Chapter: 第四章:白銀の峰を越えて セレインが完全に回復するまでに一週間を要した。 その間、ミラは献身的に彼の看病をした。食事を作り、水を運び、時には魔力回復を助けるための薬草を煎じた。「ミラ、君は休むべきだ」 ある日、セレインが言った。「自分のことは自分でできる」「でも、まだ本調子じゃないですよね?」 ミラは心配そうに彼を見た。「私にできることがあるなら、やりたいんです」「……なぜ、そこまで」「だって、セレイン様は私のために……街のために、危険を冒してくれたんですから」 ミラは微笑んだ。「それに、セレイン様がいなかったら、私は今頃どうなっていたか……最初の遺跡で死んでいたかもしれないし、旅の途中で魔物に襲われていたかもしれません」「それは――」「だから、恩返しがしたいんです」 彼女は真剣な目で言った。「セレイン様が困っているときは、私が助けたい」 その言葉に、セレインは何も言えなくなった。 恩返し。人間特有の感情だ。だが同時に、それは絆を意味している。 与えられたものを返す。それは関係性の継続を意味する。 そしてセレインは気づいた。 自分は、その継続を――望んでいる。 一週間後、二人は再び旅を続けた。 シルフの渓谷を無事に越え、北方の山岳地帯へと入っていく。ここからは気温が急激に下がり、雪を見ることも増えてきた。「寒いですね……」 ミラは震えながら言った。厚手の外套を着ているが、それでも冷気は容赦なく体を冷やす。「北方の冬は厳しい。我慢できるか?」「大丈夫です」 ミラは歯を食いしばって頷いた。「これくらい、なんてことないです」 だが彼女の唇は既に紫色になっている。このままでは危険だ。 セレインは立
Terakhir Diperbarui: 2025-11-24
Chapter: 第三章:嵐の中で エルデンの街に到着したのは、旅の開始から二ヶ月が経った頃だった。 石造りの城壁に囲まれた中規模の交易都市で、北方への重要な中継地点として知られている。街の中心には大きな市場があり、様々な商人が店を構えていた。「わあ……!」 ミラは目を輝かせながら市場を見回した。「すごい人! こんなに賑やかな場所、初めて見ました!」「リムル村は小さな村だったからな」 セレインは淡々と言った。「ここで二日ほど滞在する。補給を済ませ、情報を集める必要がある」「情報、ですか?」「北方の天候と魔物の動向だ。この季節、シルフの渓谷を越えるのは危険が伴う」 二人は宿を取り、それぞれの用事を済ませることにした。セレインは冒険者ギルドへ向かい、ミラは市場で食料を購入する。「夕刻に宿で合流しよう」「はい! わかりました!」 ミラは嬉しそうに市場へと駆けていった。 セレインはその後ろ姿を見送り、それからギルドへと足を向けた。 冒険者ギルドは、街の中心近くにある大きな建物だった。中に入ると、様々な冒険者たちが依頼書を眺めたり、仲間と談笑したりしている。 セレインは受付に向かった。「情報が欲しい。北方の状況について」 受付の女性は、エルフの姿を見て僅かに目を見開いた。エルフが人間の街に来ることは珍しい。「北方……シルフの渓谷方面でしょうか?」「そうだ」「少々お待ちください」 女性は奥へと引っ込み、しばらくして地図を持って戻ってきた。「現在、渓谷付近では異常気象が報告されています。季節外れの吹雪や雷雨が頻発しており、通行は推奨されません」「原因は?」「不明です。ただ……」 女性は声を潜めた。「古代の魔法装置が暴走しているのではないか、という噂があります」「古代の魔法装置?」「はい。シルフの渓谷には、魔法帝国時代の気象制御装置が埋まってい
Terakhir Diperbarui: 2025-11-24
