LOGIN全身血まみれで救急処置室に運ばれた妻。その時、夫と娘は――夫の憧れの人と遊園地で笑い合っていた。 この瞬間、吉川杏奈(よしかわ あんな)はついに離婚を決意する。 周囲は彼女を「地位ある夫・吉川蒼介(よしかわ そうすけ)にしがみつく無能な妻」と嘲笑った。 けれど、誰も知らない。 ジュエリー業界で「天才」と崇められるデザイナーが彼女であり、ウォール街を震撼させた伝説のトレーダー「L」の正体もまた、彼女であることを。 そして何より――蒼介が憧れの人、藤本紗里(ふじもと さり)を救うために必死に探し求めていた「特効薬」その供給者リストには、吉川家がゴミ屑のように捨てた書類に記された、杏奈本人だったことを。 離婚届を突きつけられてもなお、蒼介は「気を引くための駆け引きだ」と冷笑し、娘の吉川小春(よしかわ こはる)は「自業自得よ」と母の杏奈を蔑んだ。二人は高を括っていたのだ。彼女がいずれ泣いて戻ってくるのを。 だが、運命は逆転する。 彼女が何気なく描いた指輪のスケッチはオークションで高額落札され、国連医療機関のヘリが轟音と共に実家の庭に降り立つ。彼らが迎えに来たのは、極秘手術の執刀医としての杏奈だった。 一方、蒼介が大切に育てた娘は、非情な診断結果を握りしめて震えることになる。 「遺伝子バンクで唯一適合した骨髄ドナー……それがママだったなんて……」 暴風雨の夜。 蒼介は、冷たい床に膝をつき、絶望に打ちひしがれていた。 そんな彼を見下ろすように、杏奈はレッドカーペットを踏みしめる。サファイアのヴェールの下、紅い唇が残酷に弧を描いた。 「吉川社長。あなたの大事な人を救う手術費――代償として、吉川グループの全株式51%、いただくわ」
View More――リリリリン!不意に携帯の無機質な着信音が、静かなレストランに響いた。向かいに座る裕司が顔を上げると、杏奈が無表情に画面をなぞり、音を遮断するのが見えた。「誰だ?出なくていいのか」「気にしないでください」杏奈は、小春からの着信だとは告げなかった。心身ともに摩耗しきった今の彼女に、あの小賢しい娘を相手にする余裕など微塵も残っていなかった。裕司は深く追及せず、話を戻した。「今日の件はひとまず解決だ。あれほどの傑作を見せつけられれば、デザイン部の連中もぐうの音も出ないだろう」二つの完璧な作品は、彼女を取り巻く悪意ある噂を粉砕するのに十分な破壊力を持っていた。「だが、影で糸を引く黒幕を炙り出せていない以上、油断は禁物だ」「ええ、わかっていますわ」杏奈は頷き、不意に思い出したように尋ねた。「そういえば先輩、横井那月というデザイナーを知ってますか?」「横井那月?」裕司はわずかに眉を寄せた。「直接的な接点はないが、部内での評判は申し分ない。誰とでも良好な関係を築くタイプだそうだ。彼女をいじめていた者がいたらしいが、周囲から孤立し、早々に会社を去ったと聞いているよ」その言葉に、杏奈の口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。那月のような執念深い女が、甘んじていじめを受けるはずがない。それは、彼女が邪魔な人間を巧妙に排除した結果に過ぎないのだ。「何か、彼女と確執があるのか?」杏奈の表情の変化を見逃さず、裕司が問うた。杏奈は隠すことなく、円香から聞いた話を簡潔に伝えた。「先輩が言っていた、社内の空気を操作している『新しい勢力』――その正体は、おそらく彼女ですよ」裕司は絶句した。誰もが称賛する「善き社員」である那月の裏の顔。わずかな沈黙の後、彼は重く口を開いた。「わかった。しかし、今はまだ彼女に手の内を明かすべきじゃないだろう。手の届く場所に置いておいたほうが、いざという時の対処もしやすい」「ええ、私もそう思っていたんですわ」杏奈が微笑む。「賢明だな」裕司もつられて笑った。「案ずるな、俺がうまく立ち回ってみせる」「頼りにしてますよ、先輩」穏やかに言葉を交わす二人の姿が、離れた場所から見守る一人の男の目に、酷く刺々しく映っていた。「蒼介、個室の用意ができたよ。小春ちゃんと紗里さんは先に向かった。さあ
