婚約者に売られ、親友に顔を奪われた私は、二度目の人生で全てを取り戻す

婚約者に売られ、親友に顔を奪われた私は、二度目の人生で全てを取り戻す

last updateDernière mise à jour : 2026-09-14
Par:  影畑凛星Mis à jour à l'instant
Langue: Japanese
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「君を愛してる」――その言葉を信じた代償は、すべてを奪われることだった。婚約者と親友に裏切られ、詐欺と死亡事故の罪を着せられた御影綾香。逃亡を阻むため顔を傷つけられ、五年間服役した末に目にしたのは、自分そっくりの顔になった親友と婚約者の結婚式だった。会社も名前も人生も奪われ、絶望の中で命を落とした綾香は、父が亡くなる前へと回帰する。恋はもういらない。欲しいのは復讐だけ。今度はすべての真実を暴き、裏切り者たちから御影家も人生も奪い返してみせる。

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Chapitre 1

最愛からの裏切り

静かに開かれた扉から、御影綾香はゆっくりと外へ足を踏み出した。

久しぶりに見る太陽が、目に痛いほどまぶしい。

逮捕された日に着ていたワンピースは、もう季節外れだった。

五年前には肌寒かった風が、今は蒸し暑い。

(……迎えに来ていないのね)

わかっていた。

それでも、胸の奥が痛んだ。

――五年間。

婚約者である橘理央は、一度も面会に来なかった。

手紙すらなかった。

それでも綾香は、どこかで信じていたのだ。

出所したら、彼が迎えに来てくれるかもしれないと。

「……信じていたのに」

ぽつりと零れた声と共に、涙が頬を伝った。

出所の日に、母の死の真相を教えに来ると約束したのに。

◇◆◇

「美月の代わりに刑務所へ入ってくれ」

父の葬儀が終わった翌日。

理央は、何でもないことのようにそう言った。

最初は意味がわからなかった。

「……え?」

聞き返した瞬間、頬に衝撃が走った。

床へ倒れ込んだ綾香を、理央は冷たい目で見下ろしていた。

「頷くまでやめない」

何が起きているのかわからない。

混乱したまま拒絶すると、理央は本当に殴るのをやめなかった。

髪を掴まれ、何度も床へ叩きつけられる。

痛い。

怖い。

理解できない。

涙を流しながら、綾香は震える声で言った。

「どうして……」

「うるさい」

腹を蹴られ、呼吸が止まる。

「いいから頷け」

何度も暴力を受け、ついに綾香が頷くと、理央はようやく手を止めた。

そして何事もなかったように、優しく綾香を抱きしめた。

「綾香、僕を愛しているよね?」

耳元で囁く声は、昔と同じ優しい声音だった。

「彼女の代わりに五年だけ刑務所へ入って。出てきたら結婚しよう」

「彼女も君の友達だろう? 助けてあげてよ」

「美月はまだ若いんだ。前科なんてついたら人生が終わる」

その顔は、綾香が愛していた理央のままだった。

だからこそ、余計に恐ろしかった。

「嫌よ……」

綾香は震えながら首を振った。

「私は何もしてない……」

「冷たい女だな」

理央の表情が一変する。

「美月は親友じゃないのか?」

「親友よ……でも、だからって――」

最後まで言えなかった。

理央が綾香を突き飛ばしたからだ。

倒れ込んだ綾香を、今度は容赦なく踏みつける。

「やめて……痛い……!」

「うるさい! 黙って言うことを聞け!」

そこから始まったのは、地獄だった。

綾香は監禁され、繰り返し暴力を受けた。

そして、その中で真実を知らされる。

綾香が何も知らず押していた印鑑。

理央を信じて渡していた口座。

確認もせず署名していた書類。

そのすべてが、犯罪に利用されていたのだ。

