氷解の灯台、記憶の孤島

氷解の灯台、記憶の孤島

last updateLast Updated : 2025-12-06
By:  佐薙真琴Updated just now
Language: Japanese
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北欧の孤島に立つ古い療養所。著名な児童心理学者エレナ・コーエンは、富豪令嬢ソフィアの治療を依頼され、この閉ざされた場所を訪れた。 しかし、治療を始めた途端、奇妙なことが起こり始める。見覚えのない日記帳、毎日増えていく鏡、夜な夜な聞こえる少女の笑い声。そしてソフィアは、エレナが決して話したことのない過去を知っていた——「リリー」という名前を。 灯台の光が照らし出すのは、海ではなく、彼女自身の心の闇。氷のように凍りついた記憶が、ゆっくりと解けていく。 喪失と再生。忘却と覚醒。そして、人間の愛の力を描く、魂を揺さぶる心理サスペンス。

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Chapter 1

第一章:到着

 フェリーが島に近づくにつれて、海の色が変わった。深い藍色から鈍い鉛色へ。エレナ・コーエンは甲板の手すりにもたれ、冷たい風に髪を乱されながら、眼前に浮かび上がる島の輪郭を見つめていた。

 スカンディナヴィア半島北部、ノルウェー本土から約四十キロ。地図上では小さな点にすぎないこの島に、彼女はこれから六ヶ月間滞在することになる。

「コーエン博士」

 背後から声がかかった。振り返ると、紺色のピーコートを着た五十代の女性が立っていた。引き締まった顔立ち、灰色の瞳。看護師長のイングリッド・ハンセンだ。

「もうすぐ到着です。荷物の準備はよろしいですか?」

「ええ、問題ありません」

 エレナは小さく微笑んだ。職業的な、完璧に制御された微笑み。三十八年の人生で磨き上げてきた、他者を安心させるための表情だ。

 イングリッドの視線が一瞬、エレナの顔に留まった。何かを測るような、あるいは確かめるような眼差し。しかしすぐに視線を外し、島を指差した。

「あれがセント・オラフ療養所です」

 島の中央、小高い丘の上に建つ石造りの建物。十九世紀末に建てられた旧精神病院を改装した私設療養施設だという。三階建ての重厚な構造、尖塔アーチの窓、周囲を囲む高い石壁。まるで中世の修道院のような佇まいだった。

「歴史を感じますね」

「ええ。一八八七年の建造です。当時は王立精神病院として使われていました。今では……まあ、富裕層のための特別な場所、とでも言いましょうか」

 イングリッドの声には微かな皮肉が混じっていた。

 フェリーが桟橋に接岸する。波が岩壁に砕ける音が、太鼓のように響いた。十月末のこの地域は既に冬の気配が濃厚で、空気には塩と海藻と、何か古い石の匂いが混ざっていた。

 桟橋に降り立つと、一台の黒いランドローバーが待っていた。運転席から降りてきたのは、四十代後半と思われる痩身の男性。茶色のツイードジャケット、丸眼鏡。どこか学者然とした雰囲気を漂わせている。

「ようこそ、コーエン博士。施設長のアクセル・ベルグルンドです」

 握手を交わす。男の手は驚くほど温かかった。

「お会いできて光栄です、ベルグルンド先生。メールでのやり取りだけでしたから」

「こちらこそ。あなたの論文は全て読ませていただきました。特に解離性障害における認知行動療法の統合アプローチについての研究は素晴らしかった」

 アクセルの褒め言葉に、エレナは軽く頭を下げた。

「お褒めいただき恐縮です。今回のケースについて、もう少し詳しくお聞かせいただけますか?」

「ええ、もちろん。車の中で話しましょう。この季節、外は身を切るように寒い」

 三人はランドローバーに乗り込んだ。車は狭い砂利道を登り始める。窓の外には荒涼とした風景が広がっていた。低い草木、黒い岩、そして絶え間なく吹き付ける風。

「患者さんのお名前は?」

 エレナが尋ねた。

「ソフィア・ヴェステルゴード。十六歳です」

 アクセルが答える。バックミラー越しに、彼の眼鏡が光を反射した。

「北欧最大の海運会社、ヴェステルゴード・グループの創業者、ラース・ヴェステルゴードの一人娘です。母親は五年前に病死。それ以来、父親が一人で育ててきました」

「症状は?」

「解離性同一性障害の疑い。複数の人格状態が確認されています。主人格の『ソフィア』、攻撃的な『カタリーナ』、幼児退行を示す『リーセ』。他にも断片的な人格状態がいくつか」

