってきた。「晋太郎、どこ行くんだ?」「病院だ」晋太郎は、晴の横をすり抜けるようにして答えた。「病院?」晴は怪訝そうな顔をした。「どうした?体調でも悪いのか?」晋太郎が速足で去っていくのを見て、晴は急いで書類を机に置き、後を追った。駐車場。晴は慌てて助手席に飛び乗った。晋太郎が自分を置いて行ってしまうと思ったからだ。ドアを閉めると、彼は息を切らしながら詰め寄った。「おい、そんなに急いでどうしたんだ?」晋太郎は片手でハンドルを握りながら言った。「紀美子が妊娠したんだ」「ああ、妊娠か」晴は、一瞬きょとんとした。晋太郎がふと彼を見た。その視線には、あきれ果てた色が濃くにじんでいた。「聞こえなかったのか?」「え?何が?」「紀美子が妊娠したんだ!」晋太郎は笑いながら言い放った。今度ははっきり聞こえた晴は目を見開いた。「紀美子が?!また妊娠したって?!」晋太郎の口元が緩み、目にも喜びが浮かんだ。ちょうど口を開こうとした時、晴が興奮して叫んだ。「すげえな晋太郎!お前やることは早いんだな。よかった!この子は俺と佳世子が育てるからな。絶対ぷくぷくに育ててやる!晋太郎、マジ嬉しい!俺、父親になれるぞ!!」晋太郎の笑みが一瞬で消えた。「父親になれる」ってどういう意味だ?晋太郎は顔を真っ青にしながら聞き返した。「俺の子供とお前に何の関係が?」「はぁ?」晴は不満そうに彼を見た。「前から俺と佳世子に養子にくれるって約束してただろ?」晋太郎は冷ややかに笑った。「紀美子が約束した
「……お前、いい加減にしろ」晋太郎は鋭い視線を投げかけた。「紀美子の物忘れがひどくなって、お前に何の得がある?この子の名付け親になると張り切ってたんじゃなかったのか?」晴はハッと我に返った。「そうだった!紀美子には元気でいてもらわないと!」そう言うと、晴は慌てて携帯を取り出し佳世子に電話をかけた。その頃。紀美子は佳世子にショッピングモールへ連れてこられていた。お腹の子がまだ形にもなっていないのに、佳世子はもうベビー用品の爆買いモードに入っていた。カートに山積みになった品々を見て、紀美子は苦笑いしながら言った。「子供がまだ生まれてもいないのに、今からこんなに買い込んでどうするの?」「買って眺めてるだけで幸せなの!」佳世子は有頂天になっていた。「とにかく家は広いんだから、ベビー用品専用の部屋を一つ用意すればいいじゃない!」佳世子のそんな様子を見て、紀美子は好きにさせておくことにした。選び終わってレジに向かう途中、佳世子は携帯を取り出すと晴からの着信履歴が数十件あるのに気づいた。一瞬呆然とした後、佳世子は折り返し電話をかけた。ワンコールで晴が電話に出た。「佳世子!どこにいるんだ?俺の息子は!?」「ちょっと待って!」佳世子は驚いた様子で聞き返した。「誰の息子よ?」「紀美子が妊娠したんだろ?俺たちが前から予約してた未来の息子だよ!二人とも俺の息子をどこに連れていった!?」「はあ!」佳世子はカウンターに寄りかかって言った。「誰が息子だなんて言った?女の子かもしれないでしょ?」「女の子でもいい、息子でもいい!どっちもウェルカムだ!」晴は言った。「とにかく今どこにいるんだ?俺と晋太郎がそっち行くから!まったく紀美子ったら、どうして晋太郎と電話してる最中に携帯を置き忘れるかな?病院中を探し回ったんだぞ」佳世子は振り返り、椅子で眠くて目を開けていられない様子の紀美子を見て言った。「位置情報送るから、まずは来て」「了解」電話を切ると、佳世子は急いで会計を済ませた。そして袋を抱えて紀美子のもとに戻り、隣に座って言った。「紀美子、晋太郎と晴が迎えに来るわよ」しかし紀美子は眠くてたまらず、佳世子の言葉などほとんど耳に入っていないようだった。佳世子は思わ
