Masuk夏目家の長女・夏目由利(なつめゆり)は幼馴染で初恋の相手である薄井碧斗(うすいあおと)と結婚した。しかし、彼の本命は由利の妹の夏目紫苑(なつめしおん)だった。体の弱い紫苑は両親から溺愛されて育ち、由利は姉なのだからといつも我慢を強いられた。紫苑が病死したあと、碧斗は由利に「お前が死ねばよかったのに」と言い残し、彼女の目の前で自ら命を絶った。彼の死体を眺めていた由利の時間は巻き戻り、紫苑が亡くなる前に戻っていた。そこから何度か回帰を繰り返すが、由利は自らが死ぬ運命から逃れることができなかった。四度目、彼女はとうとう愛する夫から離れる決意を固める。今さら気遣ったってもう遅すぎた。
Lihat lebih banyak「紫苑……!紫苑……!しっかりしてくれ……そんな……どうして急に……!」
水藻区(みなもく)にある大病院の一室にて。一人の男がベッドに横たわって微動だにしない女に必死の思いで呼びかけている。彼の呼びかけも虚しく、彼女はビクともしなかった。
病室が静寂に包まれ、人々のすすり泣く声が耳に入る。この場にいる全員が彼女の死を悲しみ、現実を受け止めきれないでいる。
そんな中、一人の女が複雑な表情で彼ら家族を見つめていた。
「……」
――どうして、こんなことになってしまったのか。
彼女は心の中で自分自身に問いかけた。当然、答えなど出てこなかった。元より、答えられる問題ならそのように思ったりはしないだろう。
「あぁ……紫苑……こんなにも早く逝ってしまうだなんて……」
夏目家の長女・夏目由利(なつめゆり)はその光景を後ろでじっと眺めていた。今目の前で彼女の手を握って泣き喚いているのは由利の夫・薄井碧斗(うすいあおと)だった。
そして、ベッドに寝ているのは彼女の妹・夏目紫苑(なつめしおん)だ。碧斗は呆然と立ち尽くす由利のことなど目に入っていないようで、ただ紫苑のことだけを見つめている。ただの義理の兄妹だとは思えないほど、深い愛だった。
いや、彼らはただの義兄妹ではなかった。そのことを、由利はよく知っていた。
由利、碧斗、紫苑の三人は幼馴染だった。由利と紫苑は有名企業の社長夫妻の元に生まれた。二つ下の妹紫苑は体が弱く、幼い頃から両親の愛を一身に受けて育った。由利はそんな妹の陰で、両親からの関心を得られなかった。
陰鬱で暗い由利と、病気にも負けず明るく振舞う天使のような紫苑。今思えば、周囲の人間が由利より紫苑を愛したのは当然だったのかもしれない。
「あなたは姉なのだから、妹のために我慢しなさい」
「お前は何の病気も無く健康的に生まれたんだ、それくらい妹に譲ってやったらどうだ」
両親は紫苑を溺愛する一方で、由利には我慢を強いていた。家に彼女の居場所は無いも同然だった。
しかし、そんな由利にも大切な存在がいた。それが、幼馴染で許嫁の碧斗だった。
碧斗は大財閥の御曹司だった。親同士の仲が良く、由利は初めて彼を見たとき、その美しい顔立ちに一目惚れした。それからはただ碧斗のことだけを一途に想い続け、辛い境遇にも耐えてきた。
念願かない、由利は碧斗の婚約者になることができた。碧斗を心から愛していた彼女にとっては、これ以上ない幸せな日となった。
「碧斗……あなたと結婚できるなんてとっても嬉しいわ」
「……あぁ、俺も嬉しいよ」
婚約者になってから初めて彼と会った日、何故か碧斗は浮かない顔をしていた。由利はそのことを疑問に思ったが、彼と結婚できることの喜びが大きく、そんなことは気にもならなかった。
――それが妹の紫苑を愛していたからだということに気付いたのは、彼と結婚したあとだった。
「ねぇ、碧斗……私たち、やっぱり夫婦二人で暮らさない?お金は十分にあるんだし……どうして私の実家で同居だなんて……」
「病弱な紫苑のことが心配なんだ。君もそうだろう?」
碧斗は義妹となる紫苑のことを可愛がっており、よく彼女の看病をしていた。
「え、ええ……気持ちはわかるけど……」
結婚後、碧斗は由利の実家での同居を強引に押し通した。結婚を機に家から出られると思っていた彼女にとっては、青天の霹靂だった。
(結婚したらあの人たちと関わらなくてもいいと思っていたのに……)
由利は落ち込んだが、愛する碧斗が傍にいるのだ。きっとこれからの生活は、以前よりもずっと良いものになるはずだ。そう信じて何とか心を保った。
しかし、碧斗と結婚してからも彼女の地獄のような生活は変わらなかった。
