協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた

協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた

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全身血まみれで救急処置室に運ばれた妻。その時、夫と娘は――夫の憧れの人と遊園地で笑い合っていた。 この瞬間、吉川杏奈(よしかわ あんな)はついに離婚を決意する。 周囲は彼女を「地位ある夫・吉川蒼介(よしかわ そうすけ)にしがみつく無能な妻」と嘲笑った。 けれど、誰も知らない。 ジュエリー業界で「天才」と崇められるデザイナーが彼女であり、ウォール街を震撼させた伝説のトレーダー「L」の正体もまた、彼女であることを。 そして何より――蒼介が憧れの人、藤本紗里(ふじもと さり)を救うために必死に探し求めていた「特効薬」その供給者リストには、吉川家がゴミ屑のように捨てた書類に記された、杏奈本人だったことを。 離婚届を突きつけられてもなお、蒼介は「気を引くための駆け引きだ」と冷笑し、娘の吉川小春(よしかわ こはる)は「自業自得よ」と母の杏奈を蔑んだ。二人は高を括っていたのだ。彼女がいずれ泣いて戻ってくるのを。 だが、運命は逆転する。 彼女が何気なく描いた指輪のスケッチはオークションで高額落札され、国連医療機関のヘリが轟音と共に実家の庭に降り立つ。彼らが迎えに来たのは、極秘手術の執刀医としての杏奈だった。 一方、蒼介が大切に育てた娘は、非情な診断結果を握りしめて震えることになる。 「遺伝子バンクで唯一適合した骨髄ドナー……それがママだったなんて……」 暴風雨の夜。 蒼介は、冷たい床に膝をつき、絶望に打ちひしがれていた。 そんな彼を見下ろすように、杏奈はレッドカーペットを踏みしめる。サファイアのヴェールの下、紅い唇が残酷に弧を描いた。 「吉川社長。あなたの大事な人を救う手術費――代償として、吉川グループの全株式51%、いただくわ」

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Capítulo 1

第1話

濱海市中央病院の診察室――

吉川杏奈(よしかわ あんな)は血まみれの姿で、看護師が手の甲に点滴の針を刺す様子を、どこか他人事のように眺めていた。痛みはもう、麻痺して感じない。

「すみません!通ります!」

濃密な血の匂いと、鼻をつくガソリンの臭いが混じり合う。ストレッチャーが目の前を通り過ぎていった。横たわる人のありえない方向に曲がった脚にはフロントガラスの破片が突き刺さり、衣服は赤黒く染まっている。

