離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ

離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ

By:  風待 栞Updated just now
Language: Japanese
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結婚から三年。鷹司臣(たかつかさ じん)が長年心に秘めていた女性が、海外から帰国した。時を同じくして、静沢水琴(しずさわ みこと)は、三年間深く愛したはずの夫から一枚の離婚届を突きつけられる。 市役所の前で、臣はかつての想い人に愛を囁く。「この三年間、俺はあいつに指一本触れてない。愛してるのは君だけだ」 その言葉に、水琴の心は完全に死んだ。ドブに捨てたような三年間──彼女は過去を振り切り、かつて打ち込んでいた仕事に復帰する。そして、自らの力で富と成功を掴み、人生の頂点へと駆け上がっていくのだった。 その時になって初めて、世間は知ることになる。捨てられた鷹司夫人――静沢水琴が、類まれな美貌と富を兼ね備えた、本物のハイスペックな女性であったことを。 三か月後の深夜。 臣は、赤く充血した目で水琴に電話をかける。 「水琴……俺は、後悔してる……」 だが、電話口から聞こえてきたのは、水琴の眠たげな呟きだけだった。「灼也、だれ……?」 彼女をその腕に抱く男──高遠灼也(たかとお しゃくや)は、口元に笑みを浮かべながら静かに通話を切る。そして、腕の中の温もりに優しくキスを落として囁いた。 「ううん、誰でもないよ。ただの迷惑電話だ」

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Chapter 1

第1話

「サインを」

頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。

ああ、そういうことだったのね。

どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。

一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……

三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。

水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」

臣はわずかに眉をひそめ、目の前に立つ女を値踏みするように見た。三年間、「鷹司夫人」であった女を。

部屋の片付けを終えたばかりなのだろう。白い額には汗が滲み、目には隠しきれない疲労と戸惑いの色が浮かんでいる。化粧気のない素顔には、分厚い眼鏡。

優しくて素朴だが、退屈な女。

そんな、どこにでもいるような冴えない女が、三年間も鷹司夫人の座にいたのだ。

臣はゆっくりと視線を外し、手にしていた煙草を灰皿に押し付けた。その声は淡々としていたが、有無を言わせぬ響きを帯びている。「サインしろ。彼女が帰ってきたんだ。勘違いされたくない」

水琴は息を飲む。舌の奥が、きゅっと苦くなった。臣の言う『彼女』が誰なのか、水琴にはすぐに分かった。

月城紗夜(つきしろ さや)。臣にとっての初恋の相手であり、忘れられない唯一の女性。

彼女の存在が、二人の結婚を名ばかりのものにしていた。この三年間、臣は紗夜のために、水琴に一度も触れようとはしなかったのだから。

水琴が同意をためらっているとでも思ったのか、臣は彼女を見つめたまま、淡々とした声で言葉を続けた。「協議離婚だ。君の学歴では、この先の生活も心許ないだろう。慰謝料として、この屋敷とは別に所有する都内のマンション数件と車を君に譲る。加えて、現金で十六億円を支払おう」

もともとこの結婚は、臣の祖父である鷹司家当主を納得させるためだけのものだった。そのため、婚前契約も交わしている。臣が提示した条件は、本来彼女が受け取るべき額を遥かに上回っていた。

臣は水琴を好いてはいなかったが、この三年間、彼女が妻としての務めを完璧にこなしてきたことは認めている。上乗せした分は、その労苦への対価のつもりだった。それに、高卒の女が一人で生きていくには、金がいるだろうという考えもあった。

水琴は彼の言わんとすることを理解し、離婚届にさっと目を通す。そして、ゆっくりと頷いた。「……わかったわ。それで合意します」

彼女はペンを手に取ると、一切の迷いなく、流れるような筆致で自らの名を書き記した。そして臣を見上げる。分厚いレンズの奥の瞳は、どこか遠くを見つめているようで、その眼差しに浮かぶのが苦さなのか、それとも諦めなのかは判然としなかった。

「安心して。二、三日のうちには出ていくから。あなたたちの邪魔はしないわ」

臣は頷く。「この三年間、ご苦労だった」

どれほど退屈で、面白みのない、平凡な女であったとしても、水琴が『合格点の妻』であったことは、彼も認めざるを得ない。

この数年、彼女は鷹司家の人間すべてに、献身的に尽くしてきた。彼女が家庭を完璧に守ってくれていたからこそ、自分は何の憂いもなく仕事に邁進できたのだ。

だが、愛情だけは、どうにもならなかった。

水琴は、彼の言葉がおかしくてたまらなかった。臣のために尽くし、三年間という貴重な時間を捧げた結果、返ってきたのは、たった一言「ご苦労だった」だけ。

臣は彼女の瞳の奥に宿った嘲りを気にも留めず、サイン済みの離婚届を受け取った。その時、アシスタントから電話が入る。彼は水琴に一瞥をくれると、事務的に言い放った。「会社で急用だ。何か手伝いが必要なら、中村さんに頼んでくれ」

