LOGIN七年越しの愛だった。 けれど年月が経つにつれ、夫となるはずだった男――不破清也(ふわ せいや)は、京極紫音(きょうごく しおん)に対して冷淡になり、苛立ちを隠さなくなった。 それどころか、彼はあろうことか義妹である江藤芙花(えとう ふうか)との関係に溺れ、彼女ばかりを異常なまでに甘やかし、紫音をないがしろにし続けた。 それでも紫音は、積み重ねた歳月への未練を断ち切れず、彼を何度も許してしまった。 しかし、ある時。高熱にうなされ、死ぬほどの苦しみを味わった夜――目が覚めた紫音を待っていたのは、冷え切った空虚な寝室だけだった。 彼はまたしても、「病弱」な芙花の看病に行ってしまったのだ。 その瞬間、紫音の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。「ああ、もういいや」と。 彼女は以前から縁談のあった相手に電話をかけ、プロポーズを承諾した。 そして別れの書き置きだけを残し、あざやかに姿を消した。京極家の令嬢としての誇り高い自分を取り戻すために。 清也は、紫音が本気で離れるはずがないと高を括っていた。「どうせ数日もすれば泣いて縋って戻ってくる」と。だが、一ヶ月経っても彼女は現れない。そこで初めて、彼は焦り始めた…… それからしばらくして開かれた、ある夜会でのこと。 かつて不破家やその取り巻きたちに蔑まれていた紫音は、絢爛豪華なドレスを纏い、圧倒的な美しさで会場に現れた。 そこにいたのは、誰もが羨む高嶺の花・京極家の令嬢であり――政財界の重鎮、拝島律(はいじま りつ)の妻となった彼女だった。 別の男に寄り添う彼女を見て、清也は嫉妬に瞳を血走らせる。「紫音、こっちへ来い!」 しかし律は、紫音の細い腰を愛おしげに抱き寄せ、優雅な笑みを浮かべて言い放つ。「不破社長。私の妻を気安く呼ばないでもらおうか」 ずっと手に入れたかった、愛しい人。この手を伸ばそうとする愚か者がいれば、その腕ごとへし折ってやるまでだ。
View More紫音はこの程度のトラブルで彼の手を煩わせたくはなかった。それに、今後の計画もしっかり練ってある。自分の足で立ち、自分の手で決着をつけたかったのだ。「君がそうしたいなら構わない。ただ……」律の声色が、ふっと柔らかく緩んだ気がした。「手に負えない事態になったら、無理をせずに頼ってくれ。それだけだ」冷徹に見える彼の言葉から零れ落ちた、不器用な優しさ。紫音は一瞬、自分の耳を疑った。あの拝島律が、こんなふうに私を心配するなんて。「……分かったわ。ありがとう」短く言葉を交わし、通話は切れた。スマートフォンを握りしめたまま、紫音は呆然とする。婚約者とはいえ、あまりに突然の優しさに戸惑いを隠せない。……考えても仕方がないわね。まずは腹ごしらえだ。思考を巡らせるのは、食事の後にしよう。「紫音さん、このステーキ最高です……私、こんな美味しいお肉初めて食べました!」向かいでは蘭が目を輝かせてナイフを動かしている。「拝島さん、紫音さんのこと本当に大切に思ってるんですね」驚くべきことに、料理は最初から二人分用意されていた。律は蘭の同行まで把握していたのだ。本当に、大切にされているの……?蘭の言葉を素直に受け止めることができない。一度深く傷ついた心は、そう簡単には癒えない。どんなに甘い言葉や態度を示されても、男という生き物に対して、紫音は無意識に防御壁を築いてしまっていた。翌朝。紫音と蘭は、早朝から会社へと足を運んだ。残されたわずかな残務整理を済ませ、今日こそ完全に、この会社と決別するために。エントランスの前で、紫音は足を止め、見上げるようにして自社ビルを仰いだ。……これが最後、か。複雑な思いが胸をよぎる。この会社は、彼女自身がゼロから築き上げてきた城だ。