。次々と運び込まれる患者、絶え間ない慟哭……

ふと指を曲げると、掌の皺の間に白い粉末が残っていた。エアバッグが開いた時の名残だ。

「ご家族の方は?どなたか、ご家族の方!」

まるでその場にいる全員が、杏奈の答えを待っているかのように、ふいに周囲が静まり返った。

けれど、思い通りにいかないのが人生というものだ。

「吉川様、他の方に比べれば軽傷ですが、事故ですので。ご家族に連絡して、念のため精密検査を受けられた方が……」

杏奈は看護師の気遣わしげな言葉に頷き、携帯を取り出す。通話ボタンを押した。

しかし、聞こえてきた声に心は冷たく沈んでいく。

「杏奈様。社長は会議中で、今はお電話に出られません。ご用件を承りましょうか?」

吉川蒼介(よしかわ そうすけ)の秘書だった。

結婚は公表できない、秘密にしなければと、蒼介は確かに言っていた。

だから結婚して七年が経っても、秘書は彼女を「奥様」ではなく、「杏奈様」としか呼ばない。

口を開こうとした瞬間、受話器の向こうから、場違いなほど明るい女性の声が飛び込んできた。

「ねえ小林さん、蒼介は準備できた?そろそろ出ないと。小春ちゃん、下で待ちくたびれてるわよ」

「はい、藤本様。すぐ社長にお伝えします」

受話器を手で覆ったのだろうが、その声は残酷なほどはっきりと聞こえた。

「藤本様」……藤本紗里(ふじもと さり)のことだ。

蒼介の憧れの人。

特別秘書の小林洸平(こばやし こうへい)は、二人への態度が雲泥の差だった。

一方には即座に取り次ぎ、もう一方には会議中で時間がないと告げる。

杏奈は自嘲気味に唇を歪めた。

そうか。蒼介の周りの人間は、とっくに彼の嘘のつき方を心得ているのだ。

憧れの人は彼のすぐ傍にいて、妻である「杏奈様」は愚かにも、まだ彼が来てくれると期待していたなんて。

聞き慣れた低い声が響く。「誰からだ?」

「杏奈様です」

二秒の沈黙。そして、声が聞こえた。

「用件は?」

「……何でもないわ」

初めて、自分から電話を切った。

運び込まれては運び出される重傷者たちを虚ろに眺めながら、冷たい悲しみが心を満たしていく。

もし今、救急処置が必要なのが自分だったら。きっと死ぬまで、誰にも気づかれないのだろう。

アレルギー体質の杏奈は、病気になることさえ怖くなるほどに、昔から注射一本打つのにも神経を尖らせていた。

ここの看護師は親切だった。付き添いがいないのを見て、忙しい中でも時々様子を見に来てくれる。アレルギー反応が出ていないか確認するために。

かすかに聞こえる看護師たちの囁き。「誰も付き添いがいないなんて……」

そう。赤の他人だって心配してくれるのに、夫である蒼介は冷淡なだけだ。

ふと、暗い衝動が湧き上がった。いっそ、もっとひどい怪我であればよかった。死にかけてもなお、蒼介の視線ひとつ向ける価値もないのかどうかを、そうして確かめたかった。

携帯を取り出し、ラインを開く。蒼介との最後のやり取りは三年前、入院した時の音声メッセージだ。

既読がついたまま返信のない画面を見つめる。胸が苦しい。

三年前に答えは出ていたのに、どうして諦められないのだろう。

あの時――空から降ってきたガラス板。娘の吉川小春(よしかわ こはる)を庇って、杏奈は血まみれになった。

小春は怯えて、彼女の腕の中で泣きじゃくっていた。

……その娘が今、SNSで紗里がくれたアイスを「世界一美味しい」と自慢している。

写真の中の紗里は楽しそうに笑い、蒼介の視線は彼女を見つめ、優しさと溺愛に満ちていた。小春は特大のアイスを持って二人の間に立ち、嬉しそうに笑っている。

背景は市内の新しい遊園地。これが、さっきの電話で紗里が言っていた場所だ。

どんな気持ちなのか自分でも分からなかった。ただ、妙に冷静だった。

点滴を終え、傷の処置を済ませ、処方された薬を手にする。病院を出る頃には、杏奈は魂が抜けたような抜け殻だった。

家に戻ると、使用人の安達が駆け寄ってきた。「奥様、お帰りなさい」

杏奈はかすかに微笑む。この家で自分をそう呼んでくれるのは安達だけだ。

安達は彼女が持つ薬と、その緩慢な動作に気づいて顔色を変えた。

「奥様!どうなさったんです?お怪我を?」

「交通事故よ。軽いものだから」

「交通事故で軽いわけないでしょう!病院には?ああ、これは……」

七年間。安達は変わらず優しく、思いやりを持って接してくれる。

考えてみれば、安達は夫より、よほど自分を心配してくれていた。

安達をなだめて、ゆっくり階段を上る。二階に着いた時、階下から安達の電話の声がした。

「旦那様、お戻りください。奥様が交通事故に……」

足がふと止まった。

自分が蒼介に連絡するには、仕事用の携帯にかけるしかない。電話に出るのも大抵は秘書の洸平だ。

でも安達は、蒼介の私用携帯に直接かけられる。

病院であんなに辛かったのに、この理不尽なルールを守って、何もおかしいと思わなかった。習慣とは恐ろしいものだ。

「ええ、それほど重症には見えませんが、奥様は確かにお怪我を……」

それ以上聞かずに、痛みをこらえながら寝室へ入った。

蒼介が帰ってくるか知りたかった。

すぐに安達がお粥を運んできた。

彼女は心配そうに言った。「奥様、少しお粥を。お怪我の時は食事に気をつけないと。旦那様にはもうお電話しましたから、すぐお戻りになります」

「ありがとう」

安達の「すぐ」は、三時間後だった。空はもう暗い。

車のエンジン音が聞こえ、安達は安堵して玄関へ走った。

小春を連れて、蒼介の長身が現れた。

一緒に入ってきたのは、小春の不満げな声だった。

「パパったら!安達がママは大丈夫だって言ってたのに。どうしてそんなに急いで帰らなきゃいけないの?イルミネーションショー見られなかったじゃない。紗里ちゃんががっかりしてたの、気づかなかったの?」