自分に関心のない両親に、病弱な妹に振り回され続ける日々。頼みの綱だった碧斗は仕事から帰ると、真っ先に紫苑の元へと向かった。彼はいつだって由利よりも紫苑を優先し、結婚記念日も紫苑の元で過ごした。
結婚してから三年が経った頃、紫苑の病状が悪化し、彼女は緊急入院することとなった。家族全員が悲しみに暮れ、紫苑の回復を祈り続けた。そして、今に至る。
由利はふぅと息を吐くと、膝をついて紫苑に縋りつく碧斗に近付いた。肩に手を置き、立ち直れない様子の彼に声をかけた。
「碧斗、落ち着いて……私も紫苑が亡くなったのはとても悲しいわ……でもいつまでもそうしていないで前を向かないと……」
「……るんだ」
「え?」
碧斗は由利のほうを振り返った。真っ赤な狂気的な瞳が、彼女を真っ直ぐに捉えた。彼は敵意を露わにした目で、はっきりと言い放った。
「何故、紫苑が死んでお前が生きているんだ」
「……」
由利は何も言うことができなかった。喉がつっかえたように、どんな言葉も出てこない。そんな彼女に、碧斗は追い打ちをかけるように口を開いた。
「――紫苑じゃなくてお前が死ねばよかったのに」
あぁ、言葉だけで人を殺すことはできるのか。由利はそのことを今になって身をもって知った。
その日の夜、仕事から帰った由利は家族揃って夕食を摂っていた。横に碧斗が座り、正面には両親、その間に紫苑がいる。テーブルの上には母と由利が協力して作った豪華な食事が並べられている。母は専業主婦であるため、家事の全般を担当している。そんな母に、由利は仕事から帰ったあと何かとこき使われるため、休む暇がない。紫苑は仕事はしていないが、身体が弱いため例外なのだ。夏目家では、いつものように穏やかな家族の時間が流れていた。たった一人、由利を除いて。「父さん、母さん。私が買ってきたお土産どうだった?」「とっても美味しかったわ、紫苑。私たちのためにわざわざありがとう」向かいに座る母親が、笑顔で返事をした。由利はそんな母を、何も言わずにじっと見つめていた。今日会社で聞いたあの噂は本当なのだろうか。気になって仕方がないが、本人に真偽を聞くことなんて当然できない。さりげなく遠回しに聞いてみるのが一番いいのだろうが、あいにくピッタリな言葉が出てこなかった。食事中の父が、一度フォークを持った手を止めてしみじみと呟いた。「ああ、新婚旅行なんて懐かしいな……」「そうねぇ、あなた。私たちも若い頃海外に行ったわよね」微笑んだ母が、父の腕に軽く手を触れた。その姿は誰から見ても仲睦まじい夫婦そのもので、とても不倫をしていたような人には見えなかった。そんな二人の様子を見ていると、やっぱり気のせいなんだろうかと思ってしまう。しかし、火のないところに煙は立たない。由利は二人の夫婦仲を探ろうと、口を開いた。「父さんと母さんは……新婚旅行はどこへ行ったの?」二人の新婚旅行なんて別に興味はなかったが、話の流れ的にこの問いかけが最も自然だった。いきなり核心を突くような発言をすると、絶対に勘付かれる。父も母も馬鹿ではない。あまりにも不自然な言動をしすぎると、怪しまれるだろう。「……珍しいな、お前が私たちのことを聞くなんて」「ちょ、ちょっと気になっちゃって……私も新婚旅行に行ったばかりだから」母は無反応、父は意外そうに目を見開いた。今まで両親のことに関心がなかった由利が突然そのようなことを聞いたのだから、驚くのも当然かもしれない。「新婚旅行は……二人でヨーロッパに行ったな。有意義な時間だったよ」「ええ、そうですね、あなた」父から視線を受けた母が頷いた。「そうだ、部屋に写真が残
”噂”という一言をしっかりと聞き取った由利は、気になって尋ねた。「噂って何のことですか?」「な、夏目さん……」「やめなさい、当事者に言うようなことではないわ」若く経験の浅い女性社員は、無意識に口に出してしまったのだろう。由利より年上の先輩社員が、彼女の失言を諫めた。しかし、噂の内容が夏目家である以上、由利もそう簡単に退くことができなかった。交友関係の広くない彼女の元には、人々の噂など滅多に耳には入ってこない。「……私が夏目家の人間と折り合いが悪いのは、知っていますよね?大丈夫です、家族には言ったりしませんから。言ったところで私の意見なんて聞き入れてもらえないような家ですので」「夏目さん……」その言葉を信用したのか、それとも同情心を抱いたのか。自分の知らなかった夏目家に関する秘密を知れるのなら、もはやどちらでもかまわなかった。彼らはようやく折れたようで、小声で由利に話し始めた。