LOGIN翌朝、マキラは自宅のアパートで目を覚ました。いや、正確には目を覚ましたというより、眠れなかった夜が終わったというべきだった。
時計を見る。午前十一時。通常なら深夜勤務の後はぐっすり眠れるはずだが、昨夜は違った。目を閉じるたびに、あの駐車場の暗闇と、ぼやけた人影が脳裏に浮かんだ。
キッチンでコーヒーを淹れながら、マキラは自分に言い聞かせた。疲労による幻覚だ。十年間この仕事を続けてきて、精神的な疲弊が蓄積している。それだけのことだ。
しかし、彼女の手は微かに震えていた。
携帯電話が鳴った。消防署の上司、隊長の柴田からだ。
「伊咲、昨夜はご苦労だった。ところで、あの廃病院で搬送した女性だが」
「はい」
「身元不明だそうだ。所持品なし、指紋も照合できない。意識も戻らない」
マキラは眉をひそめた。
「身元不明? でも、誰かが通報したんですよね」
「それが、通報の音声記録を確認したんだが……妙なんだ」
「妙?」
「
背筋に冷たいものが走る。
「それで位置情報から救急車を派遣したと」
「ああ。不気味な話だが、いたずら電話の可能性もある。ただ、実際に倒れている女性がいたわけだから、結果オーライではあるんだが」
柴田の声には困惑が滲んでいた。
「今日は休みだから、ゆっくり休め。明日の夜勤、頼むぞ」
電話が切れた。
マキラはコーヒーカップを握りしめた。無音の通報。身元不明の女性。そして、あの幻影。
全てが繋がらない。しかし、繋がっている気もする。
彼女は窓の外を見た。十一月の午後の陽射しが、アパートの壁を照らしている。日常的な光景。しかし、その光の中に、マキラは言いようのない違和感を感じていた。
その日の午後、マキラは珍しく外出することにした。閉じこもっていても、あの映像が頭から離れない。気分転換が必要だと判断したのだ。
近所のスーパーマーケットで買い物をしている最中、マキラは奇妙なことに気づいた。
レジの店員の顔が、見覚えがある。
いや、それだけではない。通路ですれ違った老人、子供を連れた母親、商品を棚に並べているアルバイトの若者——
同じ?
違う。正確には、全員の顔に、昨夜駐車場で見た
マキラは買い物かごを床に落とした。周囲の視線が集まるが、彼女には関係なかった。目を強く閉じ、深呼吸する。
一、二、三……
目を開けると、人々の顔は正常に戻っていた。それぞれ異なる顔。当たり前の光景。
「大丈夫ですか?」
店員が心配そうに声をかけてきた。
「ええ、ちょっと貧血で……」
マキラは謝罪し、かごを拾い上げた。しかし、心臓は激しく打っている。
これは幻覚だ。疲労による。そう自分に言い聞かせながら、彼女は足早にスーパーを後にした。
アパートに戻ると、マキラは医学書を引っ張り出した。彼女は救命士である前に、人体と精神の専門家でもある。自己診断をしなければ。
解離性障害、急性ストレス障害、PTSD——可能性のある症状をリストアップする。しかし、どれもしっくりこない。彼女は特定のトラウマ体験を最近したわけではない。昨夜の廃病院も、特別に恐ろしい経験だったわけではない。
それでも、何かが彼女の精神を蝕んでいる。
夕方、携帯電話が再び鳴った。今度は母からだった。
「マキラ、今夜来られないの? お父さんが楽しみにしてたのに」
母の声には非難の色が滲んでいた。
「ごめん、体調が優れなくて」
「また仕事? あなた、最後に実家に来たのいつだか覚えてる? 三ヶ月よ。三ヶ月も顔を見せないで、親不孝にもほどがあるわ」
マキラは何も言い返せなかった。母の言う通りだ。彼女は家族との時間を犠牲にして、仕事に没頭してきた。それが正しいことだと信じて。
「近いうちに必ず行くから」
「いつも同じこと言って……マキラ、あなた本当に大丈夫なの? 声、疲れてるわよ」
母の声が柔らかくなった。
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
「無理しないでね。あなたは昔から、一人で抱え込みすぎるんだから」
電話を切った後、マキラは母の最後の言葉を反芻した。
一人で抱え込みすぎる。
それは真実だった。彼女は誰かに弱さを見せることができない。救命士として、常に強くなければならない。他者を救う者が、自分が救われる側になることは許されない——そんな強迫観念が、彼女を縛っていた。
夜が訪れた。
マキラはベッドに横になったが、眠れない。天井を見つめていると、また あの映像が浮かんでくる。
駐車場の暗闇。ぼやけた人影。
そして——脳裏に、十二年前の記憶が蘇った。
彼女が救命士になって二年目の冬。交通事故の現場。若い女性が車の下敷きになっていた。マキラたちが到着したとき、女性はまだ意識があった。
「助けて……娘に会いたい……」
女性は血を吐きながら懇願した。
マキラは全力を尽くした。しかし、救急車が病院に到着する前に、女性の心臓は止まった。
時刻は、午前三時四十七分だった。
その記憶が、今、鮮明に蘇る。
マキラは起き上がり、冷たい水を飲んだ。手は震えている。
なぜ今、あの記憶が?