廊下に立ち尽くす杏奈。その全身が、音を立てて凍りついた。
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第1話
濱海市中央病院の診察室――吉川杏奈(よしかわ あんな)は血まみれの姿で、看護師が手の甲に点滴の針を刺す様子を、どこか他人事のように眺めていた。痛みはもう、麻痺して感じない。「すみません!通ります!」濃密な血の匂いと、鼻をつくガソリンの臭いが混じり合う。ストレッチャーが目の前を通り過ぎていった。横たわる人のありえない方向に曲がった脚にはフロントガラスの破片が突き刺さり、衣服は赤黒く染まっている。。次々と運び込まれる患者、絶え間ない慟哭……ふと指を曲げると、掌の皺の間に白い粉末が残っていた。エアバッグが開いた時の名残だ。「ご家族の方は?どなたか、ご家族の方!」まるでその場にいる全員が、杏奈の答えを待っているかのように、ふいに周囲が静まり返った。けれど、思い通りにいかないのが人生というものだ。「吉川様、他の方に比べれば軽傷ですが、事故ですので。ご家族に連絡して、念のため精密検査を受けられた方が……」杏奈は看護師の気遣わしげな言葉に頷き、携帯を取り出す。通話ボタンを押した。しかし、聞こえてきた声に心は冷たく沈んでいく。「杏奈様。社長は会議中で、今はお電話に出られません。ご用件を承りましょうか?」吉川蒼介(よしかわ そうすけ)の秘書だった。結婚は公表できない、秘密にしなければと、蒼介は確かに言っていた。だから結婚して七年が経っても、秘書は彼女を「奥様」ではなく、「杏奈様」としか呼ばない。口を開こうとした瞬間、受話器の向こうから、場違いなほど明るい女性の声が飛び込んできた。「ねえ小林さん、蒼介は準備できた?そろそろ出ないと。小春ちゃん、下で待ちくたびれてるわよ」「はい、藤本様。すぐ社長にお伝えします」受話器を手で覆ったのだろうが、その声は残酷なほどはっきりと聞こえた。「藤本様」……藤本紗里(ふじもと さり)のことだ。蒼介の憧れの人。特別秘書の小林洸平(こばやし こうへい)は、二人への態度が雲泥の差だった。一方には即座に取り次ぎ、もう一方には会議中で時間がないと告げる。杏奈は自嘲気味に唇を歪めた。そうか。蒼介の周りの人間は、とっくに彼の嘘のつき方を心得ているのだ。憧れの人は彼のすぐ傍にいて、妻である「杏奈様」は愚かにも、まだ彼が来てくれると期待していたなんて。聞き慣れた低い
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第2話
杏奈は、蒼介が優しく娘の頭を撫でながら、冷ややかだがどこか穏やかな声で話すのを聞いていた。「もう午後いっぱい遊んだだろう。十分だ。今はママが交通事故に遭って、誰かの世話が必要なんだ」「安達さんが家にいるじゃない。安達さんにもらえばいいでしょ?あたしたち、お医者さんじゃないんだから、帰ったってよ」小春は食い下がった。その言葉に、杏奈は喉が詰まりそうになる。「それに、パパ忘れちゃったの?ママはスーパーマン、痛くないんでしょ?」小春の言葉とともに、三年前の光景がコマ送りのように杏奈の脳裏に蘇った。蒼介のビジネス上の敵が、事故に見せかけて吉川グループの取引を横取りしようと、高層階から巨大なガラス板を落としてきたのだ。通りかかった杏奈と小春。娘の小春を守るため、杏奈は自分の体で全ての衝撃を受け止めた。ガラスの破片がに深く食い込んだ。幼い小春は血まみれの杏奈を見て泣きじゃくった。怯える娘を安心させるため、杏奈は自分はスーパーマンだから痛くないのだと告げたのだ。そして今――スーパーマンのママは交通事故に遭い、全身が痛くてどうしようもないというのに、小春が気にしているのは、遊園地で見逃した花火だけ。何かに気づいたのか、蒼介がふいに顔を上げた。視線が、二階の廊下に立つ杏奈を捉える。小春もつられて顔を上げ、杏奈と目が合った。小春は少しばつが悪そうに俯いたが、それでも強がって言った。