登入夫と義妹の不貞行為を目撃した夜、実花は夫に殺された―――そして十八歳の、夫と婚約する日に回帰する。 今世では従順な令嬢をやめ、婚約ももちろんしない。自分の人生を自分で選ぶと決めた実花。 そんな実花に近づいてきたのは「冷徹」で有名な東国光也。 前世ではろくに話したことがない光也がなぜか実花に急接近―――気づいたとき、実花は光也の甘やかな腕の中に囚われていた。
查看更多その夜の記憶は、
思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。
そんな種類の記憶だった。
.
実花が夫の
外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。
ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。
皺ひとつないクロス。
寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。
食器の反射すら計算されたような配置は、美しくあるが「正しさ」に支配された光景で、そこに人の温度はほとんど存在していなかった。
天井から吊るされたシャンデリアが白く強い光を放つ。
白い光がテーブルの上で瞬くたびに、冷えた陶器が無機質に輝き返している。
この光景に実花はいつもこの部屋だけが別の時間軸に置かれているように感じていた。
足を踏み入れ、正しさを求める場所に着くたび、自分が生きている世界の手触りを少しずつ失っていく感覚に襲われていた。
その場所は本来、妻である実花を歓迎しているはずだった。
法的に実花は恒一の妻と定められていた。
妻として扱われ、妻として振る舞うことが許される立場として、そこに存在しているはずだった。
しかし現実は、その役割にいるとは到底思えない形で存在していた。
恒一の隣には当然のように別の女性が座っているからだ。
·
「最近、少し痩せたんじゃないか」
その言葉はあまりにも自然に、あまりにも穏やかに発せられた。
だがその声が向けられたのは妻である実花ではなかった。恒一の視線の先にいたのは、
美鈴は一ノ瀬家の義両親の養女、形式上は恒一の義妹という立場にあたる存在。
義妹を可愛がっている。
義妹―――それで説明がつけにくいほど二人の距離は近い。
あまりにも自然に、恒一の隣には常に美鈴がいた。恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑みは全て美鈴に向けられる。
義妹なのだから当然。
それでは妻である実花にそんな当然はあったのか―――なかった。
恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑みの欠片も実花に向くことはない。
元からそうだったわけではないが、それらが自分に向けられなくなってどれくらい経ったのかと数えようとしても、答えが定かではないほど過去のことだった。
正確な数字はもう出てこない。
ただ、いつからかという感覚だけが鈍い痛みとして胸の奥に沈殿していた。
.
実花は食事を機械的に口へ運ぶ。
噛むという行為だけを淡々と繰り返し、味を認識する前に次の動作へ移る。
食欲はないが、それでも食べなければならないという強迫にも似た習慣だけが彼女の身体を動かしていた。
食事が残っていれば、朝になって本邸から来る使用人が不審に思うからだ。
実花の体調が悪いと判断されれば無用な騒ぎが起きる―――それを恒一は嫌う。
恒一が嫌うことは問題として扱われ、実花の『よい妻として』の立場を揺るがす。だから実花は自分の体調すら管理対象として扱い、ただ「問題のない妻」を演じ続けるしかなかった。
何があっても
そして、その「いつも通り」の中には、美鈴の存在も含まれていた。
美鈴の身体が恒一にわずかに寄せられることも、食事の最中に自然な動作としてその指先が恒一の腕に触れることも、本来なら視線が止まってしまいそうなそれらの動きすら、実花は“気づいていない振り”で処理しなければならない。
その「気づいていない振り」こそが、この家で呼吸を続けるための唯一の方法だった。
.
「大丈夫、少し仕事が忙しいだけだよ」
美鈴がそう言った声はどこか軽やかで、空気をわずかに柔らかくする響きを持っていた。
「忙しい?」
恒一は首を傾げる。
その仕草には、相手の状況を理解しようとする意志があるようでいて、同時に理解する必要がある情報だけを選別しようとする冷静さも含まれていた。
その前で、美鈴は視線をわずかに落としながら実花を見た。
「お義姉様から、いろいろ頼まれていて……あ、でも、大丈夫だから」
へへへ、と小さく笑う。
その笑い方は場の空気を和ませるためのもののようであり、その実は恒一の目を実花に向けるためのもの。
そして、狙い通りとして恒一の視線だけが実花へと移る。
「……実花」
名前を呼ばれた瞬間、実花はわずかに背筋を正す。呼ぶ声に、かつて存在したはずの優しさはもう見当たらない。
感情の温度ではなく、管理する対象に確認をするための呼びかけに近いものだった。
「美鈴はお前の義妹であって、使用人ではない。扱き使うなど、何を考えている」
淡々とした指摘。
正しさを帯びた言葉。
その形だけを見れば『注意』として成立しているように見えるが、その中に実花を理解しようとする意図はない。
ただ『恒一が歓迎できない事象が起きた』という結論だけが先にあり、そのために原因として実花が配置されているだけだった。
「……申しわけありませんでした」
実花は即座に頭を下げる。
謝罪の形は完璧だったが、その言葉の中に真実の説明は一切含まなかった。
美鈴の発言は事実とは違う。本当は逆で、美鈴の仕事を実花が押しつけられている。しかしそれを説明したところで、この場の構造は変わらないことを実花はもう理解していた。
だから言わない。
言っても無駄だと知っているからではなく、言うことで“この先”を崩し、その結果に恒一が喜ばないことを知っていたからだ。
茶番なのだ。
美鈴は実花が決して反論しないことを知っていて嘘を吐く。
恒一もまた嘘を嘘だと理解しているのに、実花を責める。
それらを「気づかない振り」、それが実花に求められている役目。
.
