助け船?紗枝は冷笑した。これが自分を地獄に突き落とそうとする、実の母親だなんて。「お金は私が実力で稼いだものよ。欲しいなら、自分の力で手に入れればいい。そんな脅しで私を動かせると思わないで」言い終わると、紗枝はそのまま電話を切った。そして彰に電話をかけたが、案の定、つながらなかった。どうやら一度桃洲市に戻り、この件を片付ける必要がありそうだった。紗枝は急いで起き上がり、出雲おばさんの様子を見に行った。出雲おばさんは目を覚ましていて、昨夜のことが誤解だったと知り、少し困惑していた。「本当に啓司は変わったのか?」「私にも分からないけど、どうか気にしないで、ゆっくり休んでね」「ええ」出雲おばさんは頷いて同意した。紗枝は友人が問題を抱えてるから、しばらく面倒を見に行く必要があると伝えた。「わかった、行ってきなさい。心配しないで、大丈夫だから」紗枝は啓司と出雲おばさんを二人きりで家に残していくのは心配だった。「介護の人を頼んでおきますから」出雲おばさんも、断れば紗枝が心配することを分かっているため、頷いて「分かった」と答えた。紗枝が階下に降りると、テーブルには朝食が置かれており、その傍らに一枚のメモがあった。そこには、啓司の力強い筆跡でこう書かれていた。「病院で検査を受けてきます」啓司は実際、病院に行くことなく、牧野に任せて自分は牡丹別荘に戻ることにした。牧野が伝えたところによると、牡丹別荘にはまだいくつかの機密書類が残っているらしい。......一方、別邸では美希と葵が向かい合って座っていた。今の美希は、かつての没落した上流階級の夫人ではなく、完全に様変わりしていた。五年前、彼女は息子の太郎を連れて海外に逃れた後、ある手段を使って現地の日本実業家と結婚した。今や桃洲市のマダムたちがこぞって取り入ろうとしている彼女には、柳沢葵も逆らえなかった。なぜなら、彼女の夫が芸能界の影響力を握っていたからだ。「おばさん、紗枝さんはお金を返すって言いました?」と葵が尋ねた。美希は怒りを含んだ表情で冷笑し、「あの恩知らずが素直にお金を返すわけがないじゃないの」と言った。葵はそれを聞いて彼女を慰めた。「おばさん、そんなに怒らないでください。怒ると体に悪いですし、私が紗枝さんに
夜が明けると、大雪が降り積もった牡丹別荘では、使用人たちが外で雪かきをしていた。啓司が車に座っていると、牧野がある人物が別荘へ入っていくのを見つけた。それは拓司だった。牧野はすぐに啓司に報告し、「今すぐ行きますか?」と尋ねた。今は牡丹別荘に使用人が多くいるため、啓司が入れば拓司の偽の身分は簡単に露見してしまうだろう。数日前、拓司は身分の問題で一時的に実家に滞在していたが、こんなに早く牡丹別荘に移り住むとは思ってもみなかった。身分を偽って会社を奪い、今度は別荘も手に入れ、次に親族や妻までも奪おうというのだろうか?「急がなくていい」啓司の声で牧野は我に返った。彼は仕方なく車を遠くに停めた。牧野はずっと啓司に付き従ってはいたが、彼に弟がいると聞いたことがあるだけだった。今日は初めて実物に会ったが、本当に啓司と瓜二つだった。もし同じ服を着ていたら、誰が誰だか見分けがつかないかもしれないと思った。拓司は啓司の実の弟で、会社を掌握しているのも無能な従兄弟の子昂よりはましだった。待っているとき、車の前を一台のワゴン車が通り過ぎた。車に乗っていたのは葵だったことに、牧野は気づかなかった。牡丹別荘内では、拓司が部屋を見回していた。そして、紗枝の寝室にたどり着くと、サイドテーブルに伏せられた写真が目に入った。すらりとした美しい手で写真を取り上げ、表を向けた拓司の目が鋭く光った。そこには紗枝と啓司が一緒に写っていた。紗枝は白いドレスをまとい、タキシード姿の啓司の腕に慎重に手をかけていた。これは二人が婚約したばかりのときに、婚約パーティーで記者に撮影されたものだった。紗枝と啓司はウェディングフォトを撮っておらず、彼女はこの一枚をそっと大切にしまって、二人のウェディングフォト代わりにしていた。後に離婚を決意し、この写真をそのまま残していた。拓司が写真をじっと見ていると、部屋の外から秘書の万崎清子の声が聞こえた。「拓司さま、下の階にお客様がいらっしゃっています」清子は拓司が海外で治療を受けている間、常にそばで面倒を見ていた人で、桃洲市では綾子を除き、拓司の本当の身分を知っている唯一の存在だった。「誰だ?」と拓司が聞くと、清子は標準的な制服に身を包み、手持ちのタブレットを開きながら説明した。「柳沢