「ほら、やっぱりママは大丈夫でしょ」杏奈はいつだって強いから、何があってもうまく対処できるはず。事故なんて大したことない。今から戻れば、イルミネーションショーにまだ間に合うかもしれない。蒼介が階段を上がってくるのを見て、小春は唇を尖らせながらも後を追った。だが、胸の不満は募るばかりだ。これってわざとじゃないの?したことないくせに、安達さんにあんなに大げさに言わせて。紗里もがっかりしてたし、自分だってがっかりした。もし紗里が怒って、もう二度と遊びに連れて行ってくれなくなったらどうしよう。「顔色が悪いな。ちゃんと横になっていればいいものを。安達さんに味噌汁を作らせた。少し食べなさい」味噌汁?その味噌汁は、安達が杏奈の帰宅時にすでに作ってくれていたものだ。夫としての蒼介の気遣いは、三時間も遅れてやってきたことになる。それでも杏奈は何
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第3話
夜が白む頃、杏奈は凝り固まった身体をゆっくりと動かした。蒼介に何度かけても繋がらなかった電話の履歴を見つめ、口元に自嘲の笑みを浮かべる。もし蒼介が、自分が離婚のために呼び戻そうとしていると知ったら、今のように電話を無視できるだろうか。杏奈はもう待つ気になれなかった。荷物を持って階下へ降りると、安達が慌ててエプロンを握りしめながらキッチンから出てきた。その目には心配の色が浮かんでいる。「奥様、これは……」「安達さん、仕事これから……たぶん、もう戻ってこないわ。これ、安達さんへのプレゼント」杏奈はそう言って、手にした白檀の小箱を安達の手に押し付けた。中には七年前、デザインコンテストに出すために作ったネックレスが入っている。けれどのせいで、激怒した蒼介に壊されてしまったものだ。安達が夜中も眠らずに、宝石を一粒一粒拾い集めてし、自分の手に返してくれた。振り返ってみれば、杏奈のキャリアは、あの瞬間に止まったのだ。そして、この七年間、安達だけが自分を気にかけてくれた。「奥様」と呼んでくれる唯一の人だった。本当は思い出として取っておくつもりだったけれど、もう前に進むと決めたのだから、過去のものは過去に置いていこう。「安達さん、お元気で。また会う時があれば、私のことは三浦杏奈(みうら あんな)と呼んでください」その言葉に、安達は直感的に異変を察した。慌てて携帯を取り出して電話をかけるが、一度コールしただけで切られてしまう。かけ直しても、また切られた。安達は焦りながら顔を上げ、杏奈の背中を見つめる。そして首の後ろに残る傷痕に視線が引きつけられた。三年前の大晦日の夜、小春が鍋をひっくり返した時、が娘を庇って負った傷――結局、電話は繋がらなかった。安達はゆっくりと携帯を下ろし、それ以上かけることもせず、ただ静かにそこに立って杏奈の背中を見送った。その姿が消えていくまで、ずっと。三十分後、杏奈は小さなアパートの前に立っていた。鍵を開けた瞬間、懐かしさと安らぎが一気に押し寄せてくる。シンプルな内装、自分の好きなレイアウトと色使い。中に入ると、空気までもが馴染み深い。窓辺のイーゼルには、まだ完成していない作品が置かれている。隣には「モンドリアン構図解析」が立て掛けられていた。ここは、大学時代に長い間お金を貯めてよう
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第4話
洸平は、彼女と蒼介の関係を知る数少ない人間の一人だ。蒼介。洸平のネクタイに留められたサファイアのタイピンでさえ、少し前に杏奈が厳選して蒼介の誕生日に贈ったプレゼントだった。そして今この瞬間、そこには彼女の背後にある巨大スクリーンのニュースが映り込んでいる。【新進気鋭のジュエリーデザイナー藤本紗里、本日、吉川グループ代表吉川蒼介と来月のジュエリー展に参加予定。二人のとの噂】「だから!」杏奈が呆然としている隙に、追いついてきた美南が彼女の手から封筒を奪い取った。「一体何をするつもり?その幼稚園レベルの落書きで兄さんを騙して、あたのデザインだって言うつもり?