水琴は、こくりと頷いた。

臣が書斎から出てくると、リビングで待っていた母の鷹司佳乃(たかつかさ よしの)が、緊張した面持ちで彼に歩み寄った。

「どうだったの、あの子、サインはしたの?」

臣はわずかに眉をひそめたものの、静かに頷いた。

佳乃は心底ほっとしたように息をつくと、嬉しそうに何度も頷いた。「そう、よかったわ。本当によかった。あの子が嫁に来てからこの三年、母さんはずっと気が気じゃなかったのよ。他のことはともかく、三年も経つのに子ども一人産まないし、いつも俯いて黙り込んで、何を考えているのかわからないんだもの。裏で何を企んでいることやら」

臣は何も言わなかった。

佳乃はため息をつき、言葉を続ける。「そもそも、お祖父様が無理にあなたとあの子を結婚させようとした時から、母さんは反対だったの。両親もいない、小林家に居候させてもらっていたような孤児の、どこがいいっていうのかしら。でも、もう大丈夫。あなたが離婚して、紗夜さんと再婚してくれれば、母さんもやっと肩の荷が下りるわ。あなたには、紗夜さんのような素晴らしいお嫁さんこそが相応しいのよ」

そばにいた妹の鷹司雅(たかつかさ みやび)も、ぱっと顔を輝かせて頷いた。「本当にそうよ、お兄様。あんな人がお義姉様だなんて、恥ずかしくて仕方なかったわ。でも、これからは大丈夫。紗夜さんがお義姉様になってくれたら、周りからどれだけ羨ましがられるか……想像するだけでワクワクしちゃう」