帝都、サキュバスクラブ。その日は入江紀美子(いりえ きみこ)が名門大学を卒業する日だった。しかし、彼女はまだ家に帰って祝うこともできなかった。薬を飲まされ、実の父親に200万円の値段で、クラブの汚らしい中年男たちに売られたのだ。暗い個室から何とか逃げ出したものの、薬の効果が彼女の理性を次第に奪っていった。廊下では、赤みを帯びた彼女の小さな顔が、怯えた目で迫ってくる男たちを見据えていた。「来ないで、警察を呼ぶから……」先頭に立つ男が口を開き、黄ばんだ歯を見せながら、手に持っている鞭を揺らしながら近づいてきた。「いいぜ、好きなだけ呼んでみろ。警察が来るのが早いか、俺たちがてめぇをぶち壊すのが早いかだな!」「べっぴんさんよ、心配するな、兄さんたちがたっぷり楽しませてやるからな……」紀美子は耳鳴りがし始めた。彼女は父が救いようのないろくでなしだと知っていた。大学に通っていたこの数年、彼女はずっとアルバイトで稼いだお金で生活していて、父からは一銭も貰わなかった。それなのに、まさか父が今、ギャンブルの借金を返す為に娘を人に売ろうとしているとは!紀美子は逃げ出そうとしたが、足の感覚はなくなり、力が抜けていた。床に倒れ込んだ彼女の前で、その男たちはまるで獲物を物色するような目で彼女を見下ろしていた。ちょうどその時、彼女の左前の部屋のドアが開かれた。黒い手作りの革靴が、彼女の視界に映り込んだ。見上げると、そこには男が立っていた。その男の真っ黒な瞳は冴え切った湖の如く、まるで魂を吸い取るような冷たさをしていた。男を見て、彼女は少し安心した。彼女は男のズボンの裾を引っ張り、「お願い、助けて!この人たちに薬を飲まされたの!」と泣きながら助けを乞うた。男は眉を寄せ、冷たい視線で彼女を掠め、一瞬不快感を見せた。彼は身体を屈め、手を伸ばした。「ありがとう……」紀美子は安心して手を伸ばそうとした。てっきり彼が自分を支えてくれると思った。しかしその時、男は彼女の手を振り払い、自分のズボンを握っているもう一本の彼女の手を冷たく払った。MKグループの世界トップ企業の社長である森川晋太郎(もりかわ しんたろう)にとって、同情心という言葉は無縁だった。「晋様!」彼の後ろに立つアシスタントの杉本肇(
紀美子は当然、信じられなかった。学生時代、耳たぶのホクロが「特別だ」と友達から褒められたことはあるけど。たかがホクロのために、MKの社長が月200万円で雇ってくれるのか?自分がおかしいのか、それとも彼がおかしいのか。そんな考えを巡らせている間に、晋太郎はもう立ち上がっていた。彼がゆっくりとシャツのボタンを締める様子からは凛とした雰囲気を発していた。「俺は人に無理を強いるつもりはない。よく考えろ。」言い終わると、彼はその場を離れた。扉の前では、アシスタントの肇が待っていた。晋太郎の目の下の腫れを見て、彼は驚きで目を見開いた。まさか、これまで童貞をなによりも大事にしていた晋様が、初体験を奪われるとは。しかもかなり激しい戦況だったように見える。我に返った肇は、慌てて晋太郎に告げた。「晋様、手に入れた情報をあなたの携帯に送信しました。この入江さんは晋様がお探ししている人ではないようですが、追い払いましょうか?」「いいや、資料は読んだ。彼女の学校での履歴は完璧だ。何よりも俺は彼女に反感を持っていない、そして秘書室は今能力のある人間を必要としている。もし彼女が三日以内にMKに現れたら、すぐに入社手続きをしてやれ」「もし現れなかったら?」肇は恐る恐ると追って聞いた。「ならば彼女の好きにさせろ」晋太郎はあまり考えずに答えた。……三年後、MK社長室紀美子はタブレットを持ち、真面目に晋太郎にスケジュールを報告していた。「社長、午前十時にトップの会議がありまして、十二時にエンパイアズプライドの社長と会食、午後四時に政治界の方々との宴会があります…」彼女の声は落ち着いていたが、その唇が動くたび、無意識に誘惑的な雰囲気を醸し出していた。化粧をしていない小さな顔は、それでも艶やかで目を引く美しさだった。晋太郎は目の前の資料から視線を上げると、その細長い瞳に一瞬、炎のような情熱を宿した。彼の喉仏が上下に動き、その視線は紀美子に絡みつくようだった。やがて彼は書類を机に置き、長い指でネクタイを不機嫌そうに引っ張った。「こっちにこい」晋太郎は紀美子に命令した。紀美子は呆然と頭を上げ、晋太郎の幽邃な目線に触れた瞬間、自分が次に何をすべきかすぐに悟った。彼女はタブレッ