その過程でどれほどの屈辱を飲み込み、どれほどの心血を注いできたか――その痛みも苦しみも、自分だけが知っている。未練がないと言えば嘘になる。愛着がないわけがない。「紫音さん、行きましょう」紫音の瞳に浮かぶ陰に気づいたのだろう。蘭が静かに声をかけ、悲しみを断ち切ってくれた。二人は並んでエレベーターに乗り込み、オフィスフロアへと向かう。だが、部屋の前まで来た紫音たちを待ち受けていたのは、般若のような形相の佳代子だった。その隣には、佳代子の腕にぴったりと寄り添う芙
「聞きたくもない」久我は不快感を隠そうともせず、手で制した。そして彼は紫音に向き直ると、先ほどまでの険悪な表情を一変させ、紳士的な笑みを向けた。「京極さん。貴女の特許には大いに関心があります。もしよろしければ、この素晴らしい技術を弊社で活かしてみませんか?ぜひ一度、お話をさせてください」そう言って、久我は丁寧に名刺を差し出した。「評価していただき光栄です、久我社長。前向きに検討させていただきます」紫音は名刺を受け取り、品のある笑みで応えた。久我は満足げに頷くと、部下を連れて颯爽とその場を去っていく。「待ってください!久我社長、お待ちを!」清也はなりふり構わず追いすがったが、久我たちは一切振り返ることなくエレベーターへと乗り込んでいった。閉ざされた扉を前に、清也は顔面蒼白のまま立ち尽くす。「くそっ……!!」彼はやり場のない怒りに任せ、床を激しく踏みつけた。その姿はあまりにも無様だった。「紫音、これで満足か……!」清也は、憎悪を込めて紫音を睨みつけた。その激情は、もはや制御不能なほどに膨れ上がっている。満足、ですって?紫音は鼻で笑った。「……まだ、始まったばかりよ」短くそう告げると、彼女は清也に背を向け、迷いなく歩き出した。蘭も慌ててその後を追い、二人は会社を後にした。「蘭、大丈夫?怪我はない?」気遣うように尋ねる紫音に、蘭はキラキラした瞳を向けた。「平気です、紫音さん!さっきの紫音さん、凄くかっこよかったです……!私、一生ついていきます!」実際、突き飛ばされた時はかなりの衝撃で痛みが残っていたが、あの傲慢な男が屈辱にまみれる姿を見たら、痛みなど吹き飛んでしまったようだ。紫音は曖昧に微笑むだけで、何も答えなかった。清也の企みを阻止し、一矢報いた。本来なら溜飲が下がる場面だ。けれど胸の奥には、想像していたような高揚感はなく、ただ乾いた風が吹いているようだった。会社を出た二人は、拝島グループが経営するホテルへと向かった。早急に処理すべき案件が残っており、蘭にも同行してもらう必要があったからだ。部屋に入って一息つく間もなく、ドアがノックされた。蘭が応対に出ると、ルームサービスのワゴンが恭しく運ばれてくる。「失礼いたします。こちらは拝島様より、昼食の差し入れでございます。何かご入用の際は、いつでもお
蘭は気圧されることなく正論をぶつけたが、今の清也にまともな理屈は通じない。「部外者は黙ってろ!」清也は邪魔だと言わんばかりに蘭を突き飛ばした。床に倒れ込む蘭を一瞥もせず、彼はますます強く紫音の手首を締め上げる。骨が軋む音が聞こえるほどだ。「っ……痛い、離してよ!」紫音は苦痛に唇を噛み、必死に抵抗した。すると突然、清也の態度が軟化した。彼は強引に紫音を抱き寄せようとしながら、先ほどまでの恫喝が嘘のような、猫なで声を出した。「頼むよ、紫音。このプロジェクトが俺の悲願だって知ってるだろ?久我社長に誤解がないよう説明してくれ。一度だけでいい、俺のために力を貸してくれ」彼は紫音の背中をあやすように叩きながら、縋るような目を向けてくる。「協力してくれるなら、この案件の利益の三割をお前に渡す。