Masuk「君を愛してる」――その言葉を信じた代償は、すべてを奪われることだった。婚約者と親友に裏切られ、詐欺と死亡事故の罪を着せられた御影綾香。逃亡を阻むため顔を傷つけられ、五年間服役した末に目にしたのは、自分そっくりの顔になった親友と婚約者の結婚式だった。会社も名前も人生も奪われ、絶望の中で命を落とした綾香は、父が亡くなる前へと回帰する。恋はもういらない。欲しいのは復讐だけ。今度はすべての真実を暴き、裏切り者たちから御影家も人生も奪い返してみせる。
Lihat lebih banyak静かに開かれた扉から、御影綾香はゆっくりと外へ足を踏み出した。
久しぶりに見る太陽が、目に痛いほどまぶしい。
逮捕された日に着ていたワンピースは、もう季節外れだった。
五年前には肌寒かった風が、今は蒸し暑い。(……迎えに来ていないのね)
わかっていた。
それでも、胸の奥が痛んだ。――五年間。
婚約者である橘理央は、一度も面会に来なかった。
手紙すらなかった。
それでも綾香は、どこかで信じていたのだ。
出所したら、彼が迎えに来てくれるかもしれないと。「……信じていたのに」
ぽつりと零れた声と共に、涙が頬を伝った。
出所の日に、母の死の真相を教えに来ると約束したのに。
◇◆◇ 「美月の代わりに刑務所へ入ってくれ」父の葬儀が終わった翌日。
理央は、何でもないことのようにそう言った。最初は意味がわからなかった。
「……え?」
聞き返した瞬間、頬に衝撃が走った。
床へ倒れ込んだ綾香を、理央は冷たい目で見下ろしていた。
「頷くまでやめない」
何が起きているのかわからない。
混乱したまま拒絶すると、理央は本当に殴るのをやめなかった。
髪を掴まれ、何度も床へ叩きつけられる。
痛い。
怖い。 理解できない。涙を流しながら、綾香は震える声で言った。
「どうして……」
「うるさい」
腹を蹴られ、呼吸が止まる。
「いいから頷け」
何度も暴力を受け、ついに綾香が頷くと、理央はようやく手を止めた。
そして何事もなかったように、優しく綾香を抱きしめた。
「綾香、僕を愛しているよね?」
耳元で囁く声は、昔と同じ優しい声音だった。
「彼女の代わりに五年だけ刑務所へ入って。出てきたら結婚しよう」
「彼女も君の友達だろう? 助けてあげてよ」
「美月はまだ若いんだ。前科なんてついたら人生が終わる」
その顔は、綾香が愛していた理央のままだった。
だからこそ、余計に恐ろしかった。
「嫌よ……」
綾香は震えながら首を振った。
「私は何もしてない……」
「冷たい女だな」
理央の表情が一変する。
「美月は親友じゃないのか?」
「親友よ……でも、だからって――」
最後まで言えなかった。
理央が綾香を突き飛ばしたからだ。
倒れ込んだ綾香を、今度は容赦なく踏みつける。
「やめて……痛い……!」
「うるさい! 黙って言うことを聞け!」
そこから始まったのは、地獄だった。
綾香は監禁され、繰り返し暴力を受けた。
そして、その中で真実を知らされる。
綾香が何も知らず押していた印鑑。
理央を信じて渡していた口座。 確認もせず署名していた書類。そのすべてが、犯罪に利用されていたのだ。
理央は以前から、綾香名義の口座や電子署名を使い、御影グループの資金を特殊詐欺グループの資金洗浄へ流していた。
綾香は、ただ理央を信じていただけだった。
だが、それだけでは終わらなかった。
美月は犯罪資金の受け渡し中に事故を起こし、人を死なせていた。
その罪まで、綾香へ押しつけられたのだ。
「逃げられると思うなよ」
理央は笑っていた。
「全部、君がやったことになる」
綾香は逃げようとした。