実花は静かに食事を続けた。
誰にも見えない場所で、確かに何かが削られていく感覚だけを抱えながら。
【恒一視点】 .酒がまずい。グラスを傾けても、胸の中の苛立ちは少しも消えない。最初は家に帰ろうとしたが、車に乗ったところで帰る気分ではなくなった。だから美鈴はタクシーで帰し、自分はこのホテルのバーにきた。このバーは客を選ぶ。藤宮実篤にここに連れてこられたとき、恒一は自分が彼に認められたと感じた。同じ世界の人間だ、と。バーのカウンターへ肘をつき、恒一は琥珀色の液体を一気に喉へ流し込んだ。思い出すのは東国光也の顔だった。――君も買い物か。向けられた言葉はそれだけだった。自分など眼中にないという態度。あれほど露骨に侮辱されたことは初めてだった。「くそっ……」思わず漏れた声に、隣の客が一瞬だけこちらを見る。迷惑そうな表情。まるで自分を異分子のように扱う表情に苛立つ。恒一は舌打ちした。思い出すだけで腹が立つ。(東国光也も気に入らないが、何より許せないのは――)実花。以前なら自分だけを見ていたはずなのに今日は違った。実花の目はずっと東国光也を見ていた。東国光也がそうさせていたわけではない。実花の目はずっと、自然と東国光也に向いていた。笑った顔も。困った顔も。照れた顔も。実花は全部を東国光也に向けていた。(俺の前では、あんな顔をしていただろうか)ふとそんな疑問が浮かび、自分で打ち消す。(違う)あれは東国光也が口達者なだけだ。実花は単純な女だ。(騙されているに違いない)そう思いたかった。だが、胸の奥には別の感情も生まれていた。リボンをほどかれたときの、頬を染めた実花の顔。ネクタイを選びながら照れ臭そうに、軽く拗ねたような表情
【美鈴視点】.光也と実花が店を出ていく後ろ姿を、美鈴は呆然と見つめていた。胸の奥が焼けるように熱い。悔しい―――ただ、それだけだった。東国光也。あれほどの男を美鈴は今まで見たことがなかった。容姿。才能。家柄。財力。何より、自信に満ちた立ち居振る舞い。誰よりも上に立つことが当然だと言わんばかりの存在感。それなのに嫌味がない。だからこそ腹が立つ。そんな男が。(どうして実花なの……)東国光也は「実花のために」で行動していた。あれほどの存在感なのに、最初は居ることに気づかなかった。どうしてか。気づいた今なら分かる。実花のためだ。東国光也はどう行動すれば最も実花にとって良いかを考えていた。こちらの出方を見ていた。「……お義姉さん」思わず呟いて、すぐに唇を噛んだ。違う。実花のことを義姉などと呼びたくはなかった。一ノ瀬家の『嫁』になれない立場の自分。それを意識させられるから。でも、一ノ瀬家にいるためにはそう呼ぶ必要があった。実花を受け入れるふり。仕方がなく「お義姉さん」と呼んでいた。――君にも都合がいいだろう。――君はもう彼女を“お義姉さん”などと呼ぶ必要はない。(あの男はそこまで見通していた)――君は彼女ではない。その一言が耳から離れない。あそこまできっぱりと言われたのは初めてだった。どうして。どうして、あの男はこちらを見ない。美鈴は鏡を見るたび、自分の女性としての魅力を磨いてきた。自分は可愛い。男は皆、自分に優しい。
あの誕生日パーティー。光也の言葉に、実花は息を呑んだ。あの日。全てが大きく動き始めた日。光也が突然現れた日。「あの日、何が――」「その続きは今度だ」「え?」(今度?)聞き返した実花の頭に光也は手を置く。我慢が利かない子どものような扱いに小さく不満を感じたが、光也が恒一と美鈴へ一瞥を向けたことで気づいた。「余計なギャラリーがいる」その一言だけで十分だった。「こういう話は二人きりでするものだ」(それって……)そういう流れの話なのか。実花の頬が熱くなる。「先に正式な婚約だな」光也は何でもないことのように続ける。(婚約……が、先?)「なんでそうなるんですか?」「婚約前に君に手を出したら、お義父上に怒られる」「て、手を出すって……!」顔が一気に熱くなる。「そんなこと、結婚前にはなりません!!」「分からないじゃないか」光也は平然としている。「俺が口説いたら、君がころりと落ちるかもしれない」「ころりって……そんな、落ちません」光也が実花を見て一つ頷く。「なるほど」妙に納得した顔をする。「そこは俺に頑張れということだな」「なっ!」「俺を弄ぶつもりか」光也が口角を上げる。「悪女だな」「違います!」「では期待していいのか」「そういう意味でもありません!」実花は頬を膨らませる。「私は悪女ではありません」「なってもいいんだぞ?」「なりません!」光也は小さく笑った。その
