やり直せますか?冷戦3年越しの愛に謝罪

やり直せますか?冷戦3年越しの愛に謝罪

By:  天野琴Updated just now
Language: Japanese
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藤堂音(とうどう おと)は、生まれつき耳が不自由だった。 二十歳の時、母親が差し出した妊娠診断書によって、彼女は藤堂家の御曹司である藤堂宗也(とうどう そうや)と結婚することになった。 宗也は彼女を深く嫌悪していたが、家の事情には抗えず、二人は夫婦となった。 結婚後、宗也は他の女性と噂になりながらも、妻である音には一度も優しい視線を向けなかった。 「良き妻」でいようと努め、子どものために耐え続けた音。 だがある日、宗也の初恋の相手が家を訪れ、音が身を削るようにして産んだ息子が、その女を「ママ」と呼んだ。 その瞬間、音は悟る。 宗也の心は、最初から自分に向いてはいなかった。 彼女は離婚届を残し、家を去った。 だが宗也は彼女を追い、冷たく言い放つ。 「音、お前は結婚を遊びだと思っているのか? 離婚したい? なら二人目を産んでからにしろ」

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Chapter 1

第1話

病院の待合室。

藤堂音(とうどう おと)(旧姓:桐谷)は大型テレビの前に立ち、手にしたばかりの検査結果を握りしめていた。

そこには、耳の病が少しも良くなっていないどころか、以前より悪化していると記されていた。

無表情のまま立ち尽くす彼女の前で、テレビ画面には光のきらめくステージが映し出されていた。

舞台の中央でピアノを弾く女性は、知的で、優雅で、美しい。

その客席に、夫の藤堂宗也(とうどう そうや)の姿があった。

結婚して三年。

音は、彼があんなふうに深いまなざしで誰かを見つめるのを初めて見た。

胸の奥が、底のない闇へと沈んでいく。

耳もとで、母の桐谷真恵子(きりたに まえこ)の声が途切れることなく彼女を責め立てていた。

「どうして悪化しているの?

ちゃんと薬を飲んでるの?

リハビリもサボってるんじゃないの?

宗也の初恋の女が、あんたの座を狙ってるのよ。

危機感を持ってないの?

このままじゃ藤堂家から追い出されるわ。

宗也と別れたら、うちはどうするの?

お父さんは?

......ねえ、返事くらいしなさいよ!」

音は軽く背を押され、かすかによろけた。

「ごめんなさい、お母さん。

私がいけないのよね」と力なく言うと、真恵子は苛立ったように言い放つ。

「謝ってどうするの。

耳を治しなさいよ!

宗也の妻の座を守るのよ!」

音は俯いてつぶやいた。

「......私、努力してるよ」

医師の指示どおり毎日大量の薬を飲み、リハビリにも通ってきた。

それでも聴力は落ちる一方で、なのに宗也の初恋の女は日ごとに輝きを増していく。

どうしようもなかった。

テレビの画面はコンサートの舞台裏に切り替わり、夏川美咲(なつかわ みさき)が記者に囲まれていた。

フラッシュを浴びながら、彼女は柔らかく微笑む。

記者がマイクを向ける。

「夏川さん、今回の帰国の目的は何でしょうか?」

「ある人のために。

そして、もう二度と後悔しないために、です」

その「ある人」が誰なのか、音も母も痛いほど分かっていた。

真恵子は顔を真っ赤にして毒づいた。

「なんて図々しい女!

計算高いにもほどがある!」

そして娘に向き直る。

「お医者さんに言って薬を増やしてもらいなさい!