Chapter: 第二章:旅の契約 旅の準備は、ミラが思っていたよりも遥かに綿密だった。 セレインは出発の前に三日間を費やし、必要な装備と魔法道具を揃えた。防水加工された旅装束、魔物避けの結界石、応急処置用の薬草、そして詳細な地図。「北の都までは、通常ルートで徒歩三ヶ月。だが魔物の活動が活発化する季節を考慮すれば、四ヶ月は見ておくべきだ」 セレインは地図を広げながら説明した。「途中、エルデンの街とシルフの渓谷を経由する。どちらも補給地点として重要だ」「はい!」 ミラは熱心に頷いた。彼女の目は期待で輝いている。 セレインはその表情を見て、僅かに眉をひそめた。「勘違いするな。これは観光旅行ではない。危険が伴う」「わかってます」 ミラは真剣な顔で答えた。「でも、初めての長旅だから……ちょっとだけ楽しみなんです」「楽しみ、か」 セレインは呟いた。人間特有の感情だ。エルフにとって、旅は単なる移動でしかない。どれほど美しい風景も、千回見れば新鮮さを失う。 だがミラにとっては違う。彼女の人生で、この旅は大きな冒険なのだろう。「出発は明朝だ。今夜は村で休め」「セレイン様は?」「私は森で休む。明朝、村の東門で待っている」 ミラは少し寂しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。「わかりました! じゃあ、明日、必ず東門に行きます!」 翌朝、東門にミラが現れたのは、約束の時刻よりも一時間早かった。「おはようございます、セレイン様!」 彼女は息を切らせながら駆け寄ってきた。「……早いな」「寝られなくて……」 ミラは照れくさそうに笑った。「ワクワクしちゃって、夜中に目が覚めちゃったんです」 セレインは溜息をついた。だが、その表情に怒りはなかった。「では、出発しよう」 二人は村を後にした。 朝の空気は清々しく、東の空が薄く染まり始めている。
Terakhir Diperbarui: 2025-11-24
Chapter: 第一章:遺跡の少女 遺跡は、森の最も古い一角にあった。 かつて「魔法帝国アストラル」が栄えた時代の遺構であり、今では蔦と苔に覆われた石柱と崩れかけた壁だけが、往時の栄華を偲ばせている。 セレインがそこに到着したとき、遺跡の中央にある祭壇から青白い光が噴き出していた。魔法陣が暴走している。空気が振動し、周囲の植物が不自然に成長と枯死を繰り返していた。 そして祭壇の前に、一人の少女が倒れていた。 人間の少女だ。年の頃は十五、六といったところか。粗末な旅装束を身に纏い、背中には古びた革の鞄を背負っている。栗色の髪が乱れ、額から血が流れていた。 セレインは状況を瞬時に理解した。 少女が遺跡に侵入し、何らかの理由で封印を解いてしまった。そして暴走した魔力に巻き込まれて意識を失ったのだろう。「愚かな」 彼は小さく呟いた。だが足は既に動いていた。 杖を掲げ、古代語で詠唱を開始する。彼の専門は時空間魔法と植物魔法の融合領域だが、封印術の基礎も心得ている。暴走する魔法陣に対し、逆位相の魔力を注ぎ込んで相殺する。 青白い光が激しく明滅し、やがて静まっていく。魔法陣の暴走が収まり、遺跡は再び静寂を取り戻した。 セレインは少女のもとへと歩み寄った。 まだ息はある。脈拍も安定している。額の傷は見た目ほど深くない。魔力による一時的なショックで気を失っただけのようだ。 彼は簡易的な治癒魔法を施した。傷口が塞がり、出血が止まる。だがそれ以上のことはしない。彼女が目覚めるまで待つ必要はない。村まで運んでいけば、あとは村人たちが何とかするだろう。 そう考えて少女を抱き上げようとした瞬間――彼女の目が開いた。「う……」 琥珀色の瞳。まだ焦点が定まっていない。少女は混乱した様子でセレインを見上げた。「誰……?」「動くな」 セレインは短く告げた。「君は遺跡の魔法陣を暴走させた。一歩間違えれば命を落としていた。いや、それどころか森全体を巻き込む大惨事になっていた可能性もある」 少女は瞬きをした。それから自分の状況を理解したのか、慌てて身を起こそうとする。「ご、ごめんなさい! 私、その……道に迷って、それで遺跡を見つけて……中に入ったら、石版があって、それに触れたら突然……」「結果的に封印を解除した」 セレインは冷たく言った。「古代遺跡の封印は理由があって施されている。好奇心だ
Terakhir Diperbarui: 2025-11-23