だが捕まり、抵抗したことで顔に深い傷を負わされた。
「本当にバカな女。大人しくしていればよかったのに」
綾香の前に現れた美月は意地悪く笑って言った。
手当をしてくれるわけでもなく、綾香の傷が悪化するに任せた。
そうして刑務所へ連れていかれる頃には、綾香の顔は見る影もなく腫れ上がっていた。
「安心しろ。出所したら、お前の母親の死の真相を全部教えてやる」
「……!!」
その言葉は、綾香に希望を与えた。
絶望の中に現れた一筋の光だった。
そうして大人しくなった綾香を理央は警察官の前に引き出した。
理央は警察へは、困ったような顔で説明していた。
「逃げようとして暴れたんです。止めようとしたら……」
その姿は、誰の目にも誠実な婚約者にしか見えなかった。
◇◆◇
――そして、五年後。
荒れ果てた屋敷を後にし、綾香はふらふらと歩き続けていた。
その時、風に飛ばされた新聞が足元へ転がってくる。
何気なく拾い上げた綾香は、その見出しを見て凍りついた。
【御影家令嬢・御影綾香、橘理央とついに結婚】
「……え?」
声が掠れる。
私は、ここにいるのに。
意味がわからなかった。
混乱したまま、綾香は新聞に書かれていた式場へ向かった。
着ているのは、屋敷に残されていた古いワンピース。
向かう途中、通行人が悲鳴のような呻きを上げながら逃げて行った。
理央が、本当に自分と結婚するとは思えなかった。
五年間、一度も面会に来なかった男だ。
それでも、直接確かめずにはいられなかった。
式場の扉を開いた瞬間。
綾香は息を呑んだ。
ウェディングドレス姿で微笑む花嫁。
その顔は――綾香自身だった。
「……誰?」
けれど、その目元。
笑い方。 わずかな仕草。間違えるはずがない。
「あんた……美月……!?」
綾香は震えながら花嫁へ近づいた。
「どうして……どうして、あなたが私の顔をしてるの!?」
花嫁は怯えたように後ずさる。
「警備を呼んで!」
誰かが叫んだ瞬間、式場が騒然となった。
次の瞬間、SPたちが綾香を取り押さえる。
「離して! 私が本物の綾香よ!」
必死に叫んでも、誰も信じない。
花嫁はヴェールを押さえながら、小さく震えていた。
「怖い……」
その姿は、完璧な被害者だった。
「違う! その女は――!」
「この醜い女を早く外へ連れ出せ。俺たちの結婚式の邪魔をするな」
最後まで言わせてもらえない。
綾香はそのまま式場の外へ引きずり出された。
重い扉が閉まる。
中から聞こえてくるのは、祝福の拍手と笑い声。
まるで、自分の存在だけが最初からなかったかのようだった。
「どうして……」
涙が溢れる。
重い扉が閉まり、中から祝福の拍手が響いた。
綾香だけが外に取り残される。
雨が降り始めていた。
父はもういない。
会社も奪われた。
親友も婚約者も、自分を裏切っていた。
そして今、自分の顔まで奪われた。
「私……何のために生きてたの……?」
視界が滲む。
どこを歩いているのかもわからない。
足元はふらつき、呼吸も苦しい。
頭の中では、理央の言葉ばかりが繰り返されていた。
――君が御影家の娘だったからだよ。
――全部うまくいった。
――もう君の居場所なんて、どこにもない。
嫌。
嫌。
こんなの、嫌。
綾香は震える手で顔を押さえた。
崩れた肌。
残った傷。 醜く歪んだ自分の顔。もう何も残っていない。
その時。
激しいクラクションが鳴り響いた。
「え……?」
顔を上げた瞬間、強烈なライトが視界を焼く。
大型トラックが、すぐ目の前まで迫っていた。
逃げなければ。
そう思ったのに、身体が動かない。
次の瞬間。
激しい衝撃が綾香の身体を吹き飛ばした。
世界が回転する。
何かが折れる嫌な音。