それに……母さんの件だって、もう水に流してやるから」その瞳には、なりふり構わぬ必死さと、歪んだ誠実さが浮かんでいた。紫音の瞳は、まるで汚物を見るかのように冷え切っていた。生理的な嫌悪感が全身を駆け巡り、反射的に身体をのけぞらせる。彼に触れられることすら耐え難い。「……寝言は寝て言って」紫音は渾身の力で清也を突き飛ばすと、侮蔑の色を隠そうともせずに言い放った。その声には、一切の交渉の余地など残されていない。「半分だ!利益の五割を渡す!頼むよ紫音、お前が頷いてくれさえすれば、望むものは何でも用意するから!」清也の様子は、完全に常軌を逸していた。焦燥に駆られ、もはや紫音に縋り付く以外に道がないのだ。しかし、紫音はその必死な形相を鼻で笑った。「あなたの提示する条件なんて、あなたの愛情と同じくらい安っぽくて無価値よ。そんなもの、いらないわ」彼女は一語一語、噛み含めるように告げる。「いい加減に目を覚ましたら?私はもう、あなたの顔色一つで一喜一憂していた、都合のいい馬鹿な女じゃないの」紫音は清也を真っ直ぐに見据え、最後通告を突きつけた。「今後、私たちが関わることは二度とない。私があなたに望むことはただ一つ――私の視界から永遠に消え失せてちょうだい」唇を噛み締め、毅然と言い切ったその表情に、迷いは微塵もなかった。清也は呆然と立ち尽くした。目の前の紫音が、まるで別人のように感じられる。本当に……俺たちの間にあった情は、これっぽっちも残っていな
建信グループの近年の躍進ぶりは凄まじい。この業界において、清也の会社では到底太刀打ちできない相手だ。「不破社長、お久しぶりです」「久我社長、お会いできて光栄です。さあ、どうぞお掛けください」会議は順調に滑り出したかに見えた。しかし折り返し地点に差ししかかった頃、久我が本題を切り出した。「ところで不破社長。約束の件、忘れてはいませんね?今日私が足を運んだのは、他でもない、御社が保有するという『あの特許』のためですから」久我は談笑の合間に、冗談めかしつつも鋭い視線を投げてくる。「もちろんです。私、不破清也に二言はありません。久我社長との約束に合わせて、万全の準備を整えておりますよ」清也は自信たっぷりに微笑むと、背後に控えるアシスタントに目配せをした。特許関連の資料を提示しろ、という合図だ。アシスタントからファイルを受け取った久我の部下たちが、さっそくその場で精査を始める。特許の権利関係に問題がないか確認が取れなければ、契約書にサインはできない。それはビジネスの鉄則だ。ほどなくして、資料を確認していた久我の秘書が眉をひそめた。その顔色は見る見るうちに曇っていく。彼は慌てた様子で久我に身を寄せ、何かを耳打ちした。「久我社長、どうかなさいましたか?」清也はその不穏な空気を怪訝に思い、声をかけた。それでもまだ、彼の中の自信は揺らいでいない。自分は完璧に準備をしたはずだからだ。「おい不破、どういうつもりだ。他人の特許をさも自分の物のように持ち出して……私をコケにするのもいい加減にしろ!」怒声と共に、分厚いファイルがテーブルに叩きつけられた。久我は先ほどの穏やかな表情を一変させ、額に青筋を浮かべて清也を睨みつけている。「……え?仰っている意味が分かりません。今回の提携のために誠心誠意、準備を進めてきました。この特許だって長い時間をかけて――」清也は呆気にとられた。なぜ久我がこれほど激昂しているのか、全く見当がつかない。「かつて御社が路頭に迷いかけた時、誰が救いの手を差し伸べてやったと思っている?恩を仇で返すとはこのことだ。……私を敵に回して、ただで済むと思うなよ」怒り心頭に発した久我は、席を蹴って立ち上がり、会議室を出て行こうとする。「ちょ、ちょっと待ってください!」清也は慌てて久我の前に立ち塞がると、床に
reviews