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第1話
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわずかに眉をひそめ、目の前に立つ女を値踏みするように見た。三年間、「鷹司夫人」であった女を。部屋の片付けを終えたばかりなのだろう。白い額には汗が滲み、目には隠しきれない疲労と戸惑いの色が浮かんでいる。化粧気のない素顔には、分厚い眼鏡。優しくて素朴だが、退屈な女。そんな、どこにでもいるような冴えない女が、三年間も鷹司夫人の座にいたのだ。臣はゆっくりと視線を外し、手にしていた煙草を灰皿に押し付けた。その声は淡々としていたが、有無を言わせぬ響きを帯びている。「サインしろ。彼女が帰ってきたんだ。勘違いされたくない」水琴は息を飲む。舌の奥が、きゅっと苦くなった。臣の言う『彼女』が誰なのか、水琴にはすぐに分かった。月城紗夜(つきしろ さや)。臣にとっての初恋の相手であり、忘れられない唯一の女性。彼女の存在が、二人の結婚を名ばかりのものにしていた。この三年間、臣は紗夜のために、水琴に一度も触れようとはしなかったのだから。水琴が同意をためらっているとでも思ったのか、臣は彼女を見つめたまま、淡々とした声で言葉を続けた。「協議離婚だ。君の学歴では、この先の生活も心許ないだろう。慰謝料として、この屋敷とは別に所有する都内のマンション数件と車を君に譲る。加えて、現金で十六億円を支払おう」もともとこの結婚は、臣の祖父である鷹司家当主を納得させるためだけのものだった。そのため、婚前契約も交わしている。臣が提示した条件は、本来彼女が受け取るべき額を遥かに上回っていた。臣は水琴を好いてはいなかったが、この三年間、彼女が妻としての務めを完璧にこなしてきたことは認めている。上乗
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第2話
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当に来ないの?昔は狩りがいちばんの楽しみだって言ってたじゃない。ついでに思いっきり飛ばせるチャンスなのに」その言葉に、水琴ははっとする。封じ込めていた記憶の蓋が、不意にこじ開けられたような感覚。臣と出会う前は、確かにそうだった。狩猟も、サーキットでタイムを競うことも、年代物のワインも、すべてが彼女の世界だった。小林家で臣と出会い、一目で恋に落ちる、あの日までは。彼を愛するようになってから、人づてに彼の好みが『おしとやかな大和撫子』だと知った。それからだ。派手な趣味を一つ、また一つと手放していったのは。三年間、彼が求める理想の妻を演じるうちに、本当の自分が、どんな顔をしていたかすら、忘れかけていた。電話の向こうで、鹿耶がまだ何か言っている。「……ていうかさ、ミコト。旦那に知られたくないんだったら、黙って行けばいいじゃない。男一人のために好きなこと全部やめるなんて、バカらしいって。そもそもあの鷹司臣って男は……」「離婚したの」水琴は、静かな声でその言葉を遮った。電話の向こうで、鹿耶が息を呑む気配がした。たっぷりとした沈黙の後、絞り出すような声が続く。「……あんたがようやく目が覚めたわけ?それとも、あの男がいよいよイカれた?」水琴は、ふっと笑みを漏らした。「彼から。私は、同意しただけ」楓はしばし絶句していたが、その心の内では、あの男はどこまで見る目がないのかと呆れていた。水琴のような逸材を、鷹司家は三顧の礼で迎えても足りないくらいだというのに。それを自ら手放すとは。「おめでとう、ミコト」楓の声は、心なしか弾んでいた。「すぐ迎えに行
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第3話
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「またあの月城紗夜?わけわかんない。あの男、一体彼女のどこがいいわけ?」水琴は、琥珀色のカフェ・ド・グラスをストローで静かにかき混ぜる。その声には、感情というものが抜け落ちていた。「さあ……」水琴は、臣の『忘れられない人』に会ったことがない。彼女が海外へ渡った後で、臣と知り合ったからだ。ただ、噂では聞いていた。とても優しくて、聡明で、誰に対しても気の利く、まさに大和撫子を体現したような女性だと。かつて臣が、彼女との結婚を巡って祖父と対立した時も、見事なまでに身を引き、臣を諭したのも彼女だったという。そのおかげで、自分と臣の契約結婚が成立したのだ。水琴がそれ以上語りたがらないのを察したのか、鹿耶は頬杖をつきながら、わざと明るい声で話題を変えた。「……にしても、あの鷹司臣も気前がいいじゃない。都内のマンション数件に、車、おまけに現金十六億円って……」そこで言葉を切ると、鹿耶は水琴の顔をじっと見つめ、残念そうに付け加えた。「ま、あんたにはした金みたいなもんか」父が亡くなった後、会社経営に興味のなかった水琴は、経営のすべてを従兄である静沢重人(しずさわ じゅうと)に任せていた。自分はただ、役員配当という名の不労所得を受け取るだけ。世間はとっくに会社は重人のものになったと思い込んでいるし、鷹司家もまた、婚前契約のせいで水琴は無一文だと信じきっていた。「お金があって困ることはないでしょう」水琴は、どこか上の空で答えた。目の前の、化粧気もなく、まるで色のない水琴の姿に、鹿耶はきゅっと胸が痛む。そして、わざと威勢のいい声を出した。「そりゃそうよ!その金で、いい服買って