「実はね……前々から区内で囁かれている噂があるのよ……夏目家の次女……夏目さんの妹さんに関することで」「紫苑に関する噂……」夏目紫苑と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、彼女の愛らしい容姿や気さくな性格だろう。地味な由利とは違って華やかな容姿をしている紫苑は、どこへ行っても目を引く存在だった。異性に対する距離感が近いという悪い面もあるが、それも噂になるほどのことではない。ならば、一体何がそこまで人々の間で囁かれているというのか。きっと由利も知らない、衝撃的なことなのだろう。彼女はゆっくりと頷き、どんなことでも受け入れるという意思表示をした。その真剣な表情で、社員たちは由利の気持ちを察したようだった。一人の女性社員が前に出ると、ゆっくりと口を開いた。「――夏目家の次女が……夏目社長の子供ではないという噂よ」「…………そんな、冗談ですよね?」予想していた通り、由利は衝撃を隠すことができなかった。紫苑が父の子供ではない。もし本当であれば、家庭が崩壊してしまう可能性の高い事案だった。由利は全く知らなかったが、区内ではなかなかに有名な噂なのだという。「……さぁ、真偽はわからないわ。だけどね、夏目社長夫人には昔……社長と結婚する前に付き合っていた恋人がいたそうよ」「母さんに……ですか?」由利は両親の過去、出会った経緯や交際していた頃については何も知らなかった。結婚す
紫苑を連れての新婚旅行が無事に終わり、いつも通りの日常へと戻った。長い休み明け、由利は職場の同僚たちへのお土産の紙袋を手に、出勤の準備をしていた。(あっという間だったわね……)楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまうというが、どうやら本当だったようだ。今日からはまた仕事が始まる。由利は前世から仕事が嫌いではなかった。元々家に居場所がないので、職場は彼女にとって唯一の憩いの場であり、逃げ場でもあったからだ。朝、家から出ようとした由利に紫苑が声をかけた。「姉さん、もう行くの?」「……紫苑?」いつも由利が出勤する時間は寝ているはずの彼女だったが、今日はなぜか起きてきたようだ。初めての海外旅行で疲れが溜まっているはずだが、平気なのだろうか。そのような心配が頭をよぎったものの、あいにく今の彼女には紫苑を気にかけていられるほどの余裕はなかった。――由利はもう、自分の人生を生きるのに精一杯だったからだ。「紫苑、早いのね」「出かける前に姉さんを一目見ておきたくて、起きちゃったのよ」彼女はフフッと微笑んだ。以前は愛らしく感じていた笑みが、なぜか今は不気味に思えてしまう。きっと気のせいだと、由利は自分に必死で言い聞かせた。「――気を付けて行ってきてね」「……」紫苑は笑顔で言うと、彼女の耳元に真っ赤な唇を近づけた。「――次は通り魔に襲われないように、ね?」「……」やはり、さっきの不気味な笑みは気のせいではなかったようだ。紫苑が由利と同じように前世の記憶があることは、旅行のときに知ったばかりだ。そんなくだらないことを言うために、わざわざいつもより早く起きてきたのか。「……ええ、言われなくてもそうするわ」由利は平然を装って紫苑に笑い返し、家を出た。***その後、由利は普段通りの時間に会社に出勤した。「あら、夏目さん。久しぶりね」「皆さん、おはようございます」いつものメンバーが、由利を出迎えた。ここでは夏目家のように彼女を虐げる者はいない。由利が唯一心安らげる場所だった。「皆さんにお土産があるんです」由利は手に持っていた紙袋からハワイ旅行で買ったお土産のお菓子を取り出し、全員に配布した。「まぁ、とっても嬉しいわ。ありがとう、夏目さん」「どういたしまして、いつもお世話になってるお礼です」由利からお菓子の包み紙を受け取った一人の社員が尋ねた
楽しかった旅行はあっという間に終わり、帰国の日となった。三人は荷物をまとめてホテルを出ると、国へ帰る飛行機に乗り込んだ。「姉さん、義兄さん。旅行とっても楽しかったわね」「ええ、そうね」「……」最後までウキウキの紫苑とは対照的に、碧斗は昨日からずっと浮かない顔をしていた。昨夜紫苑との不倫を追及したのだから、そうなるのも無理はないのかもしれない。今、由利と紫苑は碧斗を真ん中に二人で彼を挟んで座っている。由利は紫苑を真ん中にしようとしたが、なぜか碧斗がそれを拒否した。ふとスマートフォンを確認すると、涼介からのメッセージが届いていた。旅行が始まったときから、由利はこっそり彼とメッセージのやり取りをしていた。