理央は以前から、綾香名義の口座や電子署名を使い、御影グループの資金を特殊詐欺グループの資金洗浄へ流していた。

綾香は、ただ理央を信じていただけだった。

だが、それだけでは終わらなかった。

美月は犯罪資金の受け渡し中に事故を起こし、人を死なせていた。

その罪まで、綾香へ押しつけられたのだ。

「逃げられると思うなよ」

理央は笑っていた。

「全部、君がやったことになる」

綾香は逃げようとした。

だが捕まり、抵抗したことで顔に深い傷を負わされた。

「本当にバカな女。大人しくしていればよかったのに」

綾香の前に現れた美月は意地悪く笑って言った。

手当をしてくれるわけでもなく、綾香の傷が悪化するに任せた。

そうして刑務所へ連れていかれる頃には、綾香の顔は見る影もなく腫れ上がっていた。

「安心しろ。出所したら、お前の母親の死の真相を全部教えてやる」

「……!!」

その言葉は、綾香に希望を与えた。

絶望の中に現れた一筋の光だった。

そうして大人しくなった綾香を理央は警察官の前に引き出した。

理央は警察へは、困ったような顔で説明していた。

「逃げようとして暴れたんです。止めようとしたら……」

その姿は、誰の目にも誠実な婚約者にしか見えなかった。

◇◆◇

――そして、五年後。

荒れ果てた屋敷を後にし、綾香はふらふらと歩き続けていた。

その時、風に飛ばされた新聞が足元へ転がってくる。

何気なく拾い上げた綾香は、その見出しを見て凍りついた。

【御影家令嬢・御影綾香、橘理央とついに結婚】

「……え?」

声が掠れる。

私は、ここにいるのに。

意味がわからなかった。

混乱したまま、綾香は新聞に書かれていた式場へ向かった。

着ているのは、屋敷に残されていた古いワンピース。

向かう途中、通行人が悲鳴のような呻きを上げながら逃げて行った。

理央が、本当に自分と結婚するとは思えなかった。

五年間、一度も面会に来なかった男だ。

それでも、直接確かめずにはいられなかった。

式場の扉を開いた瞬間。

綾香は息を呑んだ。

ウェディングドレス姿で微笑む花嫁。

その顔は――綾香自身だった。

「……誰?」

けれど、その目元。

笑い方。

わずかな仕草。

間違えるはずがない。

「あんた……美月……!?」

綾香は震えながら花嫁へ近づいた。

「どうして……どうして、あなたが私の顔をしてるの!?」

花嫁は怯えたように後ずさる。

「警備を呼んで!」

誰かが叫んだ瞬間、式場が騒然となった。

次の瞬間、SPたちが綾香を取り押さえる。

「離して! 私が本物の綾香よ!」

必死に叫んでも、誰も信じない。

花嫁はヴェールを押さえながら、小さく震えていた。

「怖い……」

その姿は、完璧な被害者だった。

「違う! その女は――!」

「この醜い女を早く外へ連れ出せ。俺たちの結婚式の邪魔をするな」

最後まで言わせてもらえない。

綾香はそのまま式場の外へ引きずり出された。

重い扉が閉まる。

中から聞こえてくるのは、祝福の拍手と笑い声。

まるで、自分の存在だけが最初からなかったかのようだった。

「どうして……」

涙が溢れる。

雨が降り始めていた。

父はもういない。

会社も奪われた。

親友も婚約者も、自分を裏切っていた。

そして今、自分の顔まで奪われた。

「私……何のために生きてたの……?」

視界が滲む。

どこを歩いているのかもわからない。

足元はふらつき、呼吸も苦しい。

頭の中では、理央の言葉ばかりが繰り返されていた。

――君が御影家の娘だったからだよ。

――全部うまくいった。

――もう君の居場所なんて、どこにもない。

嫌。

嫌。

こんなの、嫌。

綾香は震える手で顔を押さえた。

崩れた肌。

残った傷。

醜く歪んだ自分の顔。

もう何も残っていない。

その時。

激しいクラクションが鳴り響いた。

「え……?」

顔を上げた瞬間、強烈なライトが視界を焼く。

