All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

「申し訳ございません、温井さん。手術に最適な時期は、もう過ぎてしまっておりました……」子宮がんの診断書を握りしめたまま、温井紬(ぬくい つむぎ)はしばらく動けずにいた。どれくらい経っただろう、彼女はようやく我に返り、長谷川慎(はせがわ しん)の秘書である柏木要(かしわぎ かなめ)に電話をかける。呼び出し音が長く鳴り続けた。やっと出た相手の声は、いつも通り素っ気ない。「奥様、何か御用でしょうか」紬は震える指を握りしめた。「慎は?話があるの」「長谷川代表は今、取り込み中です」要が答えた。「少しだけでいいから、代わってもらえない……?」要の返事を待つ間もなく、受話器の向こうから柔らかな女性の声が聞こえてきた。「慎、サプライズって一体どんな物なの?もったいぶらないで教えてよ」「上を見て」聞き慣れた低い声。でも、紬に向けられたことは一度もない、あたたかな響きだった。次の瞬間、要は遠慮なく電話を切った。そのとき――ドォンッ!港の対岸から轟音が響いた。紬は青ざめた顔で空を仰ぐ。対岸から打ち上がる、華やかな花火。紺碧の夜空を彩る光の饗宴は、まるでおとぎ話のように美しかった。病院の入口には、人だかりができていた。「ねえ、知ってる?あれ、ランセー・ホールディングスの長谷川代表が彼女の誕生日に上げた花火なんだって。一晩で40億円以上らしいわよ!」「お相手、園部寧音(そのべ ねね)さんでしょ!世界トップの工科大の博士で、国内の一流企業が引く手あまたのエリート。頭も良くて美人で、家柄も申し分ないし、彼氏まであんなイケメンの大金持ちなんて!」「そりゃあの長谷川代表も夢中になるわよ。あんな完璧な彼女、自慢したくなるに決まってるじゃない!」紬は派手に輝く花火を見上げたまま、じっと立ち尽くしていた。やがて、握りしめていた診断書がするりと指から滑り落ち、薄い紙切れが足元に舞い降りる。彼女は踵を返し、静かに立ち去った。その日の明け方のこと。慎が帰宅すると、灯りもつけずに紬が暗闇のリビングに座っていた。彼はスイッチに手を伸ばして明かりをつけ、眉をひそめる。「まだ起きてたのか」紬は顔を上げ、目の前の人を見つめる。上腕にかける上着、深い黒の瞳。変わらず冷ややかな眼差しで、こちらを見下ろしている。ずっと、彼はこういう
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第2話

心臓を鷲掴みにされたような痛みが走り、紬の顔からさらに血の気が引いた。エアコンで快適に保たれた部屋の中にいるというのに、氷室に放り込まれたような寒気が全身を包み込む。紬が黙り込んだまま何も言わないのを見て、慎はしばらくしてからようやく視線を外した。「寧音の母親の体調が悪化してる。唯一の願いは、娘に寄り添ってくれる人がいるのを見届けることだ。今の彼女には、支えが必要なんだ……お前、余計なことはするな。『長谷川代表の妻』として大人しくしていれば、俺は手は出さない」浮気を正当化するような、堂々とした物言い。手は出さないって?紬はしばらくぼんやりとしていたが、ふっと笑った。胸が締め付けられる痛みをこらえながら、口を開く。「彼女に寄り添うつもりなら、こんなところに来てる場合じゃないでしょう」そう言い捨てて、紬は階段を上がり、躊躇なく寝室のドアを閉めた。数分後、階下から車のエンジン音が聞こえた。慎が出て行ったのだ。どこへ向かったかなど、考えるまでもない。どうせ寧音のもとだろう。紬は疲れ切った身体を引きずるように洗面所へ向かい、顔を洗った。冷たい水が頬を打ち、ようやく意識がはっきりする。部屋に戻った彼女はパソコンを開き、三年前に登録していた弁護士に連絡を取り、離婚協議書の作成を依頼する。すると、弁護士が尋ねてきた。「温井さん、家や車、財産分与について、何か特別なご要望は?」紬は少し考えてから、静かに答えた。「何もいりません」慎さえいらないのだ。