土下座して謝れ!!葵は信じられないという顔で目の前の男を見つめ、下ろした手をぎゅっと握りしめた。もし紗枝が昇と組んであの動画を公開し、自分を失墜させなければ、こんな状況にまで落ちぶれることもなかっただろう。それなのに、今では土下座して謝罪しろと言われるなんて。だが、啓司の手段を思い出し、葵は仕方なく同意した。「分かりました、行きます」葵は自分がどうやって牡丹別荘を出たかもわからないまま立ち去った。彼女が去ると、清子が不思議そうに尋ねた。「拓司さま、どうして彼女に紗枝さんへの謝罪を強要したんですか?」「啓司さまとずっとそりが合わないのに、今さら彼の奥さんを庇う必要があるんですか?」清子がそう言い終えたとき、彼女は背中に冷やりとした視線を感じた。普段は穏やかな拓司の視線が、どこか冷たく鋭かったのだ。「清子、君にはわからない」清子は拓司と紗枝の過去を知らないため、それ以上は尋ねることができなかった。「それでは、葵さんに人をつけて、ちゃんと謝罪するか見届けさせます」「うむ」二人は牡丹別荘には長居せず、すぐに立ち去った。彼らが去ったあと、啓司と牧野も密道を通って牡丹別荘に入った。牧野は、かつて社長が掘らせた密道がこんなふうに役立つとは思ってもみなかった。啓司は記憶を失っているものの、牡丹別荘に戻ってからは何かを感じ取ったのか、機密書類がどこに隠されているのかを知っているかのようだった。すぐに書類を見つけ出した。帰りの車の中で、啓司はその文書を牧野に手渡した。牧野は驚き、「社長、ご自身で確認された方が?」と提案した。「君が裏切らないことはわかっている」と啓司は冷静に言った。「はい」牧野はやっと文書を開き、中身を確認した。何気なく数ページを開いてみただけで、牧野は社長の個人資産が表向きの額だけでなく、海外にも数えきれないほどの資金があることに気づいた。恐らく黒木グループの資産を遥かに超える規模だった。自分が忠誠を尽くしてきた相手が間違っていなかったことを、牧野は改めて実感した。「今すぐ退職し、新しい会社を立ち上げてくれ」と啓司はシートに寄りかかりながら言った。「子供が生まれるまでに、紗枝ちゃんとその子に大きな贈り物をしたいんだ」元々牧野も新しい会社の設立を提案していたが、啓司は
啓司が家に戻ると、紗枝の姿がどこにも見当たらず、少し苛立ちを感じた。自分は外出時に必ずメモを残すのに、彼女はどこに行ったかも教えてくれないなんて。紗枝が出雲おばさんのために頼んだ介護士が台所で食事の準備をしており、時折不機嫌そうに外を見つめている啓司の方へ目を向けていた。啓司が「紗枝ちゃん」と何度か呼ぶのを聞くと、介護士は思わず声をかけた。「夏目さんは、ここ数日戻らないかもしれません。お年寄りのお世話を頼まれました」啓司はその知らない声に反応して、「あなたは?」と尋ねた。「旦那様、私は夏目さんに頼まれて来た介護士です」介護士が出てきて、目の前の男性が盲目だと気づき、すかさず一言付け加えた。「旦那様、二人分のお世話をするなら追加料金を頂きますよ」「夏目さんからはお婆さんのお世話だけ頼まれていたので、目の不自由な人のお世話は聞いていませんからね」彼女は何度も「目の不自由な人」と繰り返す。啓司の顔は怒りで真っ黒になった。「僕に世話は必要ない」「いやいや、あんたみたいな目の見えない人が、一人でやれるわけないでしょう?それはそれ、追加料金はもらいますよ!」