早く耳を治して宗也を取り戻すのよ!」

音は口を開きかけたが、何も言わなかった。

――無駄なのだ。

宗也の心が自分にないのは、耳の病のせいじゃない。

最初から、彼は自分を妻にするつもりなどなかったのだ。

音の脳裏に、三年前の夜がよみがえる。

報道陣に囲まれ、宗也のベッドの上で茫然とした自分。

無数のシャッターを切る音が響く中、記者の質問が飛び交い、音はシーツに身を隠して震えていた。

宗也はベッドに腰を下ろし、煙草を指先で転がして静かに煙を吐く。

そして、十分に撮り終えた記者たちを見回し、火を消して彼女の腰を抱き寄せた。

「そんなに俺たちのベッドでの様子が気になるなら――ここで続きを見せてやろうか?」

低く、冷たく、それでいて余裕を感じさせる声。

その一言で記者たちは黙り、互いに目を見合わせて退散した。

その三十分後、「藤堂家の御曹司、聴覚障がいの令嬢とホテル密会」という見出しの記事がネットを駆け巡った。

世間が面白がる中、音は宗也に助聴器を外され、冷たいバスルームの壁に押しつけられた。

頭上から冷水が降り注ぎ、身体は震え、息が詰まる。

彼の言葉は聞き取れなかったが、その険しい表情だけで、何を言われているのかは痛いほど伝わってくる。

最後には、ゴミでも捨てるかのように彼女は家から放り出された。

それほど嫌いながらも、宗也は結局、彼女を妻に迎えるしかなかった。

藤堂家には欠点も醜聞も許されない。

とりわけ「障がいのある娘を弄んだ」という噂など、決して許容されることはない。

一ヶ月後、二人の結婚式は世間の注目のなかで執り行われた。

だがそれはすべてが母の仕組んだ計画だと、音は知っていた。

滑稽だと思った。

何度も拒もうとしたが、もう誰にも止められなかった。

宗也でさえ、逃げられなかったのだから。

――こうして、すべてが始まったのだ。

この三年間、音は懸命に「良き妻」であろうと努めてきた。

宗也の体調を気づかい、食事を整え、藤堂家に恥じぬ妻でいようとした。

しかし返ってきたのは、ただの一言――「家政婦は要らない」。

それでも音はあきらめなかった。

病院を出た帰り道、いつものようにスーパーへ寄り、宗也の好物を買い込み、夕食を整える。

陽が沈み、四品のおかずとスープが並んだ食卓は温かな香りに満たされていた。

だが宗也は帰ってこない。

音はメッセージを送り、【いつ帰ってくるの】と尋ねた。

しばらくして届いたのは、たった一言の返信――【今夜は帰らない】。

もう慣れたはずなのに、胸の奥がわずかに沈んだ。

小さな失望が静かに沁みていく。

一人で食事を済ませ、食器を洗い、入浴を終えると、医師に増してもらった薬を二錠飲み、ソファに身を横たえた。

藤堂家にいる息子の様子が気になり、育児担当の小百合(さゆり)にメッセージを送る。

【悠人は今日もいい子にしてた?】

小百合は、唯一音に優しくしてくれる人だった。

すぐに届いた短い動画には、二歳の藤堂悠人(とうどう はると)が映っていた。

華奢で、あまりに小さい。

その姿を見つめているうちに、音の目から涙がこぼれた。

悠人は彼女が十月十日かけて産んだ我が子だ。

だが生まれたその日、宗也の母である藤堂雅代(とうどう まさよ)に連れ去られ、「聴覚障がいの母親に子育ては無理」と断じられた。

以来、息子は藤堂家で育てられ、音との面会も禁じられている。

どうしても会いたいときだけ、宗也に頼み込んで一度だけ顔を見せてもらう。

だからこそ音は、たとえ蔑まれても息子のために宗也に縋るしかなかった。

短い動画を何度も見返しながら、音はいつの間にか眠りについた。

夢の中、緑の草原を息子と駆け回る。

悠人は笑顔で「ママ」と呼びながら彼女の胸に飛び込んでくる。

それはどこにでもある母子の光景。

けれど音にとって、それは遠い夢だった。

目を覚ますと、頬が濡れていた。

ぼんやりと起き上がると、補聴器を手に取る。