「中はどうしたの?」入江紀美子は入り口で眺めている女性同僚に尋ねた。声をかけられた女性同僚は振り返った。「入江さん。あの応募に来た女の人ね、人の作品をパクッて面接しに来たのがバレて、チーフがそのまま彼女の面接資格を取り消そうとしたんだけど、逆切れして、今事務所で暴れてるのよ」「なるほど」ことの経緯を聞いた紀美子は人事部の事務所に入った。チーフは一人の女性と激しく言い争っていた。女性の顔立ちはなかなかきれいなものだが、露出度の高いかっこうをしていた。「入江さん、ちょっと助けて、この狛村さん、人の作品を盗用して面接に来たのに、問い詰めたら逆切れしてきたのよ」チーフが紀美子を見て、助けを求めてきた。「話は聞きました。もう帰ってください。MKは不誠実な人は永遠に採用しません」紀美子は狛村をはっきりと断った。「関係ないでしょ、誰よ、あんた。私にそんな口の聞き方するなんて、あんたに不採用と判断する資格があるとでも?この会社はあんたのものじゃないでしょ?」「私が誰なのかは、あなたと関係ありません。覚えておいてください。私がこの会社にいる限り、あなたのような小賢しいまねをして入社しようとする人、永遠に採用しません」「大口を叩くじゃない」女はあざ笑いをした。「覚えておきなさい!将来私がMKに入社したら、絶対にあなたに跪いて謝ってもらうから!」「そんな日がくるといいわね!」「警備を呼んで。この狛村さんに出て行って貰うわ!」紀美子はチーフに指示した。……夜。MKで返り討ちを喰らった静恵は電話をしながらバーに入った。「安心して、絶対になんとかしてあの会社に入るから」静恵は低い声で電話の向こうに言った。そして、彼女は電話を切り、カウンターに座りバーテンダーに酒を一杯注文した。この時、ある人が彼女の隣に座り込んできた。「静恵ちゃん!」静恵は振り返って隣に来た男の顔を見た。彼は彼女がこの前酒場で知り合った飲み仲間、八瀬大樹だ。男はいわゆるブサイクの部類に入るものだった。しかし彼は裏表社会においてそれなりの背景を持っているらしく、静恵は彼と何回か夜を過ごしていた。彼女は少し驚きながら言った。「大樹さん?帰ってきたの??」「なんだ、俺を見てそんなに緊張するなんて、ま
翌日、ジャルダン・デ・ヴァグ。ここは森川晋太郎の個人別荘だ。朝六時半頃だが、入江紀美子は起きて晋太郎に朝食を用意していた。彼女は、晋太郎の愛人になった日からここに住んでいた。それからは晋太郎の生活は彼女一人で世話をするようになった。彼女は晋太郎の秘書、愛人、そして使用人でもあった。男が起床した頃、朝食は既にテーブルの上に並んでいた。晋太郎がネクタイを締めながら階段を降りてくるのをみて、紀美子はすぐ出迎えにいった。「私が締めます、社長」晋太郎は手の動きを止め、紀美子がネクタイを手に取り丁寧に結び始めた。紀美子は170センチと長身の方だ。しかし晋太郎の前ではせいぜい彼の胸の高さだった。晋太郎は目を逸らし、紀美子の体が発する香りを嗅いだ。理由もなく、彼には欲の火が灯された。「できました……」紀美子が頭を上げた途端、後頭部を男の大きな手に押えられた。彼の舌はミントの香りを帯びており、蛇のように彼女の口の中に侵入してきた。別荘の中には急に曖昧な雰囲気が漂った。2時間後。黒色のメルセデス・マイバッハがMK社のビルの前に停まった。運転手は恭順に車を降り、ドアを開けた。数秒後、晋太郎は長い脚を動かし車から降りた。オーダーメイドの黒いコートは彼の落ち着いた気質を限界まで引き出していた。その強烈なオーラはまるで神の如く、周りの人はそのプレッシャーで逃げ出したくなるほどだった。晋太郎は細長い指でネクタイを緩めながら、手に持っている資料を隣の紀美子に渡した。その瞬間、晋太郎の深い眼差しが紀美子の少し腫れた唇に少し留まった。そしていきなり手を上げ、厚みのある指腹で彼女の口元を軽く擦った。「口紅、少しはみ出ている」そう言いながら、彼は親指ではみ出た口紅を拭きとった。温もりを感じるその触感は、紀美子の瞳を強く震わせた。一瞬、彼女は、今朝彼にソファに押えられ求められたことを思い出した。晋太郎の眼底に映っている自分のとり乱れた姿を見て、紀美子は慌てて気持ちを整理した。「ありがとうございます」心臓の鼓動は乱れていたが、彼女の声は落ち着いていた。晋太郎は手を引き、口元を軽く上げ、すらっとした体を翻して会社の方へ歩き出した。紀美子は浮つく心を必死に抑えながら、タブレッ
