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第917話
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億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第926話
「鈴」昭子は足を引きずりながら歩く鈴に、すぐに追いついた。鈴は立ち止まり、振り返って昭子を見やった。「昭子さん、何かご用？」拓司の存在があるせいで、鈴もまた昭子に一目置いていた。「別に大したことじゃないの。ただ少し話がしたくて。今、どこへ行くの？一緒に歩かない？」昭子が穏やかに声を掛けた。鈴は断る理由を見つけられず、そのまま並んで歩き出した。二人の足は自然と、黒木お爺さんの住まいの方へ向かっていた。少し沈黙が続いた後、昭子がふと切り出した。「あなたも、紗枝に不満があるんでしょう？」鈴は一瞬、驚いたように目を見開き、慌てて首を振った。「そんなこと、ないわ」そんなこと、素直に認めるわけがない。「そう......私と同じで、紗枝がおかしいと思っているのかと思ったのに」昭子は小さくため息をつくと、鈴は眉をひそめ、逆に問い返す。「昭子さんも、紗枝が嫌いなの？」昭子は迷いなくうなずいた。「嫌いどころじゃない。本当に憎らしい女よ。あの人が啓司の妻という立場だけで満足していると思う？」鈴は興味をそそられたように、じっと昭子の顔を見つめた。昭子は唇を歪め、低く言った。「紗枝は、拓司のことにも気があるのよ」鈴は大きな秘密を打ち明けられたような気分になり、もう取り繕うことも忘れた。「なんて厚かましい......夫がいながら、そんなに男に目がないなんて」「男に目がないって？」昭子はわずかに首をかしげた。鈴は声を潜めながらも、今度ははっきりと言った。「昭子さん、エイリーって知ってる？」「エイリー？」昭子は一瞬考え込み、すぐに思い出した。前回のネット騒動の時、この海外で活躍する歌手が、確かに紗枝を庇っていた。「あの、外国で人気のある歌手のこと？」「そうよ」鈴はうなずいた。「私、牡丹別荘に住んでいるでしょう。何度かエイリーと紗枝が密会しているのを見たの。それに......紗枝が辰夫っていう男とも関係を持っているって聞いたわ」噂話に花を咲かせているうちに、あっという間に時間が過ぎ、二人はもう黒木お爺さんの屋敷の前に着いていた。「じゃあ、ここで」鈴は立ち止まり、軽く会釈した。「ええ、またね」昭子は笑顔で別れを告げ、その場を後にした。「エイリー......」歩きながら、昭子はその
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第925話
逸之のことはさておき、紗枝を許したわけでは決してなかった。女たちは、わざとらしく得意げに口を開いた。「うちの主人なんて、最近は毎日海外出張。商談続きで、私に付き添う暇なんてないの」「うちも同じよ。朝から晩まで顧客との面会ばかりで、今回も一緒に来てくれなかったわ」「もう、その話はやめましょうよ」口では夫への不満を並べながら、実際には「忙しい＝有能」という形で遠回しに自慢しているのが見え見えだった。中には昭子を持ち上げる者までいる。「皆さんの旦那様もお忙しいでしょうけど、拓司さんほどじゃないわよね？今は啓司さんが仕事を退いて、黒木グループはすべて拓司さんが管理しているのに、それでも昭子さんに付き添っているんですもの」昭子は満足げに口元を緩めた。「ええ、主に拓司が気遣ってくれてるの。どんなに忙しくても、時間を作って妊婦健診にも一緒に来てくれるのよ」女たちの声が交錯する中、紗枝は聞こえぬふりを貫いた。逸之も黙々と食事を続ける。目の前の叔母たちが、わざと自分の母に聞かせるために話していることなど、とっくに気づいていたからだ。やがて、紗枝の無反応に痺れを切らした一人が、直接話を振ってきた。「紗枝さんはいいわよね。啓司さん、今は目が見えないから、お仕事もせず毎日そばにいてくれるんでしょう？」紗枝は手を止め、涼やかに答える。「ええ、そうね。お金も十分あるし、働く必要もないもの。本当に楽でいいわ」その一言に、場の空気がぴたりと止まった。食事を終えた逸之が、首を傾げながら口を挟む。「パパに仕事がないわけじゃないよ。パパの会社はすごく大きいんだ」従姉妹たちは一瞬だけ驚いた表情を見せた。「逸ちゃん、啓司さんって会社を持ってるの？どこにあるの？」彼女たちにとって、目が見えない人間が会社を経営しているという事実は、到底信じがたいものだった。逸之は大きな瞳でじっと見つめ返した。「知りたい？」「うん」「教えない」彼は、啓司の会社をこの目で見たことがある。その規模は黒木グループにも引けを取らなかった。今のこの叔母たちは、見る目がないとしか言いようがない。逸之が口を閉ざすのを見て、女たちは心の中で啓司を小さく見積もった。きっと、細々と生活できる程度の小さな会社で、恥ずかしくて言えないのだ