浴室の方から水音が聞こえた。

――宗也が帰ってきた。

彼は朝食を外では食べないし、遅刻も嫌う。

時計を見て、音は髪を整え、洗面をすませると、台所で朝食の支度を始めた。

宗也の好みは難しいが、音はそれをよく知っている。

手際よく作ったお茶漬けの香りが家中に広がったころ、七時ちょうどに階段を下りてきた宗也は、仕立ての良いスーツに身を包み、背筋を伸ばしていた。

光が差し込む中、整った顔立ちが際立ち、どこか近寄りがたい威圧感をまとっている。

その視線が音をとらえる。

――氷のように、冷たかった。
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第1話
病院の待合室。藤堂音(とうどう おと)(旧姓:桐谷)は大型テレビの前に立ち、手にしたばかりの検査結果を握りしめていた。そこには、耳の病が少しも良くなっていないどころか、以前より悪化していると記されていた。無表情のまま立ち尽くす彼女の前で、テレビ画面には光のきらめくステージが映し出されていた。舞台の中央でピアノを弾く女性は、知的で、優雅で、美しい。その客席に、夫の藤堂宗也(とうどう そうや)の姿があった。結婚して三年。音は、彼があんなふうに深いまなざしで誰かを見つめるのを初めて見た。胸の奥が、底のない闇へと沈んでいく。耳もとで、母の桐谷真恵子(きりたに まえこ)の声が途切れることなく彼女を責め立てていた。「どうして悪化しているの?ちゃんと薬を飲んでるの?リハビリもサボってるんじゃないの?宗也の初恋の女が、あんたの座を狙ってるのよ。危機感を持ってないの?このままじゃ藤堂家から追い出されるわ。宗也と別れたら、うちはどうするの?お父さんは?......ねえ、返事くらいしなさいよ!」音は軽く背を押され、かすかによろけた。「ごめんなさい、お母さん。私がいけないのよね」と力なく言うと、真恵子は苛立ったように言い放つ。「謝ってどうするの。耳を治しなさいよ!宗也の妻の座を守るのよ!」音は俯いてつぶやいた。「......私、努力してるよ」医師の指示どおり毎日大量の薬を飲み、リハビリにも通ってきた。それでも聴力は落ちる一方で、なのに宗也の初恋の女は日ごとに輝きを増していく。どうしようもなかった。テレビの画面はコンサートの舞台裏に切り替わり、夏川美咲(なつかわ みさき)が記者に囲まれていた。フラッシュを浴びながら、彼女は柔らかく微笑む。記者がマイクを向ける。「夏川さん、今回の帰国の目的は何でしょうか?」「ある人のために。そして、もう二度と後悔しないために、です」その「ある人」が誰なのか、音も母も痛いほど分かっていた。真恵子は顔を真っ赤にして毒づいた。「なんて図々しい女!計算高いにもほどがある!」そして娘に向き直る。「お医者さんに言って薬を増やしてもらいなさい!早く耳を治して宗也を取り戻すのよ!」音は口を開きかけたが、何も
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第2話
音は、彼が昨夜どこへ行っていたのかを尋ねなかった。そして宗也も、自ら口を開くことはなかった。まるで新聞の一面を賑わせている彼と美咲のスキャンダルなど、藤堂家の妻である自分とは一切関係がないかのように。宗也は、いつも通り上品に食事をとっていた。だが、音の口の中は、まるで蝋を噛むように味気なかった。何口か無理に飲み込み、彼女は彼を見つめて問いかける。「藤堂さん、今日の昼休み、時間ある?一緒に悠人の誕生日ケーキを選びに行かない?」彼女はいつものように、彼を「藤堂さん」と呼ぶ。結婚してからずっとそうだったし、彼もそれを一度も訂正しなかった。宗也は顔を上げずに言った。「昼は取引先と会食だ。空いてない」「じゃあ、午後は?」手にしたスプーンが一瞬止まり、ようやく視線を上げる。その美しい瞳には、いつものように冷ややかな静けさが漂っていた。「誕生日ケーキは手配しておく。お前が気にすることはない」「でも......