Mag-log in森川知佳(もりかわ ちか)と森川拓海(もりかわ たくみ)の結婚5周年記念日のその日、拓海の初恋の人が帰国した。 その夜、知佳は拓海がその名前を呼びながら浴室でオナニーしている現場を目撃してしまう。 そうか、これが拓海が結婚5年間一度も私に触れなかった理由だったのか。 「知佳、結衣は一人で帰国してかわいそうなんだ。俺はただ友達として彼女を助けているだけだよ」 「分かった」 「知佳、結衣の誕生日を離島で祝うって約束したんだ。俺はただ昔の約束を果たしているだけなんだ」 「うん」 「知佳、この晩餐会には格の高いパートナーが必要なんだ。結衣の方が君より適しているんだよ」 「そう、行って」 彼女がもう怒らず、涙も流さず、騒ぎもしなくなったとき、彼は逆に困惑し、こう問いかけた。「知佳、どうして怒らないんだ?」 彼女がもう怒らないのは当然だった。なぜなら、彼女も去ろうとしていたからだ。 つまらない結婚生活にとうの昔にうんざりしていた彼女は、こっそり英語を学び、IELTSを受験し、こっそり留学申請を提出していた。 ビザが下りたその日、彼女は離婚届を叩きつけた。 「冗談だろう、俺を置いて、君がどうやって生きていくって言うんだ?」 彼女は振り返ることなく航空券を購入し、ヨーロッパ大陸へと飛び立ち、それ以来音信不通となった。 彼が再び彼女の消息を目にしたのは、彼女が真紅のドレスを纏い、異国の空で舞い踊る動画がネットで話題になったときだった…… 彼は歯ぎしりをした。「知佳、どこにいようと、必ず君を見つけて連れ戻す!」
view more彼女の父が怒りで限界に達しているのは見て取れた。なのに今日は珍しく堪えている。つまり、今日はただの八つ当たりではなく、何かを求めて来ている。それも、相当大きな用なのだ。母の秀代は相変わらず仲裁役を続けた。「知佳ちゃん、お父さんはあなたを罵るつもりじゃないのよ。ただ、つい口が滑っただけで……」「口が滑ったって、子どもにあんな言い方する?それでも父親なの?」良子は厳しい表情で知佳を抱き寄せた。「帰りなさい。うちにはあんたたちの食事は用意してない。自分の家で食べて」「お義母さん!」秀代が慌てた。「違う違う、私たち、知佳ちゃんを責めに来たんじゃないの。知佳ちゃんにとっておきの、いい話があって来たのよ……」良子は、二人が知佳に持ってくるいい話なんて信じていなかった。頑なに玄関のほうを指して、追い返そうとした。「母さん、ちょっと待てよ。あとで大事な客が来るんだぞ。なんで俺を追い出すんだよ?」成一が苛立たしげに言った。「俺だってこんな田舎に来たいと思って来たわけじゃない。この死に損ないが飯を食いに行かねえからだろ。向こうは大げさに席を用意して、こいつを招いてたんだ」「あんたの大事な客?」良子は冷笑し、さらに強く知佳を抱いた。「ろくな人じゃないに決まってる。帰りなさい。うちじゃもてなせない」成一は箸を投げ捨てた。「せっかくの酒を断ってどうする!痛い目見てからじゃ遅いぞ!老後は誰に面倒見てもらうつもりだ?自分で逃げ道を作っとけ!」「この……」良子は元から彼に老後の面倒など期待していない。それでも、こんなふうに堂々と言い放たれると、心臓の奥まで抉られるように痛んだ。「薄情者!恩知らず!」知佳は当然知っていた。この男がおばあちゃんの面倒を見るはずがないことも。さらに言えば、この恩知らずが、のちにおばあちゃんを生き地獄みたいに苦しめたことも。良子が汚れたものの中で息も絶え絶えに横たわっていた光景を思い出すと、胸が針で刺されるみたいに痛んだ。「おばあちゃんは、あなたの世話なんか要らない」知佳は静かに言い切ると、良子の手を取って奥の部屋へ連れていき、良子を中へ入れて扉を閉め、鍵をかけた。それから落ち着いたまま台所へ向かった。成一は、彼女が折れたのだと思ったのだろう。このババアを部屋に閉じ込めたのなら、台所へ行ったのは料理を運んだり飯をよそったりす
