啓司は紗枝に寄りかかるようにして、腕の中に閉じ込めると、少しかすれた声で問いかけた。紗枝は戸惑いながら、「どういう意味?」と聞き返した。啓司は答えず、さらに顔を近づけ、大きな手で彼女の頬に触れた。手のひらに感じる温もりで、これが現実なのかを確かめようとしていた。「お前、死んでなかったのか?」彼の喉仏が微かに上下した。紗枝はますます混乱した表情を浮かべる。「私のこと嫌いでも、『死ね』なんて言わないでよ」「2年間、ずっとお前を探してたのに。夢にすら出てきてくれなかったじゃないか。なのに、どうして今日になって現れた?本当に死んでたのか?」啓司は彼女の説明など聞こうとせず、これが夢に違いないと決めつけていた。「人ってさ、死んだときにだけ夢に出てくるって言うだろ?だから、お前は本当に死んでたんじゃないのか?どうして、俺に一度も会いに来てくれなかった?」その時、突然停電が起き、病室が真っ暗になった。啓司はまだ自分が失明していることに気づいていない。一方で紗枝は、彼の言葉から記憶が少しずつ戻ってきていること、自分が行方不明になった後の2年間まで思い出していることに気づきはじめていた。「啓司......あなた、目が――」そう言いかけた瞬間、啓司は彼女の顔を両手で包み込み、そのまま強引にキスをしてきた。紗枝は一瞬、思考が真っ白になり、反応する間もなく、啓司の手が彼女の服にかかる。「け、啓司......!」紗枝はタイミングを見計らって彼の肩を強く叩き、いったん止まって話を聞いてほしいと訴えた。だが、啓司はその声に応じようとしなかった。紗枝は心の中で、今日はもう逃げられないんだと覚悟した。ちょうどそのとき、「キーッ」という扉の音とともに、全ての明かりが一斉に点灯した。そして、白衣を着た澤村が入口に立ち、今の一部始終を目撃していた。目を丸くした澤村は、軽く咳払いをした。「ごめん、邪魔しちゃって」心の中では「えっ、啓司って記憶喪失じゃなかったの?なんでこんなことに......?」と混乱していた。澤村はそのまま立ち去りながら、きちんとドアを閉めた。病室には彼らしかいないとはいえ、万が一他の医者が通りかかるかもしれないからだ。啓司も誰かが入ってきたことに気づき、ようやく紗枝を解放した。紗枝はすぐにその腕から抜け出
唯は口ではああ言っていたけど、実際のところ、新しい仕事の方向性が見えてきたことにホッとしていた。お金に困ってるわけじゃないけど、自分で稼ぐってやっぱり安心感があるのだ。彼女の頭には、かつての恋人・花城の皮肉が今でも残っていた。「金持ちの家に生まれてなかったら、お前、何ができるんだ?」今の自分の収入を見せたら、きっと花城が弁護士として稼いでる額の何十倍にもなるだろう。「ねぇ唯、澤村家ではうまくやってる? 花城からまた連絡きたりしてない?」と紗枝が聞いた。この前、花城と澤村が喧嘩してたのを、紗枝はしっかり覚えている。唯はどこか余裕を漂わせながら答えた。「ちゃんとやってるよ。花城?何回か電話してきたよ」深く息を吸い込んでから、唯はぽつりぽつりと話し始めた。「紗枝は知らないでしょ。あの人、ほんと変なんだから。電話のたびに、『澤村家とは関わるな』とか『澤村とは絶対結婚するな』とか言ってくるの。澤村はろくな奴じゃないってさ」そんな話を思い出すと、唯はもう呆れるしかなかった。「自分は結婚してるくせにさ、人の結婚相手にまで口出すとか、意味わかんないよね」紗枝も思わず首を振って、真剣な表情で唯に忠告した。「唯、澤村家の長老たちが問題ないとしても、結婚のことはちゃんと考えなよ。後悔しないようにね」澤村は気分にムラがあって、気に入らない人にはとことん冷たくなるタイプだ。今は唯に優しくしてるけど、紗枝はどこか引っかかるものを感じていた。「大丈夫、ちゃんと分かってるよ。澤村お爺さんにも言ったの。一年間は一緒に過ごしてみて、それから考えるって」唯は淡々と続けた。「それに澤村とも約束してあるの。一年後、もしお互い何の感情もなかったら、おじいちゃんにちゃんと伝えて、完全に諦めてもらおうって」「そっか、分かった」唯の話を聞き終えて、紗枝はやっと少し安心したようだった。「もうこんな時間だし、今日は帰るね。明日また来るから、そのときはノートパソコン持ってくるよ。じゃないと景ちゃんにまた仕事チェックされちゃうから」唯はため息まじりに言った。子どもなのに、上司よりしっかりしてるんだから。「うん」紗枝は静かに頷いた。彼女は唯を病院の入口まで見送り、唯が車に乗るのを見届けると、中へ戻った。この階には啓司だけが入院していて