『お土産を買ったから、楽しみにしていてね。兄さん』長いようで短い、でも楽に過ごせた日々だった。紫苑がついて来ると知って不安だったけれど、何とか無事に終えられたようでよかった。由利はフゥと息を吐くと、背もたれに背中を預けた。旅の終わりだからか、疲れが溜まっていた。(家に帰ったらまた、父さんと母さんとの暮らしに戻るのね……)そのことを考えると途端に憂鬱になってしまうが、仕方がない。必要以上に関わりさえしなければ、前世のようにはならないはずだ。(今死んだとしても、また回帰してしまうことだけは避けたいわね……)てっきり碧斗の死が回帰の条件だと思っていたが、前回は由利の死で時を巻き戻ってきた。つまり、碧斗の死が回帰の条件ではないということだった。前世のことを考えると、何が正解なのかがわからなくなってしまう。今の人生ももしかすると夢なのではないかと、疑ってしまうことすらあった。(だけど、前世ではなかったパーティーや涼介兄さんの登場……明らかに未来は変わって行ってるのよ)由利はずっと未来なんて変えられないと思っていた。どの人生においても碧斗は紫苑を愛して由利を冷遇した。だけど、今世では彼女の周囲の人間も少しだが変化を見せている。このままなら、良い方向へ向かってくれるのではないかと僅かながらに希望を抱くようになった。あれだけ世界に絶望していた自分が希望を見出せる日が来るだなんて、想像もしていなかったことだ。安心すると、何だか急に眠くなってしまった。(ちょっとだけ、寝ようかしら……)由利は襲い掛かる睡魔に耐えられず、そのまま目を閉じた。眠っている
両親、碧斗は紫苑の妊娠に大層喜んだ。このときには既に紫苑は病気を克服し、強く生き始めていた。そんな彼女の変化は、由利にとっても喜ばしいことだった。「二人とも、妊娠おめでとう」「ありがとう、姉さん」紫苑は嬉しそうに微笑んだ。まだ平らな彼女のお腹を、隣にいた碧斗がそっと撫でた。その顔はとても幸せそうで、由利は回帰してよかったと心の底から思えた。紫苑は複雑そうな目で由利を見つめた。「姉さんから祝いの言葉をもらえるとは思っていなかったから……驚いたわ」「……そんなことないわ、私は誰よりもあなたたちの愛を応援しているもの」強がりでも嘘でもない。紛れもない本心だ。由利の言葉を聞いた両親は
目が覚めると、由利は病院の一室にいた。「無事だったんですね、よかったです」「あなた……」ベッドに横たわる由利の顔を、夏目家のメイドが心配そうに覗き込んだ。また巻き戻ってきたのではないかと思ったが、どうやらそうではないようだ。由利は自身の安否など気にも留めず、メイドに尋ねた。「お腹の子は……」「……」その問いに、メイドは痛々しそうに視線を逸らした。由利は彼女の反応で全てを悟った。――あぁ、流産してしまったんだ。奇跡のように私の元へやって来てくれた子は、産まれることもなく亡くなってしまったのね。悲しくて、悔しくて、やりきれない気持ちになった。由利は病室内を見渡した。流産したと
それから碧斗は、毎日のように紫苑のいた病室で泣き続けた。彼女がいなくなり、火葬されたあともずっと。仕事も手に付かなくなるほど毎日のように大声で泣き、隙あらば彼女の痕跡を探した。彼女が生前着ていた服を抱きしめ、服が濡れるまで泣いた。もちろん両親も深い悲しみに暮れていたが、それでも彼の絶望は異常ともいえるほどだった。この世の全てを失ったかのように、真っ暗な部屋で酒を浴びるように飲み続けた。彼女のいない世界なんて、意味がないのだろう。由利はそんな彼をただ見ていることしかできなかった。姉妹ではあるが、紫苑に似ているところなんてほとんどない由利に、彼女の代わりなんて到底務まらないからだ。そして
「紫苑……!紫苑……!しっかりしてくれ……そんな……どうして急に……!」水藻区(みなもく)にある大病院の一室にて。一人の男がベッドに横たわって微動だにしない女に必死の思いで呼びかけている。彼の呼びかけも虚しく、彼女はビクともしなかった。病室が静寂に包まれ、人々のすすり泣く声が耳に入る。この場にいる全員が彼女の死を悲しみ、現実を受け止めきれないでいる。そんな中、一人の女が複雑な表情で彼ら家族を見つめていた。「……」――どうして、こんなことになってしまったのか。彼女は心の中で自分自身に問いかけた。当然、答えなど出てこなかった。元より、答えられる問題ならそのように思ったりはしないだろう
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