「幸い、君は基礎がそこまで悪いわけじゃない。頑張れば上がれる……」そう言いながら、二人はすでに掲示板の前に着いていた。そこはもうクラスメイトでぎゅうぎゅうで、みんなが誰がどのクラスだの何だのと賑やかに騒いでいた。仲のいい友だちが同じクラスだとわかると、歓声が上がる。知佳は理系のほうなど見もしなかった。文系の掲示を見に行った。「こっちだろ、どこ行くんだよ……」拓海は言いかけて、ふと何かに気づいたように言葉を切り、慌てて彼女の後を追った。そして、文系特進1組の名簿の中に、知佳の名前を見つけた。「俺を騙したのか?」背後の声が、真夏なのに冷気を帯びているように感じられた。そのあとは、もう何の音もしなかった。知佳が振り返ると、さっきまでそこにいた拓海の姿は消えていた。代わりに貴久が近づいてきて、彼女に向かって大笑いした。「知佳!本当に同じクラスだ!」そうだ。貴久の名前も、文系特進1組にあった。「今日は絶対、飯おごらせて!お祝いしよう!」貴久は意気揚々としていた。知佳は承諾しなかった。貴久はいつも「一回奢る」って言うけれど、そんな大げさな話じゃない。箸が二本増えるくらいのことだ。それに、家から電話が来ていた。両親は、夜に指定した店で食事をしろと言った。クラス選択のお祝いだとかで、弟の手本になって、弟に彼女を見習わせるのだという。知佳は行かなかった。両親が彼女を呼び出す目的がわかっていたからだ。この時期、同じことが一度起きている。小さい頃からずっと、両親は彼女のことなんてほとんど構ってこなかった。そんな二人が彼女と連絡するときは、決まってろくな用事じゃない。彼女は電話を切り、学校の用事を済ませると家に帰った。夏休みも学校は授業がある。始まる前に数日だけ休みがあって、彼女はその間、家で良子と過ごすつもりだった。まさか、招かれざる客が来るとは思わなかった。良子と一緒に料理を作り終え、食べようとしたところで、外から騒がしい足音が響き、父が外で「母さん、母さん!」と大声で呼んだ。十数年ぶりに、彼女はもう一度――血のつながった父親と顔を合わせた。けれど胸に浮かんだのは、おばあちゃんに振るわれた暴力の記憶だけだった。憎しみが込み上げ、どうしようもなく腹の底が煮え返った。成一は入ってくるなり、母
知佳は嫌な予感がした。でも拓海にはもう見つかっていたし、その視線は完全に彼女を逃がす気がなかった。彼女は腹をくくって近づいた。拓海の手にはクラス全員の成績一覧があった。そうだ、彼は学級委員だ。誰より先に全員分を見ているに決まっている。「これ見ろよ」彼は成績表を指さした。「この点数、どういうつもりだ?理系科目、どれも合格点に届いてないじゃないか!」知佳は返す言葉がなかった。もう十年以上だ。高校を卒業してから、こんな知識に触れたことがない。覚えているはずがない。しかも当時だって、彼女は必死だった。彼のために理系をやっていただけで。「このまま成績落としていって、進学する気あるの?芸術系でもさ、学科の点数がこれじゃ受かんないだろ」拓海は成績表を指さし、担任みたいな目で見た。「わかってる。これから頑張る」彼女は彼の横をすり抜けて前へ進んだ。今日はクラス分けだ。掲示板に結果が貼り出されるはずだ。「止まれよ!なんでそんなに急ぐんだ?」拓海が追いかけてきた。「誰かと待ち合わせでもしてるのか?」知佳は眉をひそめた。「どういう意味?」誰かと待ち合わせって何の話?拓海はまた成績表を指した。「それに英語。なんでこんなに取れてる?九十九点?君、前は六十点台がせいぜいだったろ!」「……努力しちゃいけないの?」知佳は、今の自分がイギリスで博士号を取っていて、IELTSも受けて、イギリスで何年も暮らしているなんて言えるわけがない。「貴久にそそのかされて、あいつと一緒に留学でもするつもりなのか?」拓海は冷えた目で問うた。知佳は首を振った。「ううん、考えてない」「ならいい」拓海は冷たく言った。「留学は、どの家庭でも出せる金じゃない。貴久の家は貿易で稼いでるから問題ないだろうけど、君んちはどういう状況か、自分が一番わかってるはずだ。君の留学費なんて、出せない」知佳は拓海といちばん酷い時期をすでに経験している。それでもこの言葉を聞くと、胸の奥がざらついた。今の拓海には、結婚していた頃の拓海と同じところがある。自惚れで、傲慢で、彼女をまともに見ていない。もっと言えば、上から見下ろしている。さらに言えば、馬鹿にしている。貴久が言った。拓海は彼女をペットみたいに扱う、と。機嫌がいいときは甘い顔をして、気に入らなければ蹴り飛ばす。まさ