啓司の表情は一瞬で険しくなった。「出て行け!」介護士は驚いて飛び跳ねた。「な、何を怒鳴るのよ?私は夏目さんに雇われたのよ。彼女以外、誰にも辞めさせる権利はないの!」「それに、私を辞めさせたら、お婆さんの世話は誰がするの?」十数分後、隠れていた数人のボディーガードが出てきて、介護士を抱え上げて外に運び出した。出雲おばさんは外の騒ぎで目を覚まし、様子を見に行くと、外で介護士が怒鳴っていました「追加料金を払わないどころか、外に追い出すなんて!警察呼んでやるから!訴えてやる!ううう......」小さい頃からずっと、誰も啓司の前でこんな風に大声を出したり、無礼な態度を取ったりする人はいなかったため、彼はその醜態に頭を抱えていた。啓司は外へ出ると、「口を塞いで、道端に放り出せ」と言った。その介護士は四、五十代の女性で、ボディーガードたちには敵わないものの、非常に口が立ち、遠慮もない。しかも、啓司のことも知らず、男が自分に手出しできないと思い込み、いくらでも金を取ろうとしていた。「いやだ、もう無法地帯じゃない!誰か助けて!この男が私の服を引き剥がそうと
啓司は家の外で交わされる話を耳にしながら、表情は変えずとも耳が赤くなっていた。「聞いているか?」と彼はボディーガードたちに尋ねた。ボディーガードたちは全員、即座に首を横に振った。しばらくすると、集まった年配の女性たちがボディーガードたちに次々と女を紹介しようとし始めた。出雲おばさんが住んでいるのは桑鈴町の遠い地域で、ここに住む人たちは、かつて紗枝が社長の娘だったが、後に何かあって亡くなったらしいとだけ聞いていた。後になって、それがただの誤解だったと分かった。それ以来、誰も出雲おばさんに近づこうとしなかったのは、5年前に啓司が大勢の手下を連れて近隣の住民を連行し、色々と質問をしたことが原因でした。住民たちは、出雲おばさんが何か恐ろしい人物を怒らせてしまったのではないかと思い込み、戻ってきた後も接触を避け続けていた。当時、啓司が紗枝と出雲おばさんの行方を尋ねていたが、住民たちは誰も顔を上げず、啓司の顔も覚えていなかった。今日、近所の人たちは出雲おばさんと、目が見えない紗枝の旦那の姿を目にして、どうしても気になり、つい盗み見してしまった。最初は紗枝の旦那が目が見えないことに同情していたが、啓司の姿を見た途端、紗枝がこんなにいい男と結婚できたことを知り、「目が見えないほうが浮気しないし、むしろいいことかも」と思い、彼女の目利きに感心し始めたのだった。短い賑わいの後。啓司は出雲おばさんと共に家の中へ戻った。啓司の耳には、出雲おばさんが自分を「婿」と呼んだ言葉が残っていて、未だに少し顔が赤らんでいた。出雲おばさんも、大企業の社長である啓司が、あんなふうに下品な女性に侮辱される様子を見るとは思わなかったようだった。彼女は知らなかったが、もし彼女が出てこなければ、あの介護士は無事で済まなかったかもしれない。「新しい介護士はもう頼んでいます」と啓司が告げた。「ええ、わかりました」と出雲おばさんは応じたが、先ほどの一件で体力を消耗していたのか、声に少し疲れが見えた。彼女は痛みをこらえながら啓司に伝えた。「先ほどお助けしましたが、それで許したわけではありません。ただ、あなたが紗枝さんの夫ですから。他人に侮辱されるのを見過ごすことはできなかっただけです」許し......啓司はその言葉に引っかかった。牧野
