Mag-log in藤堂音(とうどう おと)は、生まれつき耳が不自由だった。 二十歳の時、母親が差し出した妊娠診断書によって、彼女は藤堂家の御曹司である藤堂宗也(とうどう そうや)と結婚することになった。 宗也は彼女を深く嫌悪していたが、家の事情には抗えず、二人は夫婦となった。 結婚後、宗也は他の女性と噂になりながらも、妻である音には一度も優しい視線を向けなかった。 「良き妻」でいようと努め、子どものために耐え続けた音。 だがある日、宗也の初恋の相手が家を訪れ、音が身を削るようにして産んだ息子が、その女を「ママ」と呼んだ。 その瞬間、音は悟る。 宗也の心は、最初から自分に向いてはいなかった。 彼女は離婚届を残し、家を去った。 だが宗也は彼女を追い、冷たく言い放つ。 「音、お前は結婚を遊びだと思っているのか? 離婚したい? なら二人目を産んでからにしろ」
view more音と彩羽は、同時に息をのんだ。二人の視線の先――美咲は地面に倒れ込み、額から血がにじみ、足もとでは高いヒールがねじれていた。苦痛に顔を歪めながら、彼女は震える声でうめいていた。音は反射的に駆け寄り、その腕にそっと手を伸ばす。――その瞬間。「美咲!」怒号が響いたかと思うと、強い力で突き飛ばされた。音の身体が弾かれ、頬が地面にぶつかる。鈍い痛みが耳の奥まで響いた。「音!」彩羽が慌てて駆け寄り、音を抱き起こして支えた。「藤堂さん、あんた正気?なんで音を突き飛ばすのよ!」宗也は二人に目もくれなかった。その腕の中には、涙に濡れた美咲がいた。「大丈夫か?どこを怪我した?」「宗也......頭が......すごく痛いわ。足も、動かなくて......」「無理するな。すぐ病院へ行くぞ」宗也は彼女を抱き上げながら、音たちを睨んだ。その視線には、明確な敵意がこもっていた。まるで――彼女たちが突き落としたとでも言うように。「......何それ」彩羽は信じられないといった表情で立ち上がり、宗也の腕の中の女を睨みつけた。「浮気女、自分で転んだくせに芝居まで打つの?まさか音を陥れるつもり?どんだけドラマが好きなのよ!」美咲は声を詰まらせ、さらに涙をこぼした。宗也の表情が険しくなる。「葉山さん。あなたがそんなふうに騒ぐのは、音のためじゃない――彼女を余計に追い詰めてるだけだ」「......は?」「宗也、いいの。音さんのせいじゃないから」美咲は彼の袖をそっと掴み、震える声で言った。「葉山さんは......友達を思ってのことよ。ちょっと手が滑っただけ。私は、怒ってないわ......」「なっ......!」彩羽の顔が真っ赤になった。ここまでくると、もはや芝居の域を超えている。音も唖然としたまま、声を絞り出すように言った。「それは違うわ。あなた、自分で足を滑らせたのよ!」美咲はびくりと肩を震わせ、宗也の胸に身を寄せる。「......音さん。子どもの前で嘘を言うのは、良くないわ」その視線が向いた先――通りに停まった車の車内で、悠人がじっとこちらを見ていた。その小さな眉が寄り、唇がぎゅっと結ばれている。
ショーケースの上に置かれたケーキは小ぶりで、繊細な装飾が施されていた。上には――悠人の大好きなサメの模様。ひと目で、誰のためのケーキなのか分かった。「ありがとうございます。悠人くんがもう待ちきれないようで」美咲は受け取った箱を手に、そのときになって初めて、そばに立つ音の存在に気づいたように微笑んだ。「まあ、偶然ですね。音さんも来てたんですか?私は悠人くんのケーキを買いにきたんです」――まるで自分こそが悠人の母親であるかのような口ぶりだった。こういう場面は、これまで何度もあった。だが、そのたびに胸の奥がきゅっと締めつけられる。音は美咲を見つめ、それから彼女の手の中の箱へと視線を落とした。静かに、けれど確かに言葉を落とした。「......悠人、チョコレートケーキは好きじゃないわ」美咲は変わらぬ笑顔を浮かべたまま、その唇から出た言葉は棘のように冷たかった。「音さん、あなたが悠人くんと過ごした時間って、私より短いですよね?なのに、どうしてそんなことが言えるんです?」「それに、好みも心も変わるものです。前は嫌いでも、今は好きになっているかもしれないでしょう?」唇の端がふわりと持ち上がる。その笑みは優雅で――残酷なものだった。「安心してください。悠人くんのことは、ちゃんと私が見ておきます」それだけ言うと、彼女はケーキを抱えて出口へ向かう。音はその場に立ち尽くした。頭の中では、先ほどの言葉がぐるぐると回っていた。――「好みも心も、変わるもの」つまり彼女は、宗也も、悠人も、いずれ自分のものになる――そう言いたかったのだ。すでに身を引いたというのに、どうしてまだ追い打ちをかけるのだろう。そのころ、店の前に車を停めた彩羽が、ちょうど中から美咲が出てくるのを目にした。胸騒ぎがした。嫌な予感に駆られて、彼女は美咲の後ろを覗き込む。――案の定だった。中で、音が凍りついたように立っている。「あらあら、うちの音にご執心ね。今度はスイーツ店まで追ってきたの?」彩羽は皮肉っぽく笑いながら、わざとらしく美咲に近づく。「どう?そんなに尽くしてるのに、宗也、まだ藤堂家の妻の座を座らせてくれないの?格上げに失敗したからって、音をいじめて憂さ晴らしって