ましてや、それ以外のものなど。それに、ネットで調べたところ、何も要求しなければ手続きはもっと早く進むという。衰弱していくこの体で、彼と交渉する必要もない。弁護士はすぐに完成した協議書を送ってきた。紬はそれをプリントし、万年筆を握る手が真っ白になるほど力を込めた。けれど迷いはなかった。震えを抑えながら、一画一画丁寧に、自分の名前を書き込んでいく。それから、痛む身体に鞭打って、急いで自分の物をまとめた。玄関まで来たとき、三年間手入れしてきたこの家を深く見つめた。そして振り返ることなく、出て行った。翌朝、紬は休暇を取り、市内の即配サービスを呼んだ。昨夜印刷した離婚協議書を、ランセーの受付に届けるよう手配する。宅配便のようなことに、慎が自分で手を出すはずがない。だか
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第3話

「柊さん!」弾んだ女の声が、紬の思考を粉々に砕いた。その身体が紬の横をすり抜け、真っ直ぐに柊の広い胸へと飛び込んでいく。一方柊はいつものように女を受け止め、身体にしがみつくままにさせていた。「もう、どれだけ待ったと思ってるの!あなたが出てこないと、パパに無理やり結婚させられちゃうところだったのよ!」柊は女の顔を見つめながら、熱烈なキスに応えている。唇の端を上げて、「そんなに急いでどうする?じゃあ後で運転手を車から降ろして、お父さんに特別な贈り物でもしてやるか……」女は甘えた声で抗議しながらも、彼にしがみついたまま離れようとしない。「もう、柊さんったら意地悪!パパがあなたに会いたくて、早く家に連れてくるように言ってるの。出所祝いもしてくれるって……」紬の足は、その場に釘付けになっていた。茫然と、その光景を見つめるしかない。気まずさと戸惑いが、遅れて押し寄せてくる。かつてあんなに優しく、いつも自分を最優先にしてくれた柊。それは十数年間見続けた、ただの夢だったのだろうか。下腹部に、またじくじくとした痛みが走り始めた。刃物が、時を超えて再び身体を貫くような痛み。――「紬、僕は須藤家の戸籍に入りたくない。本当の意味で、君の兄になんかなりたくないんだ」――「大きくなったら、僕と結婚してくれるか?」優しい声が脳頭に響き、紬は一瞬現実を見失った。「危ない!」緊迫した叫び声が響く。紬が顔を上げると、バイクが猛スピードで突っ込んでくる。こちらへ――自分と、柊と、あの女のいる方へ。柊は躊躇なく女を抱えて後ろに下がり、彼女をしっかりと庇った。紬は自分一人で慌てて避けるしかなかった。慌てふためいて顔を覆い、足首を捻ってしまう。「君……」柊がこちらを見た。深い瞳に、戸惑いと焦るような色が浮かんでいる。「あっ、大丈夫……」紬は涙がこぼれる前に、身を翻して走り去った。女が不思議そうに尋ねる。「誰、あの人」柊はしばらく呆然としていたが、やがて女の顎を掴んで頭を下げ、キスを落とした。「知り合いに似てただけさ」知り合い……十数年も寝食を共にし、かつて結婚したいとまで言ってくれた相手のことを?紬は車に戻り、捻れるように痛む腹を押さえてハンドルに突っ伏した。冷や汗が次々と噴き出す。胸の痛みと、病に侵された身体の痛
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第4話

紬は呆然と立ち尽くした。青ざめた唇を強く噛みしめて言った。「慎からの指示なの?」「ええ」要は正直、紬のことが好きではなかった。仕事熱心で能力もあるが、そもそも汚い手段で代表のベッドに潜り込み、結婚を迫ったことはいけなかった。そんな女は、軽蔑に値する。「長谷川代表は、世論が収まるまで、今日はどこにも行くなとおっしゃいました」「できないというのなら、こんな無用な人間をランセーに置いておく余裕はないと!」紬は、慎の心に自分がいないことくらいとっくに分かっていたけれど、離婚を決めたこの時期に、まさかこんな仕打ちを受けるとは思ってもみなかった。妻である自分に、夫の浮気相手のために――しかも事実を隠蔽するような処理をしろと言うのだ!