大型トラックが、すぐ目の前まで迫っていた。

逃げなければ。

そう思ったのに、身体が動かない。

次の瞬間。

激しい衝撃が綾香の身体を吹き飛ばした。

世界が回転する。

何かが折れる嫌な音。

冷たいアスファルトへ叩きつけられ、口から血が溢れた。

痛い。

苦しい。

息ができない。

遠くで誰かが叫んでいる。

でも、その声も次第に遠ざかっていく。

冷たい雨が頬を打った。

空が滲んで見える。

――笑ってくれたお父様。

会いたい。

もっと話したかった。

ああ、あの男を信じなければよかった。

もし、もう一度やり直せるなら――。

綾香の意識は、深い闇へ沈んでいった。

◇◆◇

「綾香お嬢様?」

懐かしい声に、綾香はゆっくり目を開けた。

「……え?」

そこにいたのは、若い頃の橘恒一郎だった。

磨き上げられた床。

朝日が差し込む屋敷。

傷ひとつない自分の手。

「旦那様がお待ちです。理央ももう着いていますよ」

その言葉に、綾香の呼吸が止まる。

震える手でスマートフォンの日付を確認した。

父が死ぬ前の日付。

五年前。

「嘘……」

綾香は鏡へ駆け寄った。

そこに映っていたのは、傷のない自分の顔だった。

まだ、何も奪われていない。

綾香の瞳から、大粒の涙が溢れる。

やり直せる。

橘は困惑したように綾香を見つめた。

「綾香お嬢様?」

綾香は手の甲で涙を拭った。泣いている暇はなかった。

「……今すぐ、理央に会うわ」

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もう、奪わせない
橘恒一郎に促され、綾香はゆっくりと廊下を歩いていた。磨き上げられた床。窓から差し込む朝日。遠くから聞こえる使用人たちの声。すべてが懐かしい。そして同時に――恐ろしかった。(戻ってきた……)五年前へ。父がまだ生きていた頃へ。理央に裏切られる前へ。そう理解するたび、胸の奥がざわつく。あの日の記憶が、何度も脳裏によみがえった。『頷くまでやめない』殴られる音。床へ叩きつけられる衝撃。『綾香、僕を愛しているよね?』優しく囁きながら、自分を刑務所へ売った男。『いっそ、顔を壊せばいい』そう言って、暴力の限りを尽くした。綾香は無意識に、自分の腕を抱きしめた。寒い。あれほど暑かったはずなのに、体までも震えていた。「綾香?」不意に聞こえた声に、綾香の身体がびくりと跳ねた。視線を上げる。廊下の先に立っていたのは、橘理央だった。「顔色が悪いけど、大丈夫?」柔らかく微笑むその姿は、綾香の知る“優しい婚約者”そのものだった。だが今の綾香には、その笑顔が恐ろしく見えた。(気持ち悪い……)ぞわりと鳥肌が立つ。どうして自分は、こんな男を愛していたのだろう。理央が近づき、綾香の頬へ触れようと手を伸ばす。その瞬間。綾香は反射的に後ろへ下がっていた。「……綾香?」理央の目がわずかに細くなる。しまった、と綾香は思った。今はまだ、何も知らないふりをしなければならない。「ごめんなさい……少し疲れているみたい」綾香は無理やり笑みを作った。理央は数秒、綾香を見つめていた。まるで何かを探るような視線。だがすぐに、いつもの優しい顔へ戻る。「無理しないで。君は昔から頑張りすぎるから」優しい声。昔の綾香なら、それだけで安心していた。けれど今は違う。その声の裏側にある冷たさを、綾香は知ってしまっていた。「そうだ」理央が思い出したように口を開く。「今日、美月も来るんだ」「この前も君のこと心配してたよ。最近元気がないって」――ああ。そうだった。昔の美月は、いつだって“綾香を心配する親友”を演じていた。可憐で。優しくて。控えめで。誰も、彼女の本性に気づかなかった。『君みたいな顔になりたい』理央は確かにそう言っていた。『君みたいな人生が欲しいって、ずっと言ってたよ』綾香はゆっくりと爪を握りしめた。あの頃は
last updateDernière mise à jour : 2026-07-25