啓司は、かすかに五年前の記憶の断片を思い出し始めていた。二人が結婚した際、彼が紗枝を一人置き去りにしたこと。紗枝の父が亡くなったとき、涙に濡れた彼女の顔をよそに、啓司は夏目家の裏切りにばかりこだわり、彼女を気にかけなかったこと......啓司はもっと思い出そうとしたが、頭がますます痛み始め、それ以上考えるのをやめて、出雲おばさんの方を向いて言った。「出雲おばさん、ご期待には応えられません」驚いた出雲おばさんが返答する間もなく、啓司は続けた。「僕は自分が愛する人が他の男と結ばれるのを、黙って見ていることはできません。変わると誓います、必ず紗枝を大切にして、二度と傷つけません」だが、出雲おばさんはその言葉に信じを置いていなかった。「何を言っても、あなたの今の変化なんて、目が見えないからでしょ。もしちゃんと見えていたら、紗枝を大事にするわけがない」啓司には返す言葉がなかったが、彼は心の中で、出雲おばさんに自分の変化を見せて信じてもらうしかないと決意していた。苛立ちを抱えた出雲おばさんは、黙って部屋へ戻っていった。啓司は帰宅後まだ食事をしておらず、紗枝もまだ戻ってきていなかった。介護士が「夏目さんは、ここ数日戻らないかもしれません」と言っていた言葉が頭をよぎる。啓司はスマホを取り出し、紗枝に電話をかけた。一方、紗枝は既に桃洲市に到着しており、彰を保釈した後、唯と景之に会いに行っていた。食事をしている最中、啓司からの電話に気づいた紗枝は、外に出て電話を取った。「何か用?」「今、どこにいる?」と啓司は単刀直入に尋ねた。紗枝はそっけなく答えた。「私がどこにいるかなんて気にしなくていい。この数日は自分のことぐらいちゃんと面倒みなさいよ。出雲おばさんの世話も介護士に頼んだから、しばらく戻らないからね」啓司は彼女の言葉を聞きながら、彼女の電話が繋がっているIPアドレスを調べるよう指示を出していた。すぐに、紗枝が桃洲市にいることを知った。彼女が一人で桃洲市へ行く目的がわからず、啓司は心配になり、車を手配させて自分も向かうことにした。「じゃあ、気をつけて。何かあったら、僕に電話して。最近寒いから、もし冷え込んできたら......」その時、唯が外から顔を覗かせたため、紗枝は話を遮り、急いで電話を切った。
「何を持っているの?」と唯が疑問を投げかけた。「父が残した遺言よ」と紗枝が答えた。紗枝の父は生前、自分が亡くなった後に会社が無能な人間の手に渡るのを恐れて、密かにもう一つの遺言を残していた。その遺言には、一部は紗枝に二十億の資金を残し、残りの資産と夏目グループの権利を彼女に委ねると書かれていた。ただし、彼女がそれを受け取るかどうかは、全て紗枝の判断に任されていた。この遺言はずっと紗枝の手元にあり、公開されたことはなかったが、一旦表に出せば、美希が持っている遺言は法的効力を失うことになる。卒業したばかりだった紗枝は、当時会社を管理する術を知らず、母親と弟から資産を奪うつもりもなかった。さらに、その時は彼女を支える勢力もなく、遺言を出したところで誰にも認められなかっただろう。だが、今は状況が変わった。紗枝はもう昔のような心優しいだけの少女ではなく、美希たちが彼女をあまりに追い詰めるようなら、すべてをぶち壊す覚悟があった。それを聞いた唯は、驚きながら言った。「なるほど、そういうことだったのね。でも、今は夏目グループもすでにないし......」「それでも私が追求すれば?」と紗枝が尋ねた。その時、隣にいた景之が口を開いた。「そうなれば、彼女たちは財産を返さなきゃならない。返さなくても、少なくとも大変な目に遭うよ」紗枝は景之の頭を撫でて微笑んだ。「別に全て返してほしいわけじゃないの。ただ、脅しをかけて反省させたいだけよ」唯は、自分よりも景之の方が冷静に状況を理解していることに驚き、思わず彼の頬をつまんだ。景之は少し顔をしかめながらも、恥ずかしそうに唯から離れた。二人がじゃれ合っていると、突然インターホンが鳴った。唯は驚いて玄関の方を見やった。「私たち、デリバリーなんて頼んでないけど、誰だろう?見てくる」と言ってた。彼女はスリッパを履いてドアへ向かった。ドアスコープから覗くと、帽子とマスクを身に着けた人物が立っているのが見えた。「どちら様ですか?」その人物がマスクを外すと、そこには葵の顔があった。何度も人づてに紗枝の居場所を調べ、彼女が今唯のところに滞在していることを知った葵は、二人は古びたアパートに住んでいて、彼女は場所を見つけるのに手間取り、他の人に見つかるのを恐れていた。「柳沢葵!?」唯は驚き