怒りが胸を突き刺し、下腹部の痛みが激しさを増す。紬はデスクに手をついて不調を隠しながら、嘲りを込めて自分の名札を見下ろした。手に取り、首から外す。「ランセーが無用な人間を置かないのは確かね。でも、この仕事は私には無理」彼女は淡々と名札をデスクの端に置いた。「私、辞職します」昨夜、離婚協議書を作ったのと同時に、退職願も提出していた。手続きが煩雑で、まだ慎のところまで届いていないのかもしれない。けれど今日、寧音に関する仕事だけは、絶対に引き受けるつもりはなかった。「今後、園部さんに関することは一切私に振らないで。慎に、他の人を手配してもらってください。ランセーほどの大企業なら、私一人欠けても困らないでしょう!」要は一瞬、驚愕に目を見開いた。温井紬が、やめる……?長谷川代表に近づける、この仕事を本当に手放すつもりなのか?どうせまた、一歩引くことで気を引く――長谷川代表の関心を得るための策略だろう。要は最上階へと戻った。慎のスケジュールは詰まっていた。これから東凛テクノロジーズの高橋(たかはし)社長との面会が控えている。「長谷川代表、東凛の契約書です。ご確認ください」慎は目を落として書類に視線を走らせる。「寧音のこと、広報部の処理は進んでいるか?」要は一瞬言葉に詰まった。「温井マネージャーは……」「端的に言え」「温井マネージャーは、この件は処理できないと」「退職願を提出しており、今後園部さんのことで連絡するなと言っています」慎が契約書をめくる手
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第5話

手元の仕事を片付けると、要から電話が入った。慎の意向を繰り返し伝えられる。紬はすぐに、慎の意図を読み取った。寧音と慎の関係は、いわゆる不倫関係だ。寧音はまぎれもなく「愛人」という立場にいる。慎が紬にこの件の処理を命じたのは、保険をかけるためだ。万が一、後になって誰かが過去を蒸し返したとき、妻である紬自身が「二人の関係を認めた」という事実があれば、寧音は二人の結婚への介入者とは見なされず、世間の批判を免れることができる。……慎は寧音のために、どれだけ心血を注いでいるのか!あの「責任を取らせる」という言葉の意味も明白だった。もし処理を拒めば、ランセーを辞めた後、どの会社も紬を受け入れようとはしないだろう。彼女の生きる道を、慎は断つことができる。振り返ってみるとこの三年間、紬は妻としての務めを尽くしてきた。彼と結婚した日から、過去の全てを断ち切る覚悟を決めていた。それでも、ほんの少しの真心さえ返ってこなかった。もう、疲れた……紬は自嘲的に唇の端を上げ、淡々と告げた。「病気休暇を取ります。もしこんな私に無理やり処理させるなら、労働法違反です。裁判所で会いましょう」離婚も辞職も決めた今、慎の機嫌など、もう気にする必要はなかった!退社後、車に乗り込むと、父である須藤康敬(すとう やすのり)からメッセージが届いていた。【お前の兄が出所したから、家で宴を開く。戻ってくるのか?】問いかけの形ではあるが、紬には分かっていた。康敬は「親不孝な娘」である彼女に戻ってきてほしくないのだ。かつて紬と柊の間に芽生えた感情を、康敬は恥辱と見なしていた。紬が風紀を乱したと責め、もし長谷川家のような名門に嫁ぐ利用価値がなければ、とうの昔に勘当して、永久に縁を切っていただろう。でも、相手は柊だ。かつて、紬にとって最も大切だった人。紬はしばらく迷った末、化粧を直して血色をよく見せ、車を走らせて須藤家の別邸へと向かった。柊のためでなければ、この家と関わることなど二度となかっただろう。紬の姿を見て、使用人が奇妙な表情を浮かべ、眉をひそめる。「温井お嬢さん、どうして……?」紬は答えなかった。数年前から、ここはもう自分の家ではなくなっていた。使用人たちでさえ、心から紬を見下し、歓迎していないのだ。「温井紬?」 階段から須藤瑠衣(すとう
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第6話