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第924話
紗枝と啓司は、逸之を連れて実家へと戻った。帰り道、逸之は手のひらに舎利子をぎゅっと握りしめていた。一見すればただの珠だが、その指先には手放すまいとする力がこもっている。「パパ、ママ。この珠って、本当に高く売れるの？」少年らしい無邪気さに、わずかな計算が混じった声だった。紗枝は微笑み、頷いた。「ええ。仏舎利はとても貴重なものよ。大切に保管しておきなさい」しかも、黒木お爺さんが言った通り、それは高僧が入滅したときに得られた舎利子であり、手に入れるのは容易ではない。「わかった」逸之は素直に返事をし、そのまま紗枝の肩にもたれ、静かに眠りへと落ちていった。紗枝は細い体を抱きしめ、胸の奥で思う。今は片時たりとも、この子を視界から離したくない。実家に着くと、彼女は逸之をそっとベッドに寝かせ、布団を掛けてから自分の支度へと向かった。啓司はすでに身支度を終え、ベッドで横になっていた。その夜、二人並んで眠っていると、紗枝は不意に悪夢を見た。夢の中で、逸之が事故に巻き込まれる。その瞬間、彼女は息を呑むように目を覚ました。「逸之......」浅い眠りの啓司はすぐに気づき、腕を伸ばして紗枝を抱き寄せた。「悪い夢でも見たのか？」温もりに包まれ、紗枝は少しずつ現実に引き戻された。「ええ......また、逸之が事故に遭う夢を見たの」啓司は優しく背を撫でた。「大丈夫、ただの夢だ」「そうね」そう答えはしたものの、瞼はなかなか重くならない。しばらくして、彼女はぽつりとこぼした。「どうして明一が、あんなことをしたのかしら......」監視映像を見たときの衝撃が、まだ胸の奥に残っている。あんなに幼い子供が、どうしてあそこまで残酷になれるのか。「子供は、多くの場合、親の影響を受ける。父と伯父の仲が悪かったせいで、昂司は子供のころから俺を敵視していた」啓司は淡々と言った。だが当時の彼にとって、昂司など競うに値しない存在だった。紗枝は、啓司からこの種の話を聞くのは初めてだった。黒木家に嫁いで長いが、伯父に会ったのは数えるほどで、大半は海外でビジネスをしており、正月に顔を出す程度だと聞いていた。「これからは、子供たちをちゃんと見守らなければ」「そうだな」啓司は彼女を抱き寄せる腕に、わずかに力をこめた。翌朝
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第923話
明一は、パーティー会場に監視カメラが設置されていると聞かされ、胸の奥にひやりとした恐れを覚えた。それでも意地を張り、平然を装って口を開いた。「いいよ」紗枝は淡々と続けた。「じゃあ、もし映像に映っているのが、逸ちゃんが君を押した場面じゃなくて......君が逸之くんを押した場面だったら？そのときは君もきちんと謝るべきじゃない？」明一は、それが単なる謝罪の話だと思い込み、素直にうなずいた。「わかった」二人が言葉を交わしているあいだに、啓司は屋敷の執事へと素早く指示を飛ばす。ほどなくして、当時の監視映像が送られてきた。紗枝は映像データを受け取り、その場にいる全員の前で再生した。画面に映し出されたのは、明一が逸之を押す決定的な瞬間。そして二人が揃って池に落ちたのは、逸之が最後まで明一の服を離さなかったからだということも、はっきりと示されていた。すべては白日のもとにさらされた。元来、黒木お爺さんは明一の味方だった。しかし今は、その目に怒りの色が宿っている。「明一......どうして嘘をついた？」一度きりならまだしも、これで二度、三度目だ。黒木お爺さんは忘れてはいなかった。前回も明一は、わざと逸之を押し、そして自分も転んだことを。明一はまだ幼い。だが、こうした場面に直面すると、耐えきれず大粒の涙をこぼすのだった。綾子は元より彼を好いてはいなかったが、こうして何度も自分の孫をいじめる姿を見せつけられ、眉をきりりと寄せた。「まだ子どもだというのに、どうしてこんなに悪意を抱けるの？お父さんやお母さんは、礼儀や思いやりというものを教えてこなかったの？逸ちゃんは白血病なのよ。あの子を池に突き落とすなんて......命を奪うのと同じじゃない！」綾子の声は怒りで震えていた。明一はさらに声を張り上げて泣き出した。「ぼく......悪かった。もう、こんなことしない」大人たちの叱責が一斉に降りかかり、彼の心は一瞬で崩れ去った。紗枝も胸の奥で首を傾げていた。なぜ、まだ幼い子どもが、こうまで執念深く恨みを抱き、相手を死に追いやろうとするのだろう？黒木お爺さんは、今回は明一がどれほど涙を見せても、心を動かされることはなかった。「逸ちゃんに謝りなさい」明一はしゃくり上げながら、逸之の方を向いた。「ごめんなさ
