Share

第856話

Author: 錦織雫
しかも、完全な無償奉仕である。

紫乃は手慣れた様子で昭希をあやしながら、恨み言のひとつも言いたくなった。

「ちょっと、あんたたち鬼!?あたしまだ二十歳そこそこの花の乙女よ!?二人のせいで一気にお母さんみたいな貫禄が出ちゃったじゃない!」

返ってきたのは、虚しい沈黙だけだった。

このまま「産後うつ」になるのは、産んでいない自分のほうじゃないかと紫乃は本気で思った。

……

慎と紬には、もともと映画を観る予定があった。

だがその道中で、急きょ食事会の予定が加わった。

承一が声をかけてくれたのだ。

二人が店に着くと、笑美も慌ただしく駆けつけてきた。

彼女は席に着くなり、熱いお茶を喉に流し込む。

「急に冷えてきたから、車から降りたら震えちゃった」笑美は手をこすり合わせながら、紬のマフラーを整えている慎に目を向けた。思わず感嘆の声を漏らす。「二人とも、すっかりいい感じに落ち着いたね。そんなに見せつけられると、ちょっと羨ましいんだけど」

紬は微笑むだけで何も言わなかった。

慎はゆるりと視線を上げた。「人前だから、これでも抑えているほうだ」

笑美は思い切り呆れてみせた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる   第861話

    三郎は、一瞬絶句した。ようやく我に返ると、怒りがあからさまに顔に出た。「清水笑美!いい加減にしなさい!すぐにそうやって感情的になって……これは子供の遊びじゃないんだぞ!」笑美の胸を、どうしようもない理不尽さが満たした。なぜ、理斗も実の父親も、自分のことをわがままな子供扱いするのか。なぜ、二人とも笑美が「ただ駄々をこねているだけだ」としか見てくれないのか。「……本気なんだ!私は、本気で言ってるんだ!」三郎もまた怒りを抑えきれなくなり、勢いよく立ち上がった。「お前は甘やかされすぎたんだ。理斗くんほど出来た男はいないというのに、いつまで駄々をこねる気だ。だいたい、なぜこれほど急いで話を進めようとしていたか、分かっているのか。すべては両家の事業において関係を強固にするためだ。この縁組こそが、その基盤になるんだぞ!」娘の感情に付き合っていられないとばかりに、三郎はそのまま吐き捨てるように二階へ上がってしまった。笑美は昔からこういう子だ。一時的に感情が爆発しても、放っておけばすぐに収まる。わざわざ大騒ぎして取り合う必要はない——彼の背中は、そう語っていた。笑美は、喉の奥が熱く焼けるような痛みを感じていた。なぜ、自分がどれほど傷ついていても、誰も真剣に受け止めてくれないのか。もう子供ではない。自分の言葉にも行動にも、責任を持てるはずなのに。だが今の状況では、今の自分では何を言っても無駄だ。とにかく自分を落ち着かせるしかなかった。きっと、他に解決する方法があるはずだ。それでもやはり、悲しさは拭えなかった。紬に電話をして声を聴きたかったが、今夜はやめておいた。こんな時間に連絡すれば、紬を余計なことで心配させてしまう。かといって承一に電話をしようかとも考えたが、からかわれそうで、結局踏みとどまった。笑美はしょんぼりとうつむいた。鼻を小さくすすり、自分に言い聞かせるように呟いた。「……なんてことないさ。なるようになる。きっと大丈夫」自分を奮い立たせる言葉は、それしか見つからなかった。翌朝、目が覚めるとすっかり日が昇っていた。時計を見れば、もう十時を回ろうとしている。純子はすでに外出しており、枕元の携帯に電話がかかってきた。「笑美、起きた?」「起きたよ。お母さん、どこに行ってるの?」笑美はベッドから這い出し