「……お前、いい加減にしろ」晋太郎は鋭い視線を投げかけた。「紀美子の物忘れがひどくなって、お前に何の得がある?この子の名付け親になると張り切ってたんじゃなかったのか?」晴はハッと我に返った。「そうだった!紀美子には元気でいてもらわないと!」そう言うと、晴は慌てて携帯を取り出し佳世子に電話をかけた。その頃。紀美子は佳世子にショッピングモールへ連れてこられていた。お腹の子がまだ形にもなっていないのに、佳世子はもうベビー用品の爆買いモードに入っていた。カートに山積みになった品々を見て、紀美子は苦笑いしながら言った。「子供がまだ生まれてもいないのに、今からこんなに買い込んでどうするの?」「買って眺めてるだけで幸せなの!」佳世子は有頂天になっていた。「とにかく家は広いんだから、ベビー用品専用の部屋を一つ用意すればいいじゃない!」佳世子のそんな様子を見て、紀美子は好きにさせておくことにした。選び終わってレジに向かう途中、佳世子は携帯を取り出すと晴からの着信履歴が数十件あるのに気づいた。一瞬呆然とした後、佳世子は折り返し電話をかけた。ワンコールで晴が電話に出た。「佳世子!どこにいるんだ?俺の息子は!?」「ちょっと待って!」佳世子は驚いた様子で聞き返した。「誰の息子よ?」「紀美子が妊娠したんだろ?俺たちが前から予約してた未来の息子だよ!二人とも俺の息子をどこに連れていった!?」「はあ!」佳世子はカウンターに寄りかかって言った。「誰が息子だなんて言った?女の子かもしれないでしょ?」「女の子でもいい、息子でもいい!どっちもウェルカムだ!」晴は言った。「とにかく今どこにいるんだ?俺と晋太郎がそっち行くから!まったく紀美子ったら、どうして晋太郎と電話してる最中に携帯を置き忘れるかな?病院中を探し回ったんだぞ」佳世子は振り返り、椅子で眠くて目を開けていられない様子の紀美子を見て言った。「位置情報送るから、まずは来て」「了解」電話を切ると、佳世子は急いで会計を済ませた。そして袋を抱えて紀美子のもとに戻り、隣に座って言った。「紀美子、晋太郎と晴が迎えに来るわよ」しかし紀美子は眠くてたまらず、佳世子の言葉などほとんど耳に入っていないようだった。佳世子は思わ
「準備なんてしてないうちに子供授かる人なんて山ほどいるわよ」佳世子は紀美子を診察室へ引っ張っていきながら続けた。「せっかく来たんだから、嬉しい気持ちで迎えましょう。変な考えは持たないでよね。約束通りこの子は私が引き取るんだから。もし守らなかったら、許さないわよ……」その頃、まだ携帯を耳に当てていた晋太郎は、二人の声がだんだん遠のいていくのを感じた。晋太郎は眉をひそめた。紀美子は電話の存在を忘れたのか?彼はすぐに佳世子に電話をかけたが、何度かけても出なかった。顔を曇らせた晋太郎は、オフィスを飛び出そうとした。ちょうど上着を羽織った瞬間、晴がドアを開けて入ってきた。「晋太郎、どこ行くんだ?」「病院だ」晋太郎は、晴の横をすり抜けるようにして答えた。「病院?」晴は怪訝そうな顔をした。「どうした?体調でも悪いのか?」晋太郎が速足で去っていくのを見て、晴は急いで書類を机に置き、後を追った。駐車場。晴は慌てて助手席に飛び乗った。晋太郎が自分を置いて行ってしまうと思ったからだ。ドアを閉めると、彼は息を切らしながら詰め寄った。「おい、そんなに急いでどうしたんだ?」晋太郎は片手でハンドルを握りながら言った。「紀美子が妊娠したんだ」「ああ、妊娠か」晴は、一瞬きょとんとした。晋太郎がふと彼を見た。その視線には、あきれ果てた色が濃くにじんでいた。「聞こえなかったのか?」