「申し訳ございません、温井さん。手術に最適な時期は、もう過ぎてしまっておりました……」子宮がんの診断書を握りしめたまま、温井紬(ぬくい つむぎ)はしばらく動けずにいた。どれくらい経っただろう、彼女はようやく我に返り、長谷川慎(はせがわ しん)の秘書である柏木要(かしわぎ かなめ)に電話をかける。呼び出し音が長く鳴り続けた。やっと出た相手の声は、いつも通り素っ気ない。「奥様、何か御用でしょうか」紬は震える指を握りしめた。「慎は?話があるの」「長谷川代表は今、取り込み中です」要が答えた。「少しだけでいいから、代わってもらえない……?」要の返事を待つ間もなく、受話器の向こうから柔らかな女性の声が聞こえてきた。「慎、サプライズって一体どんな物なの?もったいぶらないで教えてよ」「上を見て」聞き慣れた低い声。でも、紬に向けられたことは一度もない、あたたかな響きだった。次の瞬間、要は遠慮なく電話を切った。そのとき――ドォンッ!港の対岸から轟音が響いた。紬は青ざめた顔で空を仰ぐ。対岸から打ち上がる、華やかな花火。紺碧の夜空を彩る光の饗宴は、まるでおとぎ話のように美しかった。病院の入口には、人だかりができていた。「ねえ、知ってる?あれ、ランセー・ホールディングスの長谷川代表が彼女の誕生日に上げた花火なんだって。一晩で40億円以上らしいわよ!」「お相手、園部寧音(そのべ ねね)さんでしょ!世界トップの工科大の博士で、国内の一流企業が引く手あまたのエリート。頭も良くて美人で、家柄も申し分ないし、彼氏まであんなイケメンの大金持ちなんて!」「そりゃあの長谷川代表も夢中になるわよ。あんな完璧な彼女、自慢したくなるに決まってるじゃない!」紬は派手に輝く花火を見上げたまま、じっと立ち尽くしていた。やがて、握りしめていた診断書がするりと指から滑り落ち、薄い紙切れが足元に舞い降りる。彼女は踵を返し、静かに立ち去った。その日の明け方のこと。慎が帰宅すると、灯りもつけずに紬が暗闇のリビングに座っていた。彼はスイッチに手を伸ばして明かりをつけ、眉をひそめる。「まだ起きてたのか」紬は顔を上げ、目の前の人を見つめる。上腕にかける上着、深い黒の瞳。変わらず冷ややかな眼差しで、こちらを見下ろしている。ずっと、彼はこういう
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