 エレナは手帳を取り出し、メモを取り始めた。

「トラウマの原因は特定されていますか?」

「それが……」アクセルは言葉を選ぶように間を置いた。「明確なトラウマ・イベントは見つかっていません。虐待の痕跡もない。むしろ、父親は過保護なほど娘を大切にしている」

「興味深いですね」

 エレナの声は冷静だったが、心の中では既に症例への関心が高まっていた。明確なトラウマなき解離性障害——それは稀なケースだ。

 車は石造りの門をくぐり、療養所の敷地内に入った。建物は近くで見るとさらに威圧的だった。厚い石壁、鉄格子のはまった窓、風化した彫刻が施された正面玄関。

「スタッフは何名ですか?」

「常駐は四名です。私、イングリッド、それから料理人のマグヌス、清掃と雑務を担当するアストリッド。患者は現在、ソフィア一人だけです」

「一人だけ? 随分と贅沢な環境ですね」

「ヴェステルゴード氏が望んだことです。娘の治療に最適な環境を、と。施設の運営費は全て彼が負担しています」

 車が玄関前に停まった。重い木製の扉が開き、中から初老の男性が現れた。がっしりとした体格、料理人らしい白いエプロン。マグヌスだろう。

「荷物は私が運びます」

 低い声で言うと、男はエレナのスーツケースを軽々と持ち上げた。

 玄関ホールは薄暗かった。高い天井、石の床、壁には古い肖像画が並んでいる。かつてこの建物を管理していた医師たちだろうか。彼らは一様に厳しい表情で、エレナを見下ろしていた。

「お部屋にご案内します」

 イングリッドが先導し、階段を上る。木製の手すりは長年の使用で滑らかに磨かれていた。

 二階の廊下を進む。両側に並ぶドアのプレートには、かつて患者を収容していた部屋番号が残っている。203、204、205……

「ここです」

 イングリッドが207号室の前で立ち止まった。鍵を開け、ドアを押し開く。

 部屋は予想以上に広かった。シンプルだが品の良い家具——木製のベッド、書き物机、本棚、窓際の肘掛け椅子。窓からは海が見えた。灰色の空と灰色の海が、地平線で溶け合っていた。