唯はしばらくぼんやりしてから、ベッドに横たわる整った顔立ちの男性を振り返った。啓司は、もう寝言を言っていなかった。彼女は深く息を吸い込み、からかうように言った。「社長の頭って、普通の人とはちょっと違うんじゃない?」その言葉に紗枝も思わず笑ってしまい、「たぶんね。普段は記憶力バツグンで、一度見たものは絶対に忘れないくらいなのに、そんな人が記憶喪失になるなんて、信じられないよ」と答えた。二人は啓司のすぐそばで、まるで彼がそこにいないかのように、遠慮なくあれこれ言い合っていた。やがて食事の時間になっても、啓司はまだ目を覚まさなかった。牧野は気を利かせて、紗枝に何を食べたいかを聞くために人を遣わせた。「火鍋とザリガニと蟹が食べたい!」唯は遠慮なくリクエストした。紗枝は妊娠中で、ここ最近ずっと食事に気をつけていたため、こういった味の濃い料理はずっと控えていた。来たスタッフに向かって、「友達のリクエスト通りにお願いします。ただし、火鍋は仕切りがあるお鍋で。それから、私の栄養食もいつも通り用意してくださいね」と指示した。お腹の赤ちゃんのことは、どうしても気を配らなければならない。「あっ、そうだ!すっかり忘れてた。あなた妊娠中だったよね!」唯は自分のおでこをポンと軽く叩いた。「大丈夫だよ。私も火鍋もザリガニも蟹も、ずっと食べてなかったから、今日はちょっとだけ食べるつもり」紗枝はにっこりと笑って言った。「ならよかった」しばらくして、二人が注文した料理が運ばれてきた。啓司が滞在しているのは広々としたVIP病室で、リビングやダイニングも完備されていた。ただ、どれだけ部屋が広くても、食欲をそそる香りは寝室まで漂ってきて、啓司の眠りを浅くさせた。彼の頭の中には「牧野を呼び出して、『なんでオフィスにこんな強烈な匂いがするんだ?』って聞いてやりたい」って気持ちが渦巻いていた。唯と一緒にいると、紗枝は時間があっという間に過ぎていくように感じた。二人はおしゃべりを楽しみながら過ごし、外はだんだんと暗くなっていった。その時、唯のスマホに景之から電話がかかってきた。「唯おばさん、なんで電話出るの遅いの?僕が家にいないからって、サボってるんじゃないでしょうね?」彼は唯が紗枝に会いに来ていることを知らなかった。「景ちゃん、こっちは最近バタバ
銀灰色のビジネスカーが玄関に停まった。しばらくして、紗枝が啓司を支えながら降りてきて、牧野がそのすぐ後ろについていた。「啓司さん、お義姉さん......これ、マジでどういう状況だよ?」澤村の声には焦りがにじんでいたが、「お義姉さん」という言葉が、啓司の耳に妙に引っかかった。澤村なんて、前はずっと紗枝のことを「耳が遠いやつ」なんて呼んで、あんなに嫌ってたくせに。今さら「お義姉さん」なんて呼び方、何を気取ってるんだか。「話すと長くなるの。詳しくは牧野さんに聞いて」紗枝の澤村に対する態度は、相変わらず冷ややかだった。でも澤村はそれを気にする様子もなく、まず二人を中に案内してから、牧野に事情を尋ねた。牧野は、一から十まで、これまでの経緯を丁寧に説明した。「睦月のやつ、命が惜しくないのか?」澤村は吐き捨てるように言い、目には明らかな怒りが宿っていた。「神楽坂家の連中なんて、みんな気が小さいと思ってたのに。啓司さんに手を出すなんて、どうかしてるだろ」牧野も、まさかの展開に驚きを隠せなかった。これまで神楽坂家はずっと低姿勢だったからだ。「啓司さんの担当医はもう手配しといたから。俺、ちょっと出かけてくるわ」澤村がそう言って立ち上がると、牧野が慌てて彼を引き止めた。「澤村さん、社長が完全に回復されるまで、何事も慎重に動いた方がいいかと」この状況でじっとしていられるような性格ではない澤村に向かって、牧野はさらに一言付け加えた。「睦月と辰夫は、夫人のご友人でもありますから」その言葉を聞いて、澤村は珍しく冷静さを取り戻した。「......じゃあ、啓司さんが回復されるまで待つよ」牧野は驚いた。あの啓司の言葉しか耳に入らない澤村家の御曹司が、こんなにあっさり引き下がるなんて。啓司が検査に回されている間、紗枝たちは外で待機していた。啓司の状態を完全に把握した澤村は、ふと口を開いた。「前に、海外の神経科の専門家がこういうケースの話をしてたことがある。でも、その人の記憶は永久に戻らなかったらしい」「その患者さん、結局治療はできたんですか?」と紗枝が尋ねた。澤村は静かに首を振った。「今の医療じゃ、この現象の原因をはっきり突き止めるのは難しいらしい」昼になっても検査は続き、ようやく終わったころには、啓司は完全に疲れ切