「鼻で笑わせるな。俺がルミエールを離れれば、他に行き場がないとでも思っているのか?」「え?」杏奈は呆然とした。そんな意図で言ったわけではない。弁明しようとした彼女に、真紘の激越な怒りが叩きつけられた。「認めよう、あんたのデザインは完璧だ。だが、あんたにしか作れない物などない。才能に溺れ、傲慢に振る舞い、他人を見下す。その果てに何があるのか、せいぜい見せてもらうとしよう」困惑する杏奈を置き去りにしたまま、真紘は背を向け、苛立ちを隠さずフロアを後にした。「……彼、少し極端すぎないですかね?」杏奈が裕司に問いかけると、彼もまた苦いものを噛み潰したような顔をした。「君に完膚なきまでに叩きのめされて、肥大した自尊心が収まりつかないんだろう。ほとぼりが冷めるまで、頭を冷やすよう命じておくよ」「そうですね……わかりましたわ」先輩に任せておけば大丈夫だろう。杏奈はそう納得し、周囲と短い会話を交わした後、裕司に支えられるようにしてフロアを後にした。渦中の二人が去った後も、フロアの熱気は一向に引く気配がなかった。杏奈を巡る議論は、堰を切ったように溢れ出し、止まるところを知らなかった。かつての否定的な空気は霧散し、そこにあるのは感嘆と賞賛の嵐だった。「バカは、俺たちの方だったな」「全くだ。口利きで入った腰掛けの素人だなんて、よくも言えたもんだ。正真正銘、次元の違うプロだったな」「これからは謙虚さを学ばないとな。彼女が度量の大きい人間で救われたよ。そうでなきゃ、今頃は全員お払い箱だ」「なあ那月、さっきの作品……正直、度肝を抜かれたでしょ?」「あっ、ええ、本当に……言葉を失うほど、見事だったわ」那月は、はっと我に返った。隣を歩く同僚が、好奇心に目を輝かせて尋ねる。「何を考えてたの?どうやってあの『新星』に取り入ろうか、早速そろばんを弾いてたんじゃないの?」那月が部内で人気を博し、誰とでも良好な関係を築いていることを知る者なら、当然の問いだった。「そうよ」那月は心を整え、同僚の言葉に乗った。「あれほどの方ですもの、どうにかして近付きたいと思うのは当然でしょう?お人好しそうだし、こちらから歩み寄れば、無下にされることはないと思うわ」その瞬間、那月の脳内で一つの明確な「勝算」が形を成した。これまでは美南の歪んだ言葉
その言葉を聞き、誰もが決着はついたと確信した。けれど、それはまだ終わりではなかった。「隠された意匠が、もうひとつ。ブレスレットの留め具の内側には、蓄光性の瑪瑙を組み込んであります。暗闇の中では、私が手描きした星の軌跡が浮かび上がり、『目に見えぬ光』を象徴するように設計しました」言葉が途絶えた瞬間、会場は水を打ったような静寂に包まれた。人々は叫びたかった。歓声を上げたかった。これほどまでに完璧な宝石の誕生を目撃できた奇跡を祝いたかった。けれど、あまりの衝撃に喉は枯れ、言葉を発することさえ叶わない。沈黙を破ったのは、居ても立ってもいられなくなったマーケティング部のディレクターだった。「三浦さん……完敗です。あなたの実力は、私の想像を絶していました。ですが、この繊細なカット技術、デザインの細部は、量産が可能なのでしょうか?」もし一点物で終わるなら、それは芸術としては至高だが、ビジネスとしての価値は限定的だ。