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第1章:廃病院の呼び声

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-12-11 18:37:06

 翌朝、マキラは自宅のアパートで目を覚ました。いや、正確には目を覚ましたというより、眠れなかった夜が終わったというべきだった。

 時計を見る。午前十一時。通常なら深夜勤務の後はぐっすり眠れるはずだが、昨夜は違った。目を閉じるたびに、あの駐車場の暗闇と、ぼやけた人影が脳裏に浮かんだ。

 キッチンでコーヒーを淹れながら、マキラは自分に言い聞かせた。疲労による幻覚だ。十年間この仕事を続けてきて、精神的な疲弊が蓄積している。それだけのことだ。

 しかし、彼女の手は微かに震えていた。

 携帯電話が鳴った。消防署の上司、隊長の柴田からだ。

「伊咲、昨夜はご苦労だった。ところで、あの廃病院で搬送した女性だが」

「はい」

「身元不明だそうだ。所持品なし、指紋も照合できない。意識も戻らない」

 マキラは眉をひそめた。

「身元不明? でも、誰かが通報したんですよね」

「それが、通報の音声記録を確認したんだが……妙なんだ」

「妙?」

······。誰も喋っていない。ただ、呼吸音らしき音だけが三十秒ほど続いて、切れた」

 背筋に冷たいものが走る。

「それで位置情報から救急車を派遣したと」

「ああ。不気味な話だが、いたずら電話の可能性もある。ただ、実際に倒れている女性がいたわけだから、結果オーライではあるんだが」

 柴田の声には困惑が滲んでいた。

「今日は休みだから、ゆっくり休め。明日の夜勤、頼むぞ」

 電話が切れた。

 マキラはコーヒーカップを握りしめた。無音の通報。身元不明の女性。そして、あの幻影。

 全てが繋がらない。しかし、繋がっている気もする。

 彼女は窓の外を見た。十一月の午後の陽射しが、アパートの壁を照らしている。日常的な光景。しかし、その光の中に、マキラは言いようのない違和感を感じていた。

 その日の午後、マキラは珍しく外出することにした。閉じこもっていても、あの映像が頭から離れない。気分転換が必要だと判断したのだ。

 近所のスーパーマーケットで買い物をしている最中、マキラは奇妙なことに気づいた。

 レジの店員の顔が、見覚えがある。

 いや、それだけではない。通路ですれ違った老人、子供を連れた母親、商品を棚に並べているアルバイトの若者——··············

 同じ? 

 違う。正確には、全員の顔に、昨夜駐車場で見た·············

 マキラは買い物かごを床に落とした。周囲の視線が集まるが、彼女には関係なかった。目を強く閉じ、深呼吸する。

 一、二、三……

 目を開けると、人々の顔は正常に戻っていた。それぞれ異なる顔。当たり前の光景。

「大丈夫ですか?」

 店員が心配そうに声をかけてきた。

「ええ、ちょっと貧血で……」

 マキラは謝罪し、かごを拾い上げた。しかし、心臓は激しく打っている。

 これは幻覚だ。疲労による。そう自分に言い聞かせながら、彼女は足早にスーパーを後にした。

 アパートに戻ると、マキラは医学書を引っ張り出した。彼女は救命士である前に、人体と精神の専門家でもある。自己診断をしなければ。

 解離性障害、急性ストレス障害、PTSD——可能性のある症状をリストアップする。しかし、どれもしっくりこない。彼女は特定のトラウマ体験を最近したわけではない。昨夜の廃病院も、特別に恐ろしい経験だったわけではない。

 それでも、何かが彼女の精神を蝕んでいる。

 夕方、携帯電話が再び鳴った。今度は母からだった。

「マキラ、今夜来られないの? お父さんが楽しみにしてたのに」

 母の声には非難の色が滲んでいた。

「ごめん、体調が優れなくて」

「また仕事? あなた、最後に実家に来たのいつだか覚えてる? 三ヶ月よ。三ヶ月も顔を見せないで、親不孝にもほどがあるわ」

 マキラは何も言い返せなかった。母の言う通りだ。彼女は家族との時間を犠牲にして、仕事に没頭してきた。それが正しいことだと信じて。

「近いうちに必ず行くから」

「いつも同じこと言って……マキラ、あなた本当に大丈夫なの? 声、疲れてるわよ」

 母の声が柔らかくなった。

「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」

「無理しないでね。あなたは昔から、一人で抱え込みすぎるんだから」

 電話を切った後、マキラは母の最後の言葉を反芻した。

 一人で抱え込みすぎる。

 それは真実だった。彼女は誰かに弱さを見せることができない。救命士として、常に強くなければならない。他者を救う者が、自分が救われる側になることは許されない——そんな強迫観念が、彼女を縛っていた。

 夜が訪れた。

 マキラはベッドに横になったが、眠れない。天井を見つめていると、また あの映像が浮かんでくる。

 駐車場の暗闇。ぼやけた人影。

 そして——脳裏に、十二年前の記憶が蘇った。

 彼女が救命士になって二年目の冬。交通事故の現場。若い女性が車の下敷きになっていた。マキラたちが到着したとき、女性はまだ意識があった。

「助けて……娘に会いたい……」

 女性は血を吐きながら懇願した。

 マキラは全力を尽くした。しかし、救急車が病院に到着する前に、女性の心臓は止まった。

 時刻は、午前三時四十七分だった。

 その記憶が、今、鮮明に蘇る。

 マキラは起き上がり、冷たい水を飲んだ。手は震えている。

 なぜ今、あの記憶が?

 そのとき、アパートの廊下から音が聞こえた。

 足音。

 誰かが、彼女の部屋の前で立ち止まった。

 マキラは息を潜めた。ドアの向こうに、気配がある。

 そして——ドアノブがゆっくりと回り始めた。

 彼女は凍りついた。ドアには鍵をかけている。それなのに、ノブは回り続ける。

 ギシギシという金属音。

 マキラは立ち上がり、ドアに近づいた。覗き穴から外を見ようとする。

 しかし、その瞬間——

 廊下の足音が遠ざかっていった。

 マキラはドアを開けた。廊下には誰もいない。ただ、冷たい空気だけが流れている。

 彼女は周囲を見回した。隣の部屋のドアも閉まっている。誰もいない。

 幻聴だったのか?

 マキラは部屋に戻り、ドアを二重に施錠した。

 その夜、彼女はついに眠ることができなかった。

 窓の外から、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。あの音は、かつて彼女に使命感を与えてくれた。しかし今夜は、その音が何か別のもの——警告のように聞こえた。

 時計を見ると、午前三時四十七分だった。

 またその時刻。

 偶然ではない。何かが、彼女をこの時刻に縛り付けている。

 マキラは窓辺に立ち、夜の街を見下ろした。無数の灯りが瞬いている。その中で、彼女だけが孤立しているように感じられた。

 明日の夜勤まで、あと十二時間。

 きっと彼女は、もう一度あの廃病院に向かうことになる。

 そして、その予感は正しかった。

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