Chapter: 序章:時の森の魔導師 森は記憶している。 千年前の嵐を、五百年前の干ばつを、百年前の大火を。樹々は年輪に刻み、土は層に積み、風は種を運んで記憶を未来へと繋いでいく。だが森の奥深く、陽の届かぬ古木の根元に佇む者だけは、それらすべてを己の肉体で記憶していた。 セレイン・アルヴェリアス。 エルフの魔導師である彼にとって、この森での滞在はまだ「短い」部類だった。百二十年。人間ならば五世代が入れ替わる時間も、彼にとっては長い瞑想の一部でしかない。 彼の住処は樹齢二千年を超えるユグノアの大樹の根元に設けられていた。魔法で空洞を作り、蔦と苔で入口を覆い隠した簡素な空間。そこには魔導書と魔法陣、そして彼が長い歳月で収集した植物標本が整然と並んでいる。 セレインの手は、いま目の前の標本箱に収められた一輪の花に触れていた。エフェメラル・ブロッサム――朝に咲き、夕に散る幻の花。彼がこの森に来た最初の春に摘んだものだ。「百二十年前か」 彼は呟いた。声には感慨も郷愁もない。ただ事実を確認するように。 エルフの時間感覚は、人間のそれとは根本的に異なる。彼らの細胞分裂の速度は人間の十分の一以下であり、神経伝達物質の代謝回転も極めて緩やかだ。そのため主観的な時間の流れ――哲学者ベルクソンが「持続」と呼んだもの――が人間よりも遥かに引き延ばされている。 人間が「昨日」と感じる時間を、エルフは「つい先ほど」と認識する。 これは祝福であり、同時に呪いでもあった。 セレインは五百六十年を生きてきた。その間、彼は無数の出会いと別れを経験した。友と呼べる者もいた。師と仰ぐ者もいた。だが彼らのほとんどは人間であり、彼の主観ではまだ「つい最近」別れたばかりなのに、彼らはとうに土へと還っている。 だから彼は決めたのだ。もう誰とも深く関わらないと。 森の中で、ただ魔法の研究に没頭する。植物を観察し、星を読み、古代の魔法理論を解明する。それが彼の選んだ生き方だった。時間という絶対的な隔たりを前に、関係性を築くことの無意味さを悟った者の選択。 ユグノアの根元から外を見れば、夕陽が木々の間から差し込んでいる。琥珀色の光が浮遊する花粉を照らし出し、空気そのものが金色に染まっていた。 美しい光景だ、とセレインは思う。だが彼の胸に湧くのは静かな諦念だけだった。 この美しさもまた、永遠に続く。そして永遠に続くものは、
Terakhir Diperbarui: 2025-11-23
Chapter: 第7章「雨上がり」 事件から一週間後、霧島探偵事務所は以前と変わらぬ日常を取り戻していた。 窓の外は快晴だった。久しぶりの青空が、事務所の中まで明るく照らしている。 レナは椅子に足を投げ出し、新聞を読んでいた。一面には「アステラ・ファーマ、臨床試験不正で経営陣逮捕」という見出しが躍っている。「見ろよババア、すげえ騒ぎになってんな」 ユウタがソファで漫画雑誌をめくりながら言った。「ああ。製薬業界全体に激震が走ってる」「神崎ってハゲ、懲役何年くらいになるんだ?」「十年はいくだろうな。業務上過失致死、証拠隠滅、殺人幇助……罪状は山ほどある」「ざまあみろだな」「お前、口悪いぞ」「ババアに言われたくねえ」 二人は笑った。 事務所のドアがノックされた。「はい?」 ドアを開けると、森川が立っていた。「霧島さん、お忙しいところすみません」「ああ、森川さん。どうぞ」 森川は座ると、深々と頭を下げた。「この度は本当にありがとうございました。あなたのおかげで、水無瀬さんの無念が晴らされました」「いえ、私はただ仕事をしただけです」「いいえ、命を賭けて戦ってくださった。それは並大抵のことではありません」 森川は封筒を取り出した。「これは、被害者の会からの感謝の気持ちです」「お金ですか?」「はい。水無瀬さんの遺族と、臨床試験で被害を受けた患者たちからの寄付です」 レナは封筒を押し戻した。「結構です。私は報酬をいただいているので」「でも……」「気持ちだけ受け取ります。お金は被害者の治療費に使ってください」 森川は目を潤ませた。「わかりました。あなたの優しさ、忘れません」 森川が帰った後、ユウタが言った。「ババア、金受け取らなくてよかったのかよ。結構な額だったぞ」「別にいい。今月の家賃は払えるだけの依頼費をもらってる」「つーか、ババアって意外といい奴なんだな」「何だと?」「いや、普段は毒吐きまくってるから、冷血人間かと思ってたけど、実は人情家なんだなって」「うるせえ。余計なこと言うな」 レナは照れ隠しに煙草を取り出した。「それより、お前の学校の成績はどうなんだ? この前のテスト、赤点だったんじゃねえのか?」「う……それは……」「ちゃんと勉強しろ。このままじゃ進級できねえぞ」「わかってるっての! つーか、ババアが勉強教えろよ!」「