自分で選びたいの」音はいつだって従順で、彼の言葉に逆らうことなどなかった。しかし、息子の誕生日だけは、自分の手で祝いたかった。だが、宗也はそのわずかな願いすら許してくれなかった。彼は眉をわずかにひそめ、冷たく言い放つ。「音、余計なことはするな」「藤堂さん、私は悠人の母親よ」結婚して三年、音が初めて自分の意思をはっきりと示した瞬間だった。案の定、宗也の表情が険しくなり、食事の続きを取る気も失せたようだった。彼はスプーンを置き、ゆっくりとナプキンで口元を拭うと、淡々とした声で言った。「暇なら買い物にでも映画を観にでも行ってくればいい」そして背を向け、そのまま部屋を出ていった。去っていく背中を見送りながら、音の胸の奥がきゅっと締めつけられた。――痛いほどに。宗也が一緒に行ってくれないので、彼女はひとりで悠人の誕生日ケーキを選びに行った。ケーキだけではなく、プレゼントも前もって用意していた。ただ、息子と過ごす時間が少なすぎて、どんな贈り物を喜ぶのか分からなかった。そこで小百合が教えてくれた。「悠人くん、最近ぬいぐるみにはまってるんですよ」それを聞いた音は、柔らかく肌触りのいい布を自分で選び、一ヶ月かけて手縫いの毛糸のぬいぐるみを作った。
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第3話
「奥様、宗也様......お食事の準備ができました」使用人が台所から出てきて、恭しく告げた。雅代はソファから立ち上がる。「さあ、食べましょう。悠人、お腹が空いたでしょう」「悠人、くまさんといっしょにごはん食べるの!」悠人はオーダーメイドのぬいぐるみを抱きしめ、嬉しそうに笑った。「いいわね。夏川先生、悠人とくまさんを連れて行ってあげて」美咲は穏やかに笑いながら悠人を抱き上げ、音に向かって丁寧に言った。「音さん、先に悠人くんを連れて行きますね」人々は次々に食卓へ向かっていった。音は、手にした毛糸のぬいぐるみを見つめたまま、どうしていいか分からず立ち尽くしていた。――自分は宗也の妻のはずなのに。それなのに、いつだって孤立している。誰にも気づかれず、存在しないように扱われている。手の中のケーキとぬいぐるみが、床に落ちた。彼女は一歩後ずさりし、この冷え切った屋敷から出て行こうとした。しかし、次の瞬間、手首を宗也に掴まれた。見上げた瞬間、命令を帯びた鋭い眼差しが射抜く。「食べろ」音は食卓の方を見た。そこには本来、自分が座るはずだった席に――美咲が座っていた。彼女は無言で手を振りほどき、淡々と告げた。「あなたたち家族の時間を邪魔したくないわ」そう言い残し、顔も上げずにその場を去った。「音!」宗也は思わず眉をひそめた。この女が――反抗を見せるようになっただと?「放っておきなさい」雅代が冷たく言い放つ。「礼儀知らずの小娘。最初から屋敷に入れるべきじゃなかったわ」「そうよ、兄さん」ずっと黙っていた藤堂家の長女・藤堂柚香(とうどう ゆずか)が同調する。「手段を使って嫁いできた女と一緒に食事なんて、藤堂家の格を下げるだけだわ」宗也は音を好いてはいなかった。だが、嫌いでも――自分の妻だということには変わりない。淡々とした声で言う。「それじゃ、俺は?毎日彼女と食事してる俺は何なんだ?」「えっ......」柚香は言葉を詰まらせ、慌てて言い直した。「兄さん、それは一時的なことじゃない。離婚したら――」「黙れ」宗也の声が低く響いた。「二度と悠人の前でそんなことを言うな」「だまれ......ひひっ......」
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第4話