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第4話
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だった。臣は眉間にわずかな皺を寄せた。「なら、ここで待つが……」水琴は、その言葉を遮るように微笑んだ。「いえ、お構いなく。一人で行きますので」彼の言葉を待たずに、水琴は視線を紗夜へと移す。そして、思い出したように付け加えた。「それから、明日の朝九時。ご都合がよろしければ、役所で届けを済ませてしまいましょう」なぜか胸のあたりがざわつくのを感じながら、臣は尋ねた。「……そんなに、急ぐのか」水琴は、まっすぐに彼を見つめ返すと、頷いた。「ええ。とても」そのきっぱりとした物言いに、臣は言葉に詰まる。わずかに表情を硬くすると、紗夜の腕を引いてその場を離れようとした。数歩歩いたところで、紗夜が臣に何か親密に囁きかけると、くるりと向き直り、水琴のもとへ歩み寄ってきた。その瞳には、どこまでも柔和な光が宿っている。「静沢さん。どのような形であれ、あなたにはお礼を言わなくてはなりません」水琴には、その言葉の意味が解せなかった。「……お礼、ですか?」紗夜は、少し離れた場所で待つ男に一瞬目をやり、耳にかかる後れ毛を指で優雅に払った。その笑みは、甘い追憶のようでもあり、深い感慨のようでもあった。「昔、私と臣さんは、ちょっとしたすれ違いで離れてしまって……帰国した時、もうやり直すことはできないのだと思っていました。あなたが彼を深く愛していることも存じております。もし、あなたが身を引いてくださらなければ、私たちがこうして再び一緒になることもなかったかもしれませんわ」「勘違いなさらないで」水琴は、すっと顔を上げた。「私が彼と別れるのは、あなたたちのためじゃありません。そんな
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第5話
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣との話は聞いた。案ずるな、水琴。鷹司家の嫁は、お前ひとりだけだ」宗一郎は、隣で顔をこわばらせる臣と紗夜を一瞥し、当てこするように言い放つ。「この家を出ていく者がいるとすれば、それは家庭を壊した泥棒猫と、責任も取れんろくでなしの方だろう!」その場の空気が凍り、水琴は気まずさに目を伏せた。臣は苦々しく眉を寄せている。その手を、隣に座る紗夜が「大丈夫よ」とでも言うように握り、潤んだ瞳でいかにも庇護欲をそそる仕草で見上げた。宗一郎はそんな二人を意にも介さず、ローテーブルを軽く叩いて嘆息した。「わしとお前の父親は、歳の離れた親友だった。お前が嫁に来てくれた時は、本当に嬉しかったんだ……今更お前を追い出すようなことになって、あいつの墓前にどう顔向けすればいい」「お祖父様」臣はこめかみを揉み、うんざりしたように口を挟んだ。「水琴には、できる限りの償いはします。ですが、感情は無理強いできるものではない」「なにをっ!」宗一郎は激昂した。「貴様は目が節穴か!あんな女のどこがいい!」「お祖父様……」一触即発の祖父と孫の間に、水琴が静かな声で割って入った。「宗一郎様。彼が望んだのではありません。私が、望んだのです」その一言で、リビングの空気は完全に凍りついた。水琴は宗一郎の前に白湯の入ったグラスをそっと置くと、ゆっくりと言葉を続けた。「私のことはご心配なく。自分を偽ってはいません。すべて、私自身の心に従っただけのことです。離婚も……ただ、もう臣さんのことを、好きではなくなってしまったからです」その横顔は、まるで鳥籠から解き放たれたかのように、穏やかで澄み切って
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第6話