葵はもう矜持も何もかも失い、唯の目の前で紗枝に跪いた。「紗枝さん、ごめんなさい」紗枝は目の前の光景に驚きを隠せなかった。一方、唯の頭にはまず「葵がまた何か悪だくみをしているのでは?」という考えが浮かんでいた。「葵、今度は一体何を企んでいるの?」葵は唯の言葉に耳を貸さず、紗枝に向かって深々と頭を下げ、硬い床に響く音がした。「以前は私が間違っていた。あなたの名を騙って人を助けたり、あなたを敵視したりしてごめんなさい。どうか許してください」紗枝は葵の突然の態度に戸惑いを隠せなかった。彼女の性格からすれば、追い詰められでもしない限り、こんな行動を取るはずがない。葵は地面にうずくまり、目を赤くしていた。それは罪悪感からではなく、嫉妬と怒りによるものだった。彼女はどうして紗枝に謝らなければならないのか?いつか、彼女も紗枝を自分の足元にひざまずかせてやるのだ!紗枝は葵の前に歩み寄り、「何があってここに来たのか知らないけど、あなたを許すつもりはない。もう出ていって」と冷たく告げた。部屋の中でこの様子を景之に見られたくなかったのだ。紗枝の言葉を聞いた葵は、不服そうに立ち上がり、その場を去った。「まさか、そのまま帰るとは......」と唯は驚き、「もしかして、彼女も心を入れ替えたの?」紗枝は首を横に振った。「そんなわけない。あれはどう見ても本心からの謝罪じゃない」「彼女がどうしてこんなことをするのか、私にもわからない」屋外に出た葵は、拳をぎゅっと握りしめた。停まっていた黒いベントレーの前に向かった。「これでいいでしょう?」と葵が言うと、車の窓が下がり、清子の冷たい顔が現れた。「不本意ながらも、黒木社長の命令通りにやったのだから、そのまま報告いたします」そう言い終わると、清子は運転手に出発を指示した。葵は思わず清子を引き止めた。「あなたのことは一度も見たことがない、。どうしてあなたが黒木さんのそばにいるの?牧野はどこにいるの?」清子はとても落ち着いて、口元に冷たい笑みを浮かべた。「それは、あなたが本当に黒木社長の近くにいたことがない証拠ですよ。私の存在すら知らないなんてね」一瞬、葵は反論する言葉を失い、黙ってしまった。黒いベントレーが勢いよく走り去った。清子は後部座席から葵の不
紗枝は抵抗せず、天井を見つめながら、啓司に話しかけるような、独り言のような口調で続けた。「今でも分からないの。なぜあんなに私を憎んでいたのか……」「昔は、女の子が嫌いなのかと思ってた。冷血な人なんだって。でも今日見たの……」「病気で苦しいはずなのに、昭子にバッグを届けようとしてた。昭子が自分のことを嫌がってるって聞こえてたはずなのに、聞こえないふりをして……」「あんなに卑屈な様子、母らしくないわ」啓司は紗枝の手を強く握りしめた。「俺がいる」「もう怒ってないの?」紗枝は啓司の方を振り向いた。「相殺しないか?」啓司は問い返した。「相殺?」「俺が三年間冷たくした分と、お前が子供を連れて四、五年離れていた分。相殺して、やり直せないか?」啓司の声は静かに、しかし切実に響いた。紗枝は喉に込み上げるものを感じながら、啓司に向き直って抱きついた。突然の抱擁に啓司の体が強張る。やがてゆっくりと腕を回し、より強く紗枝を抱き寄せた。自制を効かせながら、紗枝の眉間に軽くキスを落とす。喉仏が微かに動いた。「これからは何かあったら、すぐに俺に言ってくれ。また突然いなくなるのは……」返事の代わりに、紗枝は顔を上げ、啓司の喉仏に唇を寄せた。その瞬間、啓司の理性は崩れ落ち、紗枝を押し倒した。......翌朝、朝食を済ませても両親が起きてこないことに、逸之は首を傾げた。声をかけようと部屋に向かおうとしたところを、家政婦に制された。「逸之ちゃま、お父様とお母様は昨夜遅くまでお休みになれなかったので、起こさない方が……」家政婦の部屋からは主寝室の明かりが見えるため、そう察していたのだ。