Masuk七年越しの愛だった。 けれど年月が経つにつれ、夫となるはずだった男――不破清也(ふわ せいや)は、京極紫音(きょうごく しおん)に対して冷淡になり、苛立ちを隠さなくなった。 それどころか、彼はあろうことか義妹である江藤芙花(えとう ふうか)との関係に溺れ、彼女ばかりを異常なまでに甘やかし、紫音をないがしろにし続けた。 それでも紫音は、積み重ねた歳月への未練を断ち切れず、彼を何度も許してしまった。 しかし、ある時。高熱にうなされ、死ぬほどの苦しみを味わった夜――目が覚めた紫音を待っていたのは、冷え切った空虚な寝室だけだった。 彼はまたしても、「病弱」な芙花の看病に行ってしまったのだ。 その瞬間、紫音の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。「ああ、もういいや」と。 彼女は以前から縁談のあった相手に電話をかけ、プロポーズを承諾した。 そして別れの書き置きだけを残し、あざやかに姿を消した。京極家の令嬢としての誇り高い自分を取り戻すために。 清也は、紫音が本気で離れるはずがないと高を括っていた。「どうせ数日もすれば泣いて縋って戻ってくる」と。だが、一ヶ月経っても彼女は現れない。そこで初めて、彼は焦り始めた…… それからしばらくして開かれた、ある夜会でのこと。 かつて不破家やその取り巻きたちに蔑まれていた紫音は、絢爛豪華なドレスを纏い、圧倒的な美しさで会場に現れた。 そこにいたのは、誰もが羨む高嶺の花・京極家の令嬢であり――政財界の重鎮、拝島律(はいじま りつ)の妻となった彼女だった。 別の男に寄り添う彼女を見て、清也は嫉妬に瞳を血走らせる。「紫音、こっちへ来い!」 しかし律は、紫音の細い腰を愛おしげに抱き寄せ、優雅な笑みを浮かべて言い放つ。「不破社長。私の妻を気安く呼ばないでもらおうか」 ずっと手に入れたかった、愛しい人。この手を伸ばそうとする愚か者がいれば、その腕ごとへし折ってやるまでだ。
Lihat lebih banyak紫音はその箱を両手で恭しく受け取ると、優雅な仕草で雅人の前へと差し出した。その口元には、穏やかで品のある微笑みが湛えられている。「こちらは、麗華様のために選びました。お気に召していただければ幸いです」雅人はその長い指を伸ばし、ゆっくりと箱を開けた。途端に、彼の視線は中身に釘付けになる。そこに収まっていたのは、深海で瞬く星屑のように、神秘的で幽玄な蒼い輝きを放つイヤリング――「ポセイドンの涙」だった。雅人は片眉を跳ね上げ、驚きの色を隠さずに言った。「君、京極州の妹か?」紫音は静かに顎を引き、乱れぬ調子で答えた。「はい、京極紫音と申します。……では、これ以上お引き止めするのも申し訳ありませんので、私たちはこれで失礼いたします」彼女の振る舞いは完璧な礼節に則っていた。先ほどまでの非礼や暴力に対する憤りを微塵も滲ませず、その様はまるで波紋ひとつない静寂な湖面のようだ。雅人は小さく舌を打ち、意味ありげに口角を持ち上げながら、まじまじと紫音を眺めやった。「なるほどね……俺と州は兄弟分みたいなもんだ。なら、あいつの妹は俺の妹も同然だ」「不破との一件、多少は耳に入ってるよ。俺からの忠告だと思って聞いてくれ。……あんな男、君には釣り合わん」紫音は一瞬きょとんとしたが、すぐに平静を取り戻し、揺るぎない眼差しで返した。「ご忠告、痛み入ります。ですが彼とはもう別れました」「近々、家の決めた方と結婚いたしますので、その際はぜひ、雅人様も猛様もいらしてください」そう言って優雅に一礼すると、紫音は踵を返し、凛とした足取りでその場を後にした。遠ざかる彼女の背中を見送りながら、雅人は目を細め、面白そうに呟いた。「面白い女だ。