LOGIN藤堂音(とうどう おと)は、生まれつき耳が不自由だった。 二十歳の時、母親が差し出した妊娠診断書によって、彼女は藤堂家の御曹司である藤堂宗也(とうどう そうや)と結婚することになった。 宗也は彼女を深く嫌悪していたが、家の事情には抗えず、二人は夫婦となった。 結婚後、宗也は他の女性と噂になりながらも、妻である音には一度も優しい視線を向けなかった。 「良き妻」でいようと努め、子どものために耐え続けた音。 だがある日、宗也の初恋の相手が家を訪れ、音が身を削るようにして産んだ息子が、その女を「ママ」と呼んだ。 その瞬間、音は悟る。 宗也の心は、最初から自分に向いてはいなかった。 彼女は離婚届を残し、家を去った。 だが宗也は彼女を追い、冷たく言い放つ。 「音、お前は結婚を遊びだと思っているのか? 離婚したい? なら二人目を産んでからにしろ」
View More音には、宗也の言葉が「分からない」わけではなかった。――ただ、もう聞かないようにしただけだ。彼の目の前で、音はゆっくりと補聴器を外した。宗也の口が止まる。夜の街灯の下、整った顔が怒りで黒く染まっていく。音が他人に怒るとき――彼は一度だけ、その姿を目にしたことがある。相手の前で、わざと補聴器を外す。それはつまり、「黙れ」という意味だ。まさかその仕草を、自分に向けてされる日が来るとは。宗也は言葉を失ったまま、ただその姿を見つめていた。街灯の光が、音の背を細く長く伸ばしている。彩羽がそっと寄り添い、肩を抱いた。「音......この世界には、宗也と悠人くんだけがすべてじゃない。もっといいものがたくさんあるの。今夜の花火だって、すごくよかったでしょ?」彩羽が顔を近づけると、音はかすかにその声を聞き取り、ほのかな微笑みを浮かべた。「......分かってる」苦い笑みだった。翌日。音の携帯に、小百合からメッセージが届いた。悠人が風邪を引いた、と。その一文だけで、胸が締めつけられた。慌てて電話をかける。「どうして?昨日は元気だったのに」「昼間は何ともなかったんですが、夜になって急に熱が出て......」「夏川先生は?そばにいないの?」「えっと......います」短い間。音は小さく息を吸い込み、落ち着いた声で言った。「分かったわ。ご苦労さま。どうか、しっかりと看てあげて」「奥さま......お帰りにならないのですか?一度でも顔をお見せするほうが......」無理もない。これまでなら、悠人が少しでも熱を出すと、音は泣きながら宗也に頼み込み、なんとか屋敷に行かせてもらっていた。「いいの。私が行っても何もできないわ。医者でもないし......あなたたちがついていてくれれば十分よ」そう言って、通話を切った。電話を握る小百合は、恐る恐る隣を見た。宗也がすぐそばに立っている。「旦那さま......奥さまが」「聞こえた」宗也は冷ややかに言い、手の中の煙草を灰皿に押しつけて消した。「医者を呼べ。しっかりと診させろ」「かしこまりました」彼の背が階段の向こうに消えるまで見送って、小百合は首を傾げた。最
花火はまだ夜空を彩っていた。しかし、あの一幕のあとでは、もう心から楽しむことはできなかった。音の胸の奥に残ったのは、ただ冷たい痛みだけ。毎年、花火の季節になるたび、彼女は宗也にお願いしていた。「悠人を連れて、川辺で花火を見たい」と。けれど宗也は、いつも同じ理由で断った。「子どもがまだ小さすぎる」と。――でも、今夜はどうだろう。その「小さすぎる」はずの子を連れ、彼は美咲と一緒に、ここに来ている。つまり、本当の理由は悠人が小さいからではなかった。自分と一緒に来たくなかっただけなのだ。心の奥で何かが崩れ落ちていく。冷たい湖に沈むように、呼吸さえ苦しくなる。――離婚しよう。そう思う気持ちは、もはや迷いのないものになっていた。花火ショーが終わり、人々の波がゆっくりと引いていく。音は彩羽の腕を取って、宗也たちとは反対の方向へ歩き出した。二人を避けて通れると思っていたのに、角を曲がった先で、ばったりと出くわしてしまった。一瞬、足が止まる。顔を上げると、宗也の視線がまっすぐこちらを射抜いた。その目には、明らかな不機嫌さが滲んでいる。なぜ彼が怒るのか。愛人を連れて出てきたのは彼のほうなのに。怒る権利なんて、どこにもない。彼の考えていることは、昔から分からなかった。今さら、知ろうとも思わない。音はかすかに唇を上げて、いつものように静かに言った。「藤堂さん、偶然ね」宗也は悠人を抱きかかえたまま、冷たい目で睨む。「ふてくされて、息子のことまで放ったらかしか?」音は悠人に視線を向けた。その瞬間、小さな眉がきゅっと寄る。そして――その子は、母親のもとではなく、隣に立つ美咲の胸に体を寄せた。「ママ、いらない。ママじゃなくて......美咲ママがいい」幼い顔に浮かぶのは、真剣そのものの表情だった。そこに、母を気遣うような影は一つもなかった。「悠人くん、そんなこと言っちゃだめ。ママがいちばん悠人くんを大事にしてるんだから」美咲は優しく抱きとめ、柔らかい声で諭した。「いい子だから、ママのところに行こう?」「いらない、ママいらない......」悠人は小さな体を必死に彼女の腕の中へと押し込んだ。美咲は困ったように笑い、視線を音へと向ける