冷たいアスファルトへ叩きつけられ、口から血が溢れた。
痛い。
苦しい。
息ができない。
遠くで誰かが叫んでいる。
でも、その声も次第に遠ざかっていく。
冷たい雨が頬を打った。
空が滲んで見える。
――笑ってくれたお父様。
会いたい。
もっと話したかった。
ああ、あの男を信じなければよかった。
もし、もう一度やり直せるなら――。
綾香の意識は、深い闇へ沈んでいった。
◇◆◇
「綾香お嬢様?」
懐かしい声に、綾香はゆっくり目を開けた。
「……え?」
そこにいたのは、若い頃の橘恒一郎だった。
磨き上げられた床。
朝日が差し込む屋敷。 傷ひとつない自分の手。「旦那様がお待ちです。理央ももう着いていますよ」
その言葉に、綾香の呼吸が止まる。
震える手でスマートフォンの日付を確認した。
父が死ぬ前の日付。
五年前。
「嘘……」
綾香は鏡へ駆け寄った。
そこに映っていたのは、傷のない自分の顔だった。
まだ、何も奪われていない。
綾香の瞳から、大粒の涙が溢れる。
やり直せる。
橘は困惑したように綾香を見つめた。
「綾香お嬢様?」
綾香は手の甲で涙を拭った。泣いている暇はなかった。
「……今すぐ、理央に会うわ」
夕食の時間。 父はいつものように穏やかな笑顔で席についた。「今日は検査も問題なかったよ」「それなら安心したわ」 綾香も自然と笑みを浮かべる。 橘が料理を運び、最後に父の前へグレープフルーツを置いた。「ありがとうございます」 父は礼を言い、嬉しそうに皿へ手を伸ばす。 その様子を見ながら、綾香は何気ない口調で尋ねた。「そういえば、お父様」「ん?」「今日、病院でお薬のお話もあったの?」「薬?」「ええ。飲み方とか、食べちゃいけないものとか」 父は少し考えてから首を横に振った。「特にはなかったな」 綾香の胸が小さくざわつく。「そうなの?」「薬を変えた時も、『今までどおりで大丈夫ですよ』と言われたくらいかな」「そうだったのね」 それ以上は聞かなかった。 聞けば聞くほど、不自然になる。 父はグレープフルーツを一口食べ、満足そうに頷く。「今日は当たりだな」「酸味がちょうどいい」 橘は静かに微笑んだ。「お気に召していただけて何よりでございます」 穏やかな空気が流れる。 いつもと何も変わらない、朝倉家の夕食だった。(本当に……何もないのかしら) 橘の表情からは、何も読み取れない。 父に長年仕え、この家を支え続けてきた執事。 綾香にとっても、幼い頃から家族のような存在だった。 だからこそ、信じたい。 けれど、前世の記憶が胸をよぎるたび、不安は消えてくれなかった。 夕食を終え、父は書斎へ向かう。 綾香も自室へ戻ろうとした、その時だった。「綾香」 理央が声をかけてきた。「少し話せる?」「ええ」 二人は廊下の窓際で
一週間後。 父の定期受診の日がやってきた。「行ってくるよ」「いってらっしゃい、お父様」 綾香は玄関で父を見送った。 父を乗せた車が門を出ていく。 その姿が見えなくなってから、小さく息を吐いた。(今日なら……) 父が診察を受けている間なら、遥臣と話ができる。 そう思い、綾香も少し時間を空けて病院へ向かった。◇◇◇ 病院へ着くと、父はすでに診察室へ入っていた。 綾香は待合室で静かに待つ。 しばらくして診察室の扉が開き、遥臣が姿を現した。「綾香?」「先生」 遥臣は少し驚いたように目を細める。「どうした」「少しだけ、お時間いただける?」「ああ」 遥臣は時計へ目をやった。「五分くらいなら大丈夫だ」 二人は空いている診察室へ入った。 扉が閉まる。 遥臣は椅子を勧めた。「座って」「ありがとう」 綾香が腰を下ろすと、遥臣は少しだけ口元を緩めた。