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婚約の延期
「私と理央の婚約は、延期してほしいの」書斎に沈黙が落ちた。父は驚いたように目を見開き、理央は綾香を見つめたまま動かない。やがて父が口を開く。「どうしたんだ、急に」「少し考えたいの」「お父様の体調も心配だし、今は結婚のことよりも、家のことを優先したいの」父は困ったように眉を寄せた。「しかし……」「僕は構いません」理央が穏やかに微笑む。「綾香の気持ちを尊重したいと思っています」また演技を始めたのか。綾香は内心、冷めた眼差しを理央に向けた。「理央……」父は感心したように頷いた。「君は本当にできた男だな」「そんなことありません」理央は謙虚に笑った。まるで前世で綾香を刑務所へ送り込んだ男とは別人のようだった。(よくそんな顔ができるわね)見ているだけで腹立たしかった。――いつか、父の前でこの男の化けの皮を剥いでやる。コンコン。扉が叩かれる。「旦那様、お薬のお時間です」橘恒一郎がワゴンを押して入ってきた。綾香は何気なく視線を向けて――小さく眉をひそめた。薬が違う。父が以前から飲んでいた白い錠剤ではない。見慣れないカプセル剤が混じっている。「あら、お薬が変わったの?」綾香が尋ねると、父も薬を見て首を傾げた。「そういえばそうだな」「先生が調整されたそうです」橘が淡々と答える。「最近は体調も安定しておりますので、少し処方が変わったと伺っております」「そうか」父は特に気にした様子もなく頷いた。綾香もそれ以上は追及しなかった。医療の知識はない。薬の名前を見ても何もわからない。だが、なぜだろう。胸の奥に小さな違和感が残った。その時だった。薬の横に置かれた皿が目に入る。そこには食べやすく切り分けられたグレープフルーツが並んでいた。「これ、懐かしいわ」父が笑う。「なんだ、そんな顔をして」「だって、お父様が昔から大好きだったでしょう?」「ああ」父は楽しそうに頷いた。「学生の頃から好きなんだ。朝食にもよく食べていたな」「そうだったわね」綾香も微笑む。「最近は出ていなかったから、少し驚いたの」確か医者から、控えるようにと指示が出ていたように記憶している。「旦那様がお好きですので」橘が自然に答える。「最近は体調が安定してきたため、医師の許可も出て、久しぶりにご用意いたしました」「そう
last updateDernière mise à jour : 2026-07-25
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こんな時間に何を?
「こんな時間に何をしているの?」理央は穏やかに微笑んでいた。だが、その目だけは笑っていない。綾香の心臓が大きく脈打つ。まるで監視されていたかのようなタイミングだった。「眠れなかったの」綾香は平然と答えた。「少し歩いていただけよ」「そう?」理央は首を傾げる。「父さんの後を追っているように見えたけど」綾香の背筋が冷えた。気づかれていた。だが表情には出さない。「恒一郎さん?」綾香は不思議そうに目を瞬かせる。「どうして私が?」理央は数秒、探るような視線で綾香を見つめていた。やがて小さく笑う。「いや、気のせいならいいんだ」その笑顔を見た瞬間、綾香は確信した。気のせいだと思っていない。この男は疑っている。「それより」理央が話題を変えた。「昼間の話だけど」婚約のことだ。綾香は内心で身構える。「延期したいと言っていたよね」「ええ」「理由を聞いても?」穏やかな声。だが断ることを許さない圧力があった。綾香は少し視線を落とした。「お父様の体調が心配なの」「それに最近、色々と変化が多すぎる気がして」「変化?」「会社のこともそう。お父様のこともそう」綾香はゆっくりと言葉を選ぶ。「何だか急に全部が動き始めた気がするの」理央の表情がわずかに固まった。「綾香」理央は優しく微笑んだ。「考えすぎだよ」その声に、前世の記憶が蘇る。『綾香、僕を愛しているよね?』