その夜、音は残業するつもりでいた。だが、彩羽が突然彼女の腕をつかんで引っ張り上げた。「行くわよ、気分転換に!」「どこに?」音はあまり乗る気ではなかった。「今夜、川端通りで花火ショーがあるの。すっごく綺麗らしいわよ」「それ、あなたが見たいだけでしょ」「どっちでもいいじゃない。ほら、行くよ!」音は苦笑しながら資料をまとめた。「......ようやく分かったわ。なんであなたのスタジオが三年経ってもあまりうまくいっていないのか」「ひどい言い方しないでよ。仕事なんて人生のスパイスよ。一番大事なのは、どう生きるか、どう楽しむかでしょ?人生は一度きり。楽しいほうを選ばなきゃ損じゃない?」「はいはい、ごもっとも」音は肩をすくめて頷いた。――本音を言えば、少し羨ましかった。彩羽は裕福な家庭ではないけれど、温かい家族がいて、自由に好きなことをして、嫌になったら休める。生活に困らず、自分のペースで生きていける。結婚さえしなければ、今の暮らしがずっと続く。そんな、当たり前で穏やかな幸せ。しかし音にとっては、一生届かない夢のようなものだった。彼女の人生には、病弱な父と、利己的な母と弟、そして——愛してくれない夫と、遠い存在の息子。胸の奥に重たいものが沈んでいて、花火の光さえ色褪せて見えた。彩羽は隣で興奮気味に言う。「この花火ショーね、ドローンと連動してるんだって。前代未聞らしいよ!」周囲では歓声が絶えない。だが音には、それがただの光の散り際にしか見えなかった。一瞬だけ咲いて、すぐ消える。どんなに綺麗でも、所詮は消えるだけの光。それでも、彩羽の楽しげな顔を見ていると、白けた顔をするのが申し訳なくて、彼女は無理やり微笑んだ。花火がクライマックスに達したとき――背後から、あの懐かしい声が聞こえた。「はな......きれい!美咲ママきれい!」群衆の歓声にまぎれていたのに、音にはすぐに分かった。――悠人の声だ。思わず振り返る。そこには、宗也が悠人を抱き上げ、隣に美咲が立っていた。三人並んで立つ姿は、まるで絵に描いたように美しく、理想の家族のように見えた。その幸福そうな光景は、夜空の花火よりもまぶしかった。「悠人くん、花火が好き
「ふざけるな。まだ俺の前でしらばっくれるつもりか」宗也は、押し殺した声で言った。「言ってる意味が分からないわ」音は落ち着いた声で返す。「ほかに用がないなら、切るわ」「待て」宗也が呼び止めた。「本当に、言うことはそれだけか?」今日の彼は、いつもとどこか違っていた。しつこい、と音は思った。彼はふだん、必要最低限のことしか口にしない男なのに。エレベーターの壁面モニターでは、美咲の特集が流れていた。舞台の映像のあと、画面がインタビューの映像に切り替わる。彼女は柔らかく笑いながら言う。「今回、最後に歌う曲は子どもの歌なんです。私が、ある特別な子のために書いた曲で」司会者がたずねる。「その特別な子とは、どんな関係なんですか?」美咲は、意味ありげに唇を弧にした。「私の、かわいい息子みたいなものですね」音は視線を画面から外し、携帯に戻した。通話はまだ切れていなかった。その向こうで、宗也の声が苛立ちを帯びて荒くなる。「音。とぼけるのはやめろ」音は静かに息を吸うと、淡々と口を開いた。「藤堂さん、明日、時間ある?」やっと折れてきたか――宗也の口元に、ようやく勝ち誇った色が戻る。「ない」「じゃあ、時間のあるときでいいわ。離婚の手続きに行きましょう」「......何だと?」「離婚の手続きを進めたいと言ってるの」言い終えると、音は一切ためらわずに通話を切った。「......」宗也はしばらく、その場で言葉を失った。音は、ある意味でとてもまっすぐだった。離婚したいと願い続ければ、いつかそれが叶うと、本気で思っている。しかし、その素直さはすぐに打ち砕かれることになる。間もなく、音の携帯に真恵子から電話が入った。挨拶も労りもない、いきなり責め口調だった。「聞いたわよ。あんた家出してるんですって?」「音。自分の立場を分かってないの?藤堂家に嫁げたのは、先祖代々の運だと思いなさい。それを自分から放り出すなんて、よくそんな図々しいことができるわね。あんたは――」「お母さん」音は遮った。「まず、『どうして出たの』って聞いてくれてもいいんじゃないの?」「聞くまでもないでしょ。美咲が原因でしょ。宗