信じてもらえると思ってるの?」美南の慌てふためく様子を見て、杏奈は。「信じないなら、何を怯えてるの?」「誰が怯えてるって言うのよ?兄さんの気を引くための手段でしょ。兄さんが信じるわけないじゃない」「信じる信じないは、開けて見てみればわかることよ」杏奈が相変わらず平然としているのを見て、美南は何か違和感を覚えた。封筒を開け、中を一瞥する。一目見ただけで、彼女は固まった。離婚協議書?自分の、見間違い?杏奈が自ら蒼介と離婚するなんて、ありえない。まあいい。デザインじゃなければそれでいい。封筒を洸平の腕に放り投げ、美南は軽く笑いながら杏奈を見た。「これがあたの新しい手段?無駄な努力はやめときなさい。兄さんを本気で怒らせたら、家にも帰ってこなくなるわよ」「好きに言えばいいわ」杏奈はこれ以上言い争う気にもなれず、洸平に視線を向けた。「できるだけ早くサインして返してもらえるよう伝えてください。待ってますから」そう言うと振り返りもせずに立ち去った。美南は苛立ちを隠せない。「何なの?自分で姑息な手を使うだけじゃ飽き足らず、小林さんまで巻き込むつもり?もし兄さんが本気で怒ったら、叱られるのは小林さんよ。あたって本当に悪質ね」けれど何を叫ぼうと、杏奈は振り返らなかった。美南は悔しげに足を踏み鳴らしたが、結局追いかけていった。洸平は手にした封筒を見つめ、先ほどの美南の言葉を思い返す。この数年、杏奈は蒼介の気を引くために様々な手を尽くしてきた。今、蒼介はまさに紗里のことで忙しい最中だ。こんな時に、杏奈のくだらない手段のために邪魔をすれば、クビ
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第5話
母・三浦妙子(みうら たえこ)の影響で、杏奈はジュエリーデザインにずっと深い興味を持っていた。妙子の足跡を辿り、そのデザインスタイルを受け継ぎたいと思い続けていた。だから大学を卒業するとすぐ、同門の先輩と一緒に会社を立ち上げた。規模は小さかったけれど、二人の努力で会社は順調に成長していった。ところが、会社が上場しようという時に、杏奈は家庭にことを選んだ。「良妻賢母」として生きるために。これが原因で、彼女のデザインを核とした多くの契約が破棄され、違約金を支払う羽目になり、上場も危うく失敗するところだった。皆が怒り、呆れた。会社には杏奈の株もあったけれど、ほとんどの人は連絡を絶つことを選んだ。そのため、この数年、会社からの配当を受け取る以外、会社の他のことは何も知らない。最も得意としていたデザインの才能でさえ、今では見るに堪えないほどになっている。このまま会社に戻ったところで、何ができるだろう?毎年の出展作品は、その年の最新デザインばかりだ。参加できるデザイナーも、一定の経歴と経験を持つ者ばかり。業界から何年も離れていた彼女が、再びこの業界の発展傾向を理解するには、ジュエリー展が最も早く、最も包括的な方法だ。だから今回、絶対に行かなければならない。携帯の着信音が突然鳴り、杏奈は驚いて飛び上がった。画面を見ると、夕食時間のスケジュールリマインダーだった。小春は自分と同じで辛いものが好きだ。けれど年齢が幼すぎるため、杏奈は胃腸に負担がかかることを心配して、ほとんど食べさせないようにしていた。加えて蒼介は。だから父娘が家にいない昼食は適当に済ませるとして、朝夕の二食は必ず自分で作り、栄養があって美味しい食事を心がけてきた。最初の頃は、自分も辛い味が恋しかった。けれど時が経つにつれ、慣れてしまったようだった。でも、ほんの数日前、小春が言うのを聞いてしまった。杏奈の作る料理は薄味すぎて食欲が湧かない、紗里がくれる辛い手羽先の方がずっと美味しいと。不思議な偶然だ。杏奈も辛い手羽先は美味しいと思う。けれど、もう十年近くもその味を口にしていなかった。杏奈はスケジュールリマインダーの音を消し、登録されていた予定を全て削除した。そして自分用に激辛ラーメンを注文し、食べながら鼻水を拭いた。夜、蒼介は小春を連れて帰
