LOGIN結婚から三年。鷹司臣(たかつかさ じん)が長年心に秘めていた女性が、海外から帰国した。時を同じくして、静沢水琴(しずさわ みこと)は、三年間深く愛したはずの夫から一枚の離婚届を突きつけられる。 市役所の前で、臣はかつての想い人に愛を囁く。「この三年間、俺はあいつに指一本触れてない。愛してるのは君だけだ」 その言葉に、水琴の心は完全に死んだ。ドブに捨てたような三年間──彼女は過去を振り切り、かつて打ち込んでいた仕事に復帰する。そして、自らの力で富と成功を掴み、人生の頂点へと駆け上がっていくのだった。 その時になって初めて、世間は知ることになる。捨てられた鷹司夫人――静沢水琴が、類まれな美貌と富を兼ね備えた、本物のハイスペックな女性であったことを。 三か月後の深夜。 臣は、赤く充血した目で水琴に電話をかける。 「水琴……俺は、後悔してる……」 だが、電話口から聞こえてきたのは、水琴の眠たげな呟きだけだった。「灼也、だれ……?」 彼女をその腕に抱く男──高遠灼也(たかとお しゃくや)は、口元に笑みを浮かべながら静かに通話を切る。そして、腕の中の温もりに優しくキスを落として囁いた。 「ううん、誰でもないよ。ただの迷惑電話だ」
View Moreしかし、紗音は無言のままだった。拉致事件の後、症状はさらに悪化し、今は完全に言葉を発さなくなってしまったのだ。退院後。水琴は静沢家に戻ってからも、重人が驚くほど灼也の話を一切口にしなかった。静まり返った深夜。水琴はベッドの中で何度も寝返りを打ち、眠れない夜を過ごしていた。臣に離婚を突きつけられた時とは全く違う。あの時の感情は、怒りと悔しさが大半だった。けれど今は、心臓そのものを刃物でえぐられているような、耐え難い激痛が胸の奥で渦巻いている。痛みに耐えかねて息を吐き出した時、不意に隣の部屋から微かな物音が聞こえた。紗音の部屋だ。こんな時間に、何をしているの?ベッドを抜け出し、廊下へ出る。紗音の部屋のドアは半開きになっており、隙間から、紗音が背を向けて部屋の奥へと歩いていく姿が見えた。「紗音ちゃん?」小声で呼びかけたが、反応はない。その時、不自然な光の反射が視界をよぎった。ヒヤリとした冷たい刃のきらめき。水琴は思わず身震いした。嫌な予感がして部屋に踏み込み、紗音の顔を覗き込んだ水琴は、その異様な光景に息を呑んだ。紗音の手には、一本の包丁が握られていた。目は完全に閉じたまま。夢遊病のように彷徨いながら、その口元だけが微かに動き、身の毛のよだつような言葉をブツブツと呟き続けている。「死ね……みんな、死んじゃえ……」残っていた僅かな眠気など、一瞬で吹き飛んだ。全身の産毛が総毛立つ。水琴は咄嗟に駆け寄り、包丁を握る紗音の手を両手で強く掴んだ。「紗音!何をしてるの!」その声に弾かれたように、紗音はカッと目を見開いた。そして、水琴の手をものすごい力で振り払う。その瞬間、冷たく鋭い刃先が水琴の腕をかすめた。白い肌に、スッと一直線の赤い線が走る。痛っ……!ジリジリとした焼け付くような痛みをこらえながら見ると、紗音は宙に向かってめちゃくちゃに包丁を振り回し始めていた。まるで、目の前に見えない無数の敵が群がっているかのように。「紗音!目を覚まして!」自分を傷つけてしまうのではないかと恐れ、水琴は必死に呼びかけた。だが、今の紗音には水琴のことすら見えていないようだった。もし不用意に近づけば、今度は間違いなく深く切りつけられるだろう。腕から滴り落ちる血が、その明確な証拠だ。傷口は火のように熱く、無数の蟻に噛まれているような
空港に迎えに行ったという「女」のせいなのか?その人物は、一体誰なのか?「みーちゃん、あの日……どうしても外せない用事があって、電話に出られなかったんだ」灼也は苦しげに弁解した。水琴は薄く笑った。「外せない用事?何の用事?」「……知人が、帰国したんだ」「その人って誰?誰に付き添っていたの?」水琴はベッドに手をついて身を乗り出し、理解できないといった目で彼を問い詰めた。やがて、灼也が重い口を開く。「家同士の付き合いがあるんだ。……すまない、まさかあんな事が起きるなんて思わなかった。知っていれば、俺は必ず――」「必ず何?幼馴染のお嬢様ってわけね。……もういいわ。帰って」水琴の瞳から、急速に温度が失われていった。結局、同じことの繰り返しじゃない。鷹司臣も、高遠灼これも。重人お兄ちゃんが「あいつはまともな人間じゃない」「近づくな」と執拗に警告していた理由が、今なら痛いほど分かる。私だけが、何も知らずに踊らされていたのだ。きっと重人お兄ちゃんは、その「幼馴染」の存在を知っていたからこそ、私を必死に止めようとしていたのだろう。臣の「永遠の憧れ」である紗夜が戻ってきた時、私はあっさりと居場所を奪われ、荷物をまとめて追い出された。灼也なら違うと思っていたのに、結局は同じ。心に決めた人がいるなら、どうして私に優しくしたの?幼馴染が帰国した途端、こんな冷え切った態度で私を突き放すくらいなら――「みーちゃん、信じてくれ。俺は一度も……」灼也は言いかけて、言葉に詰まった。一度も、なんだというのか。水琴を前にして、琉里の名前を口に出すことすら躊躇われる自分がいた。水琴は悲しげに微笑み、やがて声を出して笑い始めた。その笑い声は次第に大きくなり、やがてひと筋の涙が頬を伝い落ちたところで、ピタリと止まった。「つまり、私が拉致されたって知ってからも、ずっとその幼馴染の相手をしていたってことね?」灼也はやはり、無言だった。なんと言えばいいのか。「琉里に君を傷つけさせないためだ」とでも言えばいいのか?そんな言い訳、自分自身でさえ到底受け入れられない。水琴は乱暴に涙を拭い、ドアを指差して絶叫した。「分かった!もう全部、痛いほど分かったわ!出て行って、高遠さん!」血走った目で灼也を睨みつける。今にも気が狂ってしまいそうなほどの絶望が、