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第922話
明一は、逸之を池へ突き落とした瞬間、まさか自分まで引きずり込まれるとは夢にも思わなかった。泳ぎを習ったことはあったが、ここは整備されたプールではない。濁った水と泥の底、足元の不安定さが全身の自由を奪う。ましてや、逸之が必死にしがみついてくるせいで、まるで体が縛られたように動けなかった。くそっ......！その時、水をかき分けて一人の男が近づいてきた。助けが来た、と明一は思った。しかし男は迷うことなく逸之を抱え上げ、そのまま岸へ向かった。抱えられた逸之は、その時になってようやく明一の服から手を放した。ほんの一分も経たぬうちに、逸之は拓司によって引き上げられる。幸い水を飲み込むこともなく、顔色こそやや青ざめていたが、命に別状はなかった。明一もすぐに警備員の手で救助された。人混みをかき分けて駆けつけた紗枝は、息子を抱えているのが拓司だと気づくと、迷わずそのもとへ走った。「逸ちゃん！」人々は次々と電話を取り、救急車を呼び始める。本来なら賑やかに続くはずだったパーティーは、二人の子どもの諍いによって、思いがけず早く幕を閉じることになった。病院。白い光の下、医師が二人の子どもを診察している。紗枝は啓司の手を強く握りしめていた。「心配するな、大丈夫だ」啓司は低く穏やかな声でなだめた。少し離れた場所に立つ拓司は、逸之を救ったため全身がずぶ濡れだ。昭子が心配そうに近づき、頬に残る水滴をそっと拭った。「拓司、服がこんなに......一度帰って着替えてきましょう」「大丈夫だ」拓司は短くそう答えたが、その視線は何度も紗枝と啓司が固く握り合う手へ向かう。昭子もその視線に気づいた。胸の奥で嫉妬の炎がくすぶったが、それを表に出すことはできなかった。そこへ綾子が歩み寄った。「拓司、一体どういうことなの？どうして二人して水に落ちたりしたの」「僕にもよく分かりません。気づいた時には、もう池の中でした」拓司は静かに首を振った。それ以上、綾子は詮索せず、共に医師の診断を待つことにした。やがて診察室から医師が現れた。「幸い、すぐに救助されたおかげで、二人とも深刻な影響はありません」「逸ちゃんは？あの子はもともと体が弱いのよ」綾子が真っ先に尋ねた。「詳しく診ましたが、特に問題はありません」
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第921話
祖父が鈴をかばおうとする様子を目にして、啓司は呆れたように眉をひそめた。「俺の子だよ」黒木の老人は杖を握りしめ、そのまま啓司めがけて投げつけた。わずかにそれて、空を切る。「こんな時になっても、まだ本当のことを言わないつもりか？え？」啓司は、今この場に漂う緊張感と、紗枝が時間を稼ぐためにやむを得ず取った行動について、包み隠さず語った。話を聞き終えた黒木の老人は、しばし言葉を失ったように呆然と立ち尽くした。「じゃあ......鈴の言っていたことは、全部嘘だったのか？」「もちろんだ。自分の子が誰の子か、俺が知らないわけないだろう」啓司は冷ややかな目を向け、逆に問い返した。その言葉に、老人はようやく安堵の息を漏らし、胸の底に沈んでいた心配がほどけていく。「そうか......鈴め、何も確かめもしないで、俺にでたらめを吹き込んでいたんだな」啓司は最初から鈴の虚言を見抜いていた。目には冷たい光が宿る。黒木お爺さんは、自分がうっかり鈴の嘘を暴いてしまったことに気づき、慌てて取り繕った。「啓司よ、鈴も善意でやったんだ。紗枝に騙されるんじゃないかと心配してくれたんだよ。斎藤家は昔からうちと縁が深いんだ。どうか鈴の気持ちを傷つけないでくれ」啓司は表情を変えぬまま、静かに頷いた。「わかってる」黒木家はかつて、斎藤家のお爺さん・斎藤茂（さいとう しげる）の命を救ったことがある。恩を忘れぬ茂は、黒木家がいかなる困難に直面しても一貫して支え続けた。啓司が家督を継いだ当初も、その手は差し伸べられていた。啓司は決して恩知らずではない。「じいちゃん、もう行っていい？」「ああ」黒木お爺さんは柔らかく言った。「せっかく家族が揃っているんだ。いとこや親戚とゆっくり話してこい」啓司が席を立つと、牧野が古くからの側近たちを引き合わせた。一方、綾子は数人の女性親戚に孫を紹介しながら、頬をほころばせていた。皆は口々に、逸之が啓司によく似ていると褒め、この子は将来きっと大成するだろうと囁いた。逸之は祖母の顔を立てるように、従順に祖母世代の歓心を買った。ほとんどの人に挨拶を終えた頃、綾子は孫の疲れを見取り、椅子に座って休むよう促す。「はい」素直に答えた逸之は、まず母を探そうと周囲を見回した。その時、逸之が一人になった
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