まぶしい灯りの下。男の整った顔に、目に見えるほどの冷気が宿った。長い指が彼女の手首から下顎へと移動し、ゆっくりと力を込める。「音、結婚を遊びだとでも思っているのか?結びたければ結び、離れたければ離れる?それとも俺を操り人形だとでも?好き勝手にできると思っているのか?」「結婚したいと言ったのもお前、離婚したいと言い出すのもお前だ。どんな自信があって、俺がいつまでも付き合うと思っているんだ?」「私は......」顎を掴まれたところが痛み、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。痛みに耐えながら、かすれた声で言葉を絞り出す。「最初は私が間違っていた。結婚すれば、いつか気持ちが通じ合えると思っていたの。でも、まさか......」「まさか?まさかこんなに早く嫌気が差したのか?もう一緒にいたくないと?」「そう......もう、うんざりなの」彼の瞳が鋭く光った。恐ろしいほどの怒気がその奥に潜んでいる。それでも、音は首を上げ、必死に自分を守ろうとした。次の瞬間、宗也の怒りが爆発した。顎を掴んだまま彼女をベッドに押し倒し、長い身体を重ねるように覆いかぶせ、そのまま激しく唇を塞いだ。――狂気じみたキスだった。深い淵のような瞳が、冷えた光を宿している。音は悔しさと恐怖に震え、必死に彼を押した。けれど、彼はびくともしない。三年の結婚生活で、宗也は彼女の身体を知り尽くしていた。どこに触れれば彼女が力を抜くかを。その手つきに、音の全身から力が抜けていく。羞恥と怒りが入り混じり、彼女は思わず脚を上げて蹴ろうとした。だが、すぐにその足首を掴まれ、指先がスカートの裾をなぞりながら這い上がっていく。唇が離れ、熱くも冷たい息が耳もとを撫でた。「音、もう一度でも離婚なんて言葉を口にしたら――その時は後悔させてやる」痛みと恐怖で、音は思わず声を上げた。涙が次々に流れ落ちる。宗也は彼女の補聴器を外し、そのまま、理性を置き去りにした。三年間――彼は一度も彼女をまともに見たことがなかった。けれど、ベッドの上だけは違った。そのときだけ、彼女は妻でいられた。――その一夜が終わると、音は広いベッドの上で、ただ呆然と彼の顔を見つめていた。彼は子どものころから人目を
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第5話
今日は週末だった。宗也は仕事がなく、車を出して本邸へ向かった。悠人の顔を見るために。屋敷に入る前から、美咲と悠人の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。宗也は、無意識のうちに足音を落とした。広い子ども部屋では、パジャマ姿の美咲が、床にあぐらをかいて座っていた。手には識字カードを。絵を見せながら、悠人にことばを教えている。美咲は丁寧に教え、悠人は嬉しそうに真似をしていた。宗也はもともと子どもが好きではなかった。まして、こんな早く子どもを持つつもりなどなかった。音の妊娠が分かったとき、最初に口をついて出た言葉は「おろせ」だった。だが、音は首を横に振った。藤堂家の者たちも反対した。妊娠していた音と、そのお腹の子に、彼はほとんど関心を払わなかった。......息子が生まれるまでは。初めてその小さな体を腕に抱いたとき、柔らかいぬくもりが掌に触れた瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。そこでようやく、遅れて実感したのだ。――自分は父親になったのだと。この、自分によく似た子は、確かに自分の血を引いているのだと。子どもの吸収力は驚くほど早い。昨日より今日のほうが、はっきり言葉が増えている。部屋の中では、大人ひとりと幼い子どもひとり。その近さは、とても先生と生徒には見えなかった。むしろ、親子のようだった。やがて悠人が彼に気づき、ぱっと笑顔になって走り寄る。「パパ!」宗也はしゃがみ、両腕を広げて小さな体をしっかりと受け止めた。いつもの冷ややかな顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。「悠人、今日はいい子にしてたか?」「いいこ......パパ、あいたかった」「パパも悠人に会いたかったよ」宗也は悠人を抱き上げ、そのまま高く持ち上げてやった。悠人はキャッキャと声をあげて笑う。美咲が近づき、優しく悠人の頭をなでた。「宗也、当ててみて。悠人くん、今日いくつ新しいことばを覚えたでしょう?」「いくつだ?」宗也の視線は悠人に注がれたまま。そこには息子しかいない、という顔だった。「なんと二十個よ」美咲は嬉しそうに言った。「悠人くん、本当に頭がいいの。クラスで一番の優等生になると思うわ」「君のおかげだ」宗也は素直に認める。「この子は何でもすぐに覚