自分が灼也に会いに行こうなどと思わなければ、こんな事にはならなかった。重人にこれほどの心配をかけることもなかったのだ。「その話はもういい。これからは二度と、あんな無茶はするな」重人はそう言って、病室を出ようと背を向けた。「お兄ちゃん」水琴は思わず呼び止めた。しかし、そこから先が続かない。口を開きかけては閉じるのを繰り返した。重人は彼女が何を聞きたいのか痛いほど分かっていた。だからこそ、敢えて冷酷な事実を告げた。「あいつは来なかった。俺が電話しても出なかった。……もう、あいつのことは考えるな」少しの間の後、重人はさらに言葉を継いだ。「昨日、あいつは空港へ女を迎えに行っていた。そのあと、連れ立ってレストランで食事をしていたそうだ」水琴は小さく息を呑み、ゆっくりと伏し目がちになった。――女を迎えに? そして、レストランで食事?仕事で忙しかったわけじゃ、なかったのね。……じゃあ、どうして私の電話に出てくれなかったの?急速に食欲が失せていく。水琴は粥を一口だけ啜り、器を置くと、そのまま力なくベッドに横たわった。「……分かったわ、お兄ちゃん」「水琴。これからはもう、あいつと連絡を取るな」重人は水琴の傷ついた姿を見るのが辛かったが、それでも心を鬼にして忠告した。「……うん」布団を被り、目を閉じる。認めたくはないが、認めざるを得なかった。きっと、灼也は私が思っているほど、私のことを好きではなかったのだ。水琴はベッドで午睡をとっていた。腕には抗生剤の点滴が繋がれている。本当なら今日にも退院できるはずだったが、重人がそれを許さず、念のための精密検査をいくつも追加されたのだ。紗音の病室はすぐ隣だった。彼女は目を覚ますとすぐに水琴の病室へやって来る。どうやら無意識のうちに、水琴だけを唯一の拠り所として依存しているようだった。入院して二日が経つ。その間、水琴は紗音に対して何度か催眠療法を試みていた。今も紗音は催眠状態のまま隣の部屋で眠りについており、水琴自身も疲労から深い眠りに落ちていた。だが、その眠りは決して安らかなものではなかった。脳裏を過るのは、あの廃工場での記憶。そして何より、男たちが吐き捨てたおぞましい言葉の数々が呪いのようにこびりついている。ふと気づくと、周囲は血のような赤に染まっていた。……夢だわ。どう
車を飛び出し、入り口へ向かって駆け出そうとしたその時。薄暗い扉の向こうから、一人の男が意識を失った女性を抱きかかえて出てきた。重人だ。その顔には、身も凍るような冷気が張り付いている。「水琴!」灼也は血相を変えて駆け寄った。「無事なのか!?怪我は――」だが、重人の背後にいた黒服の男たちに荒々しく行く手を阻まれる。重人は氷のような冷たい目を灼也に向け、一言だけ吐き捨てた。「死んではいない」灼也は黒服を振り切り、重人の前に立ち塞がった。「俺が連れて行く」「……はっ、笑わせるな」重人の口から冷笑が漏れた。「お前にそんなことを言う資格がどこにある?水琴が助けを求めて電話をかけた時、お前はなぜ出なかった?」「それは……」灼也は息を呑み、言葉を失った。その横を、別の黒服が気絶した紗音を抱き抱えて通り過ぎていく。重人は表情一つ変えずに言った。「今、紗音の発作を抑えられるのは水琴だけだ。水琴は俺が連れて帰る。……それでもお前は、紗音を引き離して高遠家に連れ帰るつもりか?」灼也はギリッと奥歯を噛み締め、深く目を伏せた。「……すまない。すべて俺の責任だ」「だったら二度と、俺の前で偉そうな口を叩くな。そして、水琴にも二度と近づくな!」重人は吐き捨てるように言い放ち、水琴を抱きかかえたまま自分の車へと向かった。その後を追おうとした灼也の前に、黒服たちが無言で立ち塞がる。車に乗り込む直前、重人は振り返り、射殺すような鋭い視線を灼也に向けた。「お前には、誰がこんな真似をしたのか心当たりがあるはずだ。……違うか?」その言葉を残し、重人は冷酷に言い放つ。「車を出せ」数台の黒いセダンが、砂埃を上げて灼也の目の前を通り過ぎていった。車列が去った後、灼也は薄暗い工場の中へと足を踏み入れた。そこには、腹を押さえて呻く者や、足を折られて転げ回る十数人の男たちが無様に横たわっていた。灼也は魂の抜けたような足取りで近づくと、うずくまっている一人の男の腕を無造作に革靴で踏みつけた。「誰の差し金だ?」「知らねえ!俺は何も知ら――」ボキリ。無慈悲に体重を乗せられた腕から、鈍い骨の折れる音が響く。「ぎゃあああっ!本当に何も知らねえんだ!俺はただの下っ端で……!」灼也は無表情のまま次の男の前に立ち、同じことを繰り返した。悲鳴と骨の砕ける音が
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
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