『出てきたら結婚しよう』『全部教えてやる』あの男も、こんな顔で笑っていた。「そうかしら」綾香は静かに返した。「私はそうは思わないわ」理央の目が細くなる。「何か気になることでも?」「例えば、お父様のお薬とか」その瞬間。理央の動きが止まった。ほんのわずかに。本当にわずかに。「薬?」「前と変わっていたでしょう?」理央はすぐに笑顔を取り戻した。「ああ、そのことか」あまりにも早い反応だった。まるで質問されることを予想していたように。「先生が調整したらしいよ」「そう」「最近は体調も安定してるからね」理央は自然に言う。「良いことじゃないか」綾香は何も答えなかった。良いこと。本当にそうなのだろうか。前世では父は死んだ。そして御影家は奪われた。その未来を知っている今、何一つ安心できない。「ねえ、理央」綾香はふと問
last updateDernière mise à jour : 2026-07-25
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親友だと思っていた
「綾香!」白瀬美月は花が咲いたような笑顔で駆け寄ってきた。ふわりと揺れる白いワンピース。大きな瞳。守ってあげたくなるような儚い雰囲気。前世の綾香は、その姿を疑ったことなど一度もなかった。「最近、元気ないって聞いて心配してたの!」美月はそう言いながら、自然な動作で理央の隣へ立った。距離が近い。いや、“近すぎる”。理央もそれを拒まない。まるで最初からそこが、美月の居場所だったかのように。「顔色悪いよ? 大丈夫?」美月が綾香の顔を覗き込む。その瞬間。綾香の脳裏に、前世の光景が蘇った。◇◆◇「逃げようとしたから、こうなったんだよ」理央が笑いながら綾香の髪を掴む。頬に焼けるような痛みが走った。割れたガラス片。床へ飛び散る血。歪む視界。「やめて……!」綾香が泣きながら抵抗しても、理央は止まらなかった。「少し顔が傷つくくらい、大したことないだろ?」その横で、美月は怯えた顔をしていた。だが止めなかった。それどころか。「綾香お姉様、暴れたら危ないよ……」震える声でそう言いながら、どこか安心したような目をしていた。「どうせ刑務所に入るなら、顔なんて必要ないだろう」綾香の顔へ刻まれていく傷を、美月はじっと見つめていた。「ずっとあなたの人生を生きたかった」まるで。ずっと憎んでいたものが壊れていくのを見守るように。◇◆◇「……っ」綾香は反射的に一歩下がった。美月の手が空を切る。「え……?」美月がきょとんと目を丸くした。「綾香?」理央も不思議そうに綾香を見る。二人とも、まるで何も知らない顔をしている。そのことが、余計に恐ろしかった。綾香はゆっくり息を整える。怯えるな。今度は、壊される側ではない。「ごめんなさい」綾香は微笑んだ。「少し考え事をしていただけよ」「本当に?」美月が心配そうに眉を下げる。「私、綾香お姉様が元気ないと嫌だなぁ……」そう言いながら、美月は理央の袖を軽く掴んだ。甘えるような仕草。その自然さに、綾香は背筋が冷えた。前世では気づかなかった。この二人は、最初から妙に距離が近かったのだ。「そういえば!」美月が明るい声を上げる。「理央さん、さっき婚約のお話してたんですよね?」理央の目がわずかに動く。「ええ、まあ……」「いいなぁ」美月は羨ましそうに笑った。
last updateDernière mise à jour : 2026-07-25
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父の薬