そのとき、アパートの廊下から音が聞こえた。
足音。
誰かが、彼女の部屋の前で立ち止まった。
マキラは息を潜めた。ドアの向こうに、気配がある。
そして——ドアノブがゆっくりと回り始めた。
彼女は凍りついた。ドアには鍵をかけている。それなのに、ノブは回り続ける。
ギシギシという金属音。
マキラは立ち上がり、ドアに近づいた。覗き穴から外を見ようとする。
しかし、その瞬間——
廊下の足音が遠ざかっていった。
マキラはドアを開けた。廊下には誰もいない。ただ、冷たい空気だけが流れている。
彼女は周囲を見回した。隣の部屋のドアも閉まっている。誰もいない。
幻聴だったのか?
マキラは部屋に戻り、ドアを二重に施錠した。
その夜、彼女はついに眠ることができなかった。
窓の外から、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。あの音は、かつて彼女に使命感を与えてくれた。しかし今夜は、その音が何か別のもの——警告のように聞こえた。
時計を見ると、午前三時四十七分だった。
またその時刻。
偶然ではない。何かが、彼女をこの時刻に縛り付けている。
マキラは窓辺に立ち、夜の街を見下ろした。無数の灯りが瞬いている。その中で、彼女だけが孤立しているように感じられた。
明日の夜勤まで、あと十二時間。
きっと彼女は、もう一度あの廃病院に向かうことになる。
そして、その予感は正しかった。
それから一年が過ぎた。 マキラは、相変わらず救急救命士として働いていた。 しかし、彼女の生き方は大きく変わっていた。 仕事が終われば、同僚と食事に行く。月に一度は実家に帰る。カウンセリングも続けている。 そして何より――自分を許すことができるようになっていた。 救えなかった患者がいても、自分を責めすぎない。 最善を尽くした。それで十分だ。 そう思えるようになっていた。 ある秋の日、マキラは美月から招待状を受け取った。「心理カウンセラー資格取得記念パーティー」 美月は、無事に資格を取得し、カウンセリング会社に就職したという。 パーティーは、小さなレストランで開かれた。 美月の友人や家族が集まり、和やかな雰囲気だった。「マキラさん、来てくれてありがとうございます」 美月は笑顔で迎えた。「おめでとう。本当に頑張ったわね」「マキラさんのおかげです。あなたが、私に前に進む勇気をくれました」 二人は抱擁を交わした。 パーティーの最中、美月がスピーチをした。「今日、ここに集まってくれた皆さん、ありがとうございます」 美月の声は、明るく力強かった。「私は、十二年前に母を失いました。それは、私の人生で最も辛い出来事でした」 会場が静かになった。「でも、その経験が、今の私を作りました。苦しみを乗り越えたからこそ、同じように苦しんでいる人の気持ちが分かる」 美月はマキラを見た。「そして、ある救命士の方が、私に大切なことを教えてくれました。人は、一人では生きられない。助けを求めることは、恥ではない。それは勇気だと」 マキラの目に涙が浮かんだ。「だから、これから私は、カウンセラーとして、誰かの支えになりたい。母が私を支えてくれたように」 会場から拍手が起きた。 パーティーが終わった後、マキラと美月は外で話をした。
消防署に着くと、柴田隊長は自室でマキラを待っていた。「座れ」 隊長の声は優しかった。マキラは椅子に座り、深呼吸をした。「隊長、私、話さなければいけないことがあります」「聞こう」 マキラは、十二年前の出来事から語り始めた。 それは、彼女が救命士になって二年目の冬のことだった。深夜の交通事故。飲酒運転の車が、信号待ちをしていた軽自動車に衝突した。 軽自動車には、母親と八歳の娘が乗っていた。 母親——桐谷夏美は、車の下敷きになっていた。マキラたちが到着したとき、彼女はまだ意識があった。「娘を……娘を先に……」 夏美は血を吐きながら懇願した。 しかし、救出の順序は明確だった。より重症な方を優先する。娘の美月は軽傷だった。