Terakhir Diperbarui: 2025-11-25
Chapter: 第6章「救出」 第三埠頭の廃倉庫は、港の外れにある古い建物だった。錆びついたシャッターが半開きになっており、中は薄暗い。 レナは倉庫の前で立ち止まった。罠だとわかっている。中に入れば、おそらく殺される。 だが、ユウタがいる。 レナは深呼吸をして、中に入った。 倉庫の中央に、椅子に縛られたユウタがいた。口に猿轡を噛まされ、目だけでレナを見つめている。「ユウタ!」 レナが駆け寄ろうとした時、周囲から複数の男たちが現れた。五人。全員、黒いスーツを着ている。 そして、奥から一人の男が歩いてきた。神崎部長だった。「よく来てくれましたね、霧島さん」「神崎……お前が黒幕か」「黒幕とは失礼な。私は会社を守っているだけです」「会社を守る? 人を殺してまでか?」「水無瀬君は余計なことを知りすぎました。彼には消えてもらうしかなかったんです」 神崎は冷徹な目でレナを見た。「さて、USBメモリをいただきましょうか」「その前に、ユウタを解放しろ」「それはできません。あなたもご存知でしょう? 証人は消すのが鉄則です」 レナは歯を食いしばった。「ユウタは何も知らない。ただの子供だ」「それでも危険です。それに……」 神崎は由香を見た。彼女が倉庫の隅から現れた。「由香さんもご協力いただいていますから」「由香……お前、最初から」「ごめんなさい、霧島さん。でも、私にも事情があって……」 由香は俯いた。レナは全てを理解した。「お前は最初から、アステラ・ファーマの工作員だったんだな。夫を殺すのを手伝った」「違います! 私は夫を愛していました! でも、会社に逆らえば、私も殺されると言われて……」「言い訳はいい」 レナは由香から目を逸らした。「さあ、USBを渡してください。そうすれば、楽に死なせてあげます」 神崎が手を伸ばした。 レナはポケットからUSBメモリを取り出した。だが、渡す代わりに、床に投げつけた。「これが欲しいなら、拾え」「なっ……」 神崎が怒りの表情を浮かべた瞬間、レナは動いた。 懐から取り出した小型の催涙スプレーを、最も近くにいた男の顔に噴射した。男が悲鳴を上げて倒れる。その隙に、レナは別の男に飛びかかった。 格闘技の訓練を受けていたレナは、近接戦闘では有利だった。だが、相手は五人。さすがに分が悪い。「くそっ!」 一人を倒したが、別の
Terakhir Diperbarui: 2025-11-25
Chapter: 第5章「罠」 葬儀は都内の斎場で行われた。参列者は三十人ほど。親族のほか、アステラ・ファーマの社員も数名来ていた。 レナとユウタは後方の席に座り、参列者を観察していた。ユウタは慣れないスーツとネクタイで居心地が悪そうだった。「ババア、このネクタイ、締めすぎじゃねえか? 息苦しいんだけど」「我慢しろ。葬儀の間くらい静かにしてろ」 焼香が始まった。由香は喪主として、涙を流しながら参列者に礼をしていた。その姿を見て、レナは複雑な気持ちになった。本当に夫を愛していたのか、それとも…… アステラ・ファーマの社員たちが焼香に立った。田所人事部長、倉田研究員、そして神崎部長。彼らは神妙な顔で焼香を済ませた。 その時、レナは一人の男性に目を留めた。四十代半ば、黒いスーツを着て、表情のない顔をしている。参列者の中で明らかに浮いていた。「ユウタ、あの男を見ろ」「どいつ?」「入口近くにいる、無表情な男だ」 ユウタは目を細めた。「なんか……普通じゃねえな。参列者っぽくねえ」「ああ。おそらく関係者を監視しに来たんだろう」「誰の?」「アステラ・ファーマの。あるいは、もっと上からの指示かもしれない」 葬儀が終わり、参列者が帰り始めた。レナは由香に声をかけた。「由香さん、少しお話しできますか?」