  • 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる   第860話

    笑美は顎を上げたまま、唇を強く噛みしめた。口の中に、かすかに血の味が広がった。 「なら、私もはっきり言うよ。私は一度決めたことを変えたりしない。なぜあなたがそんなふうに思い込んだのか知らないけれど、両家がいつ集まり、何を話し合うかなんて、私一人で決められるはずがないだろう!誤解しているというなら、自分の胸に聞いてみればいいさ!」 頭に血が上り、胸の奥は鋭い刃でえぐられたように痛んだ。 それでも、理斗の前でだけは絶対に泣きたくなかった。 彼女は踵を返し、歩き出した。 こんな屈辱のために呼び戻されたなんて。あんなふうに、一方的に責め立てられるなんて! 突然、手首を力強く掴まれた。 追いついてきた理斗は、振りほどこうとする笑美を封じ込めるように、さらに指に力を込めた。喉仏がかすかに動いた。 「……今日、婚約を解消するつもりがあるにせよないにせよ、この場で言い出すのは不適切だ。何を理由にするつもりだ。もし、俺と世羅のことを理由に挙げるつもりなら——それだけは、絶対に口にするな」 笑美の唇が、かすかに震えた。 世羅、世羅、どこまでも世羅だ! 別れたいと思ったのも彼女が理由で、それを口に出せないのも彼女を守るため。どこまでも彼女が泥を被らないよう、細心の注意を払っている。 「……なんで?」 笑美は瞳を赤く滲ませ、理斗を真っ直ぐに見据えた。 「なんで私が、あなたたちのために都合の悪い真実を隠してあげなきゃいけないの?あなたたちが波風立てずに結ばれるために、私が黙って泥を被れっていうの?それが、私の義務だっていうのかッ!?」 二人の関係がここまで修復不可能になった元凶は、世羅だ。それなのに、なぜ被害者であるはずの笑美が、加害者のために沈黙を守らなければならないのか。 理斗は今の笑美を見て、彼女は変わってしまった、と痛感していた。かつてのあの素直だった笑美はどこへ消えたのか。今の彼女は、感情的になっていて、世羅に対する当たりが強すぎる。 「冷静になれ。そんなふうに意地を張っているうちは、まともな話はできない」 理斗はこれ以上、場を混乱させたくなかった。幼い頃からの付き合いだ、彼女が気短なことは分かっている。少し時間が必要なだけだ。 笑美の心臓が、ぎゅっと締め付けられた。 これほど真剣に叫んでいるのに、返っ

  • 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる   第859話

    理斗が自ら笑美を連れ出すなど珍しいことに、三郎は気を利かせて、早く行けと娘に手を振った。「何をぼやぼやしている。早く行っておいで。ずっと離れ離れだったんだ、理斗くんが戻ってきたこれからは、嫌でも一緒にいられるんだから」 笑美は理斗を盗み見たが、彼は無言のまま庭へと歩き出した。 彼女は重い足取りでその後に続く。 庭園にはまだ灯りが灯っていた。理斗は屋内の話し声が届かない場所まで進むと、ようやく振り返った。 「……何その表情」 近づいてきた笑美は、理斗の発する空気が限界まで抑え込まれた怒りに満ちているのを感じた。彼女を見るその瞳には、一欠片の温もりも宿っていない。 胸の奥がざわついた。長年、彼の隣にいたからこそわかる。今の理斗は、決定的に機嫌を損ねていた。 「どういうつもりだ?」理斗の口調は氷のように冷たかったが、決して声を荒らげることはなかった。 「……何のことだよ」 笑美が本気で困惑した表情を見せる。それが、今の理斗には見え透いた芝居にしか見えなかった。 もし世羅が事前に教えてくれていなければ、両家の親が揃うこの席で、笑美は既定路線として話を進めるつもりだったのではないか。 「婚約を解消する気がさらさらないのなら、俺抜きで話を進めたところで何の意味もない。結婚するのは俺だ。親父を丸め込もうと、俺が首を縦に振らなければ、それで終わりだ。一度口にしたことを翻すのは、さぞかし恥ずべきことだろうがな」 淡々と事実を突きつけるような声。だが、それは容赦のない刃となって笑美を切り裂いた。 ようやく笑美は、彼がとんでもない誤解をしていることに気づいた。今日の集まりを、彼女が勝手に仕組んで、彼を出し抜いて結婚式を強行しようとしていると思い込んでいるのだ。 私が、前言を翻したって言うの? 笑美は理斗の冷え切った顔を見つめた。昔から孤高で、プライドの高い人だった。それは百も承知だ。 なのに今は、その眼差しが心に深く突き刺さって抜けない。 笑美は拳を握りしめた。彼の瞳は冷酷なまでに鋭いが、ここで屈したくはなかった。歯を食いしばって睨み返す。 「勘違いしないで!私は一度言ったことを曲げたりしない。あなたが安心できるように言っておくけれど、あなたと、その大事な妹さんの仲を邪魔するつもりなんて、これっぽっちもないから!」