夏美の方が、緊急性が高かった。 マキラは夏美を救急車に乗せた。その間、美月は現場で泣き叫んでいた。「ママ! ママ!」 その声が、今でもマキラの耳に残っている。 救急車の中で、マキラは懸命に処置をした。しかし、夏美の状態は急速に悪化した。「娘に……会いたい……」 夏美の最後の言葉。 そして、午前三時四十七分、彼女の心臓は止まった。 病院に到着する、わずか三分前のことだった。 マキラは、その後何度も自問した。もっと早く処置していれば。もっと的確な判断をしていれば。 しかし、どう考えても、彼女のやったことは正しかった。医学的に、手順的に、全て正しかった。 それでも——夏美は死んだ。 そして、マキラは自分を許せなかった。「それから、私は感情を封じ込めることにしたんです。患者を救えなかったとき、悲しんでいる暇はない。次の現場に備えなければならない。そう自分に言い聞かせて」 柴田は静かに聞いていた。
その週末、マキラは美月から連絡を受けた。「マキラさん、お茶しませんか? 話したいことがあるんです」 二人は駅前のカフェで会った。 美月は以前よりも明るく、健康的に見えた。「お元気そうですね」「はい。最近、大学に戻りました。心理学を勉強してるんです」「心理学?」「ええ。母のこと、そして私自身の経験から、心の問題に興味を持ったんです」 美月はコーヒーを一口飲んだ。「将来は、カウンセラーになりたいと思ってます。母みたいに苦しんでいる人を、助けたい」 マキラは微笑んだ。「素晴らしい目標ですね」「マキラさんも、同じじゃないですか。人を救うために働いてる」「そうね。でも、最近気づいたの。人を救うって、命を救うことだけじゃないんだって」「どういう意味ですか?」「心を救うことも、同じくらい大切だってこと。いや、もしかしたらそれ以上に大切かもしれない」 マキラは窓の外を見た。「身体の怪我は治療できる。でも、心の傷は、本人が向き合わない限り癒えない」「マキラさんは、向き合ったんですね」「ええ。長い時間がかかったけど」 美月は真剣な表情で聞いていた。「実は、私もマキラさんに伝えたいことがあるんです」「何?」「母の日記を見つけたんです。事故の一週間前まで書かれていた日記」 マキラの胸が高鳴った。「そこに、母の思いが書かれていました」 美月はバッグから古いノートを取り出した。「最後のページに、こう書いてありました」 美月はノートを開き、読み始めた。「『もし私に何かあったら、美月は一人になってしまう。それが何より心配だ。でも、私は美月に伝えたい。人生には、予測できないことが起きる。それでも、生きることを諦めないでほしい。誰かを恨むのではなく、今を大切に生きてほしい』」 マキラの目に涙が浮かんだ。「母
復職から一週間が過ぎた。 マキラは順調に現場に復帰していた。出動は日に平均六件。交通事故、急病、転倒――様々なケースに対応した。 そして、全てのケースで、彼女は冷静に、しかし温かく対応することができた。 以前との違いは、患者の家族とのコミュニケーションだった。 マキラは今、患者だけでなく、その家族の不安にも寄り添うようになっていた。「大丈夫ですよ。すぐに病院に着きますから」 そんな言葉が、自然に口から出るようになった。 しかし、ある夜、マキラは再び試練に直面することになる。 午前二時。出動要請が入った。「第三救急隊、至急出動。ビルの屋上で飛び降り未遂。三十代女性、説得中」 マキラの心臓が跳ねた。 飛び降り未遂。 それは、救命士にとって最も難しいケースの一つだ。身体的な怪我ではなく、精神的な危機。「行きますよ、マキラさん」 竜也が言った。 救急車が夜の街を走る。 現場は、都心のオフィスビル。十五階建ての建物の屋上に、女性が立っているという。 到着すると、すでに警察が現場を封鎖していた。「救急隊です」 マキラが名乗ると、警官が案内してくれた。「屋上に女性が一人。三十分前から説得してますが、聞く耳を持ちません」「身元は?」「分かりません。所持品もなく、名前も名乗らない」 マキラと竜也は、警官と共にエレベーターで屋上へ向かった。 エレベーターの中で、マキラは深呼吸をした。 落ち着け。今の自分なら、できる。 屋上のドアが開いた。 冷たい風が吹き込んできた。 そして――屋上の縁に、女性が立っていた。 背中を向けて、下を見ている。「おい、危ない!」 警官が叫ぶが、女性は動かない。 マキラは前に出た。「私は救急救命士の伊咲マキラです。話を聞かせてもらえませ