翌朝。綾香は父と共に朝食を取っていた。昨夜から、薬のことが頭から離れない。本当に医師の処方なのか。それとも――。「どうした?」父が不思議そうに尋ねる。「何でもないわ」綾香は微笑んだ。食事を終えた父が薬を飲もうとした瞬間、綾香はわざとグラスへ手をぶつけた。「あっ」水がこぼれる。薬も一緒に床へ散らばった。「申し訳ありません!」橘恒一郎が慌てて駆け寄ってくる。「綾香お嬢様、お怪我は」「大丈夫よ」綾香も急いでしゃがみ込んだ。散らばった薬を拾い集める。その中から一粒だけ、誰にも気づかれないようハンカチへ包み込んだ。橘は回収した薬を確認すると、「新しいものをご用意いたします」と言って薬箱を持ち去っていく。綾香は密かに安堵した。これで調べられる。◇◆◇昼過ぎ。綾香は九条総合病院を訪れていた。御影家と長年付き合いのある総合病院。幼い頃から何度も来ている場所だ。それなのに今日は妙に落ち着かなかった。誰かに見られている気がする。昨夜からずっと。振り返っても誰もいない。けれど視線だけがまとわりついてくる。(気のせいじゃない)綾香はバッグを握り締めた。病院の受付を通り過ぎようとした時だった。「綾香?」低い声がした。綾香は振り返る。そこには白衣姿の男が立っていた。整った顔立ち。切れ長の目。感情を簡単には読ませない冷静な視線。九条遥臣。九条総合病院の院長の息子であり、自身も医師として働いている男だ。海外で研修を積んだエリートとして有名だが、愛想がなく近寄りがたいとも言われている。前世でも名前くらいは知っていた。だが、まともに話した記憶はない。「……遥臣?」「珍しいな」遥臣はカルテを抱えたまま近づいてくる。「お前が病院へ来るなんて」「少し相談があるの」「相談?」綾香は周囲を確認してから声を潜めた。「検査をお願いしたいものがあるの」遥臣の眉が僅かに動く。「検査?」「知人の猫が、誤って薬を飲んでしまったみたいなの」沈黙。遥臣は何も言わない。ただ綾香を見ている。その視線が痛かった。「猫?」「そうよ」「……その猫のために、お前が病院まで来たのか?」綾香は一瞬言葉に詰まった。自分でも苦しい言い訳だと思う。だが父の話はできない。誰を信用していいのかわからないからだ。
last updateDernière mise à jour : 2026-07-25
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疑惑の薬
「綾香」「ここにいたんだな」その瞬間、綾香の背中を冷たい汗が流れ落ちた。聞き間違えるはずがない。けれど、どうしてここにいるのだろう。病院へ来ることは、誰にも話していない。綾香は胸の鼓動を悟られないよう、小さく息を整えてから振り返った。そこには、見慣れた男が立っていた。いつもと変わらない、穏やかな笑み。「少し相談があって来ただけよ」平静を装って答える。男の視線が、ゆっくりと遥臣へ向いた。「九条先生、お久しぶりです」人当たりの良い笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。遥臣は男を一瞥しただけだった。「久しぶりだな」「綾香がお世話になっています」まるで当然のように口にされた言葉に、綾香の指先がわずかに強張った。「最近、少し眠れない日が続いているようで。心配になって様子を見に来たら、病院へ向かったと聞きまして」――誰に?綾香は誰にも行き先を告げていない。ならば、誰がこの男に知らせたのか。それとも――。最初から、綾香の行動を誰かが見ていたのだろうか。遥臣の目がわずかに細められた。「橘理央」静かに名を呼ばれ、理央は穏やかな笑みを崩さない。「なんでしょう?」「まだ診察は終わっていない」理央の笑みがわずかに止まった。「診察ですか?」「患者は帰せない」遥臣は静かに言い切った。「少し確認したいことがある」病院の空気が張り詰める。理央は数秒だけ遥臣を見つめ、それからまた穏やかな笑みを浮かべた。「失礼しました。それでは待合室で待っています」「好きにしろ」遥臣は素っ気なく答える。理央は綾香へ優しく微笑みかけた。「終わったら声をかけて」そう言い残し、待合室へ歩いていった。その姿が見えなくなると、検査室は静寂に包まれる。遥臣は小さく息を吐いた。「……続けるぞ」綾香は黙って頷く。「結果が出るまでは断定できない」遥臣は薬を透明な袋へ戻した。「ただ、この薬自体は特に珍しいものじゃない」綾香は少しだけ肩の力を抜く。「じゃあ、問題ないの?」「薬だけならな」遥臣は淡々と答えた。「飲み合わせが悪くなければ、大きな問題にはならないだろう」「飲み合わせ?」「ああ」遥臣はカルテを閉じる。「例えば有名なのはグレープフルーツだ」綾香の指先が止まった。「薬の種類によっては作用が強く出たり、副作用が出やすくなることが