啓司には軽い潔癖症がある。紗枝はもちろん、葵でさえも彼に触れることはできなかった。それなのに今、紗枝は彼の胸に寄りかかっている。なのに啓司は、それを嫌がる素振りも見せなかった。「本当に違うんだな」訳が分からず、紗枝は「何が違うの?」と問い返した。啓司は答えず、すぐに彼女から身を離した。彼はいまだに信じられずにいた。数年後の自分が紗枝に恋をし、彼女との間に子どもを授かるなんて。「その子ども、何歳だ?」啓司が突然そう尋ねると、紗枝は不思議そうにしながらも、素直に「四歳をちょっと過ぎたところ」と答えた。四歳過ぎ、か。それはちょうど紗枝が離婚を切り出していた頃に妊娠していたことになる。「俺に薬を盛ったんだな?」啓司にはそうとしか思えなかった。「えっ、何か思い出したの?」紗枝は、彼が今の子どもを妊娠するために薬を盛った件のことを言っているのだと思い込んだ。啓司は目を細め、その目に冷たい光を宿しながらつぶやいた。「やっぱり、そうか......」彼はずっと不思議だったのだ。記憶の中では紗枝との離婚を決めていたはずなのに、現実には離婚していなかった。その理由は――彼女が、こんな卑怯な手を使っていたからだった。「お前、見直したよ。そんなこと、あっさり認めるなんて堂々としてるじゃないか」啓司は冷たく、皮肉たっぷりに言った。紗枝は、啓司が完全に誤解していることに気づかず、必死に説明を始めた。「後で話したでしょ?どうしようもなかったの。逸之が白血病で、兄弟の臍帯血が必要だったのよ」啓司は最初こそその言葉の意味を飲み込めなかったが、すぐにその中から一つのキーワードを拾い上げた。「じゃあ、俺たちの第一子はどういうことだったんだ?」再びそう尋ねる啓司に、紗枝の胸がズキリと痛んだ。まさかそのことまで忘れているなんて、思ってもいなかった。何年経っても、あのときのことを思い出すと拳を握り締め、爪が掌に食い込んだ。そんな思いを押し殺しながら答えた。「今さらそんなこと聞いてどうするの?まずは病院で検査して、治療して、ちゃんと思い出せばいいじゃない」もう食事を続ける気になれず、紗枝は啓司の手を引いた。「行こう。牧野に電話して、澤村さんに連絡してもらう」啓司が立ち上がると、がっしりした体格の彼が、紗枝を
啓司の薄い唇は、きゅっと引き結ばれ、口角には緊張が走っていた。彼は紗枝との口喧嘩を切り上げて、ベッドから身を起こすと、黙って外へ出ようとした。その様子を見た紗枝も、慌てて立ち上がった。「考え直したの?病院に行こうよ」啓司は返事もせず、勝手に前へと歩き出した。室内の家具や物にぶつかるのは、もう避けようがなかった。「前、壁よ!」案の定、壁にぶつかりそうになったところで、紗枝が慌てて声をかけた。啓司はその場で立ち止まり、手探りでドアの場所を探し始めた。紗枝は彼に近づき、そっと手を取った。以前の啓司なら、きっと嫌がって振り払っていただろう。けれど、今の彼はなぜか、それを拒もうとしない。それどころか、彼女に触れられた瞬間、血の流れが止まったような、不思議な感覚に襲われた。なぜこんなことになっているのか、啓司自身にもまったく分からなかった。紗枝はそんな彼をぐいっと引っ張り、優しさのかけらもなくドアを開け、外へと連れ出した。「まずはご飯食べてから、病院に行きましょ」澤村のコネを使えば、啓司を秘密裏に診てもらうことは可能だ。啓司は何も言わず、ただ紗枝に手を引かれるまま階段を降りていった。階下では牧野がその様子を目にし、啓司がもう回復したのかと一瞬思った。「社長」「消えろ」牧野:「......」まだ回復してないようだ。紗枝が牧野に声をかけた。「朝食、できてる?」「ええ、準備できてます。ダイニングへどうぞ」「一緒に少し食べない?」紗枝がさらに誘うと、牧野は首を横に振った。「いえ、大丈夫です。外で済ませますので。何かあれば連絡を」紗枝はうなずき、彼が去っていくのを見送った。牧野がいなくなった後、紗枝は啓司を席に着かせ、朝食を食べさせようとした。紗枝自身も急いで戻ってきたため、まだ何も口にしていなかった。当然、啓司もほとんど食べていない。ダイニングにはすでに豪華な朝食が並べられていて、紗枝は啓司を椅子に座らせ、口を開いた。「お茶碗は目の前よ。目が見えないなら、誰かに食べさせてもらう?」食べさせてもらうなんて、1歳の頃にはもう卒業していた。そう思いながら、啓司の表情が一層険しくなった。「いらない」彼は無言で手探りし、箸を取った。その頑なな態度を見て、紗枝はため息をつきな