「何を言っている」光也の冷静な声が美鈴を煽る。「お義姉さんのどこがいいの? 私のことは嫌いだって言っておきながら、どうしてっ!」光也は静かに美鈴を見ながら口を開いた。「知ってどうする」短い一言だった。「え……?」「理由を聞いて何になる」美鈴は答えられない。「君は彼女ではない」光也は淡々と続ける。「どこがと、答えを知ったところで何も変わらん。君は彼女ではない、それだけだ」静かな声だった。そして言葉に推測の余地がない。「それに」光也はわずかに肩を竦めた。「君にも都合がいいだろう」「……え?」「君はもう彼女を“お義姉さん”などと呼ぶ必要はない」美鈴の表情が固まる。光也は言葉を止める。「いや、金輪際呼ぶな」美鈴が目を瞬く。「彼女と君の義兄の婚約話はもう存在しない。彼女は君の義姉にはならない」沈黙。「彼女に甘えることも、彼女の優しさに寄りかかることも、もう俺が許さない」光也が軽く笑う。「甘えて自分のものを全て押し付けるような女が可愛いと思う男の心理は理解できん」光也は恒一の足元に視線をやり、次に恒一を見た。その表情は皮肉げで、恒一の眉がぴくりと動く。何か言い返そうとする。だが、ここに来るまで自分が持っていた袋たちを見ると言葉が出ない。甘えられるまま美鈴のために買い、当たり前のように持たされていた。美鈴は唇を震わせるだけだった。◇◇◇(どうして……)実花は光也を見つめた。どうして自分なのか。美鈴の言葉を光也は関係ないと言ったが、実花にはそうではない。(ずっと考えないようにしていたけれど)どうして自分なのか。婚約も、光也に特に良い
『藤宮実花!?』男の叫び声のほうが早かった。その勢いに押され、実花は逆に何も言えなくなる。(それにしても……)驚いた顔というものは、普通もっと取り繕うものではないのだろうか。だが目の前の男―――航はそんな体裁を整える余裕など一切ないという顔をしていた。目を見開き、口を半開きにし、信じられないものを目撃した人間そのものの表情で固まっている。その視線の先が自分だという事実に実花はじわじわ居たたまれなくなった。今の自分は泣いたあとで、髪も乱れ、ドレスまで裂けている。人生最悪レベルで人に見られたくない状態だった。(うぅ……)消えてしまいたい。できれば地面に埋まりたい。そんな
【side 瀬名航】「そんなことより扉を開けろ」目の前の“どう見ても誘拐現場”な状況を、東国光也は「そんなこと」の一言で片づけた。瀬名航は口をぱくぱくと開閉させる。言いたいことは山ほどあった。むしろ言わなければならないことしかない。―――だが、彼はそれを全部飲み込んだ。航は光也ほど有名人ではないが、知る人ぞ知る存在である。光也の幼馴染であり、唯一の親友。幼い頃からずっと行動を共にし、現在は仕事面でも光也を支えている男。光也に対して遠慮なく物を言える数少ない人物でもある。―――相棒。そう呼ぶのが最も近い。.数時間前。突然「藤宮家のパーティーに行く」と言い出した光也に、航
社交会は前世と同じように華やかだった。天井には光量まで計算された巨大なシャンデリアが幾重にも吊るされ、その眩い輝きが磨き上げられた床へ反射している。床に映る光は波のように揺れ、人々が歩くたびにドレスの裾と靴音がそこへ重なっていく。香水の甘い香り。低く抑えられた笑い声。グラスの触れ合う繊細な音色。それらすべてが混ざり合い、上流階級特有の“騒がしい静けさ”を作り出していた。誰も大声を出さない。だが、そこには確かに無数の感情が渦巻いている。値踏み、探り合い、牽制、打算、嫉妬、媚び。表面だけを見れば優雅な夜会。しかし実態は戦場だった。·そんな大広間へ足を踏み入れた瞬間、実花は前世と
「誤解がないように申し上げますが、私にとっても藤宮家の娘であることは誇りです。藤宮の品格を落とすつもりなど、毛頭ございません」実花は静かにそう告げた。その声音には反抗的な響きはない。ただ、真っ直ぐな意思だけがあった。藤宮の箱庭で生まれ育ち、藤宮の価値観だけを教え込まれてきた。それしか知らないと言われれば、その通りだ。だが、だからこそ実花にとって藤宮家は世界の中心だった。格式、伝統、誇り。幼い頃から耳にしてきたそれらを、実花は確かに愛している。否定したいわけではない。捨て去りたいわけでもない。ただ――そこに“自分”を含めたいだけだった。「藤宮実花として立ちたいと言っても、私自身、私
評論