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第6話
送信完了の表示を見つめながら、杏奈はその場に座り込んだまま、長い間動けなかった。自分のデザイン作品に、これほど自信が持てないと感じたことはなかった。不安で仕方がない。「職場復帰」というのは簡単に言えるけれど、、ジュエリーデザインも日進月歩で進化している。六年間。美南が時折デザインを頼んでくる以外、他の時間は画用紙に触れることすらなかった。最近では美南でさえ、以前ほど良くないと批判し始めていた。そこでようやく気づいた。自分を。あれほど決然と会社を離れたのに、今さら足手まといになるだけなら、戻る資格などあるだろうか。そう考えていると、携帯が突然鳴り、杏奈は飛び上がった。画面に表示された名前を見て、唇を噛む。けれど結局、通話ボタンを押した。「三十分以内に、会社のカフェまで来てくれ」受話器の向こうから落ち着いた男性の声が響く。簡潔な一言の後、すぐに電話は切れた。杏奈の心は沈んでいく。最速で服を着替え、メイクを整え、残り三分というところでカフェに滑り込んだ。少し緊張しながら、ある男性の前に腰を下ろす。「先輩……」河原裕司(かわはら ゆうじ)が顔を上げる。精巧な金縁眼鏡越しの視線が、まっすぐ彼女の顔に注がれた。品定めするように。「何を飲む?」「フルー……」杏奈は習慣的に小春の好きなフルーツジュースを頼もうとしたが、言葉が口から出る寸前でした。「マンデリンを。ありがとうございます」裕司は杏奈をちらりと見たが、何も言わなかった。コーヒーが運ばれ、店員が離れてから、彼は一枚のデザイン画を取り出し、テーブルに置いた。「君のか」やはり見抜かれていた。「はい」杏奈は隠さなかった。「会社に戻りたいのか」「はい」空気が再び凍りつく。しばらくして、裕司の淡々とした声が再び響いた。「旦那さんとお子さんは君の世話をいいのか?」杏奈の顔が青ざめる。裕司の言葉は鋭いナイフのように、彼女の心の最も柔らかく、最も罪悪感を抱いている部分に突き刺さった。「必要とされていません。離婚の準備を進めています」裕司が微かに驚く。顔に浮かんだ驚愕は一瞬で、すぐにまた波ひとつ立たない表情に戻った。彼は両手を組んでテーブルに置き、目の前のかつて親しく、今は見知らぬ女性をじっくりと見つめる。「君が吉川蒼介のた
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第7話
美南は自信満々だった。これまで何年も、どんな些細なことでも、蒼介が嫌がることだと言えば、杏奈は決して手を出さなかったのだから。「それなら……」杏奈が言いかけると、美南はもう苛立って先に口を開いた。「もういいわ。あんたと無駄話してる時間なんてないの。友達が待ってるから」美南の視線を追うと、杏奈は気づいた。少し離れた席に、美南と同年代くらいの女性が二人を見つめている。けれど去り際、美南は声を潜めた。「あと三日。デザインを渡しなさい。でなければ、今日のことを兄さんに告げるわよ」美南はそう言うと、杏奈の返事も待たずに自分の席へ向かった。席に着くと、相手は杏奈を見て尋ねずにいられなかった。「美南、知り合いなの?一緒に座らないの?」「知り合いは知り合いだけど、そんなに親しくないわ。挨拶だけで十分よ」杏奈がバッグを持つ手が止まる。親しくない?美南が大学を卒業してから今まで、自分の手からどれだけのデザイン図を受け取ったことか。それなのに親しくないと言うのか。でも考えてみれば当然だ。蒼介でさえ自分が妻だと認めていないのに、その妹が義姉だと認めるわけがない。以前ならこんなことで傷ついていたかもしれない。けれど今は……心の中に何の波も立たない。、もう二度としない。杏奈は大股でカフェを出た。未練など微塵もない。反対に、美南の向かいに座る女性は、ずっと杏奈が去っていく方向を見つめていた。「那月、どうしたの?」美南は心中穏やかでない。まさか杏奈が外で勝手なことを言って、自分が吉川家の嫁だと公表したんじゃないだろうな?