「え?何が?」「紀美子が妊娠したんだ!」晋太郎は笑いながら言い放った。今度ははっきり聞こえた晴は目を見開いた。「紀美子が?!また妊娠したって?!」晋太郎の口元が緩み、目にも喜びが浮かんだ。ちょうど口を開こうとした時、晴が興奮して叫んだ。「すげえな晋太郎!お前やることは早いんだな。よかった!この子は俺と佳世子が育てるからな。絶対ぷくぷくに育ててやる!晋太郎、マジ嬉しい!俺、父親になれるぞ!!」晋太郎の笑みが一瞬で消えた。「父親になれる」ってどういう意味だ?晋太郎は顔を真っ青にしながら聞き返した。「俺の子供とお前に何の関係が?」「はぁ?」晴は不満そうに彼を見た。「前から俺と佳世子に養子にくれるって約束してただろ?」晋太郎は冷ややかに笑った。「紀美子が約束した
紀美子は苦笑いしてなだめた。「どうしてあなたまで佳世子みたいに焦ってるの?」晋太郎は軽く咳払いした。「式まであと半月だ。早めに試着しておけば、気に入らない部分の修正も間に合うだろう」紀美子は佳世子が消えていった方向を見ながら、ゆったりとした口調で言った。「私は特にこだわりがないの。本当に気に入るドレスがなければ、自分でデザインしてもいいし」ちょうどその時、真顔の佳世子が廊下の角から現れた。その表情を見て、紀美子の胸が「ギュッ」と締めつけられるのを感じた。もしかして、検査で何か悪い結果が出たのか?携帯からは何か晋太郎の声が聞こえていたが、もう紀美子の耳には入っていなかった。佳世子が目の前に立つと、紀美子は無意識的に携帯を下ろした。「佳世子?検査結果はどうだった?」紀美子は不安そうに尋ねた。「私の体に何か問題でも?」電話の向こうの晋太郎の声がぴたりと止まった。紀美子の言葉を聞いて、彼は一瞬胸が苦しくなった。「何があったんだ?」晋太郎は電話で聞いたが答えはなく、佳世子と紀美子の会話が聞こえてきた。「紀美子」佳世子は深刻そうに言った。「あなたの体に、何かが増えているのよ」何か?晋太郎は急いで書類を置き、その顔は徐々に深刻に変わっていった。紀美子の表情も晋太郎と同様で、緊張して唾を飲み込みながら聞いた。「深刻なの?」佳世子は深く息を吐いた。「ええ、とても深刻よ。一生影響するわ。これから会社には行けなくなる。しっかり養生しなきゃ」紀美子は急いで電話を置き立ち上がった。「検査結果を見せて」「紀美子」佳世子は検査結果を渡さず、依然として真剣な表情で言った。「よく聞いて。この何かはね、どんどん大きくなっていって、最後には取り出さなきゃいけないの。そして何より、これが大きくなる過程で、あなたはしっかり食べて、よく飲んで、たっぷり眠らないといけないのよ」紀美子は何かがおかしいと感じ始めた。悪いものなら早く取り除けばいいじゃないのか?なんだか、おかしい……紀美子はじっと佳世子を見つめながら、疑いの色を浮かべた。「……佳世子、まさか私をからかってる?」佳世子はこらえきれずに唇の端を震わせた。その様子を見て、紀美子はわざと厳しい口調で言った。
佳世子は紀美子の手をしっかり握りしめながら言った。「1月1日に結婚式なのに、どうしてあなたは何も焦ってないの?晴の話だと、晋太郎は結婚の準備でてんてこ舞いらしいわよ。新婦としてもっと気合い入れなきゃ!」「本当に、やる気がないわけじゃないの」紀美子はため息をついた。「ただ疲れてるのよ。会社の仕事も山積みだし、こっちも色々あるし」佳世子は紀美子の手を離した。「紀美子、会社のことは私がいるでしょ?最初からあなたには自分のことに集中してって言ってたじゃない。婚約式は大雨で流れちゃったけど、結婚式はしっかり準備しなきゃ」紀美子は一瞬言葉に詰まり、黙ってしまった。彼女はそこまで急ぐ必要はないと思っていた。式の一週間前からドレスを試しに行っても十分間に合うくらいに。どうして佳世子の方が自分より焦っているのだろう。「あと2日待って。約束するわ。その時は絶対に逃げないから」「紀美子、まだ怖がってるの?」佳世子は我慢できずに聞いた。「一体何が怖いの?」「怖くないわ」紀美子は軽くため息をついた。