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第916話

Author: 豆々銀錠
電話が切れると同時に、澤村は心のどこかで安堵したような気がした。

「で、これからどうする?」

車内の沈黙を破ったのは彼だった。

唯はうんざりした表情で答える。

「近くのショッピングモールでいいでしょ。食事もできるし、座れるし。おじいちゃんには『映画観た』って報告しとけばいいわ」

澤村はあまり乗り気ではなかったが、唯の機嫌を考えてうなずいた。

モールは休日らしく、混雑していた。

人波に押され、唯は何度かバランスを崩して澤村の胸元にぶつかった。澤村はため息をついて、無言で彼女の肩に手を回し、庇うように進んだ。

「こんなところ、何が楽しいんだか」

彼がぼやくと、唯も言葉に詰まり、黙ったまま周囲を見渡した。

ふと、遠くに空席の目立つ和食店が目に入った。

「あそこ、先にご飯にしない?」

唯はそう言ってそちらへ向かおうとし、足元を見ずに前方の人とぶつかりそうになった。

「前を見て歩けないのか?妻が妊娠中なんだ」

低く鋭い声――どこか聞き覚えのある声だった。

唯が顔を上げると、そこには花城がいた。

柔らかい雰囲気の妊婦を気遣うように支え、その女性の腹部はすでにふくらみ始めていた。

一瞬、時が止まったようだった。

分かれてまだそれほど時間も経っていないのに、花城が今や父親になろうとしている――

唯の胸の奥がずきんと痛んだ。

花城も唯に気づき、わずかに顔をこわばらせたが、すぐに平静を装った。

「君か......相変わらずそそっかしいな」

唯は唇を引き結び、視線をそらして一歩下がった。

「すみません。わざとじゃありません」

そんな唯が頭を下げたのを見て、澤村の中で何かが弾けた。ぐっと彼女を引き寄せ、その肩を抱きながら、花城を真っすぐ睨みつけた。

「こっちだって妊婦だ。唯も、俺の子を妊娠してる」

一瞬、花城の目に動揺が走った。瞳孔がきゅっと縮み、口元がわずかに歪む。

明らかに、予想外だった。

だが澤村はさらに畳みかけるように言った。

「もし俺の息子に何かあったら、あんたにその責任が取れるのか?」

花城が何かを言い返そうとしたそのとき、妻がそっと彼の袖を引いた。

「実言さん......もういいよ。私も赤ちゃんもお腹すいちゃった」

その言葉に、花城は何も言えなくなり、妻の背を軽く押しながらその場を離れた。

唯は、遠ざかる二人の
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