もし吉川家の当主の妻が、何の能力もない専業主婦で、男に媚びを売ることしか能がない愚か者だと知られたら、吉川家の面目は丸潰れだ。横井那月(よこい なつき)が我に返る。「ううん、何でもない。ただ、さっき一緒にコーヒーを飲んでた人、ルミエールの代表、裕司に似てた気がして」自分の予想と違うと分かり、美南は少しほっとした。「ルミエール?あの有名なアクセサリーの会社?」その会社のことは聞いたことがある。創業して数年しか経っていないのに、デザイン業界ではかなり有名で、独特のデザインスタイルで多くの同業者から認められている。その代表とコーヒーを飲むなんて、ありえない。杏奈にそんな資格があるわけない。
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第8話
電話の向こうで、小春はもう安達の携帯に顔を近づけ、得意げな笑みを浮かべていた。きっと杏奈が慌てて帰ってきて味噌汁を作る光景が、もう目に浮かんでいるのだろう。だって以前は、自分が少しぐずるだけで、杏奈は全てを放り出して飛んできてくれたのだから。杏奈は携帯を握る指先が白くなるのを感じた。画面には裕司から送られてきたデザイン画が点滅している。その線を見つめる。細部の創意工夫が、デザイナーの心血を如実に物語っていた。杏奈はふと思い出す。自分もかつてアトリエで徹夜でデザインを描いていた。あの頃、手にはまだ火傷痕はなく、爪の間に詰まっていたのはではなく、絵の具だった。杏奈のかすかにかすれた声が響く。「私は忙しいと、彼女に伝えてちょうだい」電話の向こうが死んだように静まり返る。杏奈は即座に電話を切り、パソコンデスクに伏せた。自分の両手を見つめ、杏奈は突然切なくなった。かつて、この手で数々の賞を獲得し、自信に満ち溢れていた。けれど吉川家に嫁いでから、筆を置き、家事に専念した。味のしない味噌汁から、三つ星レベルの点心を作れるようになるまで。この成長の結果、手に入れたのは、蒼介の「味が薄い」という一言と、小春の「当たり前」という態度だけ。携帯が再び鳴る。裕司からのメッセージだ。リンクが添付されている。開くと、金色の縁取りが輝く招待状が現れた。吉川グループ主催、参加デザイナーたちの交流会への招待だ。さすがは吉川グループのだ。交流学習とは言うものの、何人もの新進気鋭の独立系デザイナーが出席する。同時に、宝飾業界に関わる多くの企業も参加するだろう。協力を求めるため、あるいは目をつけたデザイナーを引き抜くために。ただ……吉川グループのようなが、こんな集会を開く必要があるのだろうか。杏奈には少し理解できなかったが、このチャンスは掴むべきだ。「分かりました、先輩。参加します」送信ボタンを押した瞬間、キッチンから香りが鼻をつく。かつて最も好きだった匂いが、今は無数の冷えた食事を前に一人で過ごした夜を思い出させる。吉川家の別荘では、小春が杏奈の「忙しい」という言葉を聞いて、幼い顔に信じられないという衝撃が広がった。けれどすぐに癇癪を起こし、ぶつぶつ言いながら階段を上がっていく。ちょうど蒼介が携帯を持って出てきて、彼女の不機嫌な様子
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第9話
「やったー、嬉しい!」小春が喜んでいると、ふと杏奈のことを思い出した。今さっき、が帰ってこないと言ってくれて、ちょっと良かったかも。だって帰ってきたら、きっとまたピアノの練習しなさいとか、なさいとか、うるさくごちゃごちゃ言うに決まってる。それに自分が紗里と仲良くしてるのを見て怒って、行っちゃダメって言うかもしれない。そう考えると、蒼介が電話しなかった理由について、小春は。杏奈が遊びたいなら、あと二日くらい外で遊ばせてあげればいい。週末が過ぎて、自分も十分遊んだら、それから呼び戻せばいいんだ。翌日の夕方、杏奈は裕司が共有してくれた住所を頼りに、ブルーホエールホテルの二階へ向かった。ただ、ホテルの入口に入った途端、蒼介が車から降りてくるのが目に入った。