「真の芸術は、唯一無二であるべきよ」杏奈の突き放すような言葉に、ディレクターの顔がわずかに引き攣る。だが、彼女の次の言葉が、彼の心臓を再び高鳴らせた。「ですが、量産化の工程案もすでに用意してあります。私の設計図通りに進めれば、この輝きを再現することは可能です。はい、先輩。これがその資料です」杏奈が資料を差し出そうとした刹那、横から鮮やかな手つきでそれが奪われた。気づけば資料はすでにマーケティング部のディレクターの手の中にあった。「河原社長、まずは拝見させてください。販路を見極めるのは役目ですから」ディレクターは形ばかりの苦笑いを浮かべたが、その手つきに迷いはなかった。ページをめくるごとに、彼の瞳は獲物を見つけたかのようにぎらつきを増していく。「素晴らしい。ルミエールに莫大な富が舞い込んでくる光景が、俺にはもう見えていますよ」「そのくらいにしておけ。腕を振るう機会なら、これから腐るほどある」取り憑かれたような部下の様子に、裕司は苦笑を漏らした。「ええ、ええ。その通りですとも!」ディレクターは弾かれたように何度も頷いた。「三浦さんさえいれば、我が社がデザイン不足に陥ることは万に一つもあり得ない。近いうちに、ルミエールの名は国際舞台を席巻することになるでしょう!」その言葉に、その場にいた全員が深く同意
正直なところ、当初は危惧の念を抱いていた。吉川グループがジュエリー界の新星を抱え込み、かなりの手練れだという噂を、かねてより耳にしていたからだ。だが、杏奈の能力を目の当たりにした今、その懸念は跡形もなく霧散していた。実力がある、だと?笑わせるな。やれるものならやってみるがいい。たった半日で、これほど完璧なデザインを二つも仕上げられるものならな。杏奈は彼らの賞賛に応えようとしたが、限界まで酷使された肉体が、ついに悲鳴を上げた。視界が歪み、足元が大きく揺らぐ。脳を削るようなデザイン作業以上に、工具を振るう実制作は苛烈に体力を奪うのだ。倒れそうになった彼女の体を、間一髪のところで裕司が抱きとめた。「デザインさえ上がれば十分だと言ったはずだ。なぜ制作までした」裕司の声には、隠しきれない懸念の色が滲んでいた。杏奈は力なく、けれど満足げに笑った。「せっかく生まれたインスピレーションですもの。形にしてあげないと、この子たちが不憫ですよ」ジュエリーは彼女にとって、単なる仕事の成果ではない。心血を注いで産み落とした、愛しい我が子なのだ。裕司はその想いを知り、それ以上は何も言わず、彼女を椅子に座らせて休ませた。杏奈が蒼白な顔で呼吸を整える間、フロアには重苦しいまでの静寂が流れた。結果は、もはや明白だった。誰もがその静寂を乱すことをためらっていた。その凝縮された静寂を破ったのは、地を這うような、男の掠れた声だった。「……俺の、負けだ」真紘は深く頭を垂れていた。その顔にどのような屈辱が浮かんでいるのか、誰にも窺い知ることはできない。ただ、彼の手によって掲げられた二つの宝石だけが、人々の目に鮮やかに焼き付いた。イヤリングとブレスレット。それは、一つの魂を分け合ったセットだった。人々がその素材を推測し、未知の技法に目を見張っていると、少し息を吹き返した杏奈が静かに語り始めた。「これはセット作品です。名は『モーニング・ライト・キス』」彼女の透き通るような声が響く。「私は、光とは宝石が反射するものではなく、その内側から生まれ出るものだと考えています」その一言は、プロたちの胸を鋭く穿った。言葉を咀嚼する暇も与えず、杏奈は続けた。「メインストーンには、あえてダイヤモンドではなく、高純度の無色サファイアを選びました。ダイヤモ
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