「おばさん、母さんと父さん、昨日は一緒に寝たの?」逸之は小声で尋ねた。「ええ、主寝室の明かりだけでしたし、他のお部屋も使った形跡がありませんでした」昨夜は早く寝てしまい、両親を同じ部屋に寝かせるのを忘れていた逸之。でも両親が自然と同じ部屋で……まあ、毎日一緒に暮らしてるんだし、若い二人が……「おばさん、学校行ってきます!」逸之は嬉しそうな表情を浮かべながら手を振った。「いってらっしゃい」昼過ぎになってようやく目を覚ました紗枝は、昨夜のことを思い出して頬が熱くなった。何がそうさせたのか、啓司と話しているうちに、気付けば…
自分が愛だと思い込んでいたものの為に、本当に自分を愛してくれていた人を捨ててしまったことへの、深い後悔が。「あなた、私のことを恨んでいるでしょうね」涙を拭いながら、美希は呟いた。世隆は本当に忙しいのだ、昭子だって用事があるから付き添えないだけ——そう自分に言い聞かせた。ふと、スマートフォンを開いているうちに、古い家族グループを覗いていた。紗枝、太郎、自分、そして夫。四人家族のグループだ。そこには、夫が他界する直前に送ったメッセージが残されていた。「美希、娘の結婚式、このスーツで格好いいかな?」紗枝「お父さん、すっごくかっこいい!」美希「ダサすぎ」「じゃあ、別のにして驚かせるよ」これが、グループでの彼の最後の言葉となった。さらに上へとスクロールしているうちに、紗枝とのプライベートメッセージが開かれた。自分の命と引き換えに育ての恩を返した紗枝とのやり取りは、それ以来途絶えたままだった。スクロールしていくと、六年前の紗枝からのメッセージが目に入った。「お母さん、お誕生日おめでとう。今日買ったケーキ、食べた?」「お母さん、怒らないで。体に毒だよ。風邪引いてるみたいだから、梨の氷砂糖煮作ったの」「お母さん、離婚したい。もう人に頼らなくても大丈夫」「お母さん、私が働いて養うから。心配しないで」それらの温かなメッセージに対する自分の返信は、どれも冷たいものばかりだった。かつての紗枝からのメッセージを眺めながら、美希の脳裏には、幼い頃から今までの紗枝の姿が次々と浮かんでいった。母がバレリーナだと知った紗枝は、人一倍の努力を重ねた。ステージで踊る姿を見せて、母である自分を誇らしく思わせたいという一心で。今でも覚えている。舞台から降りてきた時の、血豆だらけの足を。あの旅行の時も。山で綺麗な花を見つけた自分が一言感心しただけで、紗枝は危険も顧みず摘みに行って、あわや足を折るところだった……数え切れないほどの思い出が押し寄せてきて、美希は慌ててスマートフォンの電源を切った。「あんな恩知らずのことなんて考えることないわ。所詮他人の子じも」「聴覚障害者なんて、何の才能も実績もない子が、どうして私の娘になれるっていうの?」独り言を呟く声が、空しく病室に響いた。布団に潜り込んでも、なかなか眠れない。
美希が一人で歩き出すと、後ろで介護士たちが小声で話し始めた。「可哀想に。あんな重い病気なのに、旦那さんも息子さんも来ないなんて。娘さんだってちょっと顔を出すだけで」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」「お金があっても、幸せとは限らないわねぇ」後ろの介護士たちの会話が耳に入り、先ほど病院の入り口で昭子が言っていた言葉が脳裏に蘇った。「何を勝手なことを!」突然、美希は激しい口調で言い放った。「私の夫がどれだけ私を愛しているか。息子だって仕事が忙しいだけよ。娘だって毎日私のことを心配して見舞いに来てくれる」「あなたたち、ただの妬みでしょう!」介護士たちは即座に口を閉ざし、それ以上何も言えなくなった。病室のベッドに横たわった美希の耳には、先ほどの昭子の嫌悪に満ちた言葉と、介護士たちの心無い噂話が繰り返し響いていた。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」プライドの高い美希が、娘の本心を認めるはずもなかった。