「はい……」 由香は疲れた様子で頷いた。別室に移動すると、レナは切り出した。「ご主人のパソコンは見つかりましたか?」「いえ、まだ……」「『市民の安全を守る会』の森川という人物をご存知ですか?」「いえ、知りません」「彼はご主人からUSBメモリを受け取ったと言っています。臨床試験のデータが入ったものを」「そんな……夫がそんなものを?」 由香は驚いた様子だった。本当に知らないのか、それとも演技なのか。「由香さん、正直に答えてください。ご主人は失踪する前、何か言い残しませんでしたか?」「何も……ただ、『愛している』と言われました。それが最後の言葉でした」 由香は涙を流した。レナはそれ以上追及するのをやめた。「わかりました。また何かあれば連絡します」 斎場を出ると、ユウタが言った。「なあババア、さっきの無表情な男、いなくなってたぞ」「気づいたか」「あいつ、俺たちを尾けてるんじゃねえか?」「その可能性はある。気をつけろ」 二人は駅に向かって歩いた。途中、レナは
Terakhir Diperbarui: 2025-11-25
Chapter: 第4章「暗部」 事務所に戻ると、レナはパソコンに向かった。製薬業界の臨床試験について徹底的に調べる必要があった。「ユウタ、コーヒー淹れろ。長くなるぞ」「はいはい」 ユウタが立ち上がった時、事務所のドアがノックされた。「はい?」 ドアを開けると、見知らぬ男性が立っていた。五十代、グレーのスーツを着て、穏やかな表情をしている。「霧島探偵事務所ですね? 私、『市民の安全を守る会』の代表をしております、森川と申します」「市民の安全を守る会?」 レナは聞いたことがない団体名だった。「実は、製薬業界の不正を告発する活動をしておりまして……水無瀬誠さんの件でお話があって参りました」 レナは警戒した。なぜこの男が水無瀬のことを知っている?「どうぞ」 森川を招き入れると、彼は静かに座った。「単刀直入に申し上げます。アステラ・ファーマは組織的にデータ不正を行っています。水無瀬さんはそれを知ってしまったために殺されたのです」「証拠はありますか?」「これを」 森川はUSBメモリを取り出した。「この中に、臨床試験の生データと、改ざんされたデータの比較があります。水無瀬さんが命がけで持ち出したものです」「どうやってあなたが?」「水無瀬さんは失踪する直前、私に連絡してきました。『もし自分が死んだら、このデータを公表してほしい』と。そして、このUSBを郵送してきたのです」 レナはUSBを受け取った。重みがあった。「なぜ警察に渡さないんです?」「警察は動きません。企業と政治家の癒着があるからです。アステラ・ファーマは与党の有力議員に多額の献金をしています。その議員の圧力で、警察は本気で捜査しないでしょう」「それで、私に何を求めているんです?」「このデータを世間に公表してください。そして、水無瀬さんの死の真相を明らかにしてください」「なぜあなた自身がやらないんです?」 森川は苦笑した。「私のような者が公表しても、信用されません。『怪しい市民団体の主張』として無視されるでしょう。しかし、探偵であるあなたが調査結果として発表すれば、説得力があります」 レナは森川を見つめた。この男は本当に正義のために動いているのか? それとも別の目的があるのか?「考えておきます」「お願いします。水無瀬さんの死を無駄にしないためにも」 森川は立ち上がり、深々と頭を下げて帰って
Terakhir Diperbarui: 2025-11-25
Chapter: 第3章「遺体」 廃ビルは港区の工業地帯にあった。かつては倉庫として使われていたらしいが、今は放置されて久しい。周囲には錆びたフェンスが張り巡らされ、「立入禁止」の看板が傾いている。 現場には警察車両が数台停まっており、鑑識の白い防護服を着た人間が出入りしていた。レナは知り合いの刑事を探した。「坂本さん、いますか?」 若い警官に尋ねると、彼は奥を指差した。「あそこです」 ビルの入口近くに、四十代の刑事が立っていた。坂本刑事だ。レナとは以前、別の事件で知り合った。「よう、霧島。もう嗅ぎつけたのか」「遺族から依頼されてます。