「気に入っていただけると良いのですが」

「十分すぎるほどです」

 エレナは再び微笑んだ。

「シャワーとトイレは廊下の奥です。食事は一階のダイニングルームで。朝食は七時、昼食は正午、夕食は六時です。何か必要なものがあれば、いつでもおっしゃってください」

「ありがとうございます。それで……ソフィアさんには、いつお会いできますか?」

 イングリッドの表情が微かに曇った。

「明日の朝が良いでしょう。今日はお疲れでしょうから、ゆっくりお休みください。夕食までは自由にお過ごしください。施設内は自由に見て回っていただいて構いません」

「わかりました」

 イングリッドが部屋を出て行く。ドアが閉まると、エレナは深く息を吐いた。

 窓辺に歩み寄り、外を眺める。療養所の敷地の向こうに、島の西端に立つ灯台が見えた。白と赤の縞模様。荒れ狂う海を見下ろすように、孤独に佇んでいる。

 ポケットから小さな薬瓶を取り出す。抗不安薬。一錠を手のひらに落とし、水なしで飲み込んだ。

 大丈夫。私は大丈夫。

 自分に言い聞かせる。いつもの言葉。いつものルーティン。

 感情のスイッチを切る。心の奥底に、全てを封じ込める。私は治療者だ。壊れてなどいない。壊れているのは、いつも他者だ。

 荷物を解き始める。衣類、書籍、ノートパソコン、そして——

 手が止まった。

 スーツケースの底に、見覚えのない青い日記帳があった。

 いや、見覚えがないわけではない。どこかで見たような……でも、これを詰めた記憶がない。

 日記帳を手に取る。革装丁、金色の留め具。表紙には何も書かれていない。

 開こうとして——やめた。

 きっと昔のものだ。忘れていただけだ。今は疲れている。明日、時間があるときに見ればいい。

 日記帳を机の引き出しにしまい込んだ。

 窓の外で、風が唸り声を上げていた。


 夕食の時間、一階のダイニングルームに降りていくと、長いテーブルに既に三人が座っていた。アクセル、イングリッド、そして白髪の女性——アストリッドだろう。

「コーエン博士、こちらへどうぞ」

 アクセルが椅子を引いてくれた。

 マグヌスが運んできた料理は、伝統的な北欧料理だった。鮭のグリル、茹でたジャガイモ、ディルのクリームソース。シンプルだが、丁寧に作られていることが分かる。

「ソフィアは?」

 エレナが尋ねると、イングリッドが答えた。

「自室で食事を取ることが多いんです。人と一緒の食事を嫌がって」

「そうですか……」

「明日、ゆっくりお話しできると思います」アクセルがワイングラスを傾けながら言った。「今夜は早めにお休みになると良いでしょう。この島は、夜は本当に静かですから」

 食事の後、エレナは施設内を少し歩いてみることにした。

 一階の奥には図書室があった。壁一面の本棚、古い医学書や文学書が並んでいる。暖炉には火が入っていて、部屋は心地よい温かさに包まれていた。

 本棚を眺めていると、一冊の本が目に留まった。

 『記憶の宮殿——解離と自己の再構築』

 著者名を見て、エレナの心臓が跳ねた。

 エレナ・M・コーエン。

 自分の名前だ。

 いや、待って。これは私が五年前に出版した本だ。ここにあっても不思議ではない。

 しかし——

 本を手に取り、開く。扉ページに、インクで書かれた献辞があった。

 『リリーへ。ママより、愛を込めて』

 リリー。

 その名前を見た瞬間、エレナの手が震えた。本が床に落ちる。

 誰だ、リリーとは? なぜこの名前を見ると、胸が締め付けられるのか?

 本を拾い上げ、急いで部屋に戻った。


 その夜、エレナは悪夢を見た。

 暗い森の中を走っている。誰かを探している。幼い女の子の声が聞こえる。

「ママ……ママ、どこ?」

 必死に走る。枝が顔を引っ掻く。足が絡まって転ぶ。立ち上がって、また走る。

 声はどんどん遠ざかっていく。

「待って! 待って!」

 叫ぶ。喉が裂けそうなほど叫ぶ。

 そして——

 目が覚めた。

 全身、汗でびっしょりだった。心臓が激しく打っている。

 時計を見る。午前三時十五分。

 窓の外は真っ暗だ。風の音だけが聞こえる。

 ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。鏡に映った自分の顔は青白く、瞳孔が開いていた。

 大丈夫。ただの夢だ。

 でも——

 なぜリリーという名前が出てきたのか? 図書室で見た献辞と関係があるのか?

