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償いのサイレン―救命士と死者の対話―
償いのサイレン―救命士と死者の対話―
Author: 佐薙真琴

序章:日常の中の小さな亀裂

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-11 18:34:07

 午前三時。東京の夜は眠らない。

 伊咲マキラは救急車の助手席で、流れゆく街灯を眺めていた。三十二歳。救急救命士として十年のキャリアを持つ彼女の目には、もはや夜の街の景色に特別な感慨はない。ただ次の現場へ向かう道筋を計算する冷静な思考だけがあった。

「マキラさん、今夜で何件目でしたっけ?」

 運転席の若手救命士、橋本竜也が尋ねる。二十五歳の彼は、まだこの仕事の過酷さに慣れきっていない。それが声の調子から分かる。

「七件目。平均的な夜だよ」

 マキラは短く答えた。無線機からは断続的に他の救急隊の交信が流れている。心筋梗塞、交通事故、アルコール中毒。都市の闇が生み出す無数の悲劇が、電波に乗って彼女の耳に届く。

 彼女の携帯電話が振動した。母からのメッセージだ。

『明日の夕食、来られる? お父さんが会いたがってるわ』

 マキラは既読をつけたが返信はしなかった。家族との時間。それは彼女にとって、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。救命の現場に身を置くとき、彼女は完璧な救命士だ。しかし現場を離れると、娘として、人間としての自分が希薄になっていく感覚があった。

「マキラさん、聞いてます?」

 竜也の声で現実に引き戻される。

「ごめん、何?」

「さっきの患者さんのこと、考えてたんですか?」

 さっきの患者——六十代の男性、心肺停止状態で発見された。マキラたちが到着したとき、すでに蘇生の可能性は限りなく低かった。それでも彼女は機械的に心肺蘇生を続けた。十五分間。結果は変わらなかった。

「考えても仕方ないことは、考えない」

 マキラは窓の外に目を向けた。これが彼女の生き方だった。感情を遮断し、次の現場に備える。そうしなければ、この仕事は続けられない。

 救急車は環状線を走り、やがて都心から離れた工業地帯へと入っていく。無線が新しい出動要請を告げた。

『第三救急隊、至急出動。川崎区の旧東陵総合病院地下駐車場、意識不明の女性。通報者は匿名』

 マキラの背筋に冷たいものが走った。旧東陵総合病院。その名前に、何か引っかかるものがあった。

「旧東陵って、あの五年前に廃業した病院ですよね」

 竜也が言った。

「なんで廃病院に人がいるんだ?」

「不法侵入者か、ホームレスか」

 マキラは冷静を装いながら答えたが、胸の奥で何かが蠢いている感覚があった。旧東陵総合病院。その名前が、記憶の底から何かを引きずり出そうとしている。

 救急車は暗い道を進んだ。街灯もまばらな工業地帯の一角に、その廃病院は建っていた。十二階建ての古びたコンクリートの建物。窓という窓は板で塞がれ、正面玄関には立入禁止の黄色いテープが張られている。

 地下駐車場への入口は開いていた。

「ライトを」

 マキラの指示で、竜也が携帯用の強力ライトを点けた。地下への坂道は、まるで異界へと続く道のように暗く冷たい。

 救急車のヘッドライトが闇を切り裂く。地下駐車場は広大で、天井から水滴が落ちる音が反響している。そして——

 そこに、女性が倒れていた。

 マキラは素早く車を降り、装備を手に現場へ走った。救命士としての本能が全身を支配する。感情は後回しだ。今は目の前の命だけを見る。

 女性は三十代半ば。青白い顔、冷たい肌。マキラは首の頸動脈に指を当てた。脈はある。微弱だが、まだ生きている。

「竜也、酸素とAED!」

 彼女の指示は的確で迅速だった。しかし、その瞬間——

 マキラの視界の端に、何かが映った。

 駐車場の奥、暗闇の中に立つ人影。

 いや、人ではない。輪郭がぼやけている。そして、その顔は——

 ·····················

 心臓が跳ね上がる。マキラは目を閉じ、深呼吸した。一秒。二秒。

 目を開けると、そこには何もなかった。

「マキラさん! どうしました?」

 竜也の声が遠くから聞こえる。

「……何でもない。搬送準備を」

 彼女は機械的に動き続けた。しかし、その胸の奥で、何かが崩れ始めていた。

 救急車が病院へと走り出す。車内で、マキラは倒れていた女性の顔を見つめた。この女性は、なぜ廃病院にいたのか。誰が通報したのか。

 そして——なぜ、あの幻影を見たのか。

 時計を見ると、午前三時四十七分だった。

 その数字が、マキラの脳裏に焼きついた。

 これが、全ての始まりだった。

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