「ただ本当に疲れてるの。毎日寝足りない感じ」佳世子は眉をひそめた。「寝足りない?」紀美子がソファに座って頷いた。「ええ、最近ずっとこんな調子で元気が出ないの。家に帰ればベッドに倒れ込むようにして寝ちゃう」佳世子の疑いの表情は、次第に喜びに変わっていった。彼女は興奮して紀美子のそばにしゃがみ込み、目を輝かせて聞いた。「紀美子、最近食欲はどう?」紀美子は真剣に考えてから答えた。「いつもより少し多いかも。食欲は問題ないわ」「吐き気は?」佳世子がさらに追及した。「ないわ」紀美子は首を振った。「吐き気があったら食べられないでしょ。どうしてそんなこと聞くの?」佳世子は紀美子の手を掴み、入口の方へ引っ張っていった。「紀美子、ちょっとついてきなさい!」「えっ、ちょ、どこ行くのよ!?」紀美子は困惑しながらもついていった。15分後、紀美子は佳世子に病院の前に連れてこられた。紀美子は病院を見渡しながら、佳世子に疑問の目を向けた。「ここに来てどうするの?私、別に病気じゃないのに」「縁起でもないこと言わないでよ!」佳世子はシートベルトを外しながらピシャリと口を挟んだ
その言葉を聞いて、紀美子は今夜の目的をようやく理解した。彼女は慌てて顔を上げ、母と娘を見た。ゆみは彼女たちが話している間に、お香とろうそくを用意していた。ゆみは小さなノートとお札を手に取った。ノートに書かれた文字は紀美子にも読めるが、意味はわからなかった。「おばあちゃん、今日はゆみが送ってあげるね」ゆみはお札を二本の指で挟み、ゆっくりと深く息を吸い込むと、紗月に向かって言った。そして、彼女は小さな唇を動かし、呪文を唱え始めた。最初は何の変化もなかったが、次第に紗月の姿が薄くなっていった。それを見て、紀美子の胸には強い未練が沸き上がった。実の母親が、今夜を最後に二度と会えなくなる――「お母さん……」紀美子の目頭が次第に赤くなり、声を漏らした。紗月は振り向き、紀美子と瓜二つの瞳に切なさと哀しみが浮かばせた。「紀美子、お母さんは信じてる。あなたがきっとお母さんの分まで幸せに生きてくれるって。さようなら、紀美子……」別れを惜しむ表情の中から、紗月は無理に笑みを作り、別れを告げた。そして、紗月の声が消えると同時に、その儚い姿も紀美子の眼前から消えていった。紀美子は咄嗟に立ち上がり、反射的に紗月を掴もうとした。しかし、手にしたのは空気だけだった――涙が静かに彼女の頬を伝った。儀式を終えたゆみの表情は疲労困憊だった。「お母さん、安心して。おばあちゃんは安らかに旅立ったよ」ゆみはよろよろと歩き、紀美子の手を握った。「お母さん、ゆみ、眠い……」そう言うと、大きなあくびをした。力の抜けた声を聞き、紀美子は慌ててゆみを見下ろした。声をかける前に、ゆみはぱたりと目を閉じ、ぐったりと倒れこんだ。「ゆみ!」紀美子は慌てて娘を抱きかかえた。ゆみの呼吸は穏やかだが、目を覚まさない。紀美子は恐怖に駆られ、ゆみを抱いて部屋から飛び出した。廊下では、晋太郎と翔太、舞桜が沈黙したまま立っていた。紀美子がゆみを抱いて現れると、三人は驚いた視線を向けた。「早く、小林さんに電話して!ゆみが突然眠り込んで起きないの」紀美子は晋太郎に訴えた。晋太郎はすぐに小林に電話をかけた。紗月の件については誰も触れず、全員子供に集中していた。「術の影響で正常な反応だ。寝かせておけば大
晋太郎の存在が勇気を与えてくれたのか、紀美子は深く息を吸い、紗月の前に歩み出た。「大きくなったわね。あっという間に、それぞれの居場所を見つけて、立派よ」紗月は二人の顔を見て、感慨深げに言った。翔太の目からは涙が溢れ、声を詰まらせた。紀美子と晋太郎、そして舞桜は、翔太がこんな風に泣くのを初めて見た。「紀美子」紗月は紀美子の手を握った。「お母さんのそばに座って」紀美子はぎこちなく頷き、緊張しながら母の隣に座った。「まだ慣れてないんだね」紗月は紀美子を見つめ、微笑んだ。「やっぱりお母さんに恨みがあるの?」母の問いに、紀美子は唇を固く結んだまま目を伏せた。「違う!恨んだことは、一度もない」紀美子は慌てて否定し、彼女を見上げた。