復職の前日、マキラは一つの決断をした。 もう一度、あの廃病院に行くことにした。 今度は恐怖からではなく、けじめをつけるために。 夕方、マキラは一人で旧東陵総合病院の前に立った。 建物は相変わらず荒廃していたが、以前感じたような威圧感はなかった。 ただの廃墟。それだけだ。 正面玄関から入り、階段を降りる。地下へ。 懐中電灯の光が、暗闇を照らす。 駐車場に着くと、マキラは立ち止まった。 ここが、全ての始まりの場所。 美月が倒れていた場所。 夏美の幻影を見た場所。 マキラは、その場所にしゃがみ込んだ。 そして、静かに語りかけた。「夏美さん、あなたがまだここにいるなら、聞いてください」 声は、駐車場に反響した。「私は長い間、あなたを救えなかったことを悔やんできました。でも、今は分かります。あれは、誰のせいでもなかった」 涙が頬を伝う。「あなたは、最後まで娘さんのことを心配していましたね。『娘を先に』って。でも、私たちは医学的な判断に従いました。それが正しいと信じて」 マキラは立ち上がった。「あなたの娘、美月さんは立派に成長しています。強く、優しい女性に。あなたは誇りに思っていいと思います」 風が吹いた。 地下なのに、風が。 それは、夏美の返事のように感じられた。「私は明日、現場に戻ります。また救命士として、働きます」 マキラは微笑んだ。「今度は、一人で抱え込まずに。仲間と協力して。そして、自分も大切にしながら」 駐車場を歩き、出口に向かう。 振り返ると、暗闇の中に何かが見えた。 いや、何も見えない。 それでいい。 夏美は、もうここにはいない。 安らかに、あるべき場所にいる。 マキラは廃病院を後にした。 外に出ると、夕日が美しかった。
復職まであと二週間となった頃、マキラは新しい挑戦を始めた。 同僚の救命士たちとの交流会に参加することにしたのだ。 それは月に一度、消防署のメンバーが集まる飲み会だった。マキラは以前、これを避けてきた。仕事が終われば、すぐに帰宅する。同僚との私的な付き合いは最小限にする――それが、彼女のスタイルだった。 しかし、それが彼女を孤立させていたことに、今なら気づく。 居酒屋に入ると、すでに十人ほどが集まっていた。「おお、伊咲! 久しぶりだな!」 先輩の救命士、田中が手を振った。「久しぶりです」 マキラは席に着いた。竜也も来ていた。「マキラさん、調子どうですか?」「ぼちぼちかな。もうすぐ復帰できそう」「それは良かった! 現場、寂しかったんですよ」 他の同僚たちも、次々と声をかけてきた。 マキラは気づいた。彼らは、自分のことを心配してくれていた。自分が孤独だと感じていたのは、自分が壁を作っていたからだ。 酒が入ると、話題は様々な方向に広がった。 仕事の失敗談、家族のこと、趣味のこと。 その中で、田中が言った。「なあ、伊咲。お前、昔からストイックだったよな」「そうですか?」「ああ。俺たちが冗談言ってても、お前だけはいつも真面目な顔してた」 他の同僚たちも頷いた。「でもさ、最近少し変わったよな?」「変わった?」「うん。なんていうか、柔らかくなった気がする」 マキラは笑った。「そうかもしれない。少し、肩の力が抜けたのかも」 その夜、マキラは初めて、同僚たちと本音で話すことができた。 救命の現場での恐怖、失敗の悔しさ、患者を救えたときの喜び。 そして、救えなかったときの悲しみ。 みんな、同じような経験をしていた。 完璧な救命士なんて、存在しない。 全員が、失敗を抱え、それでも前に進んでいる。