last updateDernière mise à jour : 2026-07-29
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検査結果
翌朝。綾香はダイニングへ足を踏み入れた。大きな窓から朝日が差し込み、長いテーブルには朝食が整然と並べられている。父は新聞を読みながらコーヒーを口にしていた。その向かいには、橘が静かに控えている。いつもと変わらない朝。……のはずだった。綾香の視線が止まる。父の前に置かれていたのは、半分に切られたグレープフルーツだった。(やっぱり……)昨日、遥臣が口にした言葉が脳裏によみがえる。『例えば有名なのはグレープフルーツだ』もちろん、一般的な話だったのかもしれない。それでも気になってしまう。「お父様」父が新聞から顔を上げた。「どうした?」「そのグレープフルーツ、私にいただけませんか?」父は少し驚いたように目を丸くする。「珍しいな。綾香が欲しがるなんて」「今日は何となく食べたくなって」そう言うと、父は笑った。「それなら好きなだけ食べなさい」「ありがとうございます」綾香が皿を受け取ると、橘が一歩前へ出る。「旦那様」「すぐに別の果物をご用意いたします」父は軽く頷いた。「頼む」「かしこまりました」橘は何事もなかったかのように厨房へ下がる。綾香は内心で安堵した。(これでいい)考えすぎかもしれない。ただ、念のため。それだけだ。数分後。橘は新しい皿を父の前へ置いた。そこには、食べやすく切り分けられたリンゴが盛られている。「どうぞ、旦那様」「ありがとう」父は何の疑いもなくリンゴを口へ運んだ。綾香は胸をなで下ろした。(……よかった)もし昨日の話が本当なら。今日だけでも避けられた。それだけで十分だった。「綾香」父が笑う。「そんなに気に入ったなら、今度は箱で買ってこようか」「ふふっ、そこまではいりません」自然に笑い返す。その笑顔の裏で、綾香はスマートフォンが震えるのを感じた。知らない番号。昨日と同じだった。席を立ち、廊下へ出てから通話ボタンを押す。「もしもし」『九条だ』落ち着いた声が聞こえる。『検査結果が出た』綾香は思わず息を止めた。「電話では聞けませんか?」『直接話したい』短い返事だった。「……分かりました」『一人で来い』通話はそこで切れた。綾香はしばらくスマートフォンを見つめる。一人で。その言葉には、何か意味があるのだろうか。理央にも。橘にも。知られた
last updateDernière mise à jour : 2026-07-29
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管理しているのは誰?
「気になる点がある」遥臣の一言に、綾香の背筋が伸びた。「気になる点?」「ああ」遥臣は資料を閉じる。「薬そのものに問題はない」綾香は思わず息をついた。「ただ、この薬は飲み合わせによっては注意が必要になる」「昨日も話したとおりだ」「飲み合わせ……」「その猫は、血圧が高いのか?」突然の問いに、綾香は目を見開いた。「え?」「この薬は血圧の薬だからな」しまった。猫の病気までは考えていなかった。「えっと……」言葉が詰まる。「た、多分そうだと思う」「多分?」遥臣が静かに聞き返す。「知り合いに頼まれただけだから……詳しくは聞いてなくて」診察室に沈黙が流れた。やがて遥臣は小さく息をつく。「……そういうことにしておこう」その一言に、綾香の胸がざわつく。やっぱり。猫の話なんて信じていない。それでも、それ以上は聞いてこなかった。「話を戻す」遥臣は落ち着いた声で続けた。