「お母さんが悪かったわ。お父さんを探すために、まだ幼いあなたたちを置いて行っちゃうなんて」紀美子はしばらく黙り込んだ。その話題にはすぐには返事ができなかった。かつて自分も、晋太郎がもうこの世にいないと思い、彼について行こうとしていたからだ。同じように、母を責める資格はなかった。「あなたたちが幸せに暮らしているのを見て、お母さんの心のわだかまりもようやく解けたの。羨ましいわ。誰にも反対されずに好きな人と一緒になれるなんて。お母さんとお父さんとは違ったわ。誰からも祝福されず、こんな結末を迎えてしまった」紗月はそう言いながら晋太郎と舞桜を見上げた。「母さん、どうして俺たちのことを知ってるんだ?」翔太は顔の涙を拭いて尋ねた。「お母さんは今、多くのことがわかるの。陰陽に耳はあるからね」紗月は話を続けた。「お母さんがゆみに頼んで別れを告げに来たのも、あなたたちの婚約のことを聞いたからよ。あなたたちに頼れる人がいて、大切に守られているのを見れて、お母さんはもうこの世に未練はないわ」そして紗月は紀美子を見つめた。「皆、ちょっと席を外してくれる?紀美子と二人で話したい」紀美子の心は締め付けられた。せっかく実の母がすぐ隣にいるのに、もうすでにこの世にいない存在なのだ。二人きりで話すのは、恐くないと言えば嘘になる。翔太は頷き、舞桜と晋太郎を連れて部屋を出た。「ゆみちゃんは残ってちょうだい。じゃないと紀美子が一人で怖がっちゃうから」ゆみも立ち
晋太郎が部屋に入ると、翔太と二人で話し始めた。ゆみは壁の時計をじっと見つめ、10時になった途端にソファから飛び降りた。誰にも気づかれないように、こっそりと二階へ上がった。階段の角を曲がると、白いパジャマのようなロングドレスを着た女性が目の前に座っていた。その長い巻き髪は腰まで垂れており、まるで滝のようだった。女性の顔立ちは紀美子とそっくりだったが、紀美子よりもさらに優しげな雰囲気を漂わせていた。ゆみを見ると女性は背筋を伸ばし、美しい目を細めて微笑んだ。「ゆみちゃん、また会えたね」紗月の優しい声は、細い泉の流れのように心を落ち着かせた。ゆみは笑みを浮かべながら床に座り、「お婆ちゃん」と呼んだ。紗月はゆみの頬に触れたかったが、自分にはそれができないことを知っていた。「ごめんね、お婆ちゃん、抱いてあげたいけど、できないの」紗月の目に一抹の寂しさが浮かんだ。「大丈夫」ゆみは答えた。「お婆ちゃん、お母さんやおじさんたちを連れてきてもいい?」「あなたが何をしたいか、お婆ちゃんはわかってるわ。大丈夫よ」紗月は笑って言った。「もう行くと決めたから、ちゃんと別れを告げないとね……」そう言いながら、紗月は階段の隙間から紀美子と翔太を見た。「お婆ちゃん、今回来たのは、相談したいことがあるからなの」ゆみは単刀直入に言った。「紀美子と晋太郎が結婚する話でしょ?」紗月は視線を戻し、優しく笑った。「どうしてそれを知ってるの?」ゆみは驚いて祖母を見た。「お婆ちゃんは何でも知っているよ」紗月は言った。「晋太郎はいい子だ。紀美子にも優しいし。お婆ちゃんは安心して娘を彼に託せるわ」「でもお婆ちゃん。お母さんは今、お父さんと結婚したくないみたい」ゆみは憂鬱そうに言った。「小林おじいちゃんはお婆ちゃんが手伝えるって言ってたけど、お母さんがお婆ちゃんの話を聞いてくれるかわからない」「きっと聞いてくれるわ。もう時間も遅いから、早くみんなを呼んできて」紗月がゆみの心配そうな顔を見つめるその表情には、優しさが満ちていた。「うん、今すぐ行く!」ゆみは急いで立ち上がった。リビングに戻ると、紀美子はゆみを探していた。「ゆみ、トイレにでも行ってたの?」階段の方からゆみが走っ