……拝島の奴が、長年忘れられずにいるのも頷ける」横に立っていた猛は腕を組み、からかうような表情で茶々を入れた。「いくら忘れられなくても、向こうにその気がねえんじゃ意味ねーだろ。拝島の片想いもご苦労なこった」猛はそう言い捨てると、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「さあな。……案外、そうとも言い切れんぞ」雅人は思案げにそう呟いた。紫音は足早に出口へと向かう。蘭を引き連れて歩くその横顔には、ある種の決意が滲んでいた。彼女はふと立ち止まると、蘭にだけ聞こえる声量で囁く。「蘭、明日から休暇届を出してちょうだい。表向きは
危険を察知した清也は、とっさに芙花を自身の背後に隠した。まるで雛鳥を守る親鳥のように。芙花は清也のジャケットにしがみつき、顔を伏せて小刻みに震えている。清也は沈痛な面持ちで、しかし不快感を隠そうともせず、気まずそうに口を開いた。「雅人さん……今回の件、確かにこちらの落ち度です。ただ、決して悪気があってやったことじゃないんです」「芙花はまだ若くて、何も分かっていないだけなんです。謝罪なら、俺が代わりにさせてもらいます」その声には懇願の色が混じっていた。なんとかして雅人の怒りを鎮めようと必死だ。雅人は冷笑を浮かべ、蔑むような視線を投げかけた。「謝って済むなら、警察はいらないだろ?」「もっとも、こんなくだらない事で警察の手を煩わせるつもりもないがね」清也の表情は強張り、額には青筋が浮かんでいた。彼は奥歯を噛み締め、決意に満ちた眼差しで言い切った。「雅人さん……どうすれば芙花を許してくれますか。俺にできることなら何でもします。条件を言ってください!」しかし、その必死の誓いも、雅人にとっては紙屑同然の価値しかなかった。雅人は冷徹な表情のまま、背後に控える屈強な男たちに向かって、鋭く手刀を切るように合図を送った。「やれ。その女を突き落とせ」命令を受けた二人のボディーガードが、鬼のような形相で清也と芙花ににじり寄る。清也は警戒心を剥き出しにし、芙花の手を痛いほど強く握りしめたまま後じさりをした。「来るな!手荒な真似をさせるな!」清也は焦りを滲ませながら、なんとか雅人を説得しようと声を張り上げた。「雅人さん、今日は大勢の客が来ているんですよ!こんな騒ぎを起こしたら、西園寺家の顔に泥を塗ることになる。穏便に済ませましょう!」だが、雅人はそんな理屈には耳も貸さない。その表情は氷点下のように冷たく、一切の妥協を許さぬ絶対者の顔をしていた。次の瞬間、ボディーガードたちが飢えた獣のように襲いかかり、芙花の腕を掴もうとした。「いやぁっ!!お兄ちゃん、助けて!怖いよぉ!!」芙花は顔面蒼白になり、目を見開いて金切り声を上げた。その絶叫は悲痛そのものだった。清也はカッと目を見開き、迷うことなく右足を振り抜いた。襲い来るボディーガードの一人を思い切り蹴り飛ばすと、その隙を突いて芙花の手を引き、脱兎のごとく駆け出した。なりふり構わず、必
口火を切ったのは、弟の猛だった。彼の口元には、残酷で投げやりな笑みが張り付いている。「兄貴、こいつが認めないのは当たり前の話だ」猛は退屈そうに言い放った。「俺に言わせりゃ、水責めにでもしてやればいいんだよ。何度かプールに沈めてやって、氷のような冷たさと死ぬかもしれない恐怖をたっぷり味わせてやれば……すぐに泣き喚いて何もかも白状するさ」その口ぶりは、まるで明日の天気の話でもするかのように軽薄で、人の命など微塵も気にかけていない様子だった。雅人は目を細め、瞳の奥に冷酷な光を宿した。彼は短く手を振り、部下たちに「やれ」と合図を送る。黒服の男たちが飢えた狼のような形相で紫音にじりじりと詰め寄る。次の瞬間には、彼女を奈落の底へと引きずり込まんとする勢いだ。「待ってくださいっ!」