「この薬自体は珍しいものじゃない」「だが、飲み合わせには注意が必要だ」「例えばグレープフルーツ」綾香の指先がぴくりと震える。「薬によっては作用が強く出たり、副作用が出やすくなる」「だから処方するときは、避けるよう説明することが多い」今朝の朝食が頭に浮かぶ。父の前に置かれていたグレープフルーツ。『最近は毎朝出るようになって嬉しいよ』父の笑顔。そして、橘の言葉。『旦那様がお好きですので』(最近……)胸の奥がざわつく。薬が変わったのは、いつだった?グレープフルーツが毎朝並ぶようになったのは、いつから?偶然?それとも――。「もちろん」遥臣が静かに続ける。「説明を受けていて、それでも食べているなら問題ない」「だが、説明を受けていなければ話は変わる」綾香はゆっくり顔を上げた。「先生は……何か疑ってるの?」「疑っているわけじゃない」遥臣は首を横に振る。「医者は証拠もなく決めつけるべきじゃない」「ただ、気になっただけだ」綾香は黙って資料へ目を落とした。遥臣は薬を袋へ戻し、引き出しへしまう。「その猫にも、きちんと伝えておけ」「薬を飲み始めたばかりなら、説明を受けているか確認した方がいい」「……分かった」立ち上がり、診察室を出ようとした時だった。「綾香」名前を呼ばれ、足が止まる。振り返ると、遥臣が真っすぐこちらを
last updateDernière mise à jour : 2026-07-29
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変わったもの
 翌日の午後。 綾香は庭に面したテラスで本を開いていた。 心地よい風がページを揺らす。 けれど、文字は少しも頭に入ってこない。『思い込みだけで動くと、本当に大事なものを見失う』 昨日、遥臣に言われた言葉が、何度も胸の中で繰り返される。 証拠もないまま誰かを疑ってはいけない。 焦ってはいけない。 だからこそ、一つずつ確かめるしかない。「綾香」 聞き慣れた声に顔を上げると、父が庭を散歩しながらこちらへ歩いてきた。「ここにいたのか」「ええ。風が気持ちよかったから」「隣に座ってもいいかな」「もちろん」 父は穏やかに微笑み、隣へ腰を下ろした。 ほどなくして橘が紅茶を運んでくる。「ごゆっくりお過ごしくださいませ」「ありがとう」 橘は一礼すると、静かにその場を離れた。 二人きりになり、穏やかな時間が流れる。 綾香は父の顔を見つめ、ふと微笑んだ。「そういえば、お父様」「ん?」「最近、お元気そうね」「そう見えるか?」「ええ。前より顔色もいいもの」 父は少し照れくさそうに笑った。「それなら嬉しいな」 ティーカップを手に取り、一口飲む。「先生が薬を変えてくださってから、調子がいいんだ」 綾香の胸がわずかにざわつく。 薬。「そうだったの」 努めて何気ない口調で返す。「前のお薬は合わなかったの?」「いや、そういうわけじゃない」 父は首を横に振る。「定期検査のあとだったかな。先生が『こちらの方が合うでしょう』と言って変えてくださってね」「そうなのね」「もう半年前くらいになる」(半年前……) 綾香は心の中でその言葉を繰り返した。 半年前。 理央が会社の仕事を手伝い始めた頃だ。 もちろん、それだけで何かを疑うつもりはない。 ただ、時期が重なっている。 それだけだった。「それなら安心したわ」「ああ。橘も喜んでくれているよ」「橘さんが?」「健康にはずいぶん気を遣ってくれていてね」 父は嬉しそうに笑う。「果物も毎日用意してくれるし」「そういえば、最近は種類が増えたわね」「ああ」 父は何気なく頷いた。「グレープフルーツも毎朝出してくれるようになった」 綾香は静かに微笑む。「お父様、昔からお好きだったものね」「覚えていてくれたか」「もちろんよ」 父は目を細め、どこか嬉しそうに笑った。
last updateDernière mise à jour : 2026-07-29
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