紬は柊と目を合わせた。彼は口元に笑みを浮かべているようで、しかし目は笑っていない。まるで他人事のように、紬が動揺する様子を観察している。紬は指先に力を込めた。心の奥底に残っていた最後の期待が、音もなく消えていく。彼女は視線を逸らさず、柊の望み通りに答えた。「ええ。義姉さん、よろしくお願いします」茜の笑みが一層深まり、柊の腰に抱きついて甘える。柊は一瞬動きを止め、紬をちらりと見た。それから頭を下げて茜を抱き寄せ、応接間へと入っていった。「ちっ、何を大人ぶってるのよ」瑠衣が近づいてきて、紬を嘲笑う。「お兄ちゃんは今、人妻なんか眼中にないわよ!」「それに昨日、長谷川代表が誕生日を祝ってた園部さん。最近、企業界で取り合いになってる航空工学博士なんですってね。料理と夜伽しか能がない専業主婦のあんたなんて、比べ物にならないわ」「もしかして、追い出されるのが怖くなって、須藤家に泣きついてきたとか?」この最悪な結婚生活を、みんなが笑い種にしている……紬の胸が締め付けられた。手に提げていたプレゼントを置き、言葉を返す。「安心して。これから先、私がどうなろうと須藤家には関係ない。だって、私の名字は温井だもの」紬は振り返ることなく、須藤家を立ち去った。ここに留まっても、お互いに不快になるだけだ。「あいつはもう帰ったのか?」康敬が脇の部屋から出てきた。ちょうど紬が決然と去っていく背中が見え、表情が険しくなる。瑠衣は我に返り、つい愚痴をこぼした。「パパ、あの態度見た?須藤家もパパも馬鹿にしてるのよ。長谷川代表も、そのうち離婚するに決まってるわ」この三年間、康敬も悟っていた。紬は慎の心など掴んでいない。結婚直後こそ紬を利用して長谷川家から恩恵を受けたが、その後、須藤家の多くのプロジェクトで長谷川家の後ろ盾を期待しても一切便宜を図ってもらえなかった。長谷川慎は義父である自分など、まるで気にかけていないのだ!これも温井紬が役立たずだからだ。夫の心さえ掴めないとは、まったくの無能者だ!康敬は顔を曇らせ、瑠衣を一瞥した。「お前も年頃だ。あいつは使えない。機会を見つけて、お前を長谷川代表の前に出してやろう」この話の意味を、瑠衣が理解しないはずがない。彼女の表情が一瞬硬くなった。思わず柊の方を見ると、彼は妖しげに笑いながら、ぶ
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第7話

翌日、家政婦がやってきたとき、慎の妹である長谷川紫乃(はせがわ しの)も一緒だった。まだ17歳になったばかりの少女は、勢いよく玄関に入るなりバッグをソファに放り投げた。「紬は?」紫乃は目をぱちくりさせて慎を見上げる。慎はネクタイを結びながら、彼女を一瞥した。「呼び方」紫乃は唇を尖らせる。「お兄ちゃんだって彼女のこと好きじゃないのに、なんで『義姉さん』なんて呼ばなきゃいけないの」温井紬は格上の家に嫁いだ立場、長谷川家のために尽くして当然なのだとママが言ってた。確か、何て言ってたっけ?高級家政婦?「で、今度は何の企みだ?」慎は妹の性格をよく理解していた。冷淡で圧のある口調で問いかける。紫乃の目がくるくると動いた。「お兄ちゃんってさ、今日すごく忙しいんでしょ?」「で?」「ママはファッションショーを見に行ったし、パパは海外だし、おばあちゃんだって体調悪い。誰も保護者会に来てくれないの」「だから紬に行ってもらえばいいじゃない。どうせお兄ちゃんのお金で食べて暮らしてるニートなんだし、時間なんて一番あるでしょ」紫乃は小さな足をぶらぶらさせながら、甘えた声で言った。慎は一瞬動きを止めた。「自分で彼女と相談しろ」紫乃は鼻を鳴らし、自信たっぷりに言う。「紬のやつ、お兄ちゃんに気に入られたくて、あたしにすっごく親切なんだから。ネットで言ってる計算高い女ってやつね。連絡すればきっと来るよ」最近、紫乃は寧音が海外で行った航空分野の公開講演にハマっていて、成績が少し下がっていた。