知佳はあまり出したくなかった。だって、用紙は配られてからかなり経っていて、前の知佳は理系に丸をつけていた。彼女はまだ直していなかったのだ。拓海は彼女がなかなか動かないのを見て、顔つきが少し険しくなり、じっと見据えた。「出せよ。もうすぐ提出だぞ……まさか……」一瞬ためらってから言った。「本当に、貴久の言うこと聞いたのか?」「貴久?あいつ何か言ったの?」静香が口を挟んで聞いた。拓海は問われて言葉に詰まった。知佳は静香をちらりと見て、この場であれこれ言うのも気が引けた。「考えたんだけど、やっぱり私は……」知佳は文系にすると言おうとした。だがその瞬間、リュックを拓海に引き抜かれた。「何してるの?」知佳は手を伸ばして取り返そうとした。けれど、リュックの中のファイルはもう拓海に引っぱり出されていた。中には用紙が入っていて、しかも一番上だった。透明のクリアファイル越しに、彼女が選んだのが理系だと、はっきり見えてしまう。それを見た拓海は、口元を悟られない程度にわずかに吊り上げた。そしてリュックを返し、用紙をクリアファイルから抜き取って言った。「提出するぞ」「だめ!」知佳は慌てて言った。「保護者の署名がまだなの」拓海が見ると、確かに保護者欄は空白だった。彼は少し迷ってから、用紙を彼女に返した。提出は今週だ。でも知佳は十数年後からこの夢に来て、このことをすっかり忘れていた。署名は週末に家へ帰ってもらうしかない。だから先生に事情を話して、提出を二日ほど待ってもらうことにしていた。先生にとっては金曜提出でも月曜提出でも大差ない。先生は了承した。拓海も、彼女の用紙をそれ以上聞きに来なかった。月曜になって思い出したように一度だけ、「用紙、出したのか?」と尋ねた。「うん、出した」彼女は朝いちで先生に提出していた。ただし、理系を文系に直して。拓海はそれ以上何も言わず、去っていった。その後、彼が貴久と話しているのが聞こえた。「知佳はもう理系で出した。文系なんてあり得ない。お前の考えすぎだ」拓海はそう貴久に言った。貴久は返した。「それがどうした?お前が本当に自己中だって証明になるだけだろ」「貴久、お前が俺を言えるのか?お前だって知佳に文系を勧めるのは、別の意味で自己中じゃないのか?」「拓海」貴久は言った。「お前、知
知佳が電話に出た途端、向こうから激怒した声が聞こえた。「知佳、君、警察に通報したのか?なんでそんなことをしたんだ!」ついにこの二人に連絡が入ったのか?向こうの激しい怒りに対して、知佳は非常に平静だ。「知佳様、お待たせいたしました」看護師が彼女を呼びに来た。知佳は微かに微笑み、電話を切った。「はい、ありがとうございます」手の中の電話はすぐにまた鳴り始めたが、知佳は出ずに診察室に入った。治療中、知佳のスマホは長い間鳴り続けた。「電話、出て大丈夫ですよ」南野先生が尋ねた。彼女は首を横に振った。「結構です。迷惑電話でしょう」迷惑電話はしばらく鳴り続けたが、誰も出ない
もし昔だったら、祖母の小鳥遊良子(たかなし よしこ)はきっとこう言っただろう。「馬鹿な子だね、私は知佳ちゃんのおばあちゃんだけど、あなたも私の孫だよ」と。あの頃、良子は二人の結婚生活に影が差していることを知っていたが、情けは巡り巡って自分に返ってくるものだと信じ、知佳が心を尽くせば、拓海もいつかその真心に気づき、知佳と同じように優しくしてくれると、そう願っていた。だが、今の知佳は、まるで魂が抜けたように不幸せだ。この子は自分の前では笑顔を取り繕うが、掌中の珠として育てた孫の心の内が、自分に分からないはずがない。そんな心にもない慰めの言葉だけは、どうしても口にすることはできなかった。
文男は怒りで椅子から飛び上がり、知佳を指さして罵った。「この映像は、会社の許可なく設置されたものだろう?そんな違法な証拠は裁判所で認められない!」知佳は微かに微笑んだ。「まず、私が提示した監視カメラの映像は、会社の利益を侵害するものでも、機密情報の漏洩に当たるものでもないわ。もし違法だとおっしゃるなら、どうぞ訴訟を起こしなさい!そして、この映像は会社の利益を守るためのものよ!私は被害者であり、同時に株主でもある。会社の安全管理が杜撰だったため、自衛のために死角にカメラを設置した。これは緊急避難として認められるべきだ。森川社長、異論があるかしら?」知佳は拓海を見た。耳元には、先ほ
その後、拓海は南野先生を見送るために外へ出た。拓海が南野先生を見送って戻ってきた頃には、すでに夜の帳が降りていた。知佳と拓海は良子の家に泊まることになった。拓海が良子の家に泊まるのは実に五年ぶりだ。泊まるのは、知佳が子供の頃に使っていた部屋で、当然ながらシングルベッドが一つしかない。もちろん、良子の家には他にも部屋がある。知佳の両親や弟が使っていた部屋だ。知佳は狭いベッドを見て、拓海に提案した。「私の部屋は本当に狭すぎるわ。あなたは……」彼女が言い終わる前に、彼は遮った。「どうしたい?」知佳は口を閉じた。拓海は潔癖症だ。もちろん、その潔癖症はダブルスタンダードかもし
RebyuMore