「ありえない」宗也は、一拍の迷いもなく言い切った。――あの女を好きになったと?冗談じゃない。生まれ変わってもありえない。雅代はさらに何か言おうとしたが、宗也が淡々と遮った。「もういいだろ、母さん。俺は音を好きなわけじゃない。けど、離婚する気はない」「......今、なんて言ったの?」雅代の目が細くなる。「宗也。あなた、あの子と一生一緒にいるつもりなの?藤堂家の面子はどこへ行くのよ。最初から、あの子と結婚したのは藤堂家の体裁のためだったでしょう?三年前はそうよ。おじいさまが、あなたを無理やり結婚させたの。でも今は違う。あの人はもう口出しできない。あなたまで、自分の人生を耳の悪い子に縛られることはないでしょう?」雅代は立ち上がり、彼の肩に手を置いた。「宗也。自分の幸せは、自分でつかむのよ。くだらない義理とか、きれいごとなんかに縛られちゃだめ」宗也は黙り込んだ。長い沈黙のあと、短く答える。「分かった」それ以上は何も言わず、踵を返して部屋を出た。宗也は車を走らせ、青葉の別邸へ戻った。広い邸は、昨夜と同じように真っ暗だった。明かりも、人影もない。あの、見慣れた気配も。彼はシャツのボタンを外しながら階段を上がり、主寝室に入る。視界の端に、粉々になったままの結婚写真が飛び込んできた。本当なら使用人の清美に片づけさせるところだった。だが、彼は止めた。――彼女が戻ってくる。――そして自分から折れて、写真をきれいにして壁にかけ直す。――それでもう一度「藤堂家の妻」に戻る。宗也は、当然のようにそう思っていた。今夜彼女が戻ってくる。そう信じていた。しかし、音は戻らない。連絡すら寄越さない。胸の奥にあった苛立ちは膨らむ一方だった。いっそ何かを蹴り飛ばしたい衝動が、足先まで来ていた。ジャケットをソファに投げ捨てると、タバコに火をつけた。深く吸い込んでから携帯を取り上げ、助手の篠原亮(しのはら りょう)に電話をかける。すぐに出た。「藤堂社長、こんな時間に......ご用件は?」「音は、どこにいる」「えっ?」亮は一瞬、言葉の意味が分からなかった。――こんな時間に電話してきて、それ?――
今日は週末だった。宗也は仕事がなく、車を出して本邸へ向かった。悠人の顔を見るために。屋敷に入る前から、美咲と悠人の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。宗也は、無意識のうちに足音を落とした。広い子ども部屋では、パジャマ姿の美咲が、床にあぐらをかいて座っていた。手には識字カードを。絵を見せながら、悠人にことばを教えている。美咲は丁寧に教え、悠人は嬉しそうに真似をしていた。宗也はもともと子どもが好きではなかった。まして、こんな早く子どもを持つつもりなどなかった。音の妊娠が分かったとき、最初に口をついて出た言葉は「おろせ」だった。だが、音は首を横に振った。藤堂家の者たちも反対した。妊娠していた音と、そのお腹の子に、彼はほとんど関心を払わなかった。......息子が生まれるまでは。初めてその小さな体を腕に抱いたとき、柔らかいぬくもりが掌に触れた瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。そこでようやく、遅れて実感したのだ。――自分は父親になったのだと。この、自分によく似た子は、確かに自分の血を引いているのだと。子どもの吸収力は驚くほど早い。昨日より今日のほうが、はっきり言葉が増えている。部屋の中では、大人ひとりと幼い子どもひとり。その近さは、とても先生と生徒には見えなかった。むしろ、親子のようだった。やがて悠人が彼に気づき、ぱっと笑顔になって走り寄る。「パパ!」宗也はしゃがみ、両腕を広げて小さな体をしっかりと受け止めた。いつもの冷ややかな顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。「悠人、今日はいい子にしてたか?」「いいこ......パパ、あいたかった」「パパも悠人に会いたかったよ」宗也は悠人を抱き上げ、そのまま高く持ち上げてやった。悠人はキャッキャと声をあげて笑う。美咲が近づき、優しく悠人の頭をなでた。「宗也、当ててみて。悠人くん、今日いくつ新しいことばを覚えたでしょう?」「いくつだ?」宗也の視線は悠人に注がれたまま。そこには息子しかいない、という顔だった。「なんと二十個よ」美咲は嬉しそうに言った。「悠人くん、本当に頭がいいの。クラスで一番の優等生になると思うわ」「君のおかげだ」宗也は素直に認める。「この子は何でもすぐに覚
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