今回の保護者会では先生が保護者と面談するって言われたから、兄や母には来てほしくない。どうせ紬なら関係ないし、先生に叱られたって平気だ。紬は自分に気に入られようと必死だから、兄や母にチクったりしないはず。その言葉を聞いて、慎は何か考え込むように一瞬沈黙した。それから上着を羽織りながら外へ向かう。「ああ、彼女の休暇は許可しておく」紬が目を覚ましたとき、頭痛を感じた。少し熱もある。今の紬の身体は、いつどこで不調が出てもおかしくない。免疫システムも抵抗力も、もう正常な人のようには機能していないのだ。昨日から病気休暇を取っている。今日こそ病院で医師と保存的治療の方針を確認しなければ。病院のロビーに着いたとき、紬の足はすでにふらついていた。数歩進んだところ
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第8話

当時、紬が理想の専攻で学び続けていたら、航空工学の業界に進んでいただろう。ドローンはこの時代における最重要のハイテク製品だ。民間、農業など、あらゆる分野で活用されている。かつて恩師が推薦状を書いて研究院に紹介してくれたのには、理由があった。紬が設計と技術指導を担当した偵察攻撃一体型ドローン「U.N」――長距離飛行、高積載量、高速度、自動化操作を実現し、数々の技術的難関を突破したその機体は、今や実戦投入されている。業界内では、すでに「頂点」と呼べる存在だった。しかし今になり、結婚生活に時間を費やし、心身ともに傷つき、若くしてがんに侵され、あとどれだけ生きられるかも分からない。それでも紬は、一つの真理に辿り着いた。――人は結局、自分自身を第一に考え、自分のために生きるべきなのだと。たとえ将来、治療が功を奏さなかったとしても。限られた時間の中で、後悔しない生き方をしたい。紬は……自分の分野に戻り、夢を追い続けたい!笑美は技術のことは分からないが、彼女のフライテックには一流の人材が揃っている。笑美が資金を出し、相手がチームを率いて研究を進める。この数年でフライテックは急成長を遂げ、西京市では侮れないダークホースとなっていた。その価値は計り知れない。ただ――「知ってるでしょ。私が結婚を選んだとき、あの人はもう私と関わりを持ちたくないって言ったのよ。それにあの人、フライテックの責任者だもの。私が行ったら……許してくれると思う?」かつて紬に推薦状を書いてくれたのは、あの人の父親だった。父子揃って紬に大きな期待を寄せ、多くの労力を費やしてくれた。紬は将来必ず大成し、国に貢献するだろうと信じてくれていた。それなのに紬は、結婚することで彼らを裏切ってしまった。笑美は頭を掻いた。「承一は、口は悪いけど心は優しいのよ。今度機会を作って二人で話してもらえば大丈夫。実は、紬のこと気にかけてるんだから」紬は苦笑した。もしあの時、康敬が権力者に取り入ろうと策略を弄して自分を慎のベッドに送り込み、愛するすべてを捨てるよう脅迫しなければ――今頃、もっと輝かしい人生を送っていたかもしれない。携帯がブルブル震えた。紫乃からの着信だ。紬は眉をひそめ、通話を切った。離婚を決めた今、紫乃の我儘に付き合うつもりはない。
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第9話

寧音は紬に気づいていないかのように、優しく微笑んで紫乃に言った。「紫乃ちゃんが喜ぶなら、どう呼んでくれても構わないわ」慎が顔を上げる。苛立ちを隠さない口調で紬に詰めた。「何しに来たんた?」紬は彼の冷ややかな視線を受け止め、彼の意図を理解した。彼は何か勘違いしている。案の定、傍らにいた堂本陸(どうもと りく)が紬を見つけ、冷たく言い放った。「温井さん、なかなかやるじゃないですか。慎をつけ回して、私たちの仲間内の集まりにまで来るなんて。みんな品位ある人間ですよ。そんな真似して、恥ずかしくないですか?」紬がここに来たのは、どうせ他に理由なんてないだろう?浮気の証拠を押さえに来たに間違いない。「本当につまらない人ですね。