一方そのころ――彩羽は、音に電話を強制的に切られたことに腹を立て、思わず足を踏み鳴らした。「まったく、なんであんなクズをまだ庇うの!あんたが優しすぎるから、あのろくでなしは何度も調子に乗るのよ!その上、あの女まで連れて――!」「......庇ってるわけじゃないの。彩羽を巻き込みたくないだけよ」音の声は静かだった。だが、その静けさの奥には、深い疲労と痛みが隠れている。彼女にはわかっていた。彩羽が怒ってくれるのは、自分のためだと。だが、宗也は彩羽が相手にできるような人間ではない。――口を出した者が、どうなるか。打ちのめされた彼の従妹。骨折した母と弟。あの血の跡が、まだ病院のベッドに残っている。「......怖くないわ」彩羽は水を一口飲み、その勢いのままグラスを持ち上げようとしたが、音がそっと取り上げてテーブルに置いた。「もう怒らないで。私が奢るから、コーヒーでも飲みに行こう」「今すぐ」「いいわよ」さっきまで彩羽が彼女をなだめていたのに、今度は音が彼女をあやす番だった。けれど、うまくいった。いつもこうして、二人の関係は絶妙なバランスで保たれている。二人はスタジオを出て街へ向かった。音が彩羽にカフェで奢り、彩羽が彼女に夕飯を奢る。食事のあと、ショッピングモールをぶらつきながら、流行の服のデザインや素材を観察して歩いた。音は服を作るのは好きだが、自分はいつも地味だった。黒、白、グレー。カジュアルで実用的――真恵子に「死人みたいな格好」と言われるほど無彩色だった。たしかに、宗也が自分を面白くない女と感じるのも無理はない。変わりたいと思ったこともあった。けれど無理をしてまで装えば、息苦しくなる。だからもう、諦めていた。ところが彩羽は、店内で見つけた一着の白いワンピースを無理やり彼女に押しつけた。「これ、絶対似合う!はい、試着室行って!」音は戸惑いながらも着替えた。――白のロングワンピース。Vネックのラインが首筋をすっきりと見せ、ウエストが細く締められ、裾はふんわりと揺れる。鏡の中の自分を見た瞬間、彩羽が思わず声を上げた。「うわ......めっちゃ綺麗。なんか、全然違う人に見える」雪のように白い肌に、柔ら
美咲は知っていた。――宗也がオフィスを出たのは、音を探しに行くためだということを。だが、彼女はそれを望まなかった。そしてその日、彼女は完璧に成功した。宗也の足を止め、同時に音の心にも新しい深い傷を刻みつけたのだ。――まさに一石二鳥。音が暗い顔でアトリエに戻ると、彩羽は筆を置き、心配そうに駆け寄ってきた。「どうしたの?お母さんと弟さん、そんなにひどい怪我だったの?」音は小さく頷いた。たしかに重傷だった。しかし、彼女の沈んだ表情は、そのせいではなかった。彩羽はその真意を知らず、歯がゆそうに彼女の頬をつねった。「もう、あんたって子は......どうしてそんなに優しいの?あの二人、散々あんたを苦しめてきたじゃない。なのにまだ彼らの心配をしてるの?」音は顔を伏せ、彩羽に涙を見られまいとした。それでも声の震えだけは抑えきれなかった。「......彩羽。さっき、悠人に会ったの。宗也と......美咲が、一緒にいて」「......っ」彩羽は一瞬、呼吸を止めた。そのままの姿勢で固まり、手にしていたペンを落としかける。音は慌てて弁解するように言葉を継いだ。「そんなつもりじゃないの。私、未練がましいって思われるのは嫌。でも......どうしても、気持ちが追いつかなくて。あの子は、私の――」「......わかってるわ」彩羽は静かに彼女を抱きしめた。「実の子どもなんだもん。母親が気になるのは当然よ。責めてるわけじゃない。でもね――」一拍置いて、ぐっと低い声で言い放つ。「私は、あのクズとあの女を八つ裂きにしてやりたいだけ」「......っ」「とりあえず座って。落ち着きなさい」彩羽は音をソファに座らせ、ぬるま湯を手渡した。それから携帯を掴み、洗面所へと向かう。そして、ためらうことなく宗也の電話番号を押した。数回コールののち、電話が繋がる。宗也が言葉を発するよりも早く、彩羽の怒声が響いた。「あんた、頭おかしいんじゃない!音をどれだけ傷つけたら気が済むの!憎いならいっそナイフでも突き立てたら?三日に一度はあのよその女を連れて彼女の前をうろついて、何がしたいの!」その声は、宗也がいる休憩室の空気を一瞬で凍
Rebyu