  • 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる   第858話

    理斗は、もちろん何も知らされていなかった。 世羅の言葉を聞いた瞬間、理斗の瞳の奥に暗い感情がよぎり、無意識に眉根を寄せた。 世羅は理斗の目の前でひらひらと手を振ってみせた。「どうしたの?笑美、あなたには内緒にしてたんだ。なんでお父さんたちにだけ先に話しちゃったんだろうね」 その言葉には、別の含みがあった。 理斗の脳裏に浮かぶ可能性は、ただひとつ。笑美が自分に断りもなく、両親を通じて外堀を埋めて既成事実を作ろうとしている——強引に推し進めようとしているかのように。 表情こそ変えなかったが、理斗は冷たく言い放った。「先に戻って休んでいろ」 世羅は小さく溜息をつき、どこか楽しげに微笑む。「まあ、あなたの人生の重大事だもんね。私が口を出せることじゃないし」 返事も待たず、彼女は軽やかに踵を返して建物の中へ消えていった。 理斗はその背中を少し見つめ、車に乗り込むと清水家へと向かった。 窓辺に立った世羅は、手にした牛乳をひと口含みながら、遠ざかるテールランプを目で追っていた。 実は、聖也が何気なく漏らしたことがあった。 笑美が、理斗との婚約を解消しようとしていること。 そして理斗が、笑美を助けた一件で組織から処分を受けたこと。 それは決して、軽い話ではなかった。今後のパイロットとしてのキャリアに泥を塗りかねない。海外に身を置く以上、彼らは国家の威信を背負っているも同然だ。一挙手一投足が注目され、批判の的になりかねない。国際的な立場がある以上、ないがしろにはできない問題だった。 規律違反ではあったが、救出した相手が国家プロジェクトの重要人物であったこともあり、上層部の態度は最終的に軟化していた。 だが、笑美との件に関しては—— 世羅は寝室へと引き返した。 「約束を守らなかった女」として、理斗の中での笑美への印象は最悪なはずだ。 …… 理斗が清水家に到着したとき、そこには拍子抜けするほど和やかな光景が広がっていた。 その中心にいたのは笑美だった。昔から変わらず、目上の人に可愛がられ、誰からも愛される。理斗の父も、彼女のことを娘のように慈しんでいた。 「理斗、早くこっちへ来なさい」理斗の父・清水周平(しみず しゅうへい)が手招きし、目尻を下げる。 笑美が顔を上げ、理斗と視線がぶつかった。理斗の