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第6話
「ありえない」宗也は、一拍の迷いもなく言い切った。――あの女を好きになったと?冗談じゃない。生まれ変わってもありえない。雅代はさらに何か言おうとしたが、宗也が淡々と遮った。「もういいだろ、母さん。俺は音を好きなわけじゃない。けど、離婚する気はない」「......今、なんて言ったの?」雅代の目が細くなる。「宗也。あなた、あの子と一生一緒にいるつもりなの?藤堂家の面子はどこへ行くのよ。最初から、あの子と結婚したのは藤堂家の体裁のためだったでしょう?三年前はそうよ。おじいさまが、あなたを無理やり結婚させたの。でも今は違う。あの人はもう口出しできない。あなたまで、自分の人生を耳の悪い子に縛られることはないでしょう?」雅代は立ち上がり、彼の肩に手を置いた。「宗也。自分の幸せは、自分でつかむのよ。くだらない義理とか、きれいごとなんかに縛られちゃだめ」宗也は黙り込んだ。長い沈黙のあと、短く答える。「分かった」それ以上は何も言わず、踵を返して部屋を出た。宗也は車を走らせ、青葉の別邸へ戻った。広い邸は、昨夜と同じように真っ暗だった。明かりも、人影もない。あの、見慣れた気配も。彼はシャツのボタンを外しながら階段を上がり、主寝室に入る。視界の端に、粉々になったままの結婚写真が飛び込んできた。本当なら使用人の清美に片づけさせるところだった。だが、彼は止めた。――彼女が戻ってくる。――そして自分から折れて、写真をきれいにして壁にかけ直す。――それでもう一度「藤堂家の妻」に戻る。宗也は、当然のようにそう思っていた。今夜彼女が戻ってくる。そう信じていた。しかし、音は戻らない。連絡すら寄越さない。胸の奥にあった苛立ちは膨らむ一方だった。いっそ何かを蹴り飛ばしたい衝動が、足先まで来ていた。ジャケットをソファに投げ捨てると、タバコに火をつけた。深く吸い込んでから携帯を取り上げ、助手の篠原亮(しのはら りょう)に電話をかける。すぐに出た。「藤堂社長、こんな時間に......ご用件は?」「音は、どこにいる」「えっ?」亮は一瞬、言葉の意味が分からなかった。――こんな時間に電話してきて、それ?――
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第7話
「ふざけるな。まだ俺の前でしらばっくれるつもりか」宗也は、押し殺した声で言った。「言ってる意味が分からないわ」音は落ち着いた声で返す。「ほかに用がないなら、切るわ」「待て」宗也が呼び止めた。「本当に、言うことはそれだけか?」今日の彼は、いつもとどこか違っていた。しつこい、と音は思った。彼はふだん、必要最低限のことしか口にしない男なのに。エレベーターの壁面モニターでは、美咲の特集が流れていた。舞台の映像のあと、画面がインタビューの映像に切り替わる。彼女は柔らかく笑いながら言う。「今回、最後に歌う曲は子どもの歌なんです。私が、ある特別な子のために書いた曲で」司会者がたずねる。「その特別な子とは、どんな関係なんですか?」美咲は、意味ありげに唇を弧にした。「私の、かわいい息子みたいなものですね」音は視線を画面から外し、携帯に戻した。通話はまだ切れていなかった。その向こうで、宗也の声が苛立ちを帯びて荒くなる。「音。とぼけるのはやめろ」音は静かに息を吸うと、淡々と口を開いた。「藤堂さん、明日、時間ある?」