慎が君を好きじゃないことくらい分かってるだろうに」陸は紬を見透かしたような顔で、首を横に振った。紬は当初、ベッドに忍び込んだ後、記者に盗撮させる手はずを整えた。慎が素早く揉み消さなければ、長谷川家の面目は丸潰れだった。自分の純潔を賭けて、のし上がった女。彼らは皆、そんな紬を軽蔑していた。紬はこうした冷笑には慣れていた。慎の友人たちは皆、紬の「恥知らず」を憎んでいる。寧音は慎の隣にどっしりと座り、穏やかで優しげな表情で紫乃にジュースを注いでいた。紬を一瞥することもなく、骨の髄まで優雅で自信に満ちている。彼女は紬との対峙など、まったく恐れていないのだ。紬には分かっていた。これが、愛される者の余裕なのだと。「義姉さん、気分悪くしてないよね?」隣で紫乃が心配そうに寧音を見つめた。紬の到来で、兄を奪ったこの女に寧音が不快な思いをしないか気がかりなのだ。寧音は態度を示さず、ただ柔らかく微笑むだけ。慎はおそらく寧音の誤解を恐れたのだろう。端整な顔を極度に冷たくして言った。「話があるなら外で」紬は目を伏せ、個室を後にした。廊下に出ると、慎が淡々と彼女を見つめる。「どうやって俺がここにいると知った?」口調は平静だが、紬が意図的に尾行してきたと決めつけている。紬は彼の視線を受け止め、胸がまた締め付けられた。「勘違いしないで。あなたを探しに来たんじゃない。誰と一緒にいようと、もう気にしないから」離婚を決めた今、もう干渉するつもりはない。「気にしないなら、わざわざ病気休暇を取って寧音の広
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第10話

慎が戻ってくるのを見て、寧音は彼の精悍な顔が冷え切っているのに気づいた。紬との話し合いは上手くいかなかったようだ。慎は紬への苛立ちを隠そうともしない。紫乃は少し上の空だった。「お兄ちゃん、彼女、何か言ってた?あたしの悪口とか……」慎は顔を上げて妹を見た。「お前、何か気に障ることでもしたのか?」「してないよ」紫乃はジュースを手に持ってぼそぼそと言った。「そんなに暇じゃないもん!」仁志が入ってきて、慎を一瞥した。さっき外で見た光景については何も言わない。寧音を不快にさせたくないからだ。自分の男が他の女に抱きつかれるなんて、嫌に決まっている。陸が嘲笑する。「妹に聞いてどうするんですか。あの女が図々しいだけですよ。ストーカーまでして追いかけてくるなんて。騒ぐにしても、自分に資格があるか考えろって話でしょう?」仁志はタバコに火をつけた。「この様子じゃ、君から離婚を切り出しても、しがみついてくるぞ。慎、覚悟しとけよ」慎は何も言わず、淡々とした表情で寧音にお茶を注いだ。寧音はただ静かに微笑むだけで、評価も態度も示さなかった。明らかにこの出来事など眼中にない。紫乃はこの状況を見て、一瞬心に後ろめたさを感じた。でもすぐに考え直す。自分のせいじゃなくたって、紬はあんな媚びへつらう性格だから、押しかけてくるくらいきっとやるだろう。それなら、わざわざ説明する必要なんてないじゃない?紬はもともと、そういう価値のない女なのだ。みんなが誤解しようがしまいが、重要なことだろうか?そう思うと、紫乃は急に気が楽になり、また崇拝するような目で寧音にA大学のことを尋ね始めた。紬は主治医と来週月曜日に保存的治療について詳しく話し合う約束をした。金曜の朝早く、笑美から紬にメッセージが届いた。承一が午後、ドローン飛行制御の招待試合に出席するという。本来なら笑美も大株主の一人として出席するはずだったが、紬と承一の関係修復のため、招待状を紬に譲り、彼と会う機会を作らせようとした。紬は感動すると同時に、申し訳なく思った。人を見る目がなく、こんなに長い時間を無駄にし、多くの人の期待を裏切ってしまった。彼女は心から恥じている。10時。退職願を提出した紬には、まだ引き継ぎが残っていた。広報部には自分の後任に適していると思う人材がいた
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