「今日は猫の相談か?」 綾香は苦笑する。「……そうなの」 その返事に、遥臣は何も言わなかった。 猫ではないことくらい分かっている。 それでも、その嘘を暴くつもりはない。「それで?」 綾香は膝の上で指を組む。「前に先生が、薬を変えたばかりなら様子を見ることがあるって言ってたでしょう?」「ああ」「もし、その猫が半年前に薬を変えていたとしたら……」「今でも定期的に病院へ通っていても、おかしくないの?」 遥臣は少し考えてから頷いた。「おかしくはない」「薬にもよるが、血圧の薬なら数値を確認するために定期
病院から戻った父は、どこか安心したような表情だった。「異常なしだそうだ」 夕食の席でそう言うと、綾香へ笑いかける。「それなら安心したわ」「心配しすぎだよ」 父は苦笑しながら、ジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出した。「ああ、そうだ」「病院で処方箋を返されたんだった」 二つ折りの紙をテーブルへ置く。「薬局へ提出したと思っていたら、前回の処方箋が残っていたらしくてね」「年を取ると、こういうことも忘れてしまう」 父は笑いながら席を立った。「私は少し着替えてくる」 そう言ってリビングを出ていく。 テーブルの上には、処方箋だけが残された。 綾香は思わず、その紙へ目を向ける。(見ても……いいのかな) 父は隠す様子もなかった。 それでも少しためらう。 けれど、父を守るためだ。 そっと手に取り、目を通す。 処方日は今日。 薬の名前。 その下には、小さく前回の処方内容が記載されている。『前回処方 六か月継続』(やっぱり……) 半年前から。 薬は半年前に変更され、そのまま継続されている。 そこへ父が戻ってきた。「何か気になることでもあったか?」 綾香は驚いて顔を上げる。「あ、ごめんなさい」「勝手に見ちゃって……」 父は優しく笑った。「謝ることじゃない」「どうせ私の薬だ。隠すようなものでもない」 そう言って椅子へ腰を下ろす。「昔から心配性だったからな、綾香は」 その言葉に胸が締めつけられる。 違う。 心配しているのは病気じゃない。 この薬を巡る何か
翌朝。 朝食の席には、今日もグレープフルーツが並んでいた。「綾香、食欲がないのか?」 父が心配そうに尋ねる。「そんなことないわ」 綾香は微笑み、パンを口に運ぶ。 父は何の疑いもなく、グレープフルーツを一切れ頬張った。 その様子を見ながら、綾香は胸の奥がざわつくのを感じる。 考えすぎかもしれない。 けれど、見過ごすこともできなかった。◇◇◇ 朝食を終え、自室へ戻ろうとした時だった。「お嬢様」 橘に呼び止められる。「午後から旦那様が病院へ向かわれます」「病院?」「定期検査でございます」 綾香は思わず足を止めた。 定期検査。 ちょうどいい。「そうだったの」「私は会社へ書類を届けなければなりませんので、本日は運転手がお供いたします」 橘は穏やかに微笑んだ。「いつもありがとうございます」「とんでもございません」 一礼すると、橘は仕事へ戻っていく。(今日……) 綾香は静かに考えた。 病院へ行く。 もしかしたら何か分かるかもしれない。◇◇◇ 午後。 父を乗せた車が屋敷を出ていく。 それを見送ると、綾香も自分の車へ乗り込んだ。「少し寄り道をお願い」「かしこまりました」 運転手は何も疑わず車を走らせる。 父の車とは別のルート。 十分ほど遅れて病院へ到着した。 受付の近くで父の姿を探す。 ほどなくして、診察室へ案内される父の後ろ姿が見えた。(間に合った……) 綾香は人目につかない場所から、その様子を見守る。 診察室の扉が閉まる。 数