それに、全ての望みをこの娘に託し、二度と踊らないという誓いさえ破り、夏目家の財産を鈴木家に譲るところまでしたのだ……美希は携帯を手に取り、世隆に電話をかけた。しばらくして、やっと通話が繋がった。「また何かあったのか?」苛立ちの混じった世隆の声。その語調に気付かない美希は尋ねた。「あなた、まだ仕事?いつ来てくれるの?一人は寂しいわ」「言っただろう?会社でトラブルがあって、今は本当に忙しいんだ。介護士も二人つけてやっただろう?暇なら彼女たちと話でもしていろ」美希が何か言いかけた時、世隆は一方的に電話を切った。かつての美しい妻が、今や病に侵された中年女性となった美希に、世隆はもはや一片の関心も示さなくなっていた。華やかな女性秘書が世隆の傍らで微笑んだ。「社長、そんなにお怒りにならないで」胸に手を当てて、なだめるように軽く叩く仕草に、世隆は秘書の手を掴んだ。「あの女が死んだら、君と結婚しようか?」二人の笑い声がオフィスに
太郎の言葉に、拓司は平静を保ったまま答えた。「紗枝さんの選択は、尊重すべきだ」今や太郎は、姉を拓司のもとに無理やりにでも連れて行きたい気持ちでいっぱいだった。「拓司さん、ご存じないでしょう。姉が啓司と結婚した時、あいつは義父の家を助けるどころか、逆に潰しにかかったんです。夏目家を破滅させたのは、あいつなんです」太郎には、夏目家の没落が自分に原因があるとは、今でも思えていなかった。かつて母親が黒木家に金を無心しに行ったことも、自分が会社と父の遺産を手放してしまったことも、すっかり忘れてしまっているようだった。「心配するな。これからは私がしっかりと支援しよう」拓司は静かに告げた。太郎は感極まった様子で大きく頷いた。きっと一流の実業家になって、自分を見下してきた連中を見返してやる――......一方、電話を切られた昭子は、激しい怒りに駆られていた。息子なのに母親の面倒も見ない太郎。なぜ娘の自分が世話をしなければならないのか。昭子は携帯を取り出し、父親の世隆に不満を漏らそうとした。しかし、昭子がバッグを忘れたのを気にした美希は、痛む体を押して追いかけてきていた。そして、昭子の言葉が耳に入った。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「あの人の財産がなければ、とっくに……」言葉の途中で振り返った昭子は、すぐ後ろに立ち尽くす美希の姿を目にした。慌てて電話を切り、作り笑いを浮かべる。「お母さん!どうして出てきちゃったの?まだ歩いちゃいけないって……」昭子は心配そうに駆け寄った。先ほどの嫌悪感など微塵も感じさせない表情で。美希は一瞬、自分の耳を疑った。だが何も言わず、ただバッグを差し出した。「昭子、バッグを忘れてたから」昭子は何の気兼ねもなく受け取った。「ありがとう、お母さん。じゃあ行くわね。お体に気をつけて、早く部屋に戻ってね」車に乗り込んだ昭子は、ほっと胸を撫で下ろした。聞かれてないはず……だって聞いていたら、母さんが黙っているはずがない。昭子は何食わぬ顔で運転手に出発を命じた。二人とも、近くに停めてある黒い車に見覚えのある人物が乗っているとは気付かなかった。後部座席
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ
