第5話

麻衣は混乱した表情で峻介を見つめた。彼女は峻介が結婚したという話を聞いたことがなかった。

「佐藤さん、私たちは長年海外に住んでいたので、国内のことには疎くて......娘とは、どういう関係なんですか？」

峻介は冷静な顔で無表情のまま言った。

「関係があったとしても、もう過去の話。今は離婚を進めているところだ」

まさか長年捧げた真心が、ただの「過去の話」で略された。

優子はもちろん怒っている。

でも心はとっくに冷え切っていた。なぜ目がくらんでクズを宝物と見間違えたのだろう。

優子はダイヤモンドの指輪の箱を取り出し、峻介の額に向かって力いっぱい投げつけた。

「このクズ男！一番後悔してるのは、あんたと出会ったことよ！明日9時に役所に来い、このクズ！」

彼の額は箱に当てられ、赤く腫れ上がった。指輪は地面に落ち、ダイヤモンドが足元に散らばる。だが、今回は優子はそれを一瞥することすらせず、踏みつけてドアを閉め、そのまま出て行った。

この二年間、優子の身には数えきれないほどの出来事が降りかかってきた。今回の出来事が決定的だった。遠くまで逃げる力も残っておらず、彼女はそのまま道端で意識を失ってしまった。

空から絶え間なく降り注ぐ雨は、まるで世界そのものが彼女に敵意を抱いているかのようだった。

もう、このまま死んでもいいと思った。

騙し騙されの世界に、もう何も未練はない。

再び目を覚ました時、彼女は見知らぬ部屋にいた。暖かい黄色の灯りが暗闇を追い払い、部屋の暖房は春のように身体を温めてくれた。

「目覚めたか？」

優子は目を開けると、悠斗の優しい目が見えた。

「先輩が、私を助けてくれたんですか？」

「ああ。仕事帰りに道端で倒れている君を見かけて、家に運んだ。服が濡れていたから、家政婦に着替えさせてもらったよ」

その瞳には、曇りひとつない純粋さが宿っていた。不安や下心といったものは、微塵も見当たらない。

「ありがとうございます、先輩」

「お粥も作っておいた。でもその前に、少し温かい水を飲んだほうがいい」

優子は布団をめくってベッドから降りようとした、「もう大丈夫です、先輩。こんな遅い時間にご迷惑はかけられません」と言った。

だが体が弱っている彼女は、足が床に触れた瞬間に崩れ落ちそうになった。悠斗はすぐに手を伸ばして支えた。

彼の体から漂う柔軟剤の香りが鼻をくすぐった。

彼女の家の柔軟剤と同じで、峻介も同じ香りをしていた。

峻介を思うと、再び心が痛んだ。

「体が弱っているんだから、もっと生きたいなら無理をしない方がいいよ」

悠斗は優しく言い添えた。

「お父さんのためにも」

優子の目には少しだけ光が戻った。

「......ではお願いしても、いいですか」

キッチンで忙しくしている彼を見ながらベッドに腰掛けていた。悠斗との関係は、深いものではなかった。大学一年のとき、優秀学生として表彰された事際に、賞状を渡してくれたのが4年生の彼で、その後の彼は病院での研修に出ていたため、学校にいる時間はほとんどなかった。