二人は遠くから互いの姿を認め、一瞬固まる。けれど蒼介はすぐに視線を逸らし、車の反対側へ回って扉を開け、紳士的に手を差し伸べた。細い指が車内から伸びて、蒼介の手に重ねられる。紗里が車を降りた瞬間、夕暮れの風がパールグレーのスーツスカートの裾をめくり上げ、足首のの蛇型チェーン飾りが露わになった。かつて吉川ジュエリー展のフィナーレ作品に登場したこのアンクレットが、今彼女が地面に降り立つ動きに合わせて、まるで生き物のように彼女の冷たく白い肌に絡みついている。ただ、これが実は杏奈のデザインだと知る人は、おそらく誰もいない。美南の名前で発表されているのだから。紗里は自然に蒼介の腕に手を絡める。蒼介が彼女を見下ろす目には、溢れんばかりの優しさがあった。杏奈は指先で招待状の端を強く握りしめ、二人の後をついていく。エレベーターホールの鏡面に、青ざめた自分の顔が映し出された。受付でゲストバッジを受け取る時、ざわめきが聞こえてきた。「見た藤本紗里の手首のブレスレット、ヴァンクリーフ&アーペルの今年の限定品みたい」「彼女自身もデザイナーらしいわよ。デザイン界で少し名を上げ始めて、吉川社長が今、力を入れて押してるんですって」「見れば分かるわよ。じゃなきゃ、こんな小規模な集会に、吉川社長みたいな大物が来るわけないじゃない」「二人って結局どういう関係なの?」「言うまでもないでしょ、彼女に決まってるわ。吉川社長は彼女のためなら、星だって月だってらしいわよ……」杏奈は必死でこれらの
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第10話
杏奈の心が慌てる。訳もなく急ぎ立てられる。けれど、蒼介の隣にいる紗里を目にした瞬間、自嘲せずにいられなくなる。浮気をしているのは自分じゃない。のあの眼差し一体何なのか。「杏奈?」裕司が彼女の白くなった指先に気づく。「気分が悪いなら、先に帰ってもいい」彼が杏奈をここに呼んだのは、主に今活躍している新進デザイナーたちの発想を見せるためだ。見終わったなら、いつでも帰って構わない。杏奈は微かに首を横に振り、少し離れた場所の紗里を見つめる。「大丈夫です、先輩。ただ、自分のデザインを他人が身につけて、のを見ると、何とも言えない気持ちになって」視線を戻し、隣の裕司を見て、杏奈は無理やり笑みを作る。「だから大丈夫です、先輩。会いたいデザイナーがいるんでしょう?お仕事に専念してください。私のことは気にしないで」裕司は彼女を深く見つめ、頷いた。「分かった。じゃあ先に行ってくる」裕司が離れた後、杏奈はさらに二つの作品を見てから、ゆっくりとテラスへ向かった。夕暮れの風がかすかな涼しさを運び、心の中の鬱屈を少し晴らしてくれる。突然、背後から足音が聞こえた。杏奈は警戒して振り返り、蒼介の深い眼差しと正面から向き合った。「?」蒼介の詰問に、杏奈は少し呆然とする。テラスの薄いカーテン越しに、少し離れた場所で他のデザイナーたちと交流している紗里がぼんやりと見えた。見つめていると、視線が突然、高い影に遮られる。「杏奈、そのくだらない企みはやめろ」唐突な言葉だったが、杏奈は彼の言いたいことを理解した。蒼介は、自分が彼を追いかけて、この交流会に来たと思っているのだ。そう言えば、以前は本当にそんなことをしていた。そして、蒼介の冷たい視線を浴びた。けれど今、もう彼と離婚すると決めたのだ。そんな愚かなことを二度とするわけがない。でもせっかく会ったのだから、ついでに離婚の件がどうなっているか聞いてみよう。いつ離婚届を出しに行くのか?残念ながら、蒼介は彼女に口を開く機会さえ与えなかった。「杏奈、警告しておく。今回のデザインコンテストは紗里にとって非常に重要だ。もし邪魔立てするようなら、容赦しない」蒼介はそう言うと、即座に踵を返して去っていった。杏奈はその場に立ち尽くし、強く握りしめた拳が微かに震える。爪が掌に食い
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