そこへ追い打ちをかけるように、紗枝から新しい通達が出た。園児の送迎時の駐車場の使用方法から、その他の諸々の規則まで、全面的な見直しを行うという内容だった。「明らかに私への報復じゃない!」夢美は歯ぎしりしながら、紗枝にメッセージを送った。「明一は黒木家の長孫よ。私のことはいいけど、明一に何かしたら、黒木家が黙ってないわよ」紗枝は苦笑しながら返信した。「あなたが私の子供をいじめていた時は、彼も黒木家の人間だって考えなかったでしょう?」夢美は不安に駆られた。このまま他のクラスメートが明一を避けるようになったらどうしよう……「紗枝さん、あなたは明一の叔母なのよ。あまりみっともないことはしないで」紗枝は夢美の身勝手な言い分を見て、もう返信する気にもなれなかった。人をいじめる時は平気で、自分が不利になると途端に「みっともない」だなんて。紗枝は前から言っていた。誰であれ、自分の子供に手を出せば、必ず百倍にして返すと。それに、子供が間違ったことをしたなら、叱らなければならない。明一の親でもない自分が、なぜ彼の我儘を許さなければならないのか。紗枝は早速、最近自分に取り入ろうとしていたママたちにメッセージを送った。要するに、以前景ちゃんに対してしたことと同じように、明一くんにも接するようにと。ママたちは今、夢美に対して激しい憤りを感じていた。多額の損失を出し、夫の実家でも顔が上げられなくなったのは、全て彼女のせいだと。明一は景之ほど精神的に強くなかった。幼稚園で遊び時間になっても、誰も相手にしてくれず、半日も経たないうちに心が折れてしまった。この時になって、やっと景之をいじめたことが間違いだったと身をもって知ることになった。帰宅後、夢美は息子を諭した。「今は勉強が一番大事なの。成績が良くなれば、お爺様ももっと可愛がってくれるわ。そうすれば欲しいものだって何でも手に入るのよ」「遊び相手がいないくらい、大したことじゃないでしょう?」明一は反論できなかった。でも、自分は絶対に景之には及ばないことを知っていた。だって景之は桃洲市の算数オリンピックのチャンピオンなのに、自分は問題の意味さえ分からないのだから。夢美には言えず、ただ黙って頷くしかなかった。幼稚園での戦いがこうして決着すると、紗枝は夏目美希との裁判
「それで、どう返事したの?」紗枝が尋ねた。「『お義姉さん、私に紗枝さんと付き合うなって言ったの、あなたでしょう?もう私、紗枝ちゃんをブロックしちゃったから連絡取れないんです』って答えたわ」唯は得意げに話した。「うん、上手な対応ね」紗枝は頷いた。「でしょう?私だってバカじゃないもの。投資で損した金額を他人に頼んで取り戻せるなんて、甘すぎる考えよね」「いい勉強になったでしょうね」唯は親戚たちの本質を見抜いていた。結局、自分のことなど何とも思っていないのだ。それならば、なぜ自分が彼女たちのことを考える必要があるだろうか。「そうそう、紗枝ちゃん。澤村お爺さまが話したいことがあるって」「じゃあ、かわって」紗枝は即座に応じた。電話を受け取った澤村お爺さんは、無駄話抜きで本題に入った。「紗枝や、保護者会の会長に立候補したそうだな?」紗枝と夢美の保護者会会長争いは幼稚園のママたちの間で大きな話題となっており、澤村お爺さんも老人仲間との話の中で耳にしたのだった。景之のことだけに、特に気にかかったようだ。「はい……でも選ばれませんでした」紗枝は少し気まずそうに答えた。「なぜ私に相談してくれなかったんだ?」老人の声は慈愛に満ちていた。「会長の席など、私が一言いえば済む話だ。任せておきなさい」「お爺さま、そんな……」紗枝は慌てて断ろうとした。澤村お爺さんが景之を可愛がっているがゆえの申し出だということは分かっていた。「遠慮することはないよ。私が若かった頃は、お前の祖父とも親しかったのだからな」澤村お爺さんはそう付け加えた。紗枝には祖父の記憶がほとんどなかった。生まれてすぐに出雲おばさんに預けられ、三歳の時には祖父は他界してしまっていたのだから。「お爺さま、もう保護者会の会長選は終わってしまいましたから……」「なに、もう一度選び直せばいい。お前が選ばれるまでな」澤村お爺さんは断固とした口調で告げ、紗枝の返事も待たずに電話を切ると、すぐさま行動に移った。この件で最も難しいのは、黒木おお爺さんの説得だった。しかし、澤村お爺さんが一本の電話を入れると、間もなく園長から通達が出された。前回の保護者会会長選出に公平性を欠く点があったため、本日午後にオンラインで記名投票による再選挙を行うという。マ