LOGIN結婚から三年。鷹司臣(たかつかさ じん)が長年心に秘めていた女性が、海外から帰国した。時を同じくして、静沢水琴(しずさわ みこと)は、三年間深く愛したはずの夫から一枚の離婚届を突きつけられる。 市役所の前で、臣はかつての想い人に愛を囁く。「この三年間、俺はあいつに指一本触れてない。愛してるのは君だけだ」 その言葉に、水琴の心は完全に死んだ。ドブに捨てたような三年間──彼女は過去を振り切り、かつて打ち込んでいた仕事に復帰する。そして、自らの力で富と成功を掴み、人生の頂点へと駆け上がっていくのだった。 その時になって初めて、世間は知ることになる。捨てられた鷹司夫人――静沢水琴が、類まれな美貌と富を兼ね備えた、本物のハイスペックな女性であったことを。 三か月後の深夜。 臣は、赤く充血した目で水琴に電話をかける。 「水琴……俺は、後悔してる……」 だが、電話口から聞こえてきたのは、水琴の眠たげな呟きだけだった。「灼也、だれ……?」 彼女をその腕に抱く男──高遠灼也(たかとお しゃくや)は、口元に笑みを浮かべながら静かに通話を切る。そして、腕の中の温もりに優しくキスを落として囁いた。 「ううん、誰でもないよ。ただの迷惑電話だ」
View More三時間を超えるバーベキューの宴は、芳醇な酒の香りと香ばしい肉の匂いが立ち込めるなか、終始和やかな雰囲気に包まれていた。その喧騒のさなか、水琴はそっと席を立ち、スタッフに付き添われて自らの戦利品を選びに向かった。主催者である灼也の計らいにより、一位の褒賞として、彼女が気に入った仔馬か、牧場で飼育されている他の動物を一頭、連れて帰ることができるのだ。水琴は馬に強く惹かれていたものの、最終的に彼女が選んだのは、愛らしい一頭の仔鹿だった。誇り高い馬という生き物は、ペットのように愛玩されるべきではない——そんな思いが、心のどこかにあったからだ。戦利品を決め終えた水琴が厩舎から出てくると、一人のボディガードに行く手を阻まれた。男は恭しい態度で一礼し、こう告げる。「静沢様、三男様がお呼びでございます」この場で『三男様』と呼ばれる人物など、二人といない。……高遠灼也だ。水琴はボディガードに導かれるまま、ロッジの二階へと上がった。窓際の椅子には男がゆったりと腰掛けており、その傍らで七緒が甲斐甲斐しくカクテルをシェイクしている。紫色のリキュールが満たされたグラスの中で、氷が妖しく光を屈折させていた。水琴の姿を認めると、七緒はぱっと顔を輝かせ、からかうように言った。「おや、静沢さん。やっぱり灼也様と何かあるんですね。この方、こうして誰かを傍に置いて酒を飲むなんて、滅多にないのに」戯けるような口ぶりだが、どこか意味深に響く。水琴はその言葉を受け、改めて目の前の男——高遠灼也を見つめた。これほどまでに美しく、妖しい魅力を持つ人間に、彼女は出会ったことがなかった。そのせいか、灼也が口を開いた瞬間、水琴は思わず心を奪われ、一瞬意識が逸れてしまう。はっと我に返ると、二階には灼也と二人きりになっていた。彼の瞳の奥で、穏やかで余裕のある笑みがゆっくりと広がる。やがて、落ち着いた声が水琴の耳に届いた。「静沢さん、君に頼みたいことがあるんだ」三十分後。水琴が階下へ戻ると、あれほど賑わっていた宴の席も、人々がまばらになり始めていた。鹿耶が一人、椅子に座って彼女を待っていた。水琴の姿に気づくと、すぐに駆け寄り、好奇心を隠せない様子で問いかける。「ミコト、誰に呼ばれてたの?」先ほどの男の依頼を思い出し、水琴は一瞬動きを止めたが、すぐに普段通りの
顔を上げると、涼やかで、どこか愛嬌のある目元が視界に映った。遊び人風の伊達男だが、物腰は柔らかく、笑うと少年のような無邪気さが滲む。水琴の記憶にはない顔だ。鹿耶も、胡散臭そうに男を見つめている。男の方は人懐っこい笑みを浮かべると、慣れた様子で二人の隣に腰を下ろした。手には、先ほど水琴が仕留めた黒雁のローストを乗せた皿を持っている。「オレ、坂本七緒(さかもと ななお)っていいます。灼也様の料理人をしてまして」七緒と名乗った男は、にこやかに続けた。「お嬢さんが仕留めたこの黒雁、灼也様の言いつけで、早速調理してお持ちしました。ぜひ、召し上がってみてください」料理人?水琴は男の手元に目をやった。何千万円もする腕時計をつけた料理人がいるものか。「七緒さん」鹿耶が、思ったままを口にする。「高遠様とこの料理人ってみんなそんなにお金持ちなの?」「いえいえ」七緒は黒雁を手際よく切り分けながら、得意げに胸を張った。「主にうちの灼也様が、金持ちなだけです」その答えに、水琴も鹿耶も、思わず笑い声を上げた。その楽しげな声が、離れた場所にいた臣の耳に届く。まるで胸に重りが乗ったような、息苦しい不快感が込み上げてきた。臣のいる場所から、ちょうど三人の姿が見える。水琴が銀のフォークで肉を刺し、楽しそうに笑いながらそれを口に運んでいる。