水無瀬誠の件で」「あ? ああ、そうか。タイミング悪かったな。もう遅い」「遺体を見せてもらえますか?」「無理だ。もう検視が終わって搬送された。自殺だよ、これは」「根拠は?」 坂本は煙草に火をつけた。「首吊り。梁にロープをかけて、椅子を蹴倒した痕がある。遺書はなかったが、状況から見て自殺で間違いない」「他殺の可能性は?」「ない。外傷もなければ、争った形跡もない。それに、ここに来るには自分で入ってこないと無理だ。フェンスは一箇所破れてるが、引きずった跡はない」「いつ頃の死亡推定時刻です?」「三日から五日前だな。腐敗の進行具合から見て」 レナは廃ビルを見上げた。五階建ての古いコンクリート建築だ。「誰が発見したんです?」「野良猫に餌をやりに来た近所の婆さんだ。猫が二階で騒いでるから上がってみたら、遺体があったってわけだ」 野良猫……レナは何かを思い出そうとした。由香の話では、水無瀬は動物好きだったという。「ユウタ、ちょっと周辺を見てこい」「あ? 何を見んだよ」「野良猫がいないか確認しろ。特に人懐っこいやつ」「は? 意味わかんねえんだけど」「いいから行け」 ユウタは不満そうに歩いて行った。レナは坂本に尋ねた。「現場に不審な点は何もなかったんですか?」「しつこいな。自殺だって言ってるだろ。まあ、強いて言えば……」「言えば?」「死後三日から五日経ってるのに、ポケットの中の携帯電話のバッテリーが切れてなかった。充電されてたってことだが、廃ビルに電源なんかないからな。外部バッテリーでも持ってたのか、それとも……」「それとも?」「誰かが後から充電したか、だ。まあ、考えすぎだろうがな」 レナの直感が囁いた。これは自殺では
Terakhir Diperbarui: 2025-11-25
Chapter: 第2章「痕跡」 翌朝、レナとユウタはアステラ・ファーマの本社ビルの前にいた。都心の一等地に建つ二十階建ての近代的なビルだ。エントランスには大理石が敷き詰められ、企業のロゴが誇らしげに掲げられている。「すげえな。こんなでかい会社なんだ」「製薬業界の大手だからな。年間売上は数千億円規模だ」 レナは警備員に声をかけた。「人事部の方とアポイントがあります。霧島と申します」 事前に電話で取り付けたアポイントだ。水無瀬誠の失踪について、会社側に話を聞く必要があった。 人事部長の名前は田所という五十代の男性だった。応接室に通されると、彼は神妙な面持ちで言った。「水無瀬君のことは大変心配しております。優秀な研究員でしたので、会社としても大きな損失です」「『でした』というのは?」「ああ、いえ、失礼しました。現在も籍は残っていますが、無断欠勤が続いておりまして……」 レナは田所の表情を観察した。心配しているというよりは、むしろ厄介事を抱えたという印象だ。「水無瀬さんの上司にお話を伺えますか?」「それが……研究部門の責任者である神崎部長は、現在出張中でして」「では、同僚の方は?」「同僚といいますと……」 田所は言葉を濁した。その時、ドアがノックされ、若い男性が入ってきた。三十代前半、神経質そうな顔立ちをしている。「失礼します。研究員の倉田と申します。水無瀬さんのことで、何かお役に立てればと思いまして」「ああ、倉田君。ちょうどよかった」 田所はほっとした様子で席を立った。「では、私はこれで。倉田君、よろしく頼む」 田所が出て行くと、倉田は緊張した様子で座った。「水無瀬さんとは同じ研究チームでした。彼の失踪には本当に驚いています」「水無瀬さんは失踪する前、何か変わった様子はありましたか?」「それが……」 倉田は周囲を気にするように声を落とした。「最後に会った時、彼は何かに怯えているようでした。『誰かに見られている』と言っていて……」「誰に見られていると?」「それは言いませんでした。でも、会社の中に信用できない人間がいると……」 レナは身を乗り出した。「もっと詳しく教えてください」「実は、水無瀬さんは最近あるプロジェクトに疑問を持っていたんです。新薬の臨床試験に関することで……」「臨床試験?」「ええ。当社が開発中の抗がん剤『オンコリシン』の第
Terakhir Diperbarui: 2025-11-25