まさに間一髪というところで、肩で息をする蘭が駆け戻ってきた。彼女は一目で紫音の惨状を見て取った。乱れた髪、皺だらけのドレス、そして痛々しい傷跡。蘭の胸に強烈な自責の念がこみ上げる。彼女は呼吸を整える間も惜しんで、叫ぶように言った。「証拠があります!この動画を見てください。麗華様をプールに突き落としたのは江藤芙花です。紫音さんは無実です!」その言葉を聞いた瞬間、芙花の顔から血の気が失せ、白紙のように蒼白になった。瞳に激しい動揺が走る。だが、彼女はすぐに気を取り直し、蘭を憎々しげに睨みつけた。皆が反応するよりも早く、芙花は蘭に飛びかかり、その手首を万力のように強く締め上げた。彼女は蘭の顔に自分の顔を近づけ、誰にも聞こえないような小声で、しかしドスを利かせて脅迫した。「森下、あんた会社に残りたいんでしょうね?」「余計なことを喋ったら、ただじゃおかないから。会社にいられなくしてやるわよ。後悔したくなかったら黙ってなさい!」その声には明確な殺意と警告が含まれており、逆らえば破滅させると言わんばかりだ。だが、蘭は冷ややかな目で芙花を一瞥しただけだった。私が今こうしていられるのは、すべて紫音さんが目をかけ、支援してくださったおかげだわ。恩人である紫音さんが絶体絶命のピンチにあるというのに、ここで裏切ることなどできるはずがない。蘭は迷うことなく、自分に食い込む芙花の指を一本一本、力強く引き剥がした。そして、毅然とした足取りで雅人と猛の前に進み出ると、スマホ
「失礼いたします。不破様でいらっしゃいますか?西園寺様がお呼びです」糊の効いた制服を纏ったウェイターが、音もなく軽やかな足取りで近づいてきた。彼は折り目正しく一礼し、顔に完璧なビジネススマイルを貼り付けたまま、薄暗いバルコニーの方角を恭しく手で指し示した。その視線の先には、西園寺家の男たちが陣取っていた。彼らはただ座っているだけだというのに、その背中からは言葉を発さずとも周囲を圧倒するような、重々しく獰猛な威圧感が立ち上っている。ふと視線を上げた芙花は、彼らの鷲のごとき鋭い眼光と目が合ってしまった。人を食い殺さんばかりのその視線に、彼女の瞳は恐怖で見開かれる。背筋を這い上がる悪寒が、瞬く間に全身へと広がっていった。「っ……!」芙花は反射的に身を縮めると、怯えた小鹿のように慌てて清也の背後へと隠れた。彼のジャケットの裾を両手で強く握りしめ、涙声で震えながら訴える。「お兄ちゃん、怖い……」清也は眉間に深い皺を刻んだ。その瞳に一瞬だけ面倒そうな色を滲ませたが、次の瞬間、彼は背後に隠れる芙花ではなく、立ち尽くす紫音の手首を乱暴に掴み取った。骨が砕けそうなほどの力で締め上げると、有無を言わさず彼女を引きずり、男たちの待つバルコニーへと歩き出した。「清也、何するの!離して!」突然の暴力に足をもつれさせながら、紫音は叫んだ。彼女は鉄の万力のように手首に食い込む清也の指を、必死に引き剥がそうとする。下唇を強く噛み締め、その瞳には怒りと不満の炎が燃え上がっていた。しかし、清也には彼女の抗議など聞こえていないかのようだった。彼は構わず紫音を引きずり続け、うわごとのようにこう繰り返す。「紫音、今日ここでお前が西園寺家に謝罪すれば、すぐにでも入籍してやるからな」その口調には、一切の疑いを持たぬ確信が満ちていた。まるでそれが、紫音に対する最大限の慈悲であり、恩寵であるとでも言うかのように。この期に及んで、まだ清也はそんな絵空事を並べ立てているのだ。芙花の身代わりとして、ありもしない罪を紫音に被せるための交換条件として。「頭、どうかしちゃったんじゃないの!?」紫音は血が滲むほど唇を噛み締め、かつて死ぬほど愛した男を睨みつけた。胸の内で、凄まじい怒りと絶望が渦を巻く。なんと滑稽な話だろう。かつて彼は誓ってくれたはずだ。一生君