  • 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる   第857話

    詳しい事情までは、紬にはわからなかった。でも、笑美が本当はひどく傷ついていることだけは痛いほど伝わった。物心ついたときからずっと、理斗を信じ続けてきたのだ。誰もが「笑美は理斗と結婚する」と思い込んでいたのに、二十年近い歳月を経て、その婚約を解消しようとしているのは笑美自身だ。その痛みは、どれほどのものだろう。「理斗と、ちゃんと話し合ったの?」紬は隣へ移って、小さな声で尋ねた。笑美はしばらく考えて、答えに詰まった。一方的に通告して、向こうがそれに同意した——話し合いとは少し違う。理斗はずっと何も言わなかったけれど、笑美にはわかっていた。彼は、はじめからこの結果を望んでいたのだ。そうなら、わざわざ彼に悪者役を引き受けさせる必要もない。「まあ、そんな感じかな。なるべく早くケリをつけるよ。そしたらすっきりするし!」笑美はひらひらと手を振って、目の前の清酒をぐいっと飲み干した。その強がった笑顔を見ていると、紬の胸がきゅっと痛んだ。笑美と理斗のことは、紬と慎のことよりずっと複雑だ。幼い頃から、笑美は「自分は理斗のそばにいる存在だ」と教えられて育った。その長年の思い込みを自ら引き剥がすのは、身を切られるような苦しさだったに違いない。今の紬にできることは、ただ彼女の決断を受け入れ、そばにいることだけだった。承一はグラスを揺らして氷を鳴らし、笑美を一瞥してから静かに言った。「あいつより良い男なんていくらでもいる。お前をわかってくれる人も、大切にしてくれる人もな。自分を押し殺してまで付き合うことはないぞ」笑美がぴたりと動きを止めた。慎は静かに目を上げて、意味深長な視線で承一をちらりと見た。もともとは四人で薬膳料理を楽しむ予定だった。だが宴の途中で、笑美の携帯が鳴った。実家からの、すぐ戻れという呼び出しだった。何かあったのかと焦った笑美は、食事の席を慌ただしく抜け出した。実家まで車を飛ばして、二十分。飛ぶような勢いで帰り着いた。玄関を開けると、父親の清水三郎(しみず さぶろう)がリビングのソファでニュースを眺めていた。「お父さん!一体何があって呼び戻したの?急ぎの用って聞いたのに!」笑美は苛立ちをあらわにした。三郎は娘をちらりと見て言った。「その格好はなんだ。すぐに着替えてこい」「……何でよ?」「理斗

  • 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる   第856話

    しかも、完全な無償奉仕である。紫乃は手慣れた様子で昭希をあやしながら、恨み言のひとつも言いたくなった。「ちょっと、あんたたち鬼!?あたしまだ二十歳そこそこの花の乙女よ!?二人のせいで一気にお母さんみたいな貫禄が出ちゃったじゃない!」返ってきたのは、虚しい沈黙だけだった。このまま「産後うつ」になるのは、産んでいない自分のほうじゃないかと紫乃は本気で思った。……慎と紬には、もともと映画を観る予定があった。だがその道中で、急きょ食事会の予定が加わった。承一が声をかけてくれたのだ。二人が店に着くと、笑美も慌ただしく駆けつけてきた。彼女は席に着くなり、熱いお茶を喉に流し込む。「急に冷えてきたから、車から降りたら震えちゃった」笑美は手をこすり合わせながら、紬のマフラーを整えている慎に目を向けた。思わず感嘆の声を漏らす。「二人とも、すっかりいい感じに落ち着いたね。そんなに見せつけられると、ちょっと羨ましいんだけど」紬は微笑むだけで何も言わなかった。慎はゆるりと視線を上げた。「人前だから、これでも抑えているほうだ」笑美は思い切り呆れてみせた。慎がこれほど素直に惚気るようになるとは、以前は思いもしなかった。「なんだ、羨ましいのか?」承一が入ってくるなり、笑美の後頭部を軽く叩いた。笑美は頭を押さえて睨みつけた。「悪い?今日は超絶イケメンホストを八人くらい呼んで、お茶汲みからマッサージまで全部やらせてやろうかな!」その負け惜しみに、紬は少しだけ唇を尖らせた。承一はすかさず一瞥して言った。「どうせ口だけだろ」「…………」「確かに」紬と承一の目が合った。二人とも、まったく同じ感想だった。笑美は口が達者なだけで、実のところ奥手なのだ。虚勢を張るのだけは天下一品なのだが。「ちょっとちょっと、私の批判大会じゃないんだから。話が逸れてる!」笑美は不満そうにテーブルを叩いた。承一はようやく肩をすくめて、椅子の背にもたれた。「親父が、見合いしろって言い出したんだ」その一言に、場がしんと静まり返った。紬も思わず目を丸くした。あの厳格な宏一が、とうとう身を固めろと言い出したのか。慎は他人の縁談に深く関わる気はないようだったが、承一ほどの男がなぜ独身のままなのか、確かに不思議ではあった。笑美はおつま

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status