病院で彼と再会したから、こうして再び繋がった。

だからといって、彼に甘え続ける理由にはならない。

お粥を食べ、薬を飲み終えると、体はようやく少し楽になった。

悠斗は再び化学療法の話を切り出した。

「医学は進んでいる。今の君はまだ末期に進んでいない。たとえ末期でも、回復した人はたくさんいる。化学療法は非常に有効な治療方法だから、自分を信じて受けて欲しい」

優子は頭を垂れて言った。

「私も医学を学んできました。化学療法のメリットも副作用も知っています」

悠斗はさらに説得した。

「化学療法を受けてから、手術で治療できる可能性も高い。副作用は大きいけれど、信じて耐えれば......」

優子はゆっくりと顔を上げ、涙をいっぱいに湛えた目で彼を見つめ、震える声で言った。

「......でも、もう耐えられないんです」

悠斗は、慰めの言葉を飲み込んだ。赤く腫れた彼女の目を見て、胸が詰まった。

少し間を置いて、彼は尋ねた。

「優子......この世界に、大切な人はもういないのか？」

優子は少し驚いてからゆっくりと答えた。

「父です」

「それなら、お父さんのためにも、しっかり生きよう？」

優子は苦笑いして、「ありがとうございます、先輩。体の方も治ったので、そろそろ失礼します」と言った。

そのとき、悠斗は彼女の左手にあったはずの結婚指輪が消えていることに気づいた。

だが、結局何も言わなかった。

「どこに行く？送るよ」

「大丈夫です。もうタクシーを呼びましたから。すぐに来ると思います」と優子はきっぱりと断った。

悠斗は渋々うなずいたものの、内心では不安が募っていた。あの悲しそうな顔と、あの言葉。彼女が命を絶つのではないかと思い、彼女の後をそっと追いかけた

タクシーは川沿いに停まり、優子はひとりでじっと川を眺めていた。雨はすでに止んでいたが、風は依然と冷たい。

悠斗は彼女に近づこうとそのとき、一台の黒いビジネスカーが彼女の近くに止まった。

街灯の下、車から降りてきた男は、経済誌の表紙をたびたび飾る人物だった。

悠斗は驚いた。

まさかあれは、優子の夫？

風が優子の髪を揺らし、その疲れ切った姿に哀しみを一層添えていた。峻介は無意識に手を伸ばして彼女の髪を耳にかけようとしたが、すぐにその動きを抑えた。

「何か用？」

優子は冷ややかに彼を見つめ、その顔をはっきりと認識しようとしたかの様子だった。

「高橋家が破産したの、あなたのせい？」

「そうだ」

優子はきっぱりと問い、峻介も同じく答えた。

「あの子供は、あなたの息子？」と優子が次の質問を投げかけた。

これだけは想像であってほしいと、目を逸らさず問い詰める彼女は祈った。しかし峻介は否定することなく冷静に答えた。

「そうだ」

次の瞬間、優子は歩み寄り、峻介の顔に平手打ちをした。

「峻介......恥を知りなさい！」

男はあっさりと彼女の手首を掴み、頬に流れる涙を手で拭った。

「痛かったか？」

「このバカ野郎！なんでこんなことするの？高橋家は一体、何をしたのっていうの？」

長いまつげの下に宿るその瞳には、いかなる感情もなかった。。峻介の声には冷徹な冷気が含まれていた。

「真相が知りたければ、お前の父親に聞いてみろ」

彼女は嗚咽をこらえながら尋ねた。

「峻介、私のことを愛したことは......一度でもあるの？」

その目は冷たかった。そして、彼の口元が静かに動いた。

「ない。最初からお前は駒に過ぎなかった」

優子の目から次々と涙がこぼれ落ちた。それは彼の手の甲にぽたり落ちて、冷たい風に熱を連れていかれた。

「私のこと、憎んでるの？」

「そうだ。これは高橋家が俺に負った借りだ。お前は信也の娘だろう？苦しみを味わいながら生きて、妹に贖罪しろ」

「......妹さんは行方不明じゃなかったの？高橋家と何の関係が？」

峻介は彼女を見下ろし、まるで神が裁きを告げるように言った。

「お前がみんなに愛されて、穏やかに暮らしている間に、俺の妹は地獄を味わっていた。真実を教えるつもりはない、自分で調べたらどうだ？恐怖の中で生き続けろよ、優子。妹が経験してきた苦しみをお前にも味わわせるんだ」

峻介は冷たく車に乗り、「明日の9時、役所で待ってる」と言い残した。

優子はとっさに車に駆け寄り、ドアを叩き続けた。

「妹さんのこと、ちゃんと説明してよ！」

だが車はアクセルを踏み込んで走り去った。

力は行き場をなくし、彼女はそのまま倒れ込んだ。