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかった。臣よ、水琴はお前のために、その全てを捧げたのだ。対して、あの女は?ただお前に汁物を一杯よそっただけだ。それだけで、お前は心を動かされたとでも言うのか」その言葉一つ一つが、臣の胸に突き刺さる。彼は知らぬ間に、拳を固く握りしめていた。瞳の奥で、墨を流したような暗い感情が渦巻いている。水琴は、その夜鷹司家で交わされた会話を、何も知らなかった。ただ、久しぶりに、深く安らかな眠りに落ちた。翌朝、八時半。水琴は、離婚届の提出について、臣に電話をかけた。「臣さん。ご都合がよろしければ、九時に役所へお越しいただけますか。私、もう向かっておりますので」電話の向こうで、臣は一瞬黙り込んだ。そして、感情の読めない声で答える。「悪いが、これから会議だ。時間がない。二、三日後にまた連絡する」言うだけ言うと、電話は一方的に切られた。水琴は一瞬、呆然とした。昨日、念を押しておいたはずなのに。――まあ、いいわ。水琴は小さくため息をつくと、電話をかけ直すのをやめた。多忙な御仁の仕事が終わるのを、もう少しだけ待ってやろう、と。役所からの帰り道、途方に暮れていた水琴は、ふと昨夜の鹿耶との会話を思い出した。恩師である蓮見教授のことだ。水琴はすぐに電話をかけ、これから見舞いに伺いたいと告げた。蓮見の自宅へ着くと、使用人が書斎へと通してくれた。しかし、ドアに手をかけるより先に、中から教授の声が漏れ聞こえてくる。「灼也くん、君の妹さんの件だが……残念ながら、私では力不足だよ。心理療法というものはとにかく時間がかかる。途中で投げ出すのが一番良くないんだ。今の私の身体では、最後ま
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第7話
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、しばらく昔話に花を咲かせた。蓮見はよほど嬉しかったのか、夕食まで共にどうかと誘ってくれたが、それは丁重に断り、昼過ぎに蓮見邸を辞した。明日は狩猟だ。水琴は一度マンションに戻ると、準備しておいた服と愛用の道具を車に積み込んだ。翌日、鹿耶の運転する車で明山の狩猟場へと向かう。二人が到着したのはまだ早い時間で、ロッジには見知らぬ顔が数人いるだけだった。今回の狩猟は高遠家が主催しているだけあって、様々な人間が集まっているのだろう。水琴は誰かに挨拶する気にもなれず、まっすぐにロッジの奥にある更衣室へと向かった。狩猟服に着替え、壁に立てかけられた得物の中から、しっくりと手に馴染む一丁を選ぶ。そして、部屋を出ようとした、その時。聞き覚えのある声が、ロッジのホールから響いてきた。「臣さん、それに紗夜さんまで!どうしたんですか、お二人はこういうの、興味ないと思ってました」「紗夜がここのジビエを食べてみたいと言うものでね。気分転換にちょうどいいかと思って」水琴は一瞬動きを止め、静かにドアを開けて外へ出た。そこには、臣の友人が、親しげに二人と談笑している姿があった。水琴の姿に気づいた友人は、驚いたように声を上げる。「あれ……水琴さん?どうしてここに……」言った直後、彼はしまったという顔で、隣に立つ臣の表情を窺った。水琴は長い髪を無造作に束ね、化粧気のない素顔を晒していた。しかし眼鏡はなく、代わりにコンタクトを入れた瞳は、迷彩柄の狩猟服と相まって、凛々しく、そしてどこか野性的な魅力を放っている。臣は、初めて見る彼女のその姿に、思わず眉をひそめた。「……お前がな
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第8話
水琴はそれを受け取りながら、胸の中で呟いた。本当に、食えない人……やがて灼也も着替えを終え、参加者たちはインストラクターの指示に従って、それぞれの得物を手に猟場へと足を踏み入れていった。もちろん、参加者の多くは狩猟そのものより、灼也を目当てに集まった者たちだ。狩りに不慣れな者や、そもそも興味のない者たちは、ロッジのテラスに残って見物することにした。臣と紗夜も、その中に混じっている。高遠家が用意したテラスは、双眼鏡はもちろん、様々な酒や軽食が並び、敷地内で飼われているらしい小鹿を眺めることもできて、手持ち無沙汰になることはない。それでも、ほとんどの招待客の興味は、これから始まる狩りの行方に集中していた。皆、一様に双眼鏡を手に取り、固唾をのんで猟場を見つめている。臣は、水琴の先ほどの言葉を思い、目を伏せながら双眼鏡を手に取った。レンズの先には、どこまでも広がる草原があった。風が唸りを上げて吹き抜け、馬上の水琴を映し出す。その風を一身に受け、水琴は胸の奥から理由のわからない興奮が込み上げてくるのを感じていた。まるで、ずっと心の奥底に抑え込んできた何かが、ようやく目を覚ましたかのようだ。彼女の瞳には、かつての奔放だった頃のような、鮮やかな光が戻っていた。その姿を、ロッジのテラスから見ていた臣は、双眼鏡から目を離した。苦々しい表情のまま、長く、押し黙っている。自分の見てきたあの退屈で面白みのない女に、これほど颯爽とした一面があったとは……臣は知らなかった。猟場では、乗馬のできない鹿耶が猟犬を連れて水琴を待っていた。水琴が馬からひらりと身を翻した時、鹿耶はふと、少し離れた場所から灼也が水琴を見つめていることに気づいた。その瞳を、面白がるような光がよぎる。鹿耶の胸が、とくん、と嫌な音を立てた。案の定、だった。灼也がそばにいたスタッフに二言三言告げると、そのスタッフが彼女たちの元へやってくる。「お嬢様方、高遠様からの伝言です。本日、最も多くの獲物を仕留めた方には、お好きな獲物、あるいは敷地内で飼育しております仔馬や子鹿を一頭、お持ち帰りいただけるとのことです」「ミコト!」鹿耶がぱっと目を輝かせる。「一位になったら、さっきの馬を連れて帰れるってことじゃない!」その言葉に、水琴も少し心が動いた。参加者の大半は鹿耶と