 机の引き出しを開ける。青い日記帳。

 手に取り、ゆっくりと開いた。

 最初のページには、几帳面な文字で日付が書かれていた。

 『2015年10月28日』

 十年前だ。

 そして次の行。

 『今日、リリーが死んだ』

 エレナの手から日記帳が滑り落ちた。

 いや。

 いや、違う。

 これは誰かの悪い冗談だ。誰かが私を試している。

 心臓が早鐘を打つ。息が苦しい。パニック発作の兆候だ。

 薬を飲む。二錠、三錠。

 ベッドに倒れ込む。

 大丈夫。大丈夫。私は治療者だ。壊れていない。

 やがて薬が効いてきて、意識が薄れていった。

 最後に聞こえたのは、廊下を誰かが歩く足音だった。

 そして、幼い女の子の笑い声。

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第一章:到着
 フェリーが島に近づくにつれて、海の色が変わった。深い藍色から鈍い鉛色へ。エレナ・コーエンは甲板の手すりにもたれ、冷たい風に髪を乱されながら、眼前に浮かび上がる島の輪郭を見つめていた。 スカンディナヴィア半島北部、ノルウェー本土から約四十キロ。地図上では小さな点にすぎないこの島に、彼女はこれから六ヶ月間滞在することになる。「コーエン博士」 背後から声がかかった。振り返ると、紺色のピーコートを着た五十代の女性が立っていた。引き締まった顔立ち、灰色の瞳。看護師長のイングリッド・ハンセンだ。「もうすぐ到着です。荷物の準備はよろしいですか?」「ええ、問題ありません」 エレナは小さく微笑んだ。職業的な、完璧に制御された微笑み。三十八年の人生で磨き上げてきた、他者を安心させるための表情だ。 イングリッドの視線が一瞬、エレナの顔に留まった。何かを測るような、あるいは確かめるような眼差し。しかしすぐに視線を外し、島を指差した。「あれがセント・オラフ療養所です」 島の中央、小高い丘の上に建つ石造りの建物。十九世紀末に建てられた旧精神病院を改装した私設療養施設だという。三階建ての重厚な構造、尖塔アーチの窓、周囲を囲む高い石壁。まるで中世の修道院のような佇まいだった。「歴史を感じますね」「ええ。一八八七年の建造です。当時は王立精神病院として使われていました。今では……まあ、富裕層のための特別な場所、とでも言いましょうか」 イングリッドの声には微かな皮肉が混じっていた。 フェリーが桟橋に接岸する。波が岩壁に砕ける音が、太鼓のように響いた。十月末のこの地域は既に冬の気配が濃厚で、空気には塩と海藻と、何か古い石の匂いが混ざっていた。 桟橋に降り立つと、一台の黒いランドローバーが待っていた。運転席から降りてきたのは、四十代後半と思われる痩身の男性。茶色のツイードジャケット、丸眼鏡。どこか学者然とした雰囲気を漂わせている。「ようこそ、コーエン博士。施設長のアクセル・ベルグルンドです」 握手を交わす。男の手は驚くほど温かかった。「お会いできて光栄です、ベルグルンド先生。メールでのやり取りだけでしたから」「こちらこそ。あなたの論文は全て読ませていただきました。特に解離性障害における認知行動療法の統合アプローチについての研究は素晴らしかった」 アクセルの褒め言葉に
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第二章:侵食
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第六章:酷嵐
 翌朝、エレナが目覚めると、ソフィアは彼女の隣で眠っていた。 穏やかな寝顔。まだ子供のような、でも何か達観したような表情。 エレナはそっとベッドを離れ、窓の外を見た。 嵐は完全に去り、空は透き通るような青さだった。海も穏やかになっていた。 しかし—— エレナの心の中には、まだ嵐が残っていた。 真実を知った今、次は何をすべきか。 リリーの死を受け入れただけでは、終わらない。 アダムのこと、失われた十年のこと、そして—— 自分が誰なのか、という問い。 私は治療者か? それとも、癒されるべき者か? いや、その二分法自体が間違っているのかもしれない。 人は誰もが、癒す者であり癒される者だ。「先生?」 ソフィアが目を覚ました。「おはよう。よく眠れた?」「はい。久しぶりに悪夢を見ませんでした」 少女は起き上がり、窓辺に来た。「綺麗……」「ええ。嵐の後は、いつも空が澄んでいるわね」 二人はしばらく、無言で景色を眺めていた。「先生、これから……どうしますか?」 ソフィアが聞いた。「私は……まだ分からない。でも一つだけ確かなことがある」「何ですか?」「あなたと、ここにいる皆さんに感謝しているということ。私を諦めなかったことに」 ソフィアは微笑んだ。「私こそ、感謝しています。先生が来てくれて、私も変われた気がします」「どういうこと?」「私はずっと、母の死を受け入れられませんでした。解離的な症状も、おそらくそれが原因です。でも先生を助けることで、私も自分自身と向き合えた」 エレナはソフィアを抱きしめた。「ありがとう、ソフィア。あなたは本当に強い子ね」
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