隣の伊達男が何かを囁くと、彼女は少し顔を上げ、その瞳をきらきらと輝かせながら、真剣な眼差しで聞き入っていた。その瞬間、口に含んだ肉が、まるで砂を噛むように味を失った。水琴と過ごした三年間、彼女が優しく、気が利き、何事もそつなくこなす女だということは知っていた。だが、彼女がこれほどまでに生き生きと、まるで絵の中から飛び出してきたかのように鮮やかな表情を見せる女だとは、知らなかった。「臣さん」紗夜が彼の視線の先を追い、さりげなく問いかける。「静沢さんとご一緒のあの男性……ご友人かしら」臣と共に来ていた友人も、そちらに目をやった。「いや、まさか。奥さん……いや、水琴さんにあんな友達がいたなんて、聞いたことないな。でも、なんだかいい雰囲気じゃないか」「新しい彼氏だったりして。だとしたら、臣さんも早く離婚して正解だったかもな。でなきゃ……」口にした男は、臣の険しい表情に気づき、慌てて口をつぐんだ。臣は苦々しい表
水琴はそれを受け取りながら、胸の中で呟いた。本当に、食えない人……やがて灼也も着替えを終え、参加者たちはインストラクターの指示に従って、それぞれの得物を手に猟場へと足を踏み入れていった。もちろん、参加者の多くは狩猟そのものより、灼也を目当てに集まった者たちだ。狩りに不慣れな者や、そもそも興味のない者たちは、ロッジのテラスに残って見物することにした。臣と紗夜も、その中に混じっている。高遠家が用意したテラスは、双眼鏡はもちろん、様々な酒や軽食が並び、敷地内で飼われているらしい小鹿を眺めることもできて、手持ち無沙汰になることはない。それでも、ほとんどの招待客の興味は、これから始まる狩りの行方に集中していた。皆、一様に双眼鏡を手に取り、固唾をのんで猟場を見つめている。臣は、水琴の先ほどの言葉を思い、目を伏せながら双眼鏡を手に取った。レンズの先には、どこまでも広がる草原があった。風が唸りを上げて吹き抜け、馬上の水琴を映し出す。その風を一身に受け、水琴は胸の奥から理由のわからない興奮が込み上げてくるのを感じていた。まるで、ずっと心の奥底に抑え込んできた何かが、ようやく目を覚ましたかのようだ。彼女の瞳には、かつての奔放だった頃のような、鮮やかな光が戻っていた。その姿を、ロッジのテラスから見ていた臣は、双眼鏡から目を離した。苦々しい表情のまま、長く、押し黙っている。自分の見てきたあの退屈で面白みのない女に、これほど颯爽とした一面があったとは……臣は知らなかった。猟場では、乗馬のできない鹿耶が猟犬を連れて水琴を待っていた。水琴が馬からひらりと身を翻した時、鹿耶はふと、少し離れた場所から灼也が水琴を見つめていることに気づいた。その瞳を、面白がるような光がよぎる。鹿耶の胸が、とくん、と嫌な音を立てた。案の定、だった。灼也がそばにいたスタッフに二言三言告げると、そのスタッフが彼女たちの元へやってくる。「お嬢様方、高遠様からの伝言です。本日、最も多くの獲物を仕留めた方には、お好きな獲物、あるいは敷地内で飼育しております仔馬や子鹿を一頭、お持ち帰りいただけるとのことです」「ミコト!」鹿耶がぱっと目を輝かせる。「一位になったら、さっきの馬を連れて帰れるってことじゃない!」その言葉に、水琴も少し心が動いた。参加者の大半は鹿耶と
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、しばらく昔話に花を咲かせた。蓮見はよほど嬉しかったのか、夕食まで共にどうかと誘ってくれたが、それは丁重に断り、昼過ぎに蓮見邸を辞した。明日は狩猟だ。水琴は一度マンションに戻ると、準備しておいた服と愛用の道具を車に積み込んだ。翌日、鹿耶の運転する車で明山の狩猟場へと向かう。二人が到着したのはまだ早い時間で、ロッジには見知らぬ顔が数人いるだけだった。今回の狩猟は高遠家が主催しているだけあって、様々な人間が集まっているのだろう。水琴は誰かに挨拶する気にもなれず、まっすぐにロッジの奥にある更衣室へと向かった。狩猟服に着替え、壁に立てかけられた得物の中から、しっくりと手に馴染む一丁を選ぶ。そして、部屋を出ようとした、その時。聞き覚えのある声が、ロッジのホールから響いてきた。「臣さん、それに紗夜さんまで!どうしたんですか、お二人はこういうの、興味ないと思ってました」「紗夜がここのジビエを食べてみたいと言うものでね。気分転換にちょうどいいかと思って」水琴は一瞬動きを止め、静かにドアを開けて外へ出た。そこには、臣の友人が、親しげに二人と談笑している姿があった。水琴の姿に気づいた友人は、驚いたように声を上げる。「あれ……水琴さん?どうしてここに……」言った直後、彼はしまったという顔で、隣に立つ臣の表情を窺った。水琴は長い髪を無造作に束ね、化粧気のない素顔を晒していた。しかし眼鏡はなく、代わりにコンタクトを入れた瞳は、迷彩柄の狩猟服と相まって、凛々しく、そしてどこか野性的な魅力を放っている。臣は、初めて見る彼女のその姿に、思わず眉をひそめた。「……お前がな