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第9話
顔を上げると、涼やかで、どこか愛嬌のある目元が視界に映った。遊び人風の伊達男だが、物腰は柔らかく、笑うと少年のような無邪気さが滲む。水琴の記憶にはない顔だ。鹿耶も、胡散臭そうに男を見つめている。男の方は人懐っこい笑みを浮かべると、慣れた様子で二人の隣に腰を下ろした。手には、先ほど水琴が仕留めた黒雁のローストを乗せた皿を持っている。「オレ、坂本七緒(さかもと ななお)っていいます。灼也様の料理人をしてまして」七緒と名乗った男は、にこやかに続けた。「お嬢さんが仕留めたこの黒雁、灼也様の言いつけで、早速調理してお持ちしました。ぜひ、召し上がってみてください」料理人?水琴は男の手元に目をやった。何千万円もする腕時計をつけた料理人がいるものか。「七緒さん」鹿耶が、思ったままを口にする。「高遠様とこの料理人ってみんなそんなにお金持ちなの?」「いえいえ」七緒は黒雁を手際よく切り分けながら、得意げに胸を張った。「主にうちの灼也様が、金持ちなだけです」その答えに、水琴も鹿耶も、思わず笑い声を上げた。その楽しげな声が、離れた場所にいた臣の耳に届く。まるで胸に重りが乗ったような、息苦しい不快感が込み上げてきた。臣のいる場所から、ちょうど三人の姿が見える。水琴が銀のフォークで肉を刺し、楽しそうに笑いながらそれを口に運んでいる。隣の伊達男が何かを囁くと、彼女は少し顔を上げ、その瞳をきらきらと輝かせながら、真剣な眼差しで聞き入っていた。その瞬間、口に含んだ肉が、まるで砂を噛むように味を失った。水琴と過ごした三年間、彼女が優しく、気が利き、何事もそつなくこなす女だということは知っていた。だが、彼女がこれほどまでに生き生きと、まるで絵の中から飛び出してきたかのように鮮やかな表情を見せる女だとは、知らなかった。「臣さん」紗夜が彼の視線の先を追い、さりげなく問いかける。「静沢さんとご一緒のあの男性……ご友人かしら」臣と共に来ていた友人も、そちらに目をやった。「いや、まさか。奥さん……いや、水琴さんにあんな友達がいたなんて、聞いたことないな。でも、なんだかいい雰囲気じゃないか」「新しい彼氏だったりして。だとしたら、臣さんも早く離婚して正解だったかもな。でなきゃ……」口にした男は、臣の険しい表情に気づき、慌てて口をつぐんだ。臣は苦々しい表
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第10話
三時間を超えるバーベキューの宴は、芳醇な酒の香りと香ばしい肉の匂いが立ち込めるなか、終始和やかな雰囲気に包まれていた。その喧騒のさなか、水琴はそっと席を立ち、スタッフに付き添われて自らの戦利品を選びに向かった。主催者である灼也の計らいにより、一位の褒賞として、彼女が気に入った仔馬か、牧場で飼育されている他の動物を一頭、連れて帰ることができるのだ。水琴は馬に強く惹かれていたものの、最終的に彼女が選んだのは、愛らしい一頭の仔鹿だった。誇り高い馬という生き物は、ペットのように愛玩されるべきではない——そんな思いが、心のどこかにあったからだ。戦利品を決め終えた水琴が厩舎から出てくると、一人のボディガードに行く手を阻まれた。男は恭しい態度で一礼し、こう告げる。「静沢様、三男様がお呼びでございます」この場で『三男様』と呼ばれる人物など、二人といない。……高遠灼也だ。水琴はボディガードに導かれるまま、ロッジの二階へと上がった。窓際の椅子には男がゆったりと腰掛けており、その傍らで七緒が甲斐甲斐しくカクテルをシェイクしている。紫色のリキュールが満たされたグラスの中で、氷が妖しく光を屈折させていた。水琴の姿を認めると、七緒はぱっと顔を輝かせ、からかうように言った。「おや、静沢さん。やっぱり灼也様と何かあるんですね。この方、こうして誰かを傍に置いて酒を飲むなんて、滅多にないのに」戯けるような口ぶりだが、どこか意味深に響く。水琴はその言葉を受け、改めて目の前の男——高遠灼也を見つめた。これほどまでに美しく、妖しい魅力を持つ人間に、彼女は出会ったことがなかった。そのせいか、灼也が口を開いた瞬間、水琴は思わず心を奪われ、一瞬意識が逸れてしまう。はっと我に返ると、二階には灼也と二人きりになっていた。彼の瞳の奥で、穏やかで余裕のある笑みがゆっくりと広がる。やがて、落ち着いた声が水琴の耳に届いた。「静沢さん、君に頼みたいことがあるんだ」三十分後。水琴が階下へ戻ると、あれほど賑わっていた宴の席も、人々がまばらになり始めていた。鹿耶が一人、椅子に座って彼女を待っていた。水琴の姿に気づくと、すぐに駆け寄り、好奇心を隠せない様子で問いかける。「ミコト、誰に呼ばれてたの?」先ほどの男の依頼を思い出し、水琴は一瞬動きを止めたが、すぐに普段通りの
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