紀美子は食卓に置いたスマホをちらりと眺めたが、まだ晋太郎からの返信はなかった。「わからない。多分仕事が忙しいんでしょうね」紀美子は首を振った。「夜中までまだ時間あるし、もう少し待ってみよう」舞桜は腕時計を見て言った。紀美子と舞桜は一緒にキッチンで皿を洗い、翔太はゆみを抱いてリビングで話していた。「ゆみ、ここはどう?綺麗で居心地いいだろう?」翔太は温かい眼差しで別荘を見回しながら尋ねた。ゆみの視線は2階に向かった。「おじさん、本当の話、聞きたい?」しばらくして、ゆみは翔太に聞き返した。「なんだ?」翔太はゆみの小さな鼻を優しくつまみながら答えた。「この家、綺麗だけど、居心地は良くない。陰気が強すぎる。長い間誰も住んでない上に、お婆ちゃんがここで自殺したんだよね。供養もされてないし。陰気が全部2階に集まっていて、悪寒がするわ」ゆみの表情は徐々に真剣になった。翔太の表情が次第に引き締まった。ゆみが今回戻ってきた理由は紀美子から聞いていた。母さんが……まだこの屋敷から離れていなかったのか?「ゆみ、お婆ちゃんは……今ここにいるのか?」翔太の鼻の奥がつんと痛んだ。「ずっといるよ」ゆみは答えた。「ただおじさんには見えないだけ。お婆ちゃんは亡くなった日からずっとここにいる」「今夜、会えるかな?」翔太は喉を詰まらせた。「おじさんが会いたいかどうかじゃなくて、お婆ちゃんが会ってくれるかどうかだよ」ゆみは訂正した。翔太の目には苦痛の色が浮かんだ。母はこれまで夢にも出てきたことがなく、この別荘には何回も来ていたが、一度も会えなかった。今回、母は会ってくれるだろうか?一目でも、一言でも。「おじさん、大丈夫」翔太の赤くなった目を見て、ゆみは彼の胸に飛び込み慰めた。「ん?」「お婆ちゃんがゆみに頼んできたってことは、もうここにいたくないからだと思うよ。だからここを離れる前に、おじさんとお母さんに必ず会いに来る」「お婆ちゃんは俺たちに会いに来てくれるのか?」翔太は興味深そうに尋ねた。「会いたくなくたって、ゆみには見えてるよ」そう言いながら、ゆみは2階の角を眺めた。暗闇の中、かすかに揺れるスカートの裾が見えていた。今に見えたわけではなく、入ってき
「お父さん、どうして知ってるの?」ゆみは目を大きく見開いた。「小林さんと君がさっき言ってたことを合わせると、だいたい想像はつく」小林はまだ可能性があると言ったが、紀美子の母親では効果があまり期待できないかもしれないと言った。紀美子と母の紗月は会ったことがなく、二人はDNAレベルでしか繋がりはなかった。そのため、晋太郎はあまり期待していなかった。「お父さん、小林おじいちゃんを信じて。おじいちゃんがそう言うなら、きっと理由があるんだよ。ね?」ゆみは小さな手で晋太郎の指を掴んだ。必死に自分を喜ばせようとする娘の姿を見て、晋太郎は思わず口元を緩めた。「わかった。ゆみの言うとおりにしよう」翌日。紀美子は早々にゆみを連れて葬儀用品店へ行き、今夜必要なものを買い揃えた。買い物を終えると、紀美子はゆみを連れてデパートへ向かった。最近気温が下がり始め、小林のいる場所はさらに寒いため、紀美子は午前中ずっとゆみの防寒着を選んだ。一方、MKでは。晋太郎と晴はオフィスでプロポーズの作戦を練っていた。「頼むよ!一緒にプロポーズしよう、な?なんなら会場を二つに分けて、お前はお前の、俺は俺のプロポーズをする。お前が側にいてくれれば、勇気が出るんだ!」晴は泣きそうな顔で晋太郎に頼み込んだ。「勇気がないならプロポーズなんかやめとけ」晋太郎は怪訝そうに晴を見た。「冷たいな」晴は唇を尖らせた。「話が違うだろ?」晋太郎は不機嫌そうに言った。「結婚式まで一緒にやりたいとでも言いだすつもりか?」「その通りだ!」晴はにやっと笑った。「さすがお前、よくわかってるな!」「なぜ何でもかんでも一緒にしたがるんだ?」晋太郎は目尻をピクつかせた。「俺の母さんのこと、知ってるだろ?口では縁を切ったって言ってたけど、実はこっそりと人を遣って俺の様子を見に来てたんだ。もし結婚式の時に母さんが邪魔しに来たら、佳世子は傷つくに決まってる。でももし一緒にやれば、母さんでもお前の前では邪魔できないだろ」晴はしょんぼりと頭を下げた。「うまいこと考えてんな。でもまずは紀美子の意見を聞かないと。俺一人で決められることじゃない」晋太郎はさりげなく眉を上げた。「わかった!で、いつプロポーズするつもりなんだ?」晴