やっと折れてきたか――宗也の口元に、ようやく勝ち誇った色が戻る。「ない」「じゃあ、時間のあるときでいいわ。離婚の手続きに行きましょう」「......何だと?」「離婚の手続きを進めたいと言ってるの」言い終えると、音は一切ためらわずに通話を切った。「......」宗也はしばらく、その場で言葉を失った。音は、ある意味でとてもまっすぐだった。離婚したいと願い続ければ、いつかそれが叶うと、本気で思っている。しかし、その素直さはすぐに打ち砕かれることになる。間もなく、音の携帯に真恵子から電話が入った。挨拶も労りもない、いきなり責め口調だった。「聞いたわよ。あんた家出してるんですって?」「音。自分の立場を分かってないの?藤堂家に嫁げたのは、先祖代々の運だと思いなさい。それを自分から放り出すなんて、よくそんな図々しいことができるわね。あんたは――」「お母さん」音は遮った。「まず、『どうして出たの』って聞いてくれてもいいんじゃないの?」「聞くまでもないでしょ。美咲が原因でしょ。宗
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第8話
その夜、音は残業するつもりでいた。だが、彩羽が突然彼女の腕をつかんで引っ張り上げた。「行くわよ、気分転換に!」「どこに?」音はあまり乗る気ではなかった。「今夜、川端通りで花火ショーがあるの。すっごく綺麗らしいわよ」「それ、あなたが見たいだけでしょ」「どっちでもいいじゃない。ほら、行くよ!」音は苦笑しながら資料をまとめた。「......ようやく分かったわ。なんであなたのスタジオが三年経ってもあまりうまくいっていないのか」「ひどい言い方しないでよ。仕事なんて人生のスパイスよ。一番大事なのは、どう生きるか、どう楽しむかでしょ?人生は一度きり。楽しいほうを選ばなきゃ損じゃない?」「はいはい、ごもっとも」音は肩をすくめて頷いた。――本音を言えば、少し羨ましかった。彩羽は裕福な家庭ではないけれど、温かい家族がいて、自由に好きなことをして、嫌になったら休める。生活に困らず、自分のペースで生きていける。結婚さえしなければ、今の暮らしがずっと続く。そんな、当たり前で穏やかな幸せ。しかし音にとっては、一生届かない夢のようなものだった。彼女の人生には、病弱な父と、利己的な母と弟、そして——愛してくれない夫と、遠い存在の息子。胸の奥に重たいものが沈んでいて、花火の光さえ色褪せて見えた。彩羽は隣で興奮気味に言う。「この花火ショーね、ドローンと連動してるんだって。前代未聞らしいよ!」周囲では歓声が絶えない。だが音には、それがただの光の散り際にしか見えなかった。一瞬だけ咲いて、すぐ消える。どんなに綺麗でも、所詮は消えるだけの光。それでも、彩羽の楽しげな顔を見ていると、白けた顔をするのが申し訳なくて、彼女は無理やり微笑んだ。花火がクライマックスに達したとき――背後から、あの懐かしい声が聞こえた。「はな......きれい!美咲ママきれい!」群衆の歓声にまぎれていたのに、音にはすぐに分かった。――悠人の声だ。思わず振り返る。そこには、宗也が悠人を抱き上げ、隣に美咲が立っていた。三人並んで立つ姿は、まるで絵に描いたように美しく、理想の家族のように見えた。その幸福そうな光景は、夜空の花火よりもまぶしかった。「悠人くん、花火が好き
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第9話
花火はまだ夜空を彩っていた。しかし、あの一幕のあとでは、もう心から楽しむことはできなかった。音の胸の奥に残ったのは、ただ冷たい痛みだけ。毎年、花火の季節になるたび、彼女は宗也にお願いしていた。「悠人を連れて、川辺で花火を見たい」と。けれど宗也は、いつも同じ理由で断った。「子どもがまだ小さすぎる」と。――でも、今夜はどうだろう。その「小さすぎる」はずの子を連れ、彼は美咲と一緒に、ここに来ている。つまり、本当の理由は悠人が小さいからではなかった。自分と一緒に来たくなかっただけなのだ。心の奥で何かが崩れ落ちていく。冷たい湖に沈むように、呼吸さえ苦しくなる。――離婚しよう。そう思う気持ちは、もはや迷いのないものになっていた。花火ショーが終わり、人々の波がゆっくりと引いていく。音は彩羽の腕を取って、宗也たちとは反対の方向へ歩き出した。二人を避けて通れると思っていたのに、角を曲がった先で、ばったりと出くわしてしまった。一瞬、足が止まる。顔を上げると、宗也の視線がまっすぐこちらを射抜いた。その目には、明らかな不機嫌さが滲んでいる。なぜ彼が怒るのか。愛人を連れて出てきたのは彼のほうなのに。怒る権利なんて、どこにもない。彼の考えていることは、昔から分からなかった。今さら、知ろうとも思わない。音はかすかに唇を上げて、いつものように静かに言った。「藤堂さん、偶然ね」宗也は悠人を抱きかかえたまま、冷たい目で睨む。「ふてくされて、息子のことまで放ったらかしか?」音は悠人に視線を向けた。その瞬間、小さな眉がきゅっと寄る。そして――その子は、母親のもとではなく、隣に立つ美咲の胸に体を寄せた。「ママ、いらない。ママじゃなくて......美咲ママがいい」幼い顔に浮かぶのは、真剣そのものの表情だった。そこに、母を気遣うような影は一つもなかった。「悠人くん、そんなこと言っちゃだめ。ママがいちばん悠人くんを大事にしてるんだから」美咲は優しく抱きとめ、柔らかい声で諭した。「いい子だから、ママのところに行こう?」「いらない、ママいらない......」悠人は小さな体を必死に彼女の腕の中へと押し込んだ。美咲は困ったように笑い、視線を音へと向ける
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第10話
音には、宗也の言葉が「分からない」わけではなかった。――ただ、もう聞かないようにしただけだ。彼の目の前で、音はゆっくりと補聴器を外した。宗也の口が止まる。夜の街灯の下、整った顔が怒りで黒く染まっていく。音が他人に怒るとき――彼は一度だけ、その姿を目にしたことがある。相手の前で、わざと補聴器を外す。それはつまり、「黙れ」という意味だ。まさかその仕草を、自分に向けてされる日が来るとは。宗也は言葉を失ったまま、ただその姿を見つめていた。街灯の光が、音の背を細く長く伸ばしている。彩羽がそっと寄り添い、肩を抱いた。「音......この世界には、宗也と悠人くんだけがすべてじゃない。もっといいものがたくさんあるの。今夜の花火だって、すごくよかったでしょ?」彩羽が顔を近づけると、音はかすかにその声を聞き取り、ほのかな微笑みを浮かべた。「......分かってる」苦い笑みだった。翌日。音の携帯に、小百合からメッセージが届いた。悠人が風邪を引いた、と。その一文だけで、胸が締めつけられた。慌てて電話をかける。「どうして?昨日は元気だったのに」「昼間は何ともなかったんですが、夜になって急に熱が出て......」「夏川先生は?そばにいないの?」「えっと......います」短い間。音は小さく息を吸い込み、落ち着いた声で言った。「分かったわ。ご苦労さま。どうか、しっかりと看てあげて」「奥さま......お帰りにならないのですか?一度でも顔をお見せするほうが......」無理もない。これまでなら、悠人が少しでも熱を出すと、音は泣きながら宗也に頼み込み、なんとか屋敷に行かせてもらっていた。「いいの。私が行っても何もできないわ。医者でもないし......あなたたちがついていてくれれば十分よ」そう言って、通話を切った。電話を握る小百合は、恐る恐る隣を見た。宗也がすぐそばに立っている。「旦那さま......奥さまが」「聞こえた」宗也は冷ややかに言い、手の中の煙草を灰皿に押しつけて消した。「医者を呼べ。しっかりと